進退艱難
どこからか詰まるような呻き声が聞こえた。瓦を打つ雨の音と混じったそれは、傍らで絶句する木曽のものだったのかもしれない。新たに現れた三人目の化け字の手に握られたそれは、先刻まで人間であった彼の部下のものであったのだから。小暮に尾佐。木曽の命を受け通信をすべく動いた二人の書士はそこでこの化け字に遭遇し殺されたのだろう。
人間のような形でありながら、その大きさは数倍。頭部もおよそ人間のものではないその化け字は空中に浮きながら、結人たちを凝視していた。
隙だらけに見える。タイプライターで近付いて、刀を振るうだけの隙があるように。理性が飛び出せと促し、呼応するように指に力が入る。
だが本能がそれを強く静止していた。奴は結人よりも強く経験に富んだ書士を同時に二人殺したのだ、乗せられるな。恐怖に埋もれた理性に、本能が強く警告していた。
「それで、どうするんだ?人間」
先に沈黙を破ったのは化け字の方だった。脳が動かないかのように、先刻と同じ言葉を繰り返す。やはり気味の悪い声だった。
「才、佐々木……いけるか?」
結人の横、囁くような木曽の声。身動ぎせずにこの声量、化け字はこちらが話していることにも気づかないだろう。
「はい」
才が静かに応える。佐々木は答えない。音が大きくなることを危惧したのだろう。
「才は目黒と鉄平を援護。佐々木はここで候補生を守れ。目の前のあいつは俺だ。目黒たちが合流しだい、撤退だ」
「大石たちは……?」
「……………諦める」
簡潔にそれだけ言った木曽に、才の声が僅かに怒気を孕む
「見捨てろって言うんですか」
「見ただろう。大石も鈴木も真っ二つにされた。もう助からない」
「でも、遺品ぐらい……」
「才、冷静になれ。青相当の化け字に俺たちは前後をとられている。下手すりゃ……いやこのままじゃ確実に全滅だ。遺品を回収している暇なんてない」
木曽は冷静だ。全く正しい。才もそのことは分かっているのだ。だが正しさが彼女の強い不満を和らげることは無いのだと、木曽もおそらく分かっている。
「分かってくれ、才」
吐き捨てるように木曽はそう付け加えた。
「始めましょう」
頃合いを見計らったかのように佐々木が口を挟む
「俺は準備できてます」
「よし…………才は?」
「………………できています」
「了解。目標は生存者全員での即時撤退だ、誰も死ぬなよ……………………………よし、始めよう」
その声が終わらぬうちに才が脱兎のごとく飛び出す。もう彼女は何も言わなかった。
才が屋根から離れていくのを、そして結人らが軍刀を引き抜くのを眼前の化け字はただ静観していた。
「あいつは本当に化け字なのか…」
慎重に結人と佐川の前へと立ち位置を変えながら木曽がつぶやく。他の化け字のように獣のような襲い方をするわけでもなく、戦略的に動くわけでもなさそうなあの化け字は、確かに違和感の塊だった。
「あっ!」
佐川の声に振り返ると、才が素早く化け字に切りかかったところだった。宙返りするかのように切り込み、そのまま化け字を蹴り上げ一気に離脱する。洗練された一打即撤だ。その間隙を突いて目黒と鉄平は屋根の方へ向かい、彼女もタイプライターを起動して続く。これで撤退できる、そう思った刹那。目線の先にいた才の身体が大きく引かれ、消えた。
ダァーーン!!!!!
