5:僕がきみを、想う気持ち
そうして、日々は変化をはじめる。
結納の準備に、婚約者のお披露目の意味をかねたいくつかのパーティへの出席。
パーティのすべてが無意味、なんて、いうつもりはこれっぽっちもないけれど。
義理と見栄が重なり合うそれらは、時々、胃の奥底にずしりと重しをかけてくる。
日々、笑顔を貼り付けて穏やかに語り合う、そんな空虚な時間。
――幸いなのは、ありがたいことに、我が家も彼の家も、それらの中で強い立場でいられること、だろうか。
日々は、ただひたすらに過ぎ行く。
贈られてくるドレスは、どれも品がよく、よく似合うと褒めてもらえる。
戸惑ってしまうほど揃いで送られてくる装飾品も、お願いして減らしてもらった。
幸せ、なんだと思う。
贈られてくるドレスや装飾品を見るたび、周囲にそういわれるたび、思うのだけれど。
どこか――さみしいと思うのは、なぜなんだろう。
最近、あの部屋に行く事が少なくなった。
行く時間を取るのが、難しくなってきた。
――このままだんだんと、あの暖かな部屋から遠ざかって、いずれいかなくなってしまうのかもしれない。
それがさみしくて悲しくて。だけど、それが自然なことなのかもしれない、と、どこかであきらめていた。
けれど。
「……疲れているのか?」
さりげなく問われた言葉に、疑問が起こる。どこか問題があっただろうか? ――いつものように、いつもの通りに過ごしているはずなのだけれど。
それが表情に出たのか、彼はごくわずかに、しかし不機嫌そうにはっきりと、眉根を寄せた。
今日はそこまで重要なパーティではない。系列会社の、何周年だかの祝いの席で。ちょうどいいからと、両方の親の代理を兼ねた形で参加した、この席で。
いつものように、私は、ふるまえていたはず、なのだけれど。
「いえ、疲れておりませんが……何か粗相をしてしまいましたでしょうか?」
唇に笑みを刻んで。はたから見れば睦まじく言葉を交わしているようにみえるだろう、その状況で。
彼はさりげなく、ため息を漏らした。――あきれたように。
ずきり、と、微かに胸が痛む。その理由は、もうすでに自覚していたけれど、気づかないふりをして流す。
「気づいてないのか。――まぁいい、今日はこの辺で切り上げよう」
「……え?」
問いかける間もなく、彼は自然なエスコートで主催の元へ私を誘い、挨拶を交わした。
困惑しながらも、それを表に出すことなく、その側へ寄り添う。
そう。
寄り添うのが私の役割。そこにあることが、私の存在意義。
静かに微笑んで、パーティの会場を後にしながら、小さくため息を漏らす。
――私は気づいていなかった。
時折、微かに、自分でも気づかないほど小さく、ため息をこぼす様になっていたことに。
車内は静かだった。
聞こえるのは低い車のモーター音と、時折響くウィンカーの音だけ。隣にある気配を感じながらも、どこか重く感じる頭を窓にあずけ、静かに外を眺める。
やはり疲れているのだろうか。このところの色々が、予想以上に負荷になっているのかもしれない。日常と違う行動は、地味に体にダメージを与えたようだ。
深く息を吸う。駄目だ、目が回ってしまう。ぎゅ、と、強く目をつむった所で、そっと額に触れるものがあった。
「……っ!」
驚いて目を開けば、そこには大きな手のひら。熱を確かめるように触れるその手をたどれば、まゆを寄せこちらを見る、彼の顔があって。
「やはり疲れているのだろう。――無理をさせた」
「いえ、いいえ、そんなことは――」
これは自己管理の問題だ。彼は気を使ってくれた。それだけで十分なのだ。首を振り否定しようとするが、その動きでめまいが起こる。
その様子を見て、彼がまゆをしかめた。
「ほら、無理をしている。――最近、あの部屋にもいってないんじゃないのか」
驚いて目を見張れば、彼がわずかに苦笑した。
「やはりか。――忙しいのはわかるが、まだあの部屋は、君のものだろう」
どうして、と、いう思いと。彼の優しい声音に、困惑する。どういうことだろう。どういう、意味だろう。
「どうし、て――」
「今の君に、あの部屋が必要だと思うからだ。――近いうちに時間を作るから、あそこで休むといい。いいね」
額にあった手がまぶたに降りてくる。一瞬驚いて体がこわばる。――けれど。
――温かい。
体からこわばりが溶ける。いつもならばもしかすると、もっと過剰に反応したかもしれないけれど、そんな気力もわかなくて。触れる手の温もりに、ゆったりと目を閉じ、思わず吐息が漏れた。
「とりあえず、目を閉じていなさい。着いたら、ちゃんと起こすから」
低く静かな声が、鼓膜を揺さぶる。目を閉じ何も見えない状態で聞く彼の声は、どこかやさしく、まるで愛されているような錯覚を覚える。――それは錯覚なのだと、心から理解しているつもりだけれど、それでも、その甘い幻に今だけは、心を委ねたくなっていた。
今日はこのあと、家に戻るだけのはずだ。お言葉に甘えよう、と、一つ頷いて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
聞こえるのは、車のモーター音と、時折のウィンカーの音。そして、彼の呼吸の音。触れる手から伝わる温もりと、それだけが確かなもののような気がして、気がつくと薄く唇に笑みがのぼる。
――大丈夫。
――きっと、幸せになれる。
たとえ政略であろうとも、お互いに想いが愛とは違っていようとも、この温もりと優しさがあるならば、きっと、大丈夫。
たとえ愛されていなくとも、この優しさとぬくもりがあるならば、私はきっと、やっていける。
――西宮寺の嫁として。
――彼の妻として。
きっと、きっと、大丈夫。
不意に湧き上がった想いに満たされる心地を味わいながら、やがて意識は深く深く、闇へと沈んでいく。
意識が完全に途切れる寸前、そっと額に触れる柔らかな感触があったような気が、した。