生贄の公子
生贄の公子
優しげな顔立ちをした青年が、城内の涼しい回廊から庭を見下ろしていた。名前はシャナ・レーン、もうすぐ二十歳で、母譲りの白金の髪に水色の目をしている。
「兄上! 」
もう一人、青年が駈け寄ってきて、シャナが振り返る。
「キアン」
「兄上、傭兵たちの選抜が終わりました。お声を掛けてやって下さい」
シャナとは一つ違いの弟は、勇ましい戦拵えだった。金茶の髪に日に焼けた肌、背も兄より少しばかり高い。父大公にそっくりで、兄とはあまり似ていなかった。
シャナは弟にうながされるまま、前庭に下りた。白の長衣に刺繍縁の銀の帯、青い上着に月長石の額飾りを飾ったシャナと、麻の生成りの短い中衣に上着は無し、皮の胸当て、ベルトに長剣を下げたキアンとは、まるで似たところが無かった。
「兄上の護衛隊です。どうかお言葉を」
シャナは埃っぽい庭に跪く、十人ばかりの屈強な男たちを見た。みな一様に薄汚れ、微かに汗と血の匂いがしている。つい先前まで打合いでもしていたのだろう。彼らは一月後、二十歳の誕生日に合わせてイツ谷へ赴くシャナを、警護するために集められたのだった。
「ジン、兄上に顔を」
呼びかけられ、最前に控えていた男が顔を上げた。黒髪を短く刈りこんで、麻の短い中衣に皮の篭手、ズボン覆いをつけている。年は三十前後だろう。男が黙っているので、シャナは手を取って彼を立ち上がらせた。
「シャナ・レーンです。短い間ですが、どうぞよろしく」
「兄上」
キアンの声に険が差したが、シャナには何が弟の気に障ったのか判らなかった。戸惑ううちに、ジンが尋常に挨拶を返す。
「公子のお供を申し遣りました、責任者のジンと申します。イツ谷までは、私がお守り致します。どうぞ心安んじられますよう」
低い声でゆっくりとした調子、頼り甲斐がありそうだ。
「ありがとう」
シャナは頷いた。
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シタン領のシャナ・レーンは、生まれたときからイツ谷の魔物の生贄になることが決まっていた。シャナが六つになった夏のこと、谷に魔物が降臨したのだ。
その瘴気は瞬く間に緑豊かな谷間を枯らし、水を腐らせた。シャナの父であるシタンの大公は、直ちに召喚士を派遣したが、彼に出来る事は何も無く、魔物がシャナを望んでいることを大公に伝えるに留まった。
「ある方との契約によって、公子を戴きに参ったと申しております」
召喚士は告げた。
「公子の生まれる前からの契約で、公子が二十歳になるのを待って、連れていくと」
密約を交わしたのは大公妃たる彼の母親であると、まことしやかな噂が流れたが、彼女はシャナを産んだ翌年、年子の次男キアンの産褥に亡くなっており、確かめるすべも無かった。
大公はありとあらゆる手を尽くしたが、結局魔物はイツ谷に居座りつづけた。やがて大公を含め領民たちも諦めて、長子を死人として扱うようになった。シャナは廃嫡され、弟のキアンが次期大公としての教育を受け始めた。
一方、大公であるシャナの父は、父の情として、幼くして運命を定められた長子を不憫がり、甘やかす一方だった。どうせ二十歳までの命だ、花よ蝶よと育ててなんの不都合があろう?
しかし、大公の弟はそれを危ぶんだ。大公家に生まれながら、政治的混乱を避ける為に世俗的な野心を持たず、表舞台から身を引いていた彼は、甥に自らも知る錬金術を手ほどきした。シャナは錬金術に打ちこむ叔父自身の生き方から、恨みや嘆きから身を遠ざけておくことを学んだ。
錬金術師としても、すぐに師である叔父を超え、各地の賢者たちと書簡を往復するまでになったが、周囲には、それも空しい徒花だと捉えられていた。芽吹き始めた知識の若木も、大樹となる前に摘まれて朽ちる運命だと、諦められていたからだ。長ずるにつれ、亡き母譲りの美貌がますます輝くばかりとなったが、それも、父大公の悲しみを煽るばかりだった。
イツ谷までは人の足で1週間程の道のりだ。瘴気を吐き散らす魔物を城市へ寄せ付けないためにも、シャナは早目に出発し、自ら魔物のもとへ赴く予定だった。シャナの二十歳の誕生日は、あと一月のところまで迫ってきていた。
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2
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シャナの実験は酷い匂いを伴う事が多いので、城の中の私室とは別に、小さな離れを貰ってアトリエとして使っている。中央に置かれている大きな机の上にはフラスコや蒸留器、乳鉢や様々な壜、薬品、本が積み上げられている。錬金術の実験も、大掛かりなものとなると何日にも、時には数ヶ月にも渡って側から離れられないこともあるので、泊まりこむことも少なくなかった。その日も、シャナは薬を練りながら、冷えた夕食を取っていた。
薬はシャナが常用しているものだが、少し前まで服むたびに感じていた吐き気にも、最近ではすっかり慣れてしまった。また少し処方を変えてもいい頃合かもしれない、と上の空で考える。
「酷い匂いだ」
