別け・訳
飛び出した力が失われ落下する刹那、足元に大きな岩が現れる。片足でそれを踏み切り、再び跳躍する。その繰り返しだ。「空道石」、第一書士学校に入って最初に習うことの一つにして、最も重要なタイプライター技術だ。空中に飛び石のように岩を出し、足場とする。時間をかけて、少なくとも実践訓練までには誰もが習得しなければならない。そうでなければ
「死ぬ」
教官の言葉が何ら嘘ではなく、全くの真実だったことを結人は知った。今、空道石を踏み外せば確実に化け字に殺られる。肌感覚でそう分かるのだ。
空中にいる化け字を躱すように左へ進路を採った結人と佐々木は、素早く化け字の脇を通る。ちょうど化け字の向こう側でも鉄平と佐川が通過するところだ。二手に分かれたのは言うまでもなく、化け字が動いた際に全滅を避けるため。強力な化け字とはいえ流石に分裂はできないはずだ。
漸く化け字の真横まで来た。次の空道石を確認した後、どうしても気になって結人は化け字の方へ顔を向けてしまう。一瞬、視界が大きく動き、そして……………化け字と目が合った。
ぎょっとして眼に力が入ったのが分かる。それでも視線の先の両目は、明らかに結人を追って動いていた。
足が次の空道石に着く。踏み切る。次の空道石の位置を確認しなければ、そう分かっているのに化け字から視線が外せない。頭にぼんやりと広がった真っ白な感情のせいだろうか。
不意に視界が何かに覆われ、必然的に化け字は結人の視界から消える。
「結人!!!集中しろ!!前だけ見ろ!」
化け字側へ移動した佐々木の声が、頭の中のずれていた部品の位置を正した。はっと脳は冴えを取り戻す。広がっていた感情は潮のように引いて消えた。
どうにか次の空道石に間に合い、飛び越える。もう化け字の位置は越えただろか。性懲りもなくそんな感情が沸き上がったが、さすがに同じ失敗はできない。雨で濡れた頬を左手で強く叩いて気を紛らわせた。
「見えた!!あれだ!!」
普段冷静な鉄平らしくない感情を孕んだ声に、結人も視線を向ける。
どこだ?
「あのでっかい屋敷のところだ」
佐々木が指を指して、付け加える。言われたところに目を動かす。
「あ!あの緑と灰色の!」
「そう。あれが輸送車群だ。「ツミ」の車体が濃い緑、屋根が灰色になっているのはどんな書内での活動時でも遠くから発見できるようにするためだ。覚えとけよ」
佐々木もいつもよりずっと饒舌で、心なしか表情も緩い。
結局、あの後化け字は追撃してこなかった。結人と佐々木は鉄平に佐川、そして目黒と合流し輸送車群へと向かっていたのだった。
なぜ化け字が攻撃しなかったのか。これは誰にも分からなかった。
頭数の少ない君垣や木曽の方を狙ったのか、それとも元々あの化け字はこれ以上人間を襲うつもりがなかったのか。はたまた密かに追跡し、一気に書士の殲滅を図るつもりなのか。
いずれにしても気を抜くことはできず、佐々木と結人・鉄平と佐川の二双、後方に目黒という陣形は維持されていた。
「おーーーーい!!!!!」
徐々に視界の中で輸送車群が大きくなる中、前方から大声が響いた。化け字のものではない、人間の声。見れば、数人の書士がこっちに向かってきている。少しずつ姿が鮮明になる……………………あれは波島班だ。
「皆さん、ご無事で何よりです」
合流すると開口一番、男がそう言った。がすぐに顔を曇らせ、
「しかし多くの方が亡くなったと……………………
「ああ、だが嘆くのは後しよう。とにかく輸送車へ向かいながら話しましょう」
目黒は男と並んで進む。後に目黒班と波島班の数人の書士が続いた。
「波島班長は?」
「万が一に備えて、ツミで待機中です。ここに来たのは副班長の私、崎長英書士と三洋書士、水戸書士のみです」
「なるほど、賢明な判断です」
先を促すように目黒は相槌だけに留める。
「現在、波島班は残りの波島銀班長、山形有書士、加藤俊候補生で輸送車群周辺を警備中です。各車の運転を担う普通科連隊員、波島班はともに死傷者ありません。また書内橋頭保では宮島書士が第二戦闘団、普通科連隊からなる救援部隊を準備していますが、出動は特殊戦闘団の到着を待って、になるとのことです」
まるで原稿を読むかのよう淀みなく、崎長は報告を終えた。
「特戦団の到着はどれくらいになる」
「不明です」
「おいおい、そんなの待ってられないぞ」
目黒の声には焦燥が滲む
「何人も書士が死んでいる。俺たちだっていつ襲われてもおかしくないんだ。特戦団の到着を待たずに第二戦闘団に来てもらわないとまずい」
彼の冷静さに見え隠れする焦りを崎長も感じたようだ。はい、と間を置き
「波島書士もそう考えているようで、司令部や宮島書士と交渉中です」
「特戦団の出動ってことは司令部は、東北統合指令部に移行しているのか?」
「はい、担当司令官は仙台管区の嵯峨芳樹司令官から東北統合指令部の小川絹江次席統合司令官に移行しています」
「よし、交渉も小川司令としているのか?」
「ええっと、いいえ。交渉の担当は嵯峨芳樹司令官だとかで……………………」
くっそ。吐き捨てられた声に振り返ると、佐々木も鉄平も苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「等級が「青」の書内に書内戦闘団だけで展開するように言ったのは嵯峨司令官だろう。よくもまあ、のうのうと交渉役なんてできたもんだな」
目黒も怒りを隠さない。だが結人にはどういうことかが分からなかった。
「佐々木さん、どういう…
「あぁ、言ってなかったな。今回の化け字の等級は「青」だっだろう?規定通りなら、当然等級が「青」以上の化け字には特殊戦闘団の出動って運びになる。実際今回も展開前に特戦団の出動を要請している。だが、あの嵯峨って司令官がそれを却下したんだよ。全く意味が分からんがな。それで抗議した早苗、というか宮島書士に服務規程違反を突きつけやがった。だからしょうがなく、俺たちは書内に展開したってわけだ。」
苛立ちで佐々木の語尾は荒い。が吐き出して幾分か落ち着いたのか
「それで候補生だけは書外待機にしようとしたんだがな、それも却下された。こんなことになる前にもっと強く抗議すべきだったな。すまんな結人」
声の調子を落として佐々木は、視線を落とした。
もう輸送車は目の前だった。