表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雨見人(あまみびと)

作者: 永井 耕一

雨見人あまみびと

東京から遠く離れ、海と山に囲まれたその町は、美しいがどこか不自然な湿り気を帯びていた。大学生・松本リカは、卒業論文の完成を胸に抱き、東北の三陸沿岸に佇む人口およそ一万人ほどの町、大槌町を訪れていた。彼女はその町のほど近くに位置する東京大学大気海洋研究所・国際沿岸海洋研究センター(ICRC)に籍を置き、地元の研究者たちと共に、海洋調査やアウトリーチ活動を中心としたフィールドワークに日々取り組んでいた。

雲行きがいよいよ不穏な色を帯び始めたある日のことだった。リカはセンターでの講座を終え、海辺に建つ静かな下宿へと戻ろうとしていた。その途上、予期せぬ激しい夏の嵐に行く手を阻まれ、やむなく旧道へと迂回を余儀なくされた。その旧道は、すでに長いこと誰も通らぬまま放置され、ほとんど忘れ去られた山道だった。路面はぬかるみ、泥と砂利がタイヤに絡みつき、車は容易に前へ進まない。視界を容赦なく塞ぐほどの土砂降りの中、ワイパーは激しくフロントガラスを叩き続けている。

リカは眉をひそめ、必死に目を凝らした。その瞬間、ヘッドライトの頼りない光が捉えたのは、道の真ん中に静かに佇む、雨に濡れそぼった漆黒の影であった。その姿はまるで、時の流れから取り残され、永遠の停滞に呑まれたかのような、不気味な幽静さをまとっていた。

思わずリカが車を停めたその刹那、車内の窓ガラスがゆっくりと内側から曇りはじめた。冷気など感じるはずもない蒸し暑い夏の夜であるにもかかわらず、湿りを帯びたかすかな吐息が、いつしか密やかに車内を満たしていた。そして、ガラスの表面にゆっくりと浮かび上がったのは――泥にまみれ、歪な形をした小さな掌の跡であった。

それはあたかも、見えぬ何者かが、外側ではなく車内から必死に窓を叩き続けているかのような、不気味極まりない痕跡であった。

誰もいるはずのない車内に、密やかに水音が流れはじめた。それは、どこか遠くから響くような、けれども耳元で囁かれているような、不思議で奇妙な響きを帯びていた。リカの胸の奥で、心臓が警鐘のように激しく鳴り響く。意を決して、彼女が恐る恐る視線を再び前方へと向けたときには、つい先刻まで道の真ん中に佇んでいたはずの、あの黒い人影は、すでに跡形もなく消え去っていた。

「……どこへ行ってしまったのだろう?」 その疑問が胸に浮かんだ瞬間だった。激しく降り注ぐ雨音の合間を縫うように、どこからともなく、水滴がしたたり落ちる音が響きはじめた。ぽた、ぽた、ぽた──。それは決して車の屋根を叩く音ではなかった。まるでリカのすぐ背後、手を伸ばせば届くほど近い座席の後ろから鳴っているかのようであった。ぞくり、と背筋を氷の指先でそっとなぞられるような感覚が走り、リカは言い知れぬ恐怖に身を硬くした。

リカは我に返ったように慌ててエンジンを始動させ、無我夢中でアクセルを踏み込んだ。しかし泥濘が容赦なくタイヤに絡みつき、車は空転するばかりで、一向に前へ進まなかった。そのとき、不意にラジオからざらついた砂嵐のようなノイズが流れ出した。耳障りな雑音の奥から、やがて囁くように微かな声が漏れ聞こえてきた。 「見たのね……あの子を」 それは、静かだが明瞭な呟きだった。自分の耳を疑い、錯覚ではないかとリカは懸命に思い込もうとした。けれども、その声はあまりにも生々しく、雨音の狭間から漏れ出るように彼女の耳元にまとわりついて離れなかった。

命からがら下宿へとたどり着いた、その翌朝――。リカは、昨夜の不可解な出来事を、どこか夢の名残を辿るようにぼんやりと思い起こしながら、ふと台所で顔を合わせた宿の女将・美子に漏らした。「昨日の夜、旧道で……誰かを見たような気がするんです。あの激しい雨のなかに、ただじっと佇んでいて……」 美子はその言葉を聞くなり、手を止め、静かに呟いた。