突然、声をかけられ、シャナは驚いて顔をあげた。開け放しの戸口に、昼間の傭兵が立っていた。彼は、シャナの姿を見とめ、はっとした。シャナとは知らずに揶揄の声をかけてしまったようだった。
「ああ…失礼致しました。公子がおいでとは」
すぐさま部屋を出ていこうとする。
「待って」
シャナは慌てて引きとめる。
「何か」
「どうぞ、そこに掛けて。確か、ジンと。ワインは? 」
シャナはジンの返事を待たずに杯を取り出すと、陶製の水差しに入った葡萄酒を注いだ。ジンは辞退しようとしたが、それも礼を失すると考え直し、大人しく杯を受けとって口にする。シャナの為に用意されたそれは、傭兵風情の口には中々入らない上等のものだ。口には出さないが面に喜びが広がった。それをシャナは嬉しく思う。
「もう一杯? 」
薦めたが、ジンは今度は断った。
「いいえ、有難う御座いました、素晴らしい酒を。しかしこれで失礼致します。偶々、通り掛かって、何の匂いかと思ったものですから。お邪魔致しまして申し訳御座いません」
「御気遣いなく。ただ、私の薬を練っていただけですから。毎晩飲んでいるものなのです」
「これが薬の匂いですって。こんな酷い匂いがするのものが薬? 」
鼻に皺を寄せるジンを、シャナはおかしそうに見遣った。
「錬金の秘薬です。慣れないと胸が悪くなるかもしれません。火を止めましょうか」
「いいえ、そこまでのお心遣いには及びません」
「では、出来あがるまでもう少し、ここに座って話し相手になって下さい。もう一杯だけ。どうぞ私の為に」
シャナが重ねて勧め、今度はジンも受け取った。
「ジン、もしよければ、明日、付き合ってもらえませんか。城下に買い物に出たいので」
「公子御自ら城下に? 遣いをやるのではすまない用ですか」
「いつもはそうしているんですが、昨日、いつも遣いをしてくれていた乳母やを里に返したので、どこで何を買えばいいのか心得ているものがいないのです。特殊な薬品や器具ばかりなので」
シャナの言葉に、ジンが怪しむように小首を傾げる。
「乳母を里に? よりによって、何故、今。これからの一月、いつにも増して手助けが必要でしょう、旅に出るのに」
「あ、あの、あと一月だからこそ」
険しい表情のジンに、シャナは言い訳がましく説明する。
「先だってから彼女が、その、私を惜しんでくれるもので、少し、不安定になっていて。つまり、事ある毎に泣き出したり繰言を言ったりするもので、キアンが――弟が癇癪を起こして里下がりを命じたのです。使い物にならないし辛気臭いと」
「ははあ、そりゃ、癇癪も起こしたくなるでしょうね」
ジンは心得て相槌を打った。
「弟君は、貴方を諦めてなどいない、まだ救うつもりでいます。それをもう亡い人のようにめそめそ泣かれたのでは苛立ちもするというものでしょう」
「それはどう言う意味です」
シャナが問うのに、ジンは意外そうだ。
「私たちが、何の為に雇われたとお思いです、本当に、単に道中の安全を確保するためだけだと? 子供の遠足みたいに安全な道を? まさか。十人からの召喚士、呪禁士に魔法剣士を揃えて。彼は貴方を諦めていない、貴方を救うつもりでいるんです。そうと口には出さないが。昼間の事を覚えているでしょう。短い間だがよろしく、と言った貴方を見た彼を。あなたがもう諦め、受け入れているのを正しいことだとは思っていないのです」
「馬鹿な」
ジンの言葉を、シャナは激しく切り捨てた。
「馬鹿なことを。そんなことをして、魔物の逆鱗に触れたらどうするつもりなのだろう、かれが、私以上のものを求めたら? イツ谷から災厄を解き放つような破目に陥ったら元も子も無いというのに。人の身で、あれほどの魔力に対抗するすべなどありはしない、ただ、契約を果たし、新たな災厄を呼び込まぬようにするしかないのです」
「では、あなたが弟御にそう仰るべきです」
困惑したようなジンの口調に、シャナは我に返った様だったが、今度は爪を噛み始めた。そしてついに言った。
「ジン」
「はい」
「あなたに、これを」
シャナは自らの額飾りををむしりとり、ジンの目の前にかざした。それは月長石と真珠を交互に編んで、白金で繋いだ華麗なもので、シャナの母の形見でもあったが、そんなことは差し引いても、十分魅力的な宝石の塊だった。
「私の自由になる全財産です。これを差し上げますから、私のために雇われて欲しいのです。キアンでなく、私に」
「困ります」
ジンは断ろうとした。しかし、シャナは許さなかった。ジンの手を取って華奢な額飾りを押しつけた。
「これを取ってください、私の為に! 弟に愚かな真似をさせるわけにはいかない、あれはこの都の後継ぎなのです。私は明日発ちます、イツ谷に。城下へ買い物にいくふりをして」
「いけません」
「あなたが断っても、私は行きます、一人ででも。けれど私は必ずイツ谷に、無事に着かなければならない、助けが必要なのです。シタンの土、シタンの民草全てがかかっている。あなたは、イツ谷に足を踏み入れる必要も無い。私の叔父の館まででいいのです。そこまで送ってくれさえしたら、これは貴方のもの。どうか」
鼻が触れ合わんばかりに顔を近づけられると、公子からは甘い香りがした。
