第4章 本能寺の夜
天正十年六月二日の朝は、曇っていた。
京の空は重く、雨が降り出しそうな気配であった。本能寺の境内では、いつもと変わらぬ朝が始まっていた。僧侶たちが経を読み、小鳥が囀り、日常が流れていた。
織田信長は、早くから目覚めていた。
側近の森蘭丸が、茶を運んでくる。信長は、それを一口飲み、窓の外を見た。
「曇っているな」
「はい。雨になるやもしれません」
「そうか」
信長は、特に気にした様子もなく、茶を飲み続けた。
本能寺には、わずかな供回りしかいなかった。信長は、京では常に軽装であった。都は自分の支配下にある。危険などあるはずがない。そう、信長は信じていた。
だが、その朝、信長の表情には、どこか影があった。何かを感じているかのような、だが言葉にできない何かを。
蘭丸は、それに気づいていた。だが、何も言わなかった。信長の機嫌を損ねることを、誰もが恐れていたからだ。
「蘭丸」
「はい」
「京は、静かだな」
「静かでございます」
「静かすぎる」
信長は、そう呟いた。
同じ頃、亀山城では、明智光秀が兵を集めていた。
「中国へ向かう」
光秀は、家臣たちにそう告げた。
「羽柴殿の援軍として、備中へ向かう。すぐに出立の準備をせよ」
家臣たちは、命令に従った。だが、その中の何人かは、奇妙なことに気づいていた。
進軍の方向が、微妙にずれている。
中国へ向かうなら、西へ進むべきだ。だが、光秀の指示する道は、南西、いや、南に近い。それは、京へ向かう道であった。
重臣の明智秀満が、光秀に近づいた。
「殿、この道は……」
「案ずるな」
光秀は、短く答えた。
「すべて、考えがある」
秀満は、それ以上問わなかった。光秀の目を見れば、分かる。これは、ただの援軍ではない。何か、もっと大きな何かが始まろうとしている。
兵たちは、静かに準備を進めた。
武具を整え、兵糧を背負い、馬に跨る。誰もが、何かを感じていた。だが、誰も口にしなかった。
そして、夕刻、光秀の軍は動き出した。
一万三千の兵が、粛々と城を出た。
六月二日の夜。
光秀の軍は、桂川を渡った。
川の水音が、静かに響いている。月が雲間から顔を出し、軍を照らした。
そこで、光秀は馬を止めた。そして、全軍に告げた。
「敵は、本能寺にあり」
家臣たちは、一瞬、言葉を失った。
本能寺。
そこにいるのは、織田信長である。
主君を討つのか。
だが、光秀の目には、迷いがなかった。
「これより、われらは織田信長を討つ。異論ある者は、ここで去れ」
誰も、動かなかった。
光秀の決意を見て、誰もが覚悟を決めた。
「進め」
光秀の声は、静かであった。だが、その静けさには、恐ろしいほどの決意があった。
軍は、京へ向かって進んだ。
夜の闇の中を、一万を超える兵が、音もなく移動していく。その様子は、まるで黒い川が流れるようであった。甲冑の音を抑え、馬の蹄には布を巻き、誰にも気取られぬように。
京の街は、眠っていた。
誰も、この軍の接近に気づいていなかった。
本能寺では、信長が眠りについていた。
蘭丸も、他の小姓たちも、それぞれの部屋で休んでいた。寺は静かで、ただ虫の音だけが聞こえていた。
だが、その静けさは、突然破られた。
「敵襲!」
見張りの声が、響いた。
信長は、即座に目を覚ました。外では、すでに戦闘が始まっている。刀の音、怒号、悲鳴。
「何事だ」
信長は、刀を手に取った。
蘭丸が、駆け込んできた。その顔は、蒼白であった。
「明智の軍です!」
「明智? 光秀か?」
信長の目が、一瞬驚きに見開かれた。だが、すぐに冷静さを取り戻した。
「謀反か」
「はい」
信長は、短く笑った。
「そうか。光秀がな」
その声には、怒りよりも、ある種の諦めがあった。まるで、いつかこうなることを、どこかで予感していたかのように。
「兵は」
「わずかです。とても、持ちこたえられません」
信長は、頷いた。
「そうか」
本能寺の戦いは、一方的であった。
信長の側には、わずかな兵しかいない。対する光秀の軍は、一万を超える。
信長は、自ら刀を振るって戦った。だが、多勢に無勢であった。次々と味方が倒れていく。
やがて、信長は奥の間に退いた。
そして、蘭丸に命じた。
「火を放て」
「はい」
蘭丸は、涙を堪えながら、火を放った。
炎が、本能寺を包んでいく。黒煙が立ち上り、夜空を覆う。
信長は、炎の中で、最期の時を迎えた。
その姿を、誰も見ていない。
ただ、炎だけが、すべてを飲み込んでいった。
光秀は、寺の外で、その炎を見ていた。
「終わった」
光秀は、呟いた。
だが、その声には、勝利の喜びはなかった。
同じ刻、備中高松。
秀吉は、陣幕の中で、月を見ていた。
