第1章 京に満ちる静けさ
天正十年六月初頭の京は、妙に静かであった。
鴨川の水音が、いつもより澄んで聞こえる。それは川の流れが清らかになったからではない。人々の声が、ひそめられているからであった。
三条の橋のたもとで、商人たちが立ち話をしている。扱っているのは呉服である。彼らは普段なら、値の駆け引きで声を張り上げるものだが、この日は違った。
「明智様が、丹波からお戻りになったそうだ」
「ああ、聞いた。亀山の城におられるとか」
「それが妙でな。兵を集めておられるという話だ」
「中国へ、援軍に向かわれるのだろう」
「そうかもしれん。だが……」
言葉が途切れた。続きを口にすることを、男は躊躇った。京の空気は、憶測を許さない。余計なことを言えば、それが誰の耳に入るか分からない。
「まあ、われらには関わりのないことよ」
もう一人の男が話を打ち切った。だが、その目は落ち着かなかった。
相国寺の一角で、僧たちが経を読んでいた。
読経の声は規則正しく、淀みがない。だが、その合間に交わされる視線には、何かしらの緊張があった。
年若い僧が、先輩格の僧に小声で尋ねた。
「織田様は、本能寺におられるのですね」
「そうだ。わずかな供回りだけで」
「それは……お危のうございませんか」
老僧は眉をひそめた。
「余計なことを言うな。都は織田様の治める場所ぞ。危険などあるはずがない」
言葉とは裏腹に、老僧の声には力がなかった。彼もまた、何かを感じているのだ。
京という場所は、昔から権力の交錯する地であった。天皇がおられ、公家が住み、武家が睨み合う。その均衡は、常に脆い。
織田信長が入京してから、京は表面上、安定した。だが、その安定は刃の上に立つようなものであった。誰もが、いつ何が起きてもおかしくないと、心のどこかで思っていた。
御所の近くに屋敷を構える公家、勧修寺晴豊は、縁側に座って庭を眺めていた。
初夏の庭は青々としている。だが、晴豊の心は晴れなかった。
「近頃、京が静かすぎる」
独り言のように呟いた。
側に控えていた若い公家が、恐る恐る口を開いた。
「静かなのは、良いことではございませんか」
「いや」
晴豊は首を横に振った。
「静かすぎるのだ。人々が、何かを恐れているような静けさだ」
「何を、でございますか」
「それが分からぬ。だから、余計に不気味なのだ」
晴豊は、長年の公家としての勘で感じていた。京の空気が、変わりつつある。それは目に見えるものではない。だが、確かに存在する。
「明智光秀殿が、亀山におられるそうだな」
「はい。丹波から戻られたとのことです」
「あの方は……」
晴豊は言葉を選んだ。
「織田様の重臣であられる。だが、近頃、どこか様子が違うと聞く」
「様子、でございますか」
「ああ。何と言えばよいか……」
晴豊は、また言葉に詰まった。光秀について語ることは、危険を伴う。だが、黙っていることもまた、不安を増幅させる。
「あの方の周りだけ、空気が違うのだ」
その頃、亀山城では、明智光秀が一人、書院に座っていた。
窓の外には、初夏の緑が広がっている。風が吹けば、木々が揺れる。その音だけが、静寂を破っていた。
光秀の前には、白紙が置かれている。筆を持つ手が、微かに震えていた。
何を書くべきか。
いや、書くべきではないのかもしれない。
光秀の心は、すでに定まっていた。だが、それを文字にすることは、まだ躊躇われた。一度文字にすれば、後戻りはできない。
彼は筆を置いた。
そして、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、織田信長の顔である。あの男は、天下を手中に収めつつある。誰も逆らえぬ力を持ち、誰も予測できぬ行動をとる。
光秀は、信長に仕えてきた。忠義を尽くし、功績を上げてきた。だが、それでも報われることはなかった。いや、報いなど求めていなかったのかもしれない。
ただ、最近の信長は、何かが違った。
その「何か」が、光秀の心を蝕んでいた。
光秀は再び目を開けた。
窓の外の緑が、やけに鮮やかに見えた。まるで、最後に見る景色のように。
京の市井では、誰もが薄々感じていた。
何かが起ころうとしている。
それが何であるかは、誰も知らない。だが、空気が、それを伝えていた。
商人は、いつもより早く店を閉めた。僧は、いつもより長く経を読んだ。公家は、いつもより慎重に言葉を選んだ。
そして、亀山城の明智光秀は、一人静かに、筆を手に取った。
今度こそ、何かを書き始めるために。
京に満ちる静けさは、嵐の前の静けさであった。誰もがそれを知りながら、誰も口にしなかった。
ただ、時だけが、静かに流れていた。