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3
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翌日、二人は城下の雑踏の中にいた。シャナはジンの引く驢馬に跨っている。ジンは身軽な旅拵え、シャナも粗末な生成りの短衣に袴、皮のサンダルで、せいぜい商家のお坊ちゃんという装いだった。人目を引く美しい髪も、布で覆って隠している。
シャナは自分を公子とは呼ぶな、とジンに言った。できれば、もっと砕けた口調で話しかけて欲しいと。
「これから先、街道を行くのなら、そんな呼び方をされては人目を引くでしょう、そんなふうに畏まった態度も取らないで、私のことは名前で呼んで下さい。もっと別の何か――身内にでも話すように。私もそのほうが寛げるし。そんなふうに呼ばれると、私もいちいち緊張してしまう」
「しかし公子を、名前で呼ぶものなどいたことはないでしょう。御一族の他には」
「弟と違って、私は、あまり家族以外のものとは口を聞いたことも無いのです。だから私の為と思ってそうしてください」
「ああ、判った、シャナ。それはあなたのたらし文句なんだな」
「それ? 」
いきなりぞんざいになったジンの言葉使いに、さすがにとまどってシャナは聞き返す。
「私の為にそうしてくださいというやつ。決まり文句ではあるが、それで断られたことなんかないんだろう」
「そんなことは。父や弟は、あなたほどには甘やかしてくれない」
シャナは笑った。あと一月の命だと、諦めている人間とはとても覗わせない明るい声だった。
イツ谷まではゆっくり街道を行って七日ほどの旅だ。追っ手がかかるのではないか、とジンは案じたが、シャナはその心配はしていないようだった。
「私が先に発ったのが判れば、弟も諦めるでしょう。キアンが納得しなくても、父が引きとめてくれる筈。手紙を残してきましたから、私の気持ちはわかってくれることと思います」
「貴方の弟は、シタンを焦土と化しても貴方を諦めそうにはなかったが」
シャナは苦笑を漏らした。
「まさか。シタンがそれほど愚かな領主を戴くならば、むしろ滅びの道も運命というもの」
ジンには、シャナが楽観的すぎるようにしか思えなかったが、何も言わなかった。追っ手がかかればジンは公子の誘拐犯だ。しかし報酬は十分だったし、シャナの計画がご破算になったとしても、取り返される恐れもなかった。ジンはシャナから受け取った額飾りを質に入れ、驢馬を買い、食料を買い、道々の宿の払いに当てたが、額飾りの代価はそれらを補って余りあった。それが、ジンの取り分となった。
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若い公子は美しく、静かだった。それは市の雑踏や、宿屋の食堂の喧騒とは異質なものだったが、同時に至極人を引きつけた。ジンは、隙あらば彼にちょっかいをかけようとする男たちを追い払うのに苦労しなければならなかった。シャナは、男たちに対して無防備だった。
宿屋の下にある食堂で、ジンがちょっと目を離した隙に、素早くシャナの隣りに座りこんだ商人風の男がいた。彼は陽気にシャナに話しかけ、屈みこみ、何事か囁いたが、シャナは嫌がる素振りも見せなかった。微笑み、頭の後ろを掴まれて、従順に顔を寄せたが、そこで戻ってきたジンがその男を追い払った。どうして拒まないのか、せめて助けを呼ばないのかと咎めるジンに、シャナは微笑し、そんなにむきにならないでも、誰もそう極端なことはできないと答えた。それは単に世間知らずなだけにも思えたが、何か秘密を持っているようでもあった。
シャナの言うとおり、追っ手らしいものはかかっていないようだった。体力の無いシャナに合わせてゆっくりとした旅路になった。城市を出て、街道伝いに宿場町を辿りながら進む間、シャナは自分の生い立ちや、錬金術のことなどを、問わずがたりに語らった。
「では、あんたは母親を恨んではいないのか。あんたを魔物に売ったという母親のことを。本来相続する筈だった、財産や大公位に未練は」
ジンが訊ねる。
「さあ……私がまだ赤ん坊の頃に亡くなってしまったひとだから。本当に、母が私を契約の生贄に捧げたとも確信してはいないし。それに、廃嫡されて全てが悪く転んだわけでもない。お陰で錬金術を学ぶことが出来たから。母はいなかったけれど、叔父上が私を随分心配してくれて――感謝している」
「その叔父さんっていうのは、どんな人なんだ? 」
「叔父は――私の先生だ。錬金術の。優秀な錬金術師だし、召喚師として、魔法陣も引く。私と同じく、その資質にはあまり恵まれなかったけれど。これから訪ねるイツ谷に庵を結んでいるのも、魔物の瘴気が広がるのを防ぐためだ。ここ数年は、もうずっとあそこにいるけども、私が幼い頃にはちょくちょく城まで来てくれて、母の生前の話しなんかをしてくれた。父は忙しい人だったから、ずっと親代わりに、つききりで面倒みてくれて、とても可愛がってくれたよ。父は私を不憫がって甘やかすばかりだったけれど、叔父には厳しく躾られもしたしね。とてもありがたいことだったと、今にして思う。叔父は私の人生の師だ。私は、彼のおかげで人生に目的を見出せたし、自分の運命をやみくもに恨んだり、憎んだりすることなく、絶望することもなしにやってこられたんだと思う」
