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炎上  作者: 柊ゆるな
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第七章 秀吉の回想


山崎の戦いの前夜。

秀吉は、一人陣幕の中にいた。

外では、兵たちが明日の戦に備えている。武具を整え、刀を研ぎ、静かに眠りにつく者もいる。

だが、秀吉は眠れなかった。

いや、眠る必要がなかった。

すべては、整っている。明日の戦は、勝てる。光秀の兵力では、この大軍には敵わない。

秀吉は、目を閉じた。

そして、遠い日々を思い出していた。

自分が、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた頃を。


それは、天文二十三年のことであった。

秀吉は、織田信長に仕え始めた。

身分は低く、足軽頭にも満たない。ただの小者であった。

だが、秀吉には野心があった。

「いつか、出世してやる」

そう、心に決めていた。

信長は、恐ろしい男であった。

気に入らぬ者は、容赦なく切り捨てる。家臣であろうと、例外ではない。

秀吉は、その恐ろしさを、何度も見た。

ある日、信長が家臣を叱責していた。

「貴様は、役立たずだ」

その家臣は、震えながら頭を下げていた。

「申し訳ございません」

「申し訳ないで済むか」

信長は、刀を抜いた。

秀吉は、その場にいた。そして、見ていた。

信長が、その家臣を斬ることを。

家臣は、その場で息絶えた。

信長は、血のついた刀を拭いながら、言った。

「役立たずは、いらぬ」

その時、秀吉は思った。

「この男の下では、役に立たねば生きていけない」


秀吉は、必死で働いた。

どんな仕事でも、文句を言わずにやった。

掃除、雑用、使い走り。すべてを、完璧にこなした。

そして、信長の目に留まった。

「藤吉郎、お前は働き者だな」

信長が、初めて秀吉の名を呼んだ時、秀吉は感激した。

「ありがたき幸せにございます」

「これからも、励め」

「はっ」

秀吉は、さらに働いた。

そして、次第に出世していった。

足軽頭になり、侍大将になり、やがて城持ちの大名にまでなった。

だが、その過程で、秀吉は多くのことを学んだ。

信長の恐ろしさを。

信長の偉大さを。

そして、信長の限界を。


信長は、天才であった。

戦に強く、政治に長け、新しいものを恐れない。

鉄砲を取り入れ、楽市楽座を開き、従来の常識を打ち破った。

秀吉は、それを尊敬していた。

だが、同時に恐れてもいた。

信長は、人を信じない。

家臣を道具としか見ていない。役に立てば使い、役に立たなくなれば捨てる。

秀吉自身も、いつか捨てられるかもしれない。

その恐怖が、常にあった。

ある日、信長が言った。

「藤吉郎、お前は賢い」

「ありがたき幸せにございます」

「だが、賢すぎる者は、危険だ」

秀吉は、背筋が凍った。

「わしを裏切ろうなどと、思うなよ」

「滅相もございません」

秀吉は、必死で否定した。

信長は、笑った。

「まあ、今のお前には、その力もないがな」

その言葉が、秀吉の胸に刺さった。

力がない。

確かに、その通りだ。

今の自分には、信長に逆らう力などない。

だが、いつか……。

秀吉は、その時、初めて思った。

いつか、信長を超えたい、と。


時は流れた。

秀吉は、中国攻めを任された。

毛利との戦である。

秀吉は、その任を忠実に果たした。

だが、その過程で、秀吉は気づいた。

信長は、自分を信用していない。

常に監視されている。他の武将たちも、秀吉を警戒している。

秀吉は、孤独であった。

身分が低いことを、誰もが馬鹿にする。

「猿」と呼ばれ、「百姓上がり」と蔑まれる。

秀吉は、それを笑って受け流した。

だが、心の中では、怒りが燃えていた。

「いつか、見返してやる」

その思いが、秀吉を支えていた。

そして、ある日。

秀吉は、ある人物と出会った。

それが、すべての始まりであった。


その人物は、名を明かさなかった。

ただ、秀吉にこう言った。

「羽柴殿、あなたは天下を取りたいと思いませんか」

秀吉は、警戒した。

「何を言う。わしは信長様に忠義を尽くしている」

「表向きは、そうでしょう。だが、本心は違う」

その人物は、秀吉の目を見た。

「あなたは、信長を恐れている。そして、憎んでもいる」

