抗原と抗体
東欧、黒海沿岸。
ゴーストタウンと化したオデッサの街で、一人の東洋人女性が何者かから逃げ惑っていた。
年の頃は二十代半ばか。
端正なその美貌には、疲労と焦燥が色濃く滲み出ている。
「どこもかしこも奴らがうようよ……ほんと気が滅入るわね」
主不在の商店で食料と水を補給しつつ、苛立たしげに彼女は独りごちる。
数日前にモスクワに落下した隕石の先遣調査のため、彼女はこの東欧の地を訪れていた。夫が学者で、彼女はその助手だった。
結論から述べると、その調査対象は隕石などではなかった。
言うなればそれは、外宇宙からの放浪者。
金属生命体とでも呼ぶべき異種を生み出す巣のようなもので、そこから発生した敵性体の一群に、彼女は今追われている。
(巣が落下した衝撃と、奴らの侵蝕活動により、爆心地一帯は完全に壊滅したと見て間違いない……。そもそも、私たちがキエフに辿り着いた時には、そこは既に奴らの手に落ちた後だった……)
奴らの出現に起因する何らかの事象の影響により、通信の類いは一切使用不能。
命からがらオデッサまで落ち延びたものの、奴らの魔の手はこの街にも伸びていたようで、黒海の真珠と称えられたリゾート地には人っ子一人おらず、最早見る影もない。
そして、街の住人だけでなく、最愛の夫もまた、今はもう、ここにはいなかった。
(私を逃がすために、あの人は……)
身を挺して活路を切り開いてくれた夫のためにも、彼女はこんなところで死ぬわけにはいかなかった。
と。
ガシャァァンッ!
突如、商店の窓ガラスを突き破って何かが室内に侵入してきた。
それは、硬質で節くれ立った、昆虫の如き巨大な前肢。
敵性体――金属の体躯を持つ、異形の獣の凶手に他ならなかった。
「……ッ!」
件の前肢が獲物を探し求めて屋内をまさぐり始めると同時、女性はあらかじめ開け放しておいた戸口から、身を投げるようにして屋外へと転がり出た。
直後、さっきまで彼女がいた商店が音を立てて圧壊する。
異形の獣に押し潰されたのだ。
判断が一瞬遅れていたら、今頃あの中で商品や建材と一緒に彼女もミンチになっていたことだろう。
女性は改めて異形の獣を一瞥する。
蜘蛛によく似た下半身。
蟷螂の斧を思わせる前肢。
上半身は筋骨隆々な男性のそれを模しており、頭に当たる部位には一つ目の鰐のような顎が備わっている。
目測でも全長三メートルは超える怪物の単眼が、怪しい光を宿しながら女性の姿を捉えた。
「くっ……!」
振り返るのをやめ、彼女は脱兎の如く海の方へ駆け出す。
(こうなったら海上に出るしか……!)
一縷の望みに縋り桟橋を目指す。
幸い、停泊している小型船舶の姿には事欠かなかった。
だが、そのいずれも、必ずしもすぐに動かせるとは限らない。イグニッションキーや燃料がなければ、結局は水面に浮かぶ棺桶も同然だからだ。
それでも、「陸から少しでも離れられれば、もしかすると奴らはそこまで追ってこれないのでは?」というかすかな希望が、彼女の中にないわけでもなかった。
桟橋に辿り着くと、早速彼女は手前の小型ボートに颯爽と乗り込む。
が。
「……ダメ」
キーがどこにも見当たらない。
すぐに気持ちを切り替え、次を当たるべく彼女は船体から飛び降りる。
――まさにその時だった。
ドパァァンッ!
激しく立ち上がる水柱。
桟橋に降り立った彼女のすぐ横をかすめて、何か巨大な物体が小型ボートの上に落下したのだ。
言わずもがな、彼女を狙った怪物の強襲だった。
鎌状の両前肢を突き立てられた小型ボートは船体が真っ二つに割れて大破。襲撃者はそのまま海の底へと沈んでいく。
あはや串刺しにされ、海の藻屑と消える所だった。
「……冗談じゃない」
気を奮い立たせ、女性はいつの間にか棒立ちになっていた身体を無理矢理動かす。
次の手近な船はクルーザータイプだった。
(あまり時間はかけてられないとはいえ、後先のことを考えると、この船が動かせれば非常に助かるのだけど……)
そんなことを思いつつ、彼女は操舵室に入り探索を始める。
当然と言えば当然だが、今回もキーが刺さったままにはなっていない。
諦めずに手当たり次第船内を物色していると、奥まったこじんまりしたスペースに据え付けられたグローブボックスが目に入る。
そのパンドラの箱の中に、希望は残されていた。
「あった……!」
遂に見つけた。
目的のイグニッションキーだ。
スペアであろうそれを手に取り、彼女はハンドル前へと急ぎ引き返す。
(お願い、動いて……!)
そう強く念じながら、挿入口にキーを差し込み、回す。
エンジンが唸る、確かな手応え。
女性は胸中で快哉を叫ぶ。
(……いけるッ!)
すぐさま彼女は船を係留しているロープを外しに船外へと飛び出す。
瞬間、船体がぐらりと斜めに揺らいだ。
「な、何っ……!?」
喜んだのも束の間、傾いたデッキ上で姿勢を崩した女性は、ほうほうの体で船縁まで移動し、周囲を見渡す。
気のせいか、桟橋が随分下の方に見えるような気がした。
「……まさか」
はっとなって、彼女は身を乗り出し船底へと目を向ける。
見ると、船体下部に例の怪物がへばりついていた。
先程海に沈んだ個体だろうか。
そいつが上半身を海面から覗かせ、両の前肢でがっちりホールドするようにして船体を持ち上げていた。
そこから先はあっという間の出来事だった。
ミシミシと軋みを上げてへし折られるクルーザーの船体。
足場を失い海へと放り出される女性。
沈みゆく彼女を捕食すべく、海中まで執拗に追いかけてくる異形の怪物。
その一連の流れをどこか客観的に捉えながら、彼女は思う。
(……ゲームオーバー、か)
もう、これ以上。
この先、どう足掻いた所で、自分が助かるビジョンが全く見えてこない。
(……やだな)
こんなところで、何も分からないまま。
あんな得体の知れない化け物に喰い殺されるのが、自分の人生の終着点なのか。
(……死にたくない)
そうだ。
自分はまだ、ここで朽ち果てるわけにはいかない。
(あの人のみならず、私までいなくなったら、遺されたあの子は一体どうなる?)
愛する我が子を守る為にも。
何としてもこの危地から生還し、奴らのことを世界中に知らせねばならない。
(まだ死ねない……死んでたまるかッ!)
再び瞳に生きる気力を取り戻した女性は、目前に迫る狂猛な顎に怯むことなく、敢然と異形に対峙する。
たとえそれが、無駄な行いだと分かっていても。
(〜〜〜〜ッ!!)
その決意も虚しく。
怪物の牙が、今まさに彼女の肢体に突き立てられようとした、その刹那。
凛とした少女の声を、彼女は聞いた。
『絶体絶命の窮地に際しても挫けぬ、その強き意思……
――気に入った』