「この町のみずっこはねぇ……ときたま、人さ呼ぶごとあるんだわ」 不意に重たい沈黙がふたりを包んだ。やがて美子は、何かを意を決したかのように、再び口を開いた。「そいづさ、『雨見人あまみびと』 だったんでねぇのすか?」 その響きには、深く、拭いきれないほどの哀切と畏れが込められていた。

「……雨見人……?」 リカが不安げに問い返すと、美子はかすかに頷き、静かに語り始めた。「この町さなぁ、むがしからの悲しい言い伝えがあんのすよ。ダムができる前の話でね、あの山の奥深くさ、小さな集落があったんだと。んだども、ある年、ひどい大雨が降り続いてな、山が崩れちまったんだ。ダムもろとも決壊して、村は濁流に呑まれ、子どもらも何人も流されて死んじまったって、そんたな話が今でも語り継がれてんのよ」

女将・美子の言葉はそこで途切れ、しばし沈黙が流れた。やがて彼女は、記憶の奥底を覗き込むような眼差しで再び語り出した。「んでもねぇ……ひとりだけ、どうしても遺体が見つかんなかった子がいたんだわ。その子なぁ、さいごのさいごまで 『おっかぁさ会いてぇ』って泣いてたらしいんだよ……」 その言葉はどこか遠く、遥かな時を隔てた記憶の底から、幽かな波紋のように広がっていった。

「それからっつうもん、大雨の夜に旧道さ通るど、泥にまみれてずぶ濡れんなったあの子がな、ぽつんと道のど真ん中さ立ってらっていう噂が流れだしたんす。そいづが、やがて『雨見人』って呼ばれるようになったんだど……」

女将・美子の声はますます低くなり、まるで深い水底に沈んでゆくかのように響いた。 「あの子の姿、見ちまったもんな、体の中さじわじわと水が溜まりだして……。しまいにゃ皮膚まで溶げてぐって話なんすよ。あの晩、濁流に呑まれで命落どした子らの怨念がな、見る者さ乗り移ってらんじゃねぇかって……」

リカは、喉の奥に焼けつくような渇きを覚えていた。すぐ傍らにあった水差しに手を伸ばしたが、どうしても指先の震えを止められず、グラスの水はただ虚しく揺れるばかりであった。夜が明けてもなお、リカの身体を蝕む疲労感は消えなかった。まるで鉛の塊を抱え込んだかのように全身が重く、瞼の裏にまでじっとりと湿った影が染み込んでいる気がした。そして――その日から彼女の身体には、奇妙な兆候が現れはじめた。

洗面台の前にぼんやりと立ち尽くし、何気なくシャツの袖をめくったとき、リカは息を呑んだ。左腕の内側に、無数の小さな水疱が並んでいたのだ。それはまるで火傷の痕跡のように膨れあがり、薄い膜の下には透明な水を宿していた。そしてよく見ると、光の角度によっては、その膜の奥で何かがゆっくりと蠢いているようにも見えた。 「……こんなもの、いつから……?」 彼女は震える唇でそう呟き、自らの腕を呆然と見つめるばかりだった。

言葉にできない薄気味悪さと、胸の奥を締めつけるような嫌悪感が、音もなく彼女の背筋を這いのぼった。しかし不思議なことに、そこには痛みも痒みも一切なかった。ただひたすらに、「濡れている」という異質で陰鬱な感覚だけが、彼女の皮膚を覆い尽くしていた――。その忌まわしい感触は、静かに、だが執拗に、リカの体を内側からじわりじわりと浸蝕し始めていた。その日の午後、ICRCの研究員であり、医学にも明るい川島博士が、リカの様子を案じて下宿へと訪れた。

「講座終わってから、ずっと連絡がつかねがったもんだから、ちょっとばかし心配になりましてね。それに、美子さん……女将さんからも、『どうも様子がおかしいようだ』 と聞いたもんだから……」 川島博士の表情には、穏やかさの中にもどこか深い憂慮の色が滲んでいた。

川島博士は穏やかで落ち着いた声音で問診を進めながら、そっとリカの腕へと目を落とした。しかし、その腕に浮かぶ無数の水泡を目にした瞬間――博士の表情がかすかに強張った。「……おがしいなぁ。感染症やらアレルギーやらの類でもねぇべし、熱もねぇし、皮膚の反応もなぁ……どっちかっつうと、“乾いでねぇ”感じがすんのすよ……」 「乾いて……いない……?」 リカは思わずその奇妙な言葉を、まるで何かを確かめるように繰り返した。