「ちょくちょく城に来てたって言ったな。それで、今は谷に住んでるって? 一人で? 」
「そう、一人。結婚は、結局しなかったから。何度か話はあったけれど。叔父は…母が好きだったんじゃないかと思う」
シャナは、はにかみに似た表情を浮かべた。
「彼が母のことを話すのを聞いて、そんな気がしていた。話し方とか、声の調子とか。わかるだろう? 母は、少女の頃から父と結婚するまで、ずっと神殿にいたのだけれども、その送り迎えをしたのも叔父だった。キアンが今回、私のためにしてくれたように、護衛隊を組んで。父には公務があったから。父と叔父、母は幼馴染だったらしいし、乳母やに、そんなことを言われたこともあるんだ。叔父が、私を自分の子のように可愛がるのは、昔愛したひとの子だからだって」
「嘆きすぎて追い出されたという乳母か」
「そう、その乳母や…」
シャナは微笑んだ。
「とても良くしてくれた。本当は私も、乳母やは早目に里に返すつもりでいたんだ、キアンがあんなふうにしなくても。彼女は谷まで付いて来るつもりでいたみたいだけど、そんなに差し迫った別れ方をしたら、余計に辛いだろう? ただもっと良くお礼をしてから発ちたかったんだけれど……仕方ないね」
ジンがそれに答えて何か言おうとしたちょうどそのとき、前方がひらけ小さな館が目に入った。
「叔父上の庵だ」
シャナは嬉しそうに言ったが、その脇に立つ人物を見て身を強張らせた。
キアンだった。
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4
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世捨て人の食卓は、小さく質素だった。
椅子は二つしかなかったから、寝室と書斎から一つづつを持って下りなければならなかった。館には人手が全く無く、さほど広くも無い館の、殆どの部屋は閉めきられて埃を被っていた。時たま町から食料品を届けに人が通ってくるのだというが、叔父が普段どんな生活をしているのか覗わせるものは殆ど無かった。つまり、そのこと自体が普段の生活を説明していた。
大公の弟は、たった一人でこの屋敷に住まい、結界を張り、魔物の瘴気による汚染を防いでいるのだ。しかし、それもあと数日のことだった。シャナを手に入れれば、魔物は居るべき場所へ帰り、谷はもとの清浄さを取り戻すだろう。それを期待するしかない。
夕食はシャナが腕を振るった。
キアンは不機嫌そうで、シャナの心づくしもいっかな効果を表していなかった。挨拶もなしに出立した兄をまだ許していないのだ。黙々とただ料理を口に運んでいる。
シャナの叔父は白いローブに身を包んだ、一見してどこにでもいるような中年の男性だ。白髪交じりの色の薄い髪を、無造作に編んで帽子の中へ押しこんでいる。長年書物に親しみ、或いは危険な薬品や金属を扱いすぎたのだろう、不健康な肌色をして、実際の歳よりも随分老けて見えた。
キアンは無愛想に食事を終え、黙ったまま出て行ってしまった。それを気遣わしげに見送り、立って皿を片付けようとするシャナを、留めてジンが言った。
「お疲れでしょうから、もうお休み下さい。後片付けは私がしますから。湯の支度をして後で部屋へ参ります」
本当に疲れていたのだろう、シャナはジンの言うがまま、館の主と共に席を立った。
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ジンが食器を洗っていると、キアンが戻ってきた。相変わらず面には憤懣やるかたない表情が浮かび、口を固く引き結んだままだ。傭兵の選抜試験のときには、明るく開かれていた眉間に、深い皺が刻まれている。
機嫌の悪い子供のようだと、ジンは思った。
「兄上は」
「部屋に戻りました」
それを聞いて無言のまま、シャナのいる客室へ向かおうとするのを、ジンは引きとめた。
「待ちなさい。ずっとそのような態度でいるおつもりか。ご令兄の最期まで? 後で悔やむ事になりますよ」
キアンは頬を赤らめて言い返す。
「差し出がましい口を。貴様の契約違反を忘れたと思うな。依頼を果たさず、それどころか兄を連れて逃げた貴様を、犯罪者として追わなかったのは、大公家の感謝の証だとでも? 」
「私を責めるなら責めなさい。しかし、あの方の気持ちを汲んで、せめて最期を気持ち良くすごさせてやろうとはお思いにならないのですか。まるで子供のように、自分だけが傷付いているような顔をして。かれは自分の命で貴方の領土を購おうとしているのですよ」
「誰がそんなことを頼んだ! 」
シャナの弟はかっとして叫んだ。
「おれが、兄を犠牲にして領主に収まって、それで心安んじていられると思うのか? あとの数十年、兄の犠牲の上に領土を治めて、それで満足するとでも? おれの兄だぞ? 毎日毎日泣き暮らしたかったのは、あの阿呆な乳母だけと思うか」
兄の望むよう、動揺を隠して静かに見送るには、この青年は真っ直ぐ過ぎた。
