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炎上  作者: 柊ゆるな
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第3章 密使の往復

天正十年五月。

京と備中を結ぶ街道に、一人の男が馬を走らせていた。

男は目立たぬ格好をしている。商人のようにも見えるし、下級武士のようにも見える。だが、その目つきは鋭く、馬の扱いも見事であった。馬を走らせる姿は、長年街道を往来してきた者のそれであった。

男は、昼夜を問わず走り続けた。宿場では最低限の休息しか取らない。馬を替え、水を飲み、すぐにまた走り出す。まるで、一刻を争う用件を抱えているかのように。

だが、男は何も持っていなかった。

書状の入った筒も、密書を隠す袋も、何もない。荷物といえば、旅の最低限の道具だけであった。ただ、頭の中に何かを刻み込んでいるかのように、時折目を閉じて何かを反芻していた。唇が、わずかに動いている。何かを暗唱しているようであった。

街道では、他の旅人ともすれ違う。だが、男は誰とも目を合わせない。ただ黙々と、馬を走らせ続けた。

男は、京に着いた。

そして、ある屋敷の裏口から、静かに入っていった。


その屋敷は、京の中心から少し離れた場所にあった。

表向きは、商人の屋敷である。呉服を扱う豪商として知られ、公家や寺院とも取引がある。屋敷の造りは立派で、庭には手入れの行き届いた松が植えられている。だが、この屋敷には、もう一つの顔があった。

密使が通されたのは、奥の小さな部屋であった。

普段は使われていない部屋のようで、埃が薄く積もっている。窓は閉ざされ、外の光はわずかしか入らない。そこには、一人の男が待っていた。男の顔は影に隠れ、よく見えない。だが、その存在感は、ただの商人ではないことを示していた。

「ご苦労」

影の男が、低い声で言った。

「備中の様子は」

密使は、淀みなく報告した。まるで、何度も頭の中で繰り返してきたかのように。

「羽柴様は、高松城の水攻めを続けております。城の陥落は、時間の問題かと。すでに城内の兵糧は尽きかけており、降伏の使者が来るのも間近でございましょう」

「そうか」

影の男は頷いた。

「兵の配置は」

「整っております。いつでも動けるように。それも、長距離の移動を想定した配置でございます」

「兵糧は」

「十分に。それも、移動を前提とした梱包で。小分けにされ、一つ一つが背負える重さになっております」

「街道の状況は」

「調べさせております。京へ至る道の、宿場、橋、川の渡し、すべてを」

影の男は、満足したように息をついた。

「羽柴殿は、優秀だな。段取りに抜かりがない」

「はい。ただ……」

密使は、わずかに声を落とした。

「黒田官兵衛が、勘づいているかもしれません」

「官兵衛が」

影の男の声に、わずかな緊張が走った。

「あの男は、鋭い。だが、証拠は何も掴めまい。すべては口伝、すべては頭の中だ」

「はい。ただ、羽柴様の周辺を、注意深く観察しております」

「ならば良い。官兵衛に気取られぬよう、羽柴殿に伝えよ。だが、文字にするな。すべて、言葉で」

「承知いたしました」

密使は、再び何かを頭に刻み込むように、目を閉じた。唇が動き、影の男の言葉を繰り返している。

そして、影の男に一礼して、部屋を出た。

裏口から出た密使は、再び馬に跨った。今度は、備中への帰路である。


同じ頃、亀山城でも、密使が訪れていた。

こちらの密使は、僧侶の姿をしていた。托鉢僧として旅をしているように見えるが、その足取りは速く、目的地を知っている者の動きであった。手には錫杖を持ち、背には頭陀袋を背負っている。だが、その目は、修行僧のそれではなかった。

明智光秀は、その僧を密かに書院に招いた。

家臣たちにも知らせず、夜更けを待って、裏門から入れた。書院には、光秀以外誰もいない。

「京の様子は」

光秀の声は、落ち着いていた。だが、その目には、何か燃えるようなものがあった。

「静かでございます」

僧は答えた。

「織田様は、本能寺におられます。供回りは少なく、警護も手薄でございます。わずかな小姓と、森蘭丸様ほか数名のみ」

「そうか」

光秀は、深く息をついた。

「他の武将たちは」

「柴田様は北陸に、滝川様は関東に、丹羽様は四国の準備中。そして、羽柴様は備中に。皆、京から遠く離れております」

「都合が良すぎる」

光秀は、自嘲するように笑った。

「まるで、誰かが仕組んだかのように。いや、仕組まれたのかもしれぬな」

僧は、何も言わなかった。ただ、光秀の言葉を聞いていた。

「もう一つ、お伝えすることが」

僧は、声を潜めた。

「備中から、密使が頻繁に京に来ております」

「羽柴の密使か」

「おそらく。ただ、誰と会っているかは、分かりません。京のどこかの屋敷に入り、しばらくして出てくる。そして、また備中へ戻る」

光秀の眉が、わずかに動いた。

「羽柴秀吉……」

その名を呟いた時、光秀の表情には、複雑なものが浮かんだ。疑念と、ある種の理解と、そして諦めのようなものが。

「あの男も、何かを企んでいるのか。それとも……」

光秀は言葉を切った。


密使たちは、京と地方を結び続けた。

彼らは、表向きには何の関係もない。ある者は商人として、ある者は僧侶として、ある者は旅芸人として、ある者は馬喰として。職業も、身分も、行き先も、すべてが異なる。だが、彼らは同じ目的のために動いていた。