「ふつうな、水ぶくれっつうのは、身体ん中の液体が炎症起こして染み出てくるもんなんすよ。んでもなぁ、こいづばっかりは……どう見ても外さの水っこが、身体の内側さ入り込んでるようにしか見えねぇんだ。しかもこれ、海水さ似た成分が混じってるかもしれねぇ……」

川島博士は眉をひそめ、何かを推し量るようにゆっくりと言葉を重ねる。「……医者の立場からしてもなぁ、こいづはちょっと説明つかねぇ現象だな……」 そう呟きながら、博士は神妙な面持ちで試薬を取り出し、慎重な手つきでその奇妙な水泡から液体を採取し始めた。

「ほいじゃ、このさきのことはな、センターさ戻って、いっぺん分析してみるす。

リカさんも念のため、しばらぐは外さ出歩ぐの、控えだほうがいいべな……。

……変な話かもしんねぇけども、これ……“環境がらの侵され”ってやづがもしんねぇんだす」 リカは何も言わず、ただ静かに頷いた。

“環境”――その言葉を聞いた瞬間、彼女の頭の奥底で、かすかなざわめきが生じた。それは間違いなく、あの嵐の夜に目にした、名状しがたい「あれ」と無関係ではないのだろう。彼女の身体に潜り込んだ、この見知らぬ湿り気を帯びた異物の正体は、まだ明らかにはなっていない。だがその正体を、リカ自身はすでにうっすらと察していたのかもしれない――。

ベッドに横たわるリカの耳に、ふたたびあの水音が響いていた。ぽた、ぽた、ぽた──。遠く彼方から聞こえるようでもあり、しかし確かに自分の体内深くから滴り落ちているようでもあった。やがて彼女は、夢の中で深い水底へと沈んでいくのを感じていた。暗く濁った水の底には、微かな手の感触があった――小さな指が、彼女の足首をしっかりと掴んでいる。目の前には、あの夜と同じ少女が佇んでいた。泥にまみれた細い体、濡れて垂れ下がった黒髪、そして闇の中で虚ろに潰れた二つの眼窩。ただ、その蒼ざめた唇だけが、微かに、何かを囁くように動いていた。

その姿を見つめながら、リカは自分の内側から記憶が、ひとつ、またひとつと静かに抜け落ちてゆくのを感じていた。やがて彼女は、哀しみとも安堵ともつかぬ感情を湛えて、かすかに呟いた。「……私、なにかを忘れてしまっているのかな……?」

「見だべ……わだしのごと……」 その声を聞いて、リカは唐突に目を覚ました。心臓がひどく脈打っているのを感じながら、彼女は恐る恐る腕に視線を落とした。すると、腕に浮かぶ水泡は、ひとつ数を増やしていた。

ちょうどその頃、センターに戻った川島博士は、ICRCの古い収蔵庫を整理していた。黴臭い薄闇の中で、湿気に侵され崩れかけた木箱の底から、薄く風化した和紙の束を見つけ出した。「……こいづ、『供物録』ってやづが?」 和紙の表面には、墨痕が朧げに浮かびあがり、かろうじて読み取れる文字が記されていた。博士は眉をひそめ、その奇妙な筆跡を慎重に辿り始めた。

『明治二十七年、水無月十三日――四歳の幼き巫女・なみを、「雨見人」の囁く声に導かれしまま遣わす。その名を忘却させ、永遠に封ずるべく、(のぼり) に名を記し、水底への供物とす。』

川島は眉をひそめ、深い戸惑いをその眼差しに湛えながら、小さく呟いた。     「子どもを供物として捧げる儀式で……『遣わされた』、だど?」 彼の手元には古びた布幟の断片があった。その表面には、小さく掠れ、崩れかけたひらがなで、「な…み」と記されていた。

その夜、下宿で横になっていたリカのもとを訪れた川島は、酒精綿で慎重に包んだその幟 (のぼり)の断片を手に取りながら、自らが見つけた古い伝承について、静かな声で語りはじめた。「このあたりにはな、水神さまへの信仰と『名隠し』という儀式が混ざり合った、たいそう古い風習があったらしいんだ」 「名隠し……ですか?」 リカは、不安に曇った瞳で、その言葉をそっと繰り返した。