「ジン……」
感情の揺れの激しい若者は、今度は顔を歪め、今にも泣き出しそうに見えた。金の髪に指を入れて掻きむしる。
「ジン、本当に、兄を取り戻すことはならないと思うか。おれが集めた護衛隊は、ここへお前たちを追ってくるときに、目的を話すと皆去ってしまった。選りすぐった者ばかりで、十分過ぎるほどの報酬も約束したのに。おれも来るだけ来はしたが、谷を一つ枯らすような力を持った魔物に、羽根で撫でるほどの痛手を負わせる力もないのは判りきっている……」
ジンは憐憫を露わにしないよう、抑制しなけらばならなかった。そんな感情を嗅ぎ取れば、青年は逆上するだろう。根気強く宥める。
「もともと私たちのような流れの召喚術師では力足りないのです。人の放った小さな魔物や呪術を返すならともかく、今回のような大物は。召喚師が行うのは交渉で、貴方が考えているように、力で魔物を抑えこんでいるわけではない。もちろん、名高い術師が魔物を打ち倒した例もありますが、何年何十年、ときには何世代がかりの陣を組んでのことで、どちらにせよ今日明日の対策では無理です。第一、それほどの陣を組める者が、今回のような例を扱うことはないでしょう。実力があるということは、魔術においての理律をよく理解して利用する術に長けているということです。正当な、成立した契約に割り込むようなことはしない。魔物に望むところだけを為させておいて、あとから力づくで報酬を取り上げるようなことが横行しては、後々、魔物と人との関係が成り立たないからです。なんでもありということになったら、結局不利なのは人の子の方だ」
キアンは顔を背けた。ジンは、若者の表情を読もうなどとむごいことは試みず、自分の思うところだけを述べた。
「とにかく、今夜はお止めなさい、まだ時間はあります。御令兄にお会いになるのは明日の朝になってからになさい。お怒りなのは判ります、しかし、私はそれを今、あの方にぶつけて欲しくない。ただでさえ、つらい試練を受けている。貴方が自分の態度を後悔していたとだけ、伝えましょう」
キアンは微かに頷き、
「兄があの連中の中から、選んだのがお前で良かった。引きうけてくれたのがお前で良かったと思うよ」
とだけ言った。
「偶々です」
「偶々でもだ。怒鳴って悪かった」
キアンは立ち去った。彼は良い為政者になるだろう、とジンは思った。シャナの言ったとおり。良い補佐役さえ得ることが出来れば。それは難しいことではないだろう。
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シャナの叔父のアトリエは、広いとはいえない。実際、甥に与えられていたそれの四分の一ほどの広さだった。その狭さにも関わらず、乏しい明かりは部屋の隅々までは行き届かないで、なんとなく、煤けて、陰気な印象を醸し出している。
実験器具などは殆ど無く、ただうず高く積み上げられた書籍が四方を囲んでいる。叔父はもう長い間、錬丹や錬金よりも、魔方陣を主な研究対象としてきたようだった。
「叔父上」
書物に没頭していた叔父が振り返ると、そこには白い部屋着に着換えた甥が、美しい幻のように立っていた。美しい――母親の影にそっくりだ。叔父は、まぶしいものを見るように目を細めた。
「どうした、シャナ。何か足りないものが? 」
「いいえ…ただ、常備薬が切れたので、叔父上が調合に必要なものをお持ちでは無いかと思って…でも、もう丹は扱っておられないようですね」
部屋の内を見回してシャナが言う。昔、叔父は錬金術師なら誰でもうらやまずにはいられないような完璧な薬棚を持っていたのだが、それがこの部屋には見当たらないのだ。
「そうだな、長いことそういった方面からは手を引いている。最近では専ら召喚士の真似事ばかり。魔方陣を引いたり結界の綻びを繕ったりに追われて」
「ご苦労が多いのでしょうね…大変な難事ですから」
「必要なものがあれば、取り寄せてもらうから、いいなさい。ここにはないが、器具も、物置のほうにしまってある。それにしても、常備薬とは。どこか悪いのか。処方箋を見せてごらん、助言できるかもしれない」
「あ、あの…いいえ。大丈夫ですから」
シャナがしり込みするのを、どう受け取ったのか、気を悪くした様子も見せず、
「ああ…練丹について、私があなたより優るなどとはとても思わないが」
と言った。
「あの、叔父上、違うのです。そういう意味では」
「しかし、レシピが無ければ何を注文したら良いのか私にも判らない。必要なのだろう」
シャナは渋々手元の紙を取り、必要な薬品を書き込んでいく。それを覗き込んで、みるみる叔父の眉間に深い皺が刻まれる。
「シャナ、こんなものを、どうすると? 」
「もちろん、わたしが服用するのです」
「まさか」
叔父は老いた溜息をついた。
「つまり、用意は万端というわけなのだな」
シャナは答えず、ただ微笑んだのみだった。
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ジンが湯を張った盥を持って寝室に入ると、シャナが椅子から身を起こした。
「ジン」
「遅くなってすまない」
