第5章 知らせ
天正十年六月三日の朝。
本能寺の変の知らせは、京から各地へ広がり始めた。
だが、その広がり方は、奇妙であった。
ある者には早く届き、ある者には遅く届いた。まるで、誰かが情報の流れを操っているかのように。
北陸にいる柴田勝家のもとに、知らせが届いたのは、六月四日であった。
「何だと」
勝家は、使者の言葉を聞いて、立ち上がった。
「信長様が、光秀に討たれただと」
「はい。本能寺で、六月二日の夜に」
勝家は、しばらく呆然としていた。そして、やがて怒りが湧き上がってきた。
「光秀め! すぐに京へ引き返す」
だが、家臣の一人が言った。
「しかし、上杉との戦が」
「構わぬ。信長様の仇を討つのだ」
勝家は、即座に軍を引き返させる準備を始めた。
だが、北陸から京へは遠い。山を越え、川を渡り、時間がかかる。
そして、その時間が、すべてを決めることになる。
四国へ渡ろうとしていた織田信孝のもとにも、知らせが届いた。
信孝は、信長の三男である。父の命で、四国攻めの準備をしていた。
「父上が……」
信孝は、言葉を失った。
そして、涙を流した。
「光秀を許さぬ。すぐに京へ」
だが、丹羽長秀が言った。
「信孝様、まずは冷静に」
「冷静になどなれるか! 父上が討たれたのだぞ」
「分かっております。しかし、われらが京へ戻るには、時間がかかります。その間に、光秀は京を固めるでしょう」
信孝は、歯噛みした。
長秀の言う通りであった。四国へ渡る直前であった彼らが、京へ戻るには、準備が必要であった。
「羽柴は、どうしている」
信孝は、不意に尋ねた。
「備中におります」
「あの男なら……」
信孝は、何かを期待するように呟いた。
秀吉なら、何か策があるかもしれない。そんな期待が、信孝の中にあった。
関東にいた滝川一益も、知らせを受けた。
一益は、北条氏との対峙の最中であった。関東の地で、織田の勢力を広げようとしていた。
「信長様が……」
一益は、天を仰いだ。
そして、決断した。
「引き返す」
だが、家臣が言った。
「北条が、動き出すかもしれません」
「構わぬ。主君の仇を討たねば、武士の名折れだ」
一益は、軍を引き返させた。
だが、関東から京へは、さらに遠い。東海道を通り、幾つもの国を越えなければならない。
そして、その道中で、一益は北条氏に襲われることになる。
時間と距離が、一益を追い詰めていく。
京では、公家たちが動揺していた。
「織田様が、討たれたとは」
「明智様が、謀反を起こされたとか」
「これから、どうなるのだ」
公家たちは、恐れていた。
織田信長が死んだ今、京は再び乱れるかもしれない。応仁の乱のような、長い戦乱が始まるかもしれない。
勧修寺晴豊も、屋敷で頭を抱えていた。
「やはり、何かが起きた」
晴豊は、あの静けさを思い出していた。本能寺の変の前、京に漂っていた異様な静けさを。
「だが、明智様は、どうなさるおつもりか」
晴豊には、分からなかった。
光秀が天下を取るつもりなのか。それとも、別の誰かを擁立するのか。
だが、一つだけ確かなことがあった。
「羽柴殿が、黙っているはずがない」
晴豊は、呟いた。
秀吉という男を、晴豊はよく知っていた。あの男は、機を見るに敏である。この混乱を、黙って見ているはずがない。
備中高松城では、秀吉が動いていた。
毛利との和睦交渉は、驚くほど早く進んだ。
毛利側も、信長の死を知り、織田との戦を続ける意味がなくなったと判断した。いや、それだけではない。秀吉の提示する条件が、あまりにも好条件であった。
「高松城は、毛利に返す」
「備中、美作も、毛利の領地と認める」
秀吉は、すべてを譲歩した。
毛利の使者は、驚いた。
「それでは、羽柴殿に利がないのでは」
「構わぬ」
秀吉は、笑みを浮かべた。
「今は、京へ戻ることが最優先だ」
使者は、秀吉の目を見た。
その目には、決意があった。そして、何か別の野心が燃えていた。
和睦は、成立した。
秀吉は、即座に軍を京へ向けた。
中国大返しが、始まった。
秀吉の軍は、驚異的な速度で移動した。
一日に、通常の倍以上の距離を進む。兵たちは疲れているはずだが、士気は高かった。
なぜなら、秀吉が言ったからだ。