「んだ。『雨見人』さ遭ったもんは、“名”を抜かれるっつう言い伝えがあんのすよ。つまりな、自分っていう存在を失くして、水の霊さ呑まれ、同化してしまうってな話なんだ。でも逆に言えば、『名前封じ』 した幟 (のぼり) を供物として捧げれば、水の怒りを鎮められる――古文書さ、そいづがはっきり書いであったんすよ」 「それじゃ、その供物って……」

「おそらぐな、『なみ』っつう名の幼子が、生贄として差し出されたんだべ。しかも、名を忘れさせて永遠に封ずるために、幟 (のぼり) さ名前を書いでな……。こいづはただの信仰なんがじゃねぇ。『契約』 なんすよ、リカさん。この土地と、目には見えねぇ“水”との、逃れられねぇ契約だべな」 川島は低く声を落とし、慎重に言葉を選んで告げた。 「名を抜がれるど、水の霊さ取り込まれでしまう。その運命から逃れる、唯一の手立てがな、自分の名を布幟さ書いて差し出すことなんだと――」

満月を目前に控えた夜、リカは川島博士、そして女将・美子と共に、旧ダム湖のほとりにひっそりと佇む神楽台の跡地へ向かった。朽ちかけた鳥居、苔生した石碑、途中で途切れたままの注連縄──そこには、忘れられた儀式がかつて存在したことを静かに物語る遺物が、月光を浴びて微かな陰影を浮かび上がらせていた。

川島博士は、持参した復元資料を慎重に確認しながら、儀式の準備を始めた。米俵に代わる白米を漆器に丁寧に盛り、「なみ」の名を墨痕鮮やかに記した布幟を、供物として厳かに並べてゆく。女将の美は小さく息を整え、震える声で古の祝詞を唱え始めた。「天水の御声よ――地の底にひそみし御霊よ、忘れられし名を還し、名を封じし布を、いま捧げ奉る……」。

その刹那、吹き抜けていた風が唐突に止み、あたりは耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。やがて、湖面に「雨見人」の影が、幽かな揺らぎを伴って静かに浮かび上がった。水面はまるで時間が凍りついたかのように不自然なほど凪ぎ渡り、しばらくすると、どこからともなくあの水滴の音が響き始めた。ぽた、ぽた、ぽた──

音に呼応するようにして、リカの皮膚に広がっていた無数の水疱はひとつ、またひとつと静かに弾けるようにして消え去っていった。儀式が無事に終わったあと、川島はしばらくの間、言葉を失ったかのように沈黙していた。やがて彼は、ゆっくりと顔を上げると、ひとつの可能性を慎重に、静かな声で口にした。

「……供物、足んねがったんかもしんねぇな……」 川島博士は重々しく呟いた。 「『名』を差し出すっつうのはな、ただ文字さ書いて捧げるだけのことじゃねぇんだべ……。もしかすっと、生きてる人間の『名』、つまり記憶やら存在そのものさ指していたんかもしれねぇのすよ……」

リカの胸の奥で、「なみ」という名がひそかに、囁くように鳴り響いていた。そして彼女は、その時はじめてはっきりと悟った――自分の記憶がまるで何者かにゆっくりと抜き取られるように、静かに失われつつあることを。自分の誕生日、実家の住所、好きだった本の題名――どれも思い出そうとすればするほど、深い霧の中に沈んでゆき、指の隙間から儚くこぼれ落ちてゆく。それはつまり、彼女自身の『名』が、いつしか「雨見人」のもとへと静かに届けられてしまったことを、紛れもなく示していた。

深夜の旧ダム湖――。月も星も姿を隠し、あたり一面が深い闇の底に呑まれ、まるで世界そのものが水底に沈んでしまったかのような、奇妙で重苦しい静寂に包まれていた。かつて供物として水底へ沈められた少女の記憶が、静かにリカの意識の中へと浸潤しはじめ、二つの魂は次第にひとつの悲しみへと溶け合っていった。

湖面は不気味なほどに波ひとつ立てず、ただどこからともなく――ぽた、ぽた、ぽたと、滴り落ちる水音だけが静寂の中を穿つように絶え間なく響いていた。すでにリカは力尽きて地に倒れ伏し、うわごとのように掠れた声で、誰かの名を繰り返し、繰り返し呟き続けていた。