彼は雇い主の足元に屈んで、サンダルを脱がす。このような事は、本来護衛として雇われたジンの職分ではなかったし、すでに館に着いた以上、護衛としての雇用関係は切れていた。しかし、お互い何も言い出さぬまま、シャナの為に湯を沸かし、その足元に跪いている。どうせ来る道々、シャナの身の回りの面倒を見ていたのは彼なのだ。
シャナは器用で気さくな、その気になれば料理さえも出来る甲斐甲斐しさを持ち合わせていたが、やはり入浴や着替えの介添えを、他人にさせ慣れた貴公子だった。疑問など持たず素直に足を差し出して、ジンの手に委ねている。
「弟御が、気にしていた。あなたに、不躾な態度を取ったと」
「気にすることなど無いのに。怒らせたのは私のほうだ…追ってこないで欲しいと思っていたけれど、本当は、顔を見られて嬉しかった。態度なんて問題じゃない」
「顔を見て、決心が鈍りはしなかったか」
「いいえ。覚悟はもう――二十年かけて覚悟はもう。それよりも、ジンに対して何か罰則を適用しようとしないかが心配です。あれに雇われたのを、私の為に反故にさせてしまったのだもの。明日、キアンが落ち着いたら、私からよく説明しますから」
ジンは、主の顔を見上げて微笑んだ。
「ありがとう、しかしその必要はないと思う。それよりも、仲良く睦まじく過ごす事だ、この数日を。別れは近い、彼は貴方を諦めなければならないが、その決心をつけかねている」
「彼は諦めなければ。私はその手伝いをするつもりです。少なくとも、静かにさせておく方策を見つけます。魔物の逆鱗に触れるようなことがないように」
「それが”方策”? 」
ジンがシャナの手元にあった、叔父の部屋から持ち出した包みを見やる。
「ある意味では」
シャナはこの場面にまったく不似合いに、いたずらそうに微笑んだ。
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5
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兄が小さな厨に入ると、弟はもうそこへ腰掛けて、昨夜の残りの固パンに、蜂蜜をぬりたくっていた。生成りの普段着に着替えた小柄な人影を認めて立ち上がる。金茶の髪に黒いひとみはよく映えるが、その目を細めて兄を見た。
「兄上」
「おはよう、キアン」
兄が顔を傾けると、弟は休戦を受け容れてその耳に口づけた。
「おはようございます、兄上」
「何を食べていたの」
「パンと蜂蜜を。兄上は? 」
「私もそれを。卵も焼こうか、キアンはそれだけじゃ足りないだろう」
兄弟が質素な朝食を取っているところに、ジンがシャナの盥を持ってやってきた。シャナを起こし、朝の洗面の支度をし、着替えさせ、その後始末をしてから自分もやってきたのだ。彼自身はとうに着替え、髭もあたってさっぱりした後だった。
シャナは気軽に立って、盥の始末をするジンの為にパンと卵を取り分けた。キアンが不機嫌そうにそれを見つめた。兄のような身分のものが、従者の為にすべきことではないと思っているのだ。しかし、賢明にも口に出しては何も言わなかった。ジンも恐縮を口に出す事もしなかった。
「叔父上はまだお休みなのだろうか」
「あの人は、昼過ぎまで起きてきませんよ。夜、仕事をするんです」
シャナたちより一日早くこの館に着いていた弟が言う。彼は騎馬で二人より先回りしたのだ。
「では、起こさない方がいいんだろうね」
「兄上、食事が済んだら、川へ降りましょう。水がとても綺麗だし、朝のうちは涼しいですよ。昨日兄上が焼いてくれた鱒は、私が釣ったのです。鱒が釣れるまでになるには、随分骨を折ったそうですが。十年程前まで、ここはずっと下流の方まで、苔も生えなかったそうですよ」
「叔父上の骨折りもあと数日で終わりだ」
シャナは何気なく言い、慌てて気まずそうに黙ったが、弟はべたべたした指を舐めながら無言でいた。他人のジンの前で、もう一度醜態を晒すつもりは無かった。
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兄の髪が日の光を弾いていた。軽い足取りで、キアンよりも随分前を歩いていて、緑の中のほっそりした姿は白い小鹿のように瑞々しい。彼は死の運命に直面して一層生き生きとして見えた。それは奇妙な事に思える。
やがて水の音が近くなり、眼下に細い水の道が広がった。
「沢が」
「下りてみますか」
兄は、身軽に沢へ降りていく。そういえば兄と二人きりで野歩きをするなど、ここ十年も無かったことだ。幼い頃には、勉強や運動の合間には、兄がちょくちょく息抜きに連れ出してくれたものだ。父大公は、後継であるキアンを厳しく養育したが、兄には随分甘やかしてもらったし、庇われもした。今思えば母親がする役目を、兄が代わってしてくれていたのだろう。たった一つしか違わないのに。
「あ、キアン! 」
唐突に、兄の声が飛んで弟は思わず足を止めた。
「足元に気を付けて。それに触れないように」
ぶらぶらと歩いていたキアンが、入りこみかけていた茂みに、石の杭のようなものが刺さっていた。
「なんです、これは」
