第2章 中国戦線の違和感
備中高松城は、沼地の中にあった。
梅雨の雨が降り続き、城の周囲は水に囲まれている。羽柴秀吉が指揮する織田軍は、その城を水攻めにしていた。
堤を築き、川の水を引き込む。城は次第に孤島となり、落城は時間の問題であった。
だが、秀吉の陣営には、妙な落ち着きがあった。
黒田官兵衛が、陣中を歩きながら、その違和感を感じていた。官兵衛は秀吉の軍師として、この戦に参加している。彼の目は、常に戦況を冷静に分析していた。
「兵たちの士気が、高すぎる」
官兵衛は呟いた。
通常、長期戦になれば、兵の士気は下がる。雨に打たれ、泥にまみれ、敵城を睨み続ける日々は、精神を消耗させる。戦の長期化は、兵の不満を募らせ、脱走者を生む。それが常であった。
だが、ここの兵たちは違った。疲れた様子はあるが、どこか余裕があった。まるで、この戦がもうすぐ終わることを知っているかのように。いや、それだけではない。この戦の後に、もっと重要な何かが待っているかのような、奇妙な高揚感すら漂っていた。
官兵衛は、兵站を管理する部署に足を運んだ。
そこで、さらに奇妙なものを見た。
兵糧が、余っていた。
いや、「余っている」という表現は正確ではない。必要以上に、整えられていた。
米、味噌、塩、干物。どれも十分な量がある。それだけではない。梱包の仕方が、運搬を前提としたものになっていた。
通常、長期戦の陣営では、兵糧は現地で消費されることを前提に保管される。大きな甕に入れられ、天幕の中に積まれる。移動を考慮する必要がないからだ。
だが、ここでは違う。いつでも移動できるように、小分けにされ、縄で括られていた。一つ一つの包みが、人が背負える大きさになっている。これは行軍の準備である。
「これは……」
官兵衛の眉がひそまった。
兵站を管理する武士が、官兵衛に気づいて近づいてきた。
「黒田様、何か御用でしょうか」
「いや、少し見て回っているだけだ」
官兵衛は平静を装った。
「兵糧の管理、見事だな。誰の指示か」
「羽柴様の直々の御指示にございます」
武士は誇らしげに答えた。
「羽柴様は、細かいところまでお気を配られる。兵糧だけでなく、馬の飼葉も、矢の補充も、武具の手入れも、すべて計算されております。それに、街道の状況まで調べさせておられます」
「街道の、状況を?」
官兵衛は聞き返した。
「はい。京へ至る道の、です」
武士は何気なく答えた。だが、その言葉は官兵衛の心に引っかかった。
京へ至る道。
なぜ、今それを調べる必要がある。
官兵衛は、秀吉の本陣に向かった。
秀吉は、陣幕の中で地図を広げていた。その顔は、いつもの朗らかさとは違う、何か思案に沈んだ表情であった。
地図は、毛利の領地を示したものではなかった。それは、備中から京へ至る道を詳細に記したものであった。
「官兵衛か。どうした」
秀吉は顔を上げた。その瞬間、表情が一変し、いつもの笑顔になった。そして、素早く地図を巻いた。
「いや、少し陣中を見て回っておりました」
「そうか。どうだ、兵たちの様子は」
「良好です。士気も高く、兵糧も十分に」
官兵衛は言葉を選んだ。
「むしろ、十分すぎるほどに」
秀吉の目が、一瞬鋭くなった。だが、すぐに笑みを浮かべた。
「そうか。それは良かった。戦は準備が肝心だからな」
「羽柴様」
官兵衛は一歩踏み込んだ。
「高松城は、もうすぐ落ちましょう。だが、その後はどうなさるおつもりですか」
「その後?」
秀吉は再び地図を広げた。今度は、毛利領の地図であった。
「毛利との決戦だ。高松が落ちれば、毛利の本拠に迫れる」
「それは分かっております。しかし……」
官兵衛は言葉を濁した。
秀吉の答えは、用意されたもののように聞こえた。まるで、台本を読んでいるかのように。本心ではない何かを語っているように。
「しかし、何だ?」
秀吉が問い返した。その声には、わずかな圧力があった。
「いえ、何でもありません」
官兵衛は引き下がった。だが、心の中の疑念は消えなかった。
その夜、官兵衛は一人、陣中を歩いていた。
