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炎上  作者: 柊ゆるな
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第6章 中国大返し


天正十年六月四日。

秀吉の軍は、備中高松を発った。

目指すは京。距離にして、およそ二百キロ。通常なら、十日から二週間はかかる道程である。

だが、秀吉は言った。

「七日で着く」

家臣たちは、驚いた。だが、誰も反論しなかった。秀吉の目には、それを成し遂げる決意があったからだ。

軍は、整然と進んだ。

先頭を行くのは、軽装の足軽たちである。彼らは荷物を最小限にし、ひたすら歩き続ける。

その後ろを、騎馬武者が続く。だが、彼らも重い鎧は着けていない。速度を優先するためだ。

そして、最後尾には、兵糧や武具を運ぶ部隊がいる。

すべてが、計算されていた。

官兵衛は、その様子を見ながら、改めて思った。

「この行軍は、事前に計画されていた」

兵たちの配置、荷物の量、進軍速度。すべてが、練られたものだ。

これを、数日で準備できるはずがない。


行軍の最初の日。

軍は、夜明けとともに出発した。そして、日が沈むまで、ほとんど休まずに進み続けた。

兵たちは、疲れていた。だが、不思議と士気は下がらなかった。

なぜなら、秀吉が先頭に立っていたからだ。

秀吉は、馬に乗りながらも、時折降りて兵たちと並んで歩いた。

「もう少しだ。頑張れ」

「信長公の仇を討つぞ」

秀吉の言葉が、兵たちを奮い立たせた。

そして、夕刻。

軍は、最初の宿場に到着した。

そこで、兵たちは驚くべきものを見た。

兵糧が、用意されていた。

米、味噌、塩、干物。すべてが、整えられていた。

「これは……」

兵たちは、顔を見合わせた。

まるで、自分たちが来ることを知っていたかのように。

秀吉は、何も説明しなかった。ただ、兵たちに言った。

「食べて、休め。明日も早い」

兵たちは、黙って従った。

だが、心の中では、疑問が湧いていた。

羽柴様は、すべてを知っていたのではないか。


二日目。

軍は、さらに速度を上げた。

街道には、他の旅人もいる。だが、秀吉の軍は、彼らを追い越していく。

商人たちは、驚いて道を譲った。

「何事だ」

「羽柴の軍だ。急いでいるようだ」

「京で、何かあったのか」

噂は、街道沿いに広がった。

だが、秀吉の軍は、それを気にしなかった。ただ、前へ進むだけだ。

官兵衛は、秀吉の横を馬で進みながら、尋ねた。

「羽柴様、このペースでは、兵が持ちません」

「持たせる」

秀吉は、短く答えた。

「どうやって、ですか」

秀吉は、官兵衛を見た。

「官兵衛、お前は何を見た」

「兵糧が、用意されていました」

「そうだ。他には」

官兵衛は、考えた。

「街道の状況が、よく整っていました。橋も、渡し場も、すぐに通れるように」

「そういうことだ」

秀吉は、前を向いた。

「すべては、準備してあった。だから、この速度で進める」

官兵衛は、黙った。

やはり、秀吉は知っていた。

本能寺の変が起きることを。

いや、それだけではない。

もしかすると……。

官兵衛は、その先を考えることを止めた。


三日目。

雨が降り始めた。

梅雨の雨である。街道は、ぬかるみになった。

だが、秀吉は止まらなかった。

「進め」

兵たちは、泥にまみれながら進んだ。

足が重い。体が濡れる。だが、誰も文句を言わなかった。

なぜなら、秀吉も同じように、泥にまみれていたからだ。

秀吉は、馬を降りて、兵たちと並んで歩いた。

「もう少しだ。京は近い」

その言葉が、兵たちを支えた。

そして、夕刻。

雨は止んだ。

軍は、次の宿場に到着した。

そこでも、兵糧が用意されていた。それだけではない。乾いた着物や、草鞋まで用意されていた。

兵たちは、感激した。

「羽柴様は、われらのことを考えてくださっている」

だが、官兵衛は知っていた。

これも、事前の準備だ。

秀吉は、この日に雨が降ることまで、計算していたのかもしれない。

いや、計算していたのだろう。


四日目。

軍は、播磨に入った。

そこで、秀吉は姫路城に立ち寄った。

秀吉の居城である。

「城内の金銀を、すべて出せ」

秀吉は、家臣に命じた。

家臣たちは、驚いた。

「すべて、でございますか」

「そうだ。すべてだ」

秀吉は、その金銀を兵たちに分け与えた。

「これを持って、家族のもとへ帰れ」

兵たちは、驚いた。

「しかし、羽柴様」

「いいから、受け取れ。そして、三日後には戻って来い」

秀吉の言葉に、兵たちは涙を流した。

「ありがたき幸せ」

金を受け取った兵たちは、それぞれの故郷へ散っていった。

官兵衛は、その様子を見ていた。

秀吉の狙いが、分かった。

これで、兵たちの忠誠は確実になる。金を受け取った兵は、必ず戻ってくる。そして、秀吉のために戦う。

だが、それだけではない。