「呪具のようだ。叔父上の結界石でしょう。ほら、術式が彫りこまれている」
シャナが近寄ってきて、石の表面をなぞった。太さも長さも人の腕程度の石柱に、何やら図や文字らしいものが彫りこまれている。
「なんて書いてあるんです」
キアンはなんの気なしにただそう訊いてみただけだったが、生真面目な兄は屈みこんで石の表面にこびりついた泥を払い、目を眇めてそれを見た。
「……これは」
眉根を寄せて考え込む。キアンはその横顔に見とれた。そんな険しい表情をしていてさえ、兄は十分美しかった。白金の髪はそれを飾っていた精緻な額飾りを失ってなお輝いている。
しかし弟は失われた筈の装飾品を、懐から取り出した。
「兄上、これを質に入れさせたでしょう。うちの出入りの宝石商が営む質屋に」
シャナは目をあげ、額飾りを見とめてばつが悪そうに頬を赤らめた。
「ジンは随分待たされた筈です、以前修理に出した事があるでしょう、それで店主は見覚えがあるとすぐにおれのところへ持って来たのですから。大公の身内が持ち物を質にいれるなど、彼には思いもよりませんから、きっと盗品だと思ったのですね」
月長石と真珠の額飾りはキアンの手の中で、あぶくのように輝いた。
「金を用立ててやれと言ってやったのはおれです。だから、もう、おれを欺いて出てきたことなど気にすることは無い、おれは知っていたんですから。兄上が出て行くのを」
「どうして…」
「さあ、少しかがんで。ああ――ぴったりだ。よく映える。もう、二度と手放してはいけない、母上の形見だ」
キアンの言うがままにかがんだ兄の頭に、額飾りを留めて弟は穏やかに笑った。
「キアン、その――黙って先に行ったりして、悪かった」
兄は泣き出しそうにさえ見えたが、ただ震える声でそれだけ言った。
「お前が怒るのも当然だ。ただ、私は――お前に、良い領主になって欲しいだけなんだ。縁豊かな――宝石のような土地。小さいが、恵まれていて。得難い宝、私が育った土地だし、お前たちは私の家族だし――それに、領民たちも。恙無く、健康で、満たされていて欲しいんだ、ただそれだけ。独り善がりと思うだろうけど、私は、誰かが私を思い出すたびに、気が重くなったりして欲しくないんだ。お前に、私が沈んだり、恨んだり、めそめそしているところなんて思い出して欲しくない。ただ、私を穏やかに送って欲しいんだ。私も取り乱したりしたくない。綺麗なとこだけ、覚えていて欲しいんだ。最後の我侭と思って、無理でもきいてくれないかな」
そういえば、兄は湿っぽいことの嫌いな人だった。嘆き続ける乳母をそのたびに、慰め、宥め、気を引きたてようと苦心していたものだ。その姿こそが、キアンの気に障ったのだが。つまりこれから試練を受けるのは兄自身だというのに、その兄に余計なことで心を砕かせる乳母の無神経さや配慮の無さ――彼にはそうとしか受け取れなかった――が、キアンには腹立たしくてしょうがなかったのだ。しかし、今、彼自身が兄に気を遣わせてしまっている。これではあの惨めったらしい乳母と同じだ。シタン領の後継ともあろう男が。
兄は覚悟を決めているのだ。例えば望みの無い戦に身を投じる軍人のように。盾となって死ぬつもりだ。理不尽さに対する憤りはまだ消えないまでも、その単純な英雄主義は、キアンにとっても納得し易く、説得力を持っていた。
キアンは兄の手をとり、口付けした。
「仰る通りに致します、それが兄上の望みなら」
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しかしキアンは諦めてはいなかった。兄を諦めることなど出来なかった。生まれてこの方、何かを諦めたことなど無いのだ。シャナが昼食の支度をしに厨房へ入ると、キアンは叔父を起こす為に彼の部屋を訪れた。
叔父は既に起き出して研究室にいた。テーブルの上に華奢な硝子製の用具を広げ、いくつかの薬品を散らかしている。小さなガラスの皿に、何か濁った色の液体が煮たっていた。
「叔父上、兄が午餐を作るそうです。一緒にいかがですか――何をしてるんです? 妙な匂いだ」
「キアンか。そこへお座り」
叔父は身振りで甥に椅子を勧めた。キアンはその上に積まれた本を机の脇の山へ積み足して、ぐらぐらする椅子へ腰を下ろした。しかし中々口火を切ることが出来ずにしきりと足を組みかえるのみだ。
「何か、私にききたいことがあるのではないかね」
叔父は穏やかに水を向けたが、キアンはまだしばらく躊躇った。しかしやがて口を開いた。
「あの、気掛かりで、――兄の行く末と、魔物のこと。魔物は、一体兄に何をさせるんでしょう――兄を得て、かれをどうするつもりなんでしょうか。兄を、殺して食べるのでしょうか」
「魔物は、人を殺して食ったりはしないものだ」
と叔父は言った。
「彼らは、そういう意味では飲み食いしたりはしない。そういう生き物ではないんだ。しかし、シャナをどうするつもりでいるのかは、私にも判らない」
腕を組んで身を引く。
「殺して食らいはしないが、別の意味で食らう、とも聞く。人生を支配することでな。ただ愛玩するという話しもある。さまざまな儀式や呪法に使ったり、侍僕として使役するという例も聞く。地方では、信仰の対象として奉られている魔物もいるそうだが、そこの巫女は皆、何十年にも渡って妊娠していると聞いた。産まれた赤子を見たものは誰もいないそうだ」