雨はやんでいたが、地面はぬかるんでいる。月が雲間から顔を出し、陣営を青白く照らしていた。
官兵衛の目に、一つの光景が映った。
馬が、整然と並べられている。それも、ただ繋がれているのではない。鞍が置かれ、荷が括りつけられ、いつでも出発できる状態になっていた。通常、戦の最中にここまで馬を整えることはない。移動の直前になって、初めて準備するものだ。
「これは……」
官兵衛は、馬番の若い武士に声をかけた。
「この馬は、何のために用意されている」
若い武士は、戸惑った表情を見せた。
「それは……羽柴様の御指示で」
「いつ出発するのだ」
「それは、私には……ただ、急な命令があるやもしれぬ、と」
若い武士は口ごもった。
官兵衛は、それ以上問い詰めなかった。だが、確信に近いものを得た。
秀吉は、すでに次の行動を想定している。それも、高松城攻めとは別の、何か大きな行動を。そして、それは急を要するものだ。
翌日、官兵衛は再び秀吉の陣を訪れた。
だが、今度は何も言わなかった。ただ、秀吉の様子を観察した。
秀吉は、いつもより頻繁に、京の方角を見ていた。その目は、遠くを見つめている。まるで、何かを待っているかのように。
陣中には、密使らしき者が頻繁に出入りしていた。彼らは目立たぬ格好をしているが、官兵衛の目は誤魔化せない。彼らは、ただの伝令ではない。何か重要な情報を運んでいる。
そして、その密使たちは、決まって京の方角から来ていた。到着すると、すぐに秀吉の陣幕に入り、長い時間を過ごす。出てくる時、秀吉の表情は複雑であった。
「京で、何かが起きようとしている」
官兵衛は心の中で呟いた。
そして、秀吉はそれを知っている。いや、知っているだけではない。もしかすると、それに関わっているのかもしれない。
だが、それが何であるかは、官兵衛にも分からなかった。ただ、それが尋常なことではないことだけは、確かであった。
ある日の夕刻、秀吉が陣の外に立っていた。
官兵衛も、その近くにいた。二人は、沈みゆく太陽を見ていた。
「官兵衛」
秀吉が、不意に口を開いた。
「お前は、わしを信じているか」
「もちろんです」
官兵衛は即座に答えた。だが、秀吉は満足しなかった。
「本当に、か?」
秀吉の声には、珍しく迷いがあった。
「わしは、これから大きな賭けをする。それが成功すれば、天下は近い。だが、失敗すれば……」
秀吉は言葉を切った。
官兵衛は、何も言わなかった。ただ、秀吉の横顔を見つめていた。
秀吉の目には、決意と恐れが混じっていた。それは、ただの戦の前の緊張ではない。もっと大きな、もっと深い何かであった。人の運命を、いや、天下の行方を左右するような、重大な何かを前にした者の表情であった。
「お前には、いずれ分かる」
秀吉は、そう言って陣に戻った。
官兵衛は、その場に残った。
夕陽が、完全に沈んだ。
闇が、陣営を包んだ。
だが、官兵衛の心の中では、別の闇が広がっていた。それは、疑念という名の闇であった。
高松城の水は、日ごとに増していた。
城兵の士気は下がり、降伏の使者が来るのも時間の問題であった。城内では、すでに食料が尽きかけているという情報もあった。
だが、秀吉の陣営では、誰もその結末を待っていないかのようであった。
兵たちは、すでに帰り支度をしているように見えた。いや、帰り支度ではない。別の場所へ向かう支度であった。それも、長距離を、しかも急いで移動するための支度であった。
官兵衛は、その違和感を抱えたまま、日々を過ごしていた。
そして、ある日。
京から、一人の密使が駆け込んできた。馬を泡だらけにして、息も絶え絶えに。
その知らせを聞いた秀吉の顔を、官兵衛は見た。
驚きではなかった。
悲しみでもなかった。
それは、まるで「ついに来たか」という表情であった。
秀吉は即座に命じた。
「全軍、京へ向けて準備せよ」
兵たちは、まるで待っていたかのように動き始めた。
中国戦線に漂う違和感は、その瞬間、すべてが繋がった。
だが、その真実を、官兵衛はまだ口にできなかった。