月は、雲の間から顔を出していた。その月は、妙に明るかった。京の空に浮かぶ月と、同じ月であった。
秀吉の表情は、複雑であった。
何かを待っているような、何かを恐れているような。
官兵衛は、少し離れた場所で、秀吉を見ていた。秀吉の様子が、普段と違う。まるで、何か重大な知らせを待っているかのように。
そこへ、密使が駆け込んできた。
馬を泡だらけにして、息も絶え絶えに。
「羽柴様!」
密使の声は、震えていた。
「本能寺で、変が起きました!」
秀吉は、顔を上げた。
「何だと」
「明智光秀が、織田様を……」
密使は、それ以上言葉にできなかった。
秀吉は、立ち上がった。
そして、陣幕の外に出た。
月が、秀吉を照らしていた。その月は、京で信長が最期に見た月と、同じものであった。
秀吉の目には、涙があった。
「信長公……」
秀吉の声は、震えていた。
だが、官兵衛は気づいた。
秀吉の目が、泣いていない。
涙は流れている。声も震えている。だが、その目は、冷静であった。まるで、すべてを計算しているかのように。
官兵衛が、秀吉のもとに駆けつけた。
「羽柴様、本当でございますか」
「ああ」
秀吉は、短く答えた。
「信長公が、光秀に討たれた」
秀吉は、地面に膝をついた。そして、声を上げて泣いた。
周囲の家臣たちも、驚愕に震えていた。
だが、官兵衛だけは、冷静に秀吉を観察していた。
そして、気づいた。
秀吉の涙は、本物だ。だが、その涙の奥に、別の何かがある。
「すぐに、毛利と和睦する」
秀吉は、涙を拭いながら言った。
「そして、京へ戻る。光秀を討つ」
「しかし、和睦の条件は……」
「何でもいい」
秀吉は、即座に答えた。
「毛利の条件を、すべて飲む。ただし、すぐに和睦を」
官兵衛は、驚いた。
通常、和睦には時間がかかる。交渉し、条件を詰め、双方が納得する。それには、数日、いや数週間かかることもある。
だが、秀吉は「すぐに」と言った。
まるで、すでに毛利と話がついているかのように。
「官兵衛」
秀吉が、官兵衛を見た。
「お前に、交渉を任せる」
「承知いたしました」
官兵衛は、頷いた。
だが、心の中では、疑念が渦巻いていた。
その夜、秀吉の陣営は、慌ただしく動いていた。
兵糧を整え、馬を準備し、進軍の準備をする。
だが、その動きは、あまりにも速かった。
まるで、すでに準備ができていたかのように。
いや、準備はできていたのだ。
官兵衛は、それに気づいた。
兵糧は、すでに移動用に梱包されていた。馬は、すでに鞍が置かれていた。街道の情報も、すでに集められていた。
すべては、整っていた。
まるで、この日が来ることを、知っていたかのように。
「羽柴様」
官兵衛は、秀吉に問いかけた。
「この準備は、いつから……」
秀吉は、官兵衛を見た。
その目には、何かがあった。
警告とも、懇願ともつかない何かが。
だが、秀吉は何も言わなかった。
ただ、笑みを浮かべた。
そして、言った。
「官兵衛、お前は賢い。だから、何も聞くな」
官兵衛は、黙った。
それ以上、問うことはできなかった。
問えば、自分も秀吉も、引き返せなくなる。
京では、本能寺の炎がまだ燃えていた。
光秀は、その炎を見ていた。
「終わった」
光秀は、呟いた。
「いや、始まったのだ」
家臣の一人が、光秀に近づいた。
「京の制圧は、完了しました」
「そうか」
光秀は、頷いた。
だが、その表情には、勝利の喜びはなかった。
ただ、空虚さがあった。
「羽柴は、どうしている」
光秀は、不意に尋ねた。
「備中におります。おそらく、まだ知らせは届いていないかと」
「いや」
光秀は、首を横に振った。
「あの男は、もう知っているだろう」
「しかし……」
「あの男は、すべてを知っている」
光秀の声は、静かであった。
そして、遠くを見つめた。
月が、雲に隠れようとしていた。
その月を、秀吉も見ていた。
二人は、同じ月を見ながら、それぞれの思いを抱いていた。
光秀は、勝利を得た。だが、その先に何があるのか、分からなかった。
秀吉は、機会を得た。そして、その機会を、確実に掴もうとしていた。
本能寺の夜は、こうして過ぎていった。
炎と、月と、沈黙だけが、残された。
そして、歴史が、大きく動き始めた。
だが、その真実を知る者は、ごくわずかであった。
密使たちは、この夜も街道を走っていた。
彼らだけが、すべてを知っていた。
だが、彼らは決して語らない。
なぜなら、語ることは、死を意味するからだ。
本能寺の夜は、こうして歴史に刻まれた。
だが、刻まれたのは、表面だけであった。
その奥に何があるのか、それは誰にも分からない。
ただ、月だけが、すべてを見ていた。