この金も、用意されていたものだ。

秀吉は、長い間、この日のために金を貯めていたのだ。


五日目。

兵たちは、続々と戻ってきた。

家族に金を渡し、別れを告げ、再び秀吉のもとへ。

その数は、出発した時よりも多かった。

金の噂を聞いた者たちが、加わったのだ。

「羽柴様は、気前がいい」

「信長公の仇を討つために、戦う」

兵たちの士気は、最高潮に達していた。

秀吉は、その様子を見て、満足そうに頷いた。

「よし、出発する」

軍は、再び動き出した。

今度は、さらに大きな軍勢になっていた。

官兵衛は、秀吉に尋ねた。

「羽柴様、なぜこれほどまでに……」

「官兵衛」

秀吉は、官兵衛を見た。

「わしは、天下を取る」

その言葉には、迷いがなかった。

「そのためには、兵が必要だ。兵を動かすには、金が必要だ。そして、何より、大義が必要だ」

「大義、ですか」

「そうだ。信長公の仇討ちという、大義が」

秀吉の目には、冷静な計算があった。

官兵衛は、ぞっとした。

秀吉は、信長の死を利用している。

それも、最大限に。


六日目。

軍は、摂津に入った。

京は、もう目前である。

そこで、秀吉は織田信孝、丹羽長秀と合流した。

信孝は、秀吉を見て言った。

「羽柴殿、よくぞこれほど早く」

「信孝様、ともに光秀を討ちましょう」

秀吉は、深く頭を下げた。

信孝は、秀吉の軍勢を見て、驚いた。

その数は、自分の軍よりもはるかに多い。

「これほどの兵を、どうやって……」

「信長公の仇討ちと聞けば、皆が集まりました」

秀吉の言葉に、信孝は頷いた。

だが、心の中では、複雑な思いがあった。

秀吉の勢力が、あまりにも大きすぎる。

このまま行けば、秀吉が織田家の実権を握ることになるかもしれない。

だが、今は光秀を討つことが先決だ。

「羽柴殿に、総大将を任せる」

信孝の言葉に、秀吉は再び頭を下げた。

「ありがたき幸せ」

だが、その顔には、笑みがあった。

すべては、計画通りだ。


七日目。

軍は、山崎に到着した。

そこで、光秀の軍と対峙することになる。

秀吉は、陣を整えながら、家臣たちに言った。

「明日、決戦だ」

家臣たちは、緊張した表情で頷いた。

秀吉は、一人、陣幕の外に出た。

そして、京の方角を見た。

本能寺があった場所を、秀吉は思った。

信長が死んだ場所を。

秀吉の目には、涙があった。

だが、それが本当の涙なのか、誰にも分からなかった。

「信長公」

秀吉は、小さく呟いた。

「わしは、お前の意志を継ぐ」

その言葉が、本心なのか、建前なのか。

秀吉自身にも、もう分からなくなっていた。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

秀吉は、天下を取る。

そのために、すべてを賭けた。

中国大返しは、その第一歩であった。


その夜、官兵衛は一人、考えていた。

七日間の行軍を振り返り、その異常さを改めて感じていた。

通常では不可能な速度。

だが、それを可能にした準備の周到さ。

すべてが、事前に計画されていた。

「羽柴様は、いつからこれを準備していたのか」

官兵衛は、自問した。

一ヶ月前か。二ヶ月前か。

いや、もっと前かもしれない。

本能寺の変が起きる、ずっと前から。

「まさか……」

官兵衛は、ある恐ろしい考えに至った。

秀吉は、本能寺の変を知っていただけではない。

それを、仕組んだのではないか。

光秀を、利用したのではないか。

だが、官兵衛は、その考えを打ち消した。

証拠はない。

すべては、憶測に過ぎない。

そして、たとえ真実だったとしても、自分には関係ない。

自分は、秀吉に従う。

それだけだ。

官兵衛は、そう決めた。


翌朝。

秀吉の軍は、戦の準備を整えた。

光秀の軍が、向こうに見える。

両軍は、まもなく激突する。

秀吉は、馬上で全軍を見渡した。

そして、声を上げた。

「諸将よ、聞け」

全軍が、秀吉に注目した。

「われらは、信長公の仇を討つために、ここにいる」

「光秀は、主君を裏切った逆賊だ」

「これを討つことこそが、われらの使命だ」

秀吉の言葉に、兵たちは応えた。

「おお!」

その声は、天に響いた。

秀吉は、刀を抜いた。

そして、前方を指さした。

「進め!」

軍は、動き出した。

中国大返しは、ここに完結する。

そして、山崎の戦いが、始まろうとしていた。

秀吉の目には、もう勝利が見えていた。

すべては、計画通りだ。

光秀を討ち、織田家の実権を握る。

そして、天下へ。

秀吉の野望は、ここから本格的に動き出す。

中国大返しという奇跡は、実は奇跡ではなかった。

それは、周到に計算された、一つの芝居であった。

だが、その真実を知る者は、ごくわずかであった。

そして、その真実は、歴史の闇に葬られることになる。

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