「……なみ……なみ……なみ……わたしの……な……」 リカのか細い声が闇のなかで繰り返される。その呟きは、やがて虚ろな湖面へと吸い込まれていった。 川島博士は静かに膝をつき、震える指先でそっとリカの額に触れ、深く静かな声で語りかけた。「……も、いいんだ、リカさん。もう、これ以上、あんたのこと奪わせたりしねぇからな……」 博士は背負ってきた小さな風呂敷を解き、中から白い布と墨、そして筆を取り出した。その時、ふと視線を湖の対岸へ向けると――そこには、雨に濡れそぼったまま、静かに佇む黒い少女の姿があった。少女の影は無言のまま、ただじっとこちらを見つめている。その姿は、何も語らず、何も求めず、ただひたすらに「待っている」ようであった。川島博士は覚悟を決めたように筆を手に取り、かすかに震える指で、ゆっくりと布幟の中央に自らの名前を書き始めた。――「川島秀一」

墨痕ぼっこんが書き終わった瞬間、風が荒々しく湖面を逆巻き、一瞬にして水面が漆黒に泡立った。しかし博士はひるむことなく、その名の記された布幟を胸に抱きしめ、岩場から身を乗り出し、湖面へとそっと差し出した。 「この名ぁ……わだすの『記憶』ぁ……そっちさ、預けっから。……だからな、あの子の名ぁ、どうか返してやってけろ……!」 川島秀一は、切なる願いを込め、静かに、しかしはっきりとその言葉を唱えたのだった。

その言葉が響き渡ると同時に、静まりかえっていた湖面に、かすかな波紋が広がりはじめた。雨見人の影は、朝靄に溶けるようにして静かに消え去り――その直後、深い水底より無数の蒼ざめた手が現れた。それらは、威嚇(いかく)するでもなく、奪うでもなく、ただ柔らかな仕草で布幟を受け取り、ゆっくりと水のなかへ沈めてゆく。まるで祈りを捧げる者に静かに応えるように。布が完全に水底へと沈んだ瞬間、リカの体を覆っていた水疱が一斉に収縮し、霧散するように跡形もなく消えていった。やがて、リカがゆっくりとまぶたを開いた。かすかな意識の底から浮かび上がった瞳は、虚ろながらも確かに川島を見上げていた。「……川島、さん……?」

博士は、安堵と悲哀を交えた複雑な微笑みを浮かべた。だがその瞳は、徐々に生気を失い、少しずつ焦点を失いはじめていた。――翌日、意識を取り戻したリカは、ICRCへと戻り、川島博士のことを職員たちに話そうとした。だが、誰もが揃って彼を「知らない」と答える。職員名簿を繰り返し確かめ、過去の研究報告や宿の記録をどれほど調べても――『川島秀一』という名前は、まるで初めから存在していなかったかのように、跡形もなく消えていたのだった。

リカは――ただひとり、彼の存在を記憶していた。誰もがその名を忘れても、彼女だけは、彼の記憶を抱き続けていた。水の気配を背中に感じながら、彼女はふたたび海へと向かい、静かに歩き出していた。あの日以来、大槌の海は奇妙なほど静かだった。かつて彼女を悩ませた濁った水音も、夜ごと耳元に滴り落ちていた、あのぽたぽたという音も――すべてが、嘘のように消え去り、海はただ穏やかに凪いでいた。

ある日、リカは研究所の資料室にひとり腰を下ろし、ぼんやりとノートを開いた。そこには、いまや誰も知らぬはずの名前が、鮮明な筆跡で記されていた。『川島秀一』 彼女はその文字を見つめながら、静かに呟いた。「私があなたの名前を覚えている限り、あなたの存在は決して消えない――」 その言葉を口にした瞬間、ふと窓の外に目をやると、波間に一瞬だけ、人の影が浮かび上がった気がした。だがそれは、幻でしかなかったのかもしれない。

リカはゆっくりとペンを取り、ノートの新しいページに、静かな決意を込めて題名を書き記した。『供物と忘却の儀式に関する民俗的・精神生態学的考察』 そして、もう一度そっと心の中で呟いた。(あなたの名は、私がちゃんと覚えているから――)その言葉に応えるかのように、遠く海の方から、ほんのかすかに、優しく穏やかな水音が響いてきたのだった。

終わり













評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