秀吉は、何も言わなかった。

否定できなかったからだ。

「信長が生きている限り、あなたは二番手だ。いや、三番手、四番手かもしれない」

「だが、もし信長が……」

その人物は、言葉を切った。

秀吉は、その先を想像した。

もし、信長がいなくなったら。

「私は、あなたに協力できます」

その人物は、静かに言った。

「ただし、条件があります」

「条件、とは」

「すべてを、私に任せること」

秀吉は、しばらく考えた。

そして、答えた。

「分かった」


それから、秀吉は準備を始めた。

表向きは、中国攻めに専念している。

だが、裏では、別のことを進めていた。

兵站の整備。

街道の調査。

金銀の蓄積。

すべては、ある日のために。

その日が、いつ来るのかは分からない。

だが、必ず来る。

秀吉は、そう信じていた。

そして、あの人物と、密かに連絡を取り続けた。

密使を使い、口伝だけで。

決して、文字には残さない。

ある日、密使がこう伝えた。

「光秀が、動きます」

秀吉は、驚いた。

「光秀が、か」

「はい。彼は、追い詰められています」

秀吉は、光秀のことを思った。

明智光秀。

信長の重臣であり、優秀な武将である。

だが、最近の信長は、光秀を冷遇していた。

理由は、分からない。

だが、光秀が不満を抱いていることは、誰もが知っていた。

「光秀を、利用するのか」

「そうです。彼に、本能寺を襲わせます」

秀吉は、息を呑んだ。

「それは……」

「あなたは、知らないふりをしていればいい。そして、知らせを受けたら、すぐに京へ戻る」

「だが、毛利との戦が」

「和睦の準備も、進めています。毛利は、協力してくれます」

秀吉は、驚愕した。

すべてが、計画されている。

光秀も、毛利も、すべてが駒なのだ。

「あなたは、ただ準備をしていればいい」

密使の言葉に、秀吉は頷いた。


そして、六月二日。

本能寺の変が起きた。

秀吉は、その知らせを受けた時、演技をした。

驚き、悲しみ、怒り。

すべてを、演じた。

だが、心の中では、冷静であった。

「ついに、来たか」

すべては、計画通りだ。

秀吉は、即座に動いた。

毛利と和睦し、京へ戻る。

中国大返しという、奇跡を成し遂げる。

だが、それは奇跡ではなかった。

すべては、準備されていたことだ。

秀吉は、その準備の成果を、今、手にしている。


陣幕の中で、秀吉は目を開けた。

回想は、終わった。

明日、光秀を討つ。

そして、天下への道を開く。

秀吉は、立ち上がった。

外に出ると、空には月が浮かんでいた。

その月を見ながら、秀吉は思った。

「信長公」

秀吉は、小さく呟いた。

「わしは、お前を裏切った」

その言葉には、罪悪感があった。

だが、同時に、解放感もあった。

「だが、わしは生き残る」

秀吉の目には、決意があった。

「そして、お前を超える」

月は、何も答えなかった。

ただ、秀吉を照らしているだけであった。


秀吉は、陣幕に戻った。

そして、横になった。

明日は、大事な日だ。

光秀を討ち、織田家の実権を握る。

そのためには、休まなければならない。

秀吉は、目を閉じた。

だが、すぐには眠れなかった。

脳裏には、信長の顔が浮かんでいた。

あの恐ろしい顔。

あの冷たい目。

秀吉は、それを振り払おうとした。

だが、消えなかった。

「信長公、許してくれ」

秀吉は、心の中で謝った。

だが、その謝罪は、空虚であった。

なぜなら、秀吉は後悔していなかったからだ。

やるべきことを、やっただけだ。

生き残るために。

天下を取るために。

秀吉は、ようやく眠りについた。

その顔には、満足の笑みがあった。

すべては、計画通りだ。

明日、新しい時代が始まる。

羽柴秀吉の、時代が。

回想は、こうして終わった。

だが、秀吉の心の中には、常に信長がいた。

恐怖の対象として。

敬意の対象として。

そして、超えるべき存在として。

秀吉は、信長を殺した。

いや、殺させた。

その罪を、秀吉は一生背負うことになる。

だが、それでも秀吉は前に進む。

なぜなら、それが秀吉の選んだ道だからだ。

天下人への、道だからだ。

月は、まだ空に浮かんでいた。

その月が、すべてを見ていた。

秀吉の罪を。

秀吉の野望を。

そして、秀吉の孤独を。

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