「信長公の仇を討つぞ」
その言葉が、兵たちを奮い立たせた。
だが、官兵衛は気づいていた。
この行軍は、準備されていた。
街道沿いには、兵糧が用意されていた。まるで、事前に手配されていたかのように。
宿場では、馬が待っていた。疲れた馬を、すぐに替えられるように。
すべてが、整っていた。
「羽柴様」
官兵衛は、行軍の合間に秀吉に尋ねた。
「この準備は……」
「官兵衛」
秀吉は、官兵衛を見た。
「お前は、何も見なかったことにしろ」
「しかし……」
「これは、命令だ」
秀吉の声には、圧力があった。
官兵衛は、黙った。
そして、心の中で決めた。
自分は、秀吉に従う。たとえ、秀吉が何をしていたとしても。
なぜなら、秀吉こそが、この乱世を治められる男だと、官兵衛は信じていたからだ。
六月六日。
秀吉の軍は、姫路城に到着した。
そこで、秀吉は城内の金銀を兵たちに分け与えた。
「これを持って、家族のもとへ帰れ」
兵たちは、驚いた。
だが、秀吉は続けた。
「ただし、三日後には戻って来い。光秀を討つために」
兵たちは、感激した。
秀吉は、自分たちのことを考えてくれている。そして、信長公の仇を討とうとしている。
士気は、さらに高まった。
官兵衛は、その様子を見ていた。
秀吉は、人心を掴むのが上手い。金を惜しまず、言葉を惜しまず、兵たちの心を掴む。
だが、それだけではない。
秀吉は、計算している。
この金も、事前に用意されていたものだ。まるで、このために貯めていたかのように。
すべてが、計画通りなのだ。
六月九日。
秀吉の軍は、摂津に入った。
そこで、織田信孝、丹羽長秀と合流した。
信孝は、秀吉を見て言った。
「羽柴殿、よくぞ戻られた」
「信孝様。ともに、光秀を討ちましょう」
秀吉は、深く頭を下げた。
だが、その頭を下げる姿には、どこか計算があった。
信孝は、信長の息子である。本来なら、織田家の後継者の一人だ。
だが、今この場で軍を率いているのは、秀吉である。
力の差は、明白であった。
信孝も、それに気づいていた。だが、今は光秀を討つことが先決だ。
「羽柴殿に、総大将を任せる」
信孝の言葉に、秀吉は再び頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
だが、その目は笑っていなかった。
いや、笑っていたのかもしれない。心の中で。
京では、光秀が焦燥していた。
秀吉が戻ってくる。
その知らせを聞いた時、光秀は愕然とした。
「なぜ、こんなに早い」
光秀は、計算していた。
秀吉が備中から戻るには、少なくとも二週間はかかる。その間に、京を固め、諸将を味方につけ、天下を掌握する。
だが、秀吉は一週間で戻ってきた。
「まるで、準備していたかのように……」
光秀は、ふと思った。
秀吉は、知っていたのではないか。
本能寺の変が起きることを。
いや、それどころか……。
光秀は、その先を考えることを恐れた。
「とにかく、迎え撃つしかない」
光秀は、軍を集めた。
だが、味方は少なかった。
諸将は、様子を見ている。光秀につくべきか、秀吉につくべきか。
その迷いが、光秀を孤立させた。
六月十一日。
秀吉の軍と、光秀の軍が、山崎で対峙した。
兵力は、秀吉が圧倒的に多い。
光秀は、それでも戦う決意をした。
もう、引き返せない。
ここで負ければ、すべてが終わる。
だが、勝てば……。
光秀は、わずかな希望を抱いた。
一方、秀吉は、冷静であった。
「光秀を討てば、天下は開ける」
秀吉の目には、もう光秀の先が見えていた。
光秀は、ただの障害に過ぎない。
本当の戦いは、これからだ。
柴田勝家、織田信孝、そして他の諸将たち。
彼らを相手に、天下を争う。
だが、秀吉には自信があった。
なぜなら、すべては計画通りに進んでいるからだ。
本能寺の変も、中国大返しも、すべて。
秀吉は、馬上で京の方角を見た。
そこには、自分の未来があった。
天下人としての、未来が。
知らせは、こうして広がった。
だが、真実は、誰にも届かなかった。
ただ、秀吉だけが、すべてを知っていた。
そして、その真実を、墓場まで持っていくつもりであった。




