穀雨(後)
あと三十秒。書内への出動前に合わせた時計に狂いはないはずだ。壁に背を付け、息を殺しながらその時をじっと待つ。結人たちは目黒の指示を受け、化け字の方向へさらに接近していた。敵との戦闘に備えて佐々木も結人も利き手を柄にかけている。張り詰めた緊張が、空気を尖らせていた。
ただ一人、君垣だけ手ぶらのまま壁に寄りかかっている。結局、結人は君垣が武器を捨てた理由を聞けていない。今は自分のことで精一杯だ。
「最初に攻撃に入るのは目黒さんたちの双だ。彼らが西側の屋根から攻撃を仕掛け次第、俺と結人は地上から展開し好機を探る。結人離れるなよ」
「はい」
「君垣さんはさっき目黒さんから受けた指示通りに」
「うん、了解」
佐々木との最終確認を経て、残りは十秒。………五、四、三、二、、、、、、、
シュッと鋭い音が響く。角から慎重に顔を出して覗くと、鉄平が屋根から飛び降り、化け字へ切りかかるところだった。
その気配に気づいたのか化け字は振り返る。四足歩行と二足歩行の中間のような、ちょうど熊が両足で立ち上がった時のような格好で鉄平の攻撃を受け流す。化け字が反撃に入る前に鉄平は一度距離をとる。わずかな距離を取って鉄平と化け字が対峙する。
今度は先に動いたのは化け字の方だった。四足で突進するように鉄平の方へと駆ける。戦うというよりも、轢こうとするかのようだ。だが両者が触れる直前、鉄平は軍刀を振るって力をいなした。
化け字が振り返ると、そこには無傷のままの書士がいる。
「グッワァアアアアアア」
化け字はいきり立って吠えるが、それこそ鉄平の思うつぼだ。敵の動きをいなし、長期戦を得意とする鉄平仁にとってこの化け字は最も得意とする相手だし、なにより冷静さを欠いた敵はますます彼の術中に嵌る。
もっとも化け字はそんなことには気付いていない。再び立ち上がると、両手を振り上げ攻撃せんとする。だが鉄平は動じることなく、それを弾き、隙のできた胴に一撃をお見舞いした。腹から青色の血が一線に吹き出し地面を染める。たまらず化け字は二歩三歩と後退した………その直後、化け字はつんのめって前に大きく倒れた。
化け字の後ろから目黒が切りかかったのだ。挟撃されたことに気付いた化け字は、慌てて両者から距離を取ろうと、広場を北側へ駆ける。そこに結人たちが隠れているとも知らずに。
「準備しろ、俺が正面。結人は上がって後ろを突け」
佐々木の声を受け、結人はタイプライターを起動する。必要な情報を打ち込み、後は確定をするだけにしておく。その間も化け字は走りながら近づいてくるが、まだこっちには気付いていないようだ。
「行くぞ」
声と同時に二人は化け字の進路上へ飛び出す。突然の登場に化け字は一瞬、怯むかのように見えたが、それでも速度は緩めない。二人を丸ごと弾こうとでもいうのだろう。舐めんなよ。
先に走り出した佐々木の真後ろを結人も追う。どんどん化け字の姿は大きくなる。佐々木が刀を……抜いた!!
結人はタイプライターの最後の盤キーを打ち込み、同時に右足で踏み切る。すぐに目の前に黒い段状の構造物が現れ、結人はそれを二段ほど踏みあがり虚空へ身体を投げた。空中で身体を捻りながら刀を引き抜く結人の下を、化け字が通り過ぎる。その腹に佐々木が一線打ち込む。背中は……がら空き!!
力を籠め、一気に軍刀を振り下ろす。鋭く引き裂く音、そして化け字はうつ伏せに、大の字に倒れる。やった……か?
「結人、離れろ!!」
佐々木の声にはっとして結人は再びタイプライターを起動する。足が接地する直前に結人は再び、足場を創り距離をとった。「空道石くうどうせき」、タイプライターで空中に足場を創り出す、書士の基礎的な技術だ。
近くの屋根に降りた結人が振り返ると、倒したかに見えた化け字はゆっくりと立ち上がっていた。これが……青。何度も攻撃を喰らいながらまだ耐えるのか。と、佐々木が屋根まで来て結人と合流してきた。
「いい動きだった、よくやった」
刀を鞘に戻しながら佐々木は結人にそう告げる。褒められるのはうれしいが、化け字はまだ生きている。
「次はどうするんですか?」
一斉攻撃か、はたまた誰かが引き付けて隙をつくるのか。いずれにしても佐々木の指示を聞かなくては動けない。だが
「ひとまず待機だ。今のところ化け字は俺たちの策略に完全に嵌っている。俺たちが何をするかは、次の一手しだいだ」
「次の一手?」
「あそこ……さっきまで俺たちがいた辺り、しっかり見とけよ」
何とか起き上がった化け字は、のろのろと動き出す。だがその正面にまたも人影が現れた。
「君垣………さん?」
見れば、それは丸腰のままの君垣だった。嘘だろ、死ぬぞ。慌てて結人は飛び出そうとしたが、佐々木に手で静止させられる。
「まあ、見てろ」
君垣は化け字の方へと歩き出す。化け字も相手が丸腰だと気付いたのだろう、性懲りもなく突進する。
だが君垣がそれに動じる様子はない。平然と、そうまるで歩道を歩いているかのように進みながら、腰に両手を下ろす。
カチっと金属の音が響いた。そして……ベルトから太ももの方へと、布が垂れ幕のように広がった。ちょうど巻物が広がるように、腰の両側から垂れたそれは、勝手に足に固定され、再度金具の音が鳴る。そしてその巻物の中には……何か細長いものが無数に……
化け字が彼女との距離、五米メートルほどに迫った刹那。彼女は両手を交差し、それぞれその細い何かに手を添えると、そのまま勢いよく引き抜いた。
シュッと細い音がなって、それからズッドーンと衝撃が周囲を包んだ。気付けば化け字の姿は君垣の前には無く、広場の反対側の家にめり込んでいる。起き上がれないままの化け字の方へ、君垣はゆっくりと歩いていく。
「あれって……
「そう、あれが君垣さんの筆具だ」
聞いたことがある。大半の書士の筆具は万年筆。だが稀に全く違う筆具を使う書士がいると。彼女はその一人
「君垣さんの筆具は鉛筆だ。筆具が万年筆ではない書士、いわゆる特筆使い」
「だからあんなに
「強いのは何もあの人が特筆使いだからじゃない。あの人は単純に強いんだ」
動けないままの化け字に歩みよった君垣は両手を腰に下ろした。再び突き出された手にはさっきとは違う鉛筆が握られている。
そのまま左手を突くように伸ばす。触手のような、鞭のような細長い黒色の線が伸び、化け字を縛る。間髪入れずに一気に引き寄せ、化け字を壁から抜くと、次は右手の鉛筆を振り下ろす。黒色の痕が一線、化け字に残り、遅れて化け字を切った。
青い血がまたも噴き出し、そうして化け字は今度こそ完全に動きを止めた。
君垣は鉛筆を腰の布へと戻し、ベルトの無線機を代わりに取った。
「君垣から目黒・木曽班宛て。任務完了」
動かなくなった化け字を染める青い血を薄めるかのように、雨が降り出していた。