強い破壊音。音を追うように顔を向けると、そこには壁に背中を打ち付けられた際の姿があった。彼女は……足を化け字に捕まれ、投げ飛ばされたのだ。衝撃で家の壁は激しく損傷し、ささくれ立った木材が露わになっている。
「くっそ!」
屋根に着き、状況を確認した鉄平が怒鳴る。普段物静かな男がそう吐き捨てるほどに、状況は最悪だった。彼女にはまだ息がある。だが右足はあらぬ方向を向いているし、遠目にも分かるほどに出血もある。
なにより彼女を救うには広場の反対側まで行き、化け字を退け、さらに手負いの人間を連れて化け字二匹の追撃を躱さなければならない。そんなことは
「不可能だ」
誰かの小さな呟きの通りだった。既に五人の書士が死んでいる。今ここから離脱を図っても全員逃げ切られる保証はないのだ。重傷者を抱えていれば尚更、危険が増すのは言うまでもない。
だが……
「目黒、お前は班員を連れて離脱してくれ」
空中の化け字の監視を佐々木に任せ、木曽は目黒へ歩み寄る。
「才は木曽班最後の班員だ。見捨てられん」
絞り出すように木曽は続ける。
「だがあいつを助けに行けば、撤退の成功率は著しく下がる。お前らや候補生たちを死地に引きずり込むことはできない。危険は俺一人で十分だ」
厳しい顔つきを崩さず、目黒は木曽を見据える。それから周囲を、いや結人と佐川に目をやって、しばし逡巡する。
候補生を守り、才を救う。これを両立した策はおそらくない。理由は単純だ。候補生の二人を頭数に入れられないから、それに尽きる。実際この先戦闘になっても結人や佐川は役立たないだろう。おそらく軍刀を振るう間もなく殺される。足りないのだ実力も経験も。そしてこの状況で自分はただの足手まといなのだと痛感する。先輩にとって庇護の対象であり、足枷。その事実が悔しく、歯が音を立てた。
その間にも化け字は再び才へと近づいていた。時間はもうない。決めたのだろう、木曽が幸運の持ち主であることに賭けることを。目黒は一度息を吐いて、口を開く。だが
「私が、木曽さんと一緒に行くよ」
聞えた声は目黒のそれよりもずっとのんびりとしたものだった。
「君垣……」
「私と木曽さんで、才ちゃんのところへ行きます。目黒さんたちは離脱を」
これまでどこにいたのか。だがまるですべてを聞いていたかのようだ。
「無線通信はもう入れたから各部隊が応援に動いています。波島班は輸送車群とともにこちらの方へ向かっていますし、書内橋頭保では第二戦闘団が緊急出動の準備に入っています。特戦団にも出動要請を掛けましたから、じきに到着するはずです。」
「つまりこの急場さえ凌げば
「応援と合流できるはずです」
「なるほど」
目黒は再び考える素振りを見せたが、今度は時間を必要とはしなかった。
「よし、君垣の作戦を採用しよう。君垣以外の目黒班は候補生を輸送車群まで運ぶ。佐々木は金沢、鉄平が佐川を守れ。化け字の相手は俺がする。木曽さんと君垣は才書士の救出に当たってください。輸送車群は目黒班が合流しだい、外界との入り口、書門や書内橋頭堡の方へ向かわせます。その後必要であれば、俺たちが木曽さんたちの応援に戻ります。君垣、連絡は波島班の方に入れてくれ。」
「了解」
「各員、目標はあくまで撤退です。無駄な攻撃や追撃は避けてください」
一度言葉を切り、化け字に目をやって、目黒は視線を戻す。
「死地を超えましょうか」
冗談のように小さく笑う。そんな目黒を見たのは初めてだ。
「金沢、佐川。軍刀を鞘に戻して、タイプライターの操作だけに集中しろ。攻撃は俺たちが払う」
佐々木の言葉に従い、刀を戻す。不安がじわっと広がったが、軍刀を握ったとてあの化け字には敵わないのだからと誤魔化す。
右手をタイプライターまで下ろし、これで準備よし。それを確認したのだろう、佐々木が目黒に頷く。
小さく頷き返した目黒は、左手でタイプライターを小さくいじった。だが特に何も起きない。どういう……
「君垣、一言」
真面目な顔のまま目黒は言う。うーんと少し考えて
「帰ったらみんなでひょうたん揚げを食べにいこう!!」
は?と思わず口に出したくなるような、滅茶苦茶な内容。だが
「そうしようか」
木曽が小さく笑いながら返し、その直後
バッバババババッ!!!
雨を裂くように周囲で爆発音が満ちる。
「行くぞ!」
佐々木に引かれるように、結人はタイプライターを起動し屋根から跳躍した。