情報を運ぶこと。

そして、その情報を、決して文字にしないこと。

ある日、二人の密使が、街道ですれ違った。一人は京から備中へ、もう一人は備中から京へ。一人は商人の格好、もう一人は僧侶の姿。

二人は、互いに目を合わせなかった。知らぬ者同士として、ただすれ違った。

だが、その瞬間、二人の間には、奇妙な緊張が走った。まるで、同じ舞台で演じる役者が、互いの存在を意識するように。空気が、わずかに震えた。

彼らは、自分たちが何か大きな出来事の歯車であることを、薄々感じていた。だが、その全体像は誰も知らない。自分が運んでいる言葉が、どこに繋がり、何を引き起こすのか。

知っているのは、ごく少数の者だけであった。

そして、その少数の者たちも、互いに何を考えているかは知らなかった。


京の屋敷で、影の男が一人、考え込んでいた。

目の前には、何も書かれていない紙がある。筆も、墨もない。すべては、頭の中にあった。計画も、段取りも、すべて。

「光秀は、動くだろうか」

影の男は、独り言のように呟いた。

「いや、動かざるを得ない。彼はもう、追い詰められている。信長公の仕打ちに、耐えられる限界を超えた」

光秀の心理を、影の男は読んでいた。光秀がどれほど信長に仕え、どれほど報われず、どれほど屈辱を味わってきたか。そのすべてを、影の男は知っていた。情報は、常に集まってくる。

「そして、羽柴は準備を整えた」

影の男の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「彼もまた、優秀だ。自分の役割を理解している。いや、理解しているだけではない。自分の利を、計算している」

だが、その笑みには、冷たさがあった。

「問題は、誰が最後に笑うかだ。光秀か、羽柴か。それとも……」

影の男は、立ち上がった。

窓の外には、京の街が広がっている。初夏の緑が美しく、人々は平穏に暮らしている。市場では商売が行われ、寺では鐘が鳴り、子どもたちの声が聞こえる。

だが、その平穏は、もうすぐ破られる。

影の男は、それを知っていた。

そして、それを望んでいた。


亀山城で、光秀は一人、夜を過ごしていた。

窓の外には、月が浮かんでいる。その月は、妙に明るかった。まるで、何かを照らし出そうとしているかのように。

光秀の前には、白紙が置かれている。だが、今夜も何も書かなかった。書く必要がないからだ。すべては、もう決まっている。

「わしは、利用されているのだろうか」

光秀は、自問した。

「それとも、自分の意志で動いているのか」

答えは出なかった。

いや、もはやどちらでも良かった。光秀にとって重要なのは、行動することだけであった。このまま何もせずに、屈辱に耐え続けるよりは、動いた方がましだった。

たとえ、それが誰かの思惑通りであったとしても。

たとえ、それが罠であったとしても。

光秀は、立ち上がった。

そして、刀に手をかけた。刀身を抜き、月明かりに透かした。刃は、冷たく光っていた。


備中の陣中で、秀吉も眠れぬ夜を過ごしていた。

陣幕の中には、誰もいない。秀吉は一人、地図を見つめていた。

その地図には、京への道が詳細に記されている。どの街道を通り、どこで休息し、どこで兵を整えるか。川の渡し場、橋の状態、宿場の規模、すべてが書き込まれていた。

「もうすぐだ」

秀吉は、小声で呟いた。

「もうすぐ、すべてが動き出す。そして、わしの時代が来る」

秀吉の目には、期待と不安が混じっていた。この計画が成功すれば、天下は目前だ。だが、失敗すれば、すべてを失う。それどころか、命すら危うい。

それでも、秀吉は賭けた。

なぜなら、これが唯一の機会だと分かっていたからだ。信長が生きている限り、自分は常に二番手だ。いや、三番手、四番手かもしれない。

だが、もし信長が……。

秀吉は、その先を考えることを止めた。

地図を巻き、陣幕の外に出た。

夜空には、同じ月が浮かんでいた。京で光秀が見ているのと、同じ月が。


密使たちは、今夜も街道を走っていた。

彼らは、言葉を運んでいた。文字にできない、文字にしてはならない言葉を。

その言葉は、やがて歴史を動かす。

だが、歴史に記されることはない。

なぜなら、密使たちは、存在しないことになっているからだ。

彼らの往復は、誰の記録にも残らない。ただ、夜の闇の中で、馬の蹄の音だけが響いていた。その音は、やがて遠ざかり、消えていく。

京と備中を結ぶ街道は、普段と変わらぬ静けさであった。

だが、その静けさの下では、大きな何かが動いていた。

それは、誰にも見えない。

誰にも聞こえない。

ただ、関わった者だけが知っている。

天正十年六月が、もうすぐ訪れようとしていた。そして、その六月に、歴史が大きく動く。

密使たちは、それを知っている。

だが、誰も語らない。

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