キアンはぞっとして、身震いが止まらなくなった。ただ屠られて死ぬよりもずっとおぞましく、耐えがたい運命だ。兄の身に起きるかもしれないなどとはとても受け容れられない。考えてみるだけでも駄目だ。そんなものを、崇高な殉死だなどと、自分を騙すことは出来るはずも無かった。
「兄上は、その、希みは――全くないのでしょうか――どこまでも逃げれば、もしかして」
自分がついて行ってもいい。どこか遠くの土地へ、追ってくるなら逃げれば良いのだ。
しかし、叔父は首を振った。
「それは無理だ。魔物はお前たちを追う前に、シタン領を焼き尽くすかもしれないし、水に毒を流すかもしれない。しかも、そうなったら、私などの力では抑えられないだろう。意図せず漏れ出ている瘴気を閉じ込めるようなものとは、術の次元が違ってしまう」
キアンは唇を噛んだ。
「それに、そもそもお前たちでは、逃げおおせるのはとても無理だ。もとを断たねば」
そんな甥に目をやりもせず、叔父は煮立てていたガラス容器を火から下ろした。先ほどまでしていた刺激臭は既に消えうせ、液体も澄んだ透明な色になっている。
「これを、キアン」
叔父はそれを小さなガラス壜に移しながら言った。
「シャナが、ここを出ようとしたら、彼にこれを飲ませなさい」
「なんです、それは」
キアンは怪しんで訊ねる。
「即効性の麻痺薬だ。無味無臭、色もないから、何か別の飲み物に混ぜて飲ますといい」
「麻痺薬? そんなもの、兄上に飲ませられるわけが無いじゃないですか」
ずいと押しつけられそうになるのを、キアンは尻込みして受け取らない。
「心配するな、シャナを害しはしない。ただ、ほんのちょっとの間、動けなくなるだけだ。」
「しかし、そんなもの」
「キアン、シャナは死ぬつもりだ。毒を隠し持っている」
叔父は厳しい口調で言った。
「ここへ来て、薬を調合すると言っていくつかの薬品を欲しがったのだが、かなり強い毒物を精製しようとしているとしか思えない。彼の覚悟とはそういうことだ。だからこそあんなに落ちついて、静かにしていられるんだ。辱めを受けるくらいなら死ぬ覚悟でいる」
「兄上が」
「しかしキアン、私は許しはしない。どういう意図があろうと人外如きに私の甥を蹂躙させはしない。もちろん、毒なんか服ませない」
「叔父上? 」
キアンが首を傾げた。叔父の様子は尋常ではなかった。目が変にぎらぎらと輝いている。常に無い、力のこもった口調で言葉を継ぐ。
「キアン、お前はシャナの足留めをするだけで良い。私にも、時間だけはあった。二十年の月日だ。それだけの時間で人の身に、何が出来る物か見ているが良い」
***
穏やかな日々は瞬く間に過ぎた。
兄弟の叔父は、ジンに手伝わせて川辺に祭壇をしつらえた。陣を切って縄を張り、文字や術式を書き、清めの灰を撒いて四隅に香炉を置いた。
「魔物を寄せる特別な香を焚くんだよ」
叔父は傭兵に説明した。ジンも召喚術に関しては少し心得があるという振れ込みで雇われた。
「香だけ? 一番一般的なものをですか。他には何も? 指名をしないで、寄せるだけでは他の魔物が寄って来やしませんか」
「この界隈にいるのはかれだけだと思うよ。これだけの力場を作り上げているんだ、他の小物の入る隙などない。それに、指名の方法が判らないんだよ」
「十何年か前に派遣されたという召喚師は、何か告げられはしなかったんですか」
「いや…」
叔父は曖昧に呟く。
「始めにこの谷の汚染が問題になって、その原因を探りに派遣されただけの召喚師だったから、シタンに長居もしなかった。しかし、どちらにせよ、シャナが二十歳になるときに、ここにいれば契約の魔物も姿をあらわす筈だ。確かに二十歳の誕生日に、連れに来るといったのだから。魔物寄せの香など、本当は必要ないくらいだ」
しかしジンは怪しむのを止めない。
「おかしな話だ――そもそも、契約者の名前も告げられなかったというのがおかしい。普通なら言うはずです。そこまで話したと言うのならね。契約内容があまりに曖昧だ。公子に生贄の印がつけられているようでもないし、自分を呼ぶ為の呪文や、呪具が預けられたというわけでもない。それとも、知っていて、大公家で秘匿しているということですか、契約者の名前や、引き換えにされた条件や、その他諸々のことを? 」
ジンは、大公の弟の目を真直ぐに見つめ返し、問う。
「世間では、シャナを売ったのは亡き大公妃だと言われています。国一番の美貌と謳われて、”神殿”からも誘いが来るほどの才媛で、生まれた時から領主の妻となることが定められていて――生きている間はずっと、仲睦まじい夫婦だったし、亡くなってからも愛されて、大公はいまだ後妻を迎えもしない。そんな女性がそれ以上、何を望むのかと。そのように恵まれた女性がその上に尚、何を望んで子を売ったのかと、誰もが興味しんしんだ。それを、あなたは知っていた? 」
「私が? 知りはしない、誰も知らないんだ」
「貴方は、彼女の幼馴染だったそうですね。貴方方兄弟と彼女の三人――彼女は子供の頃に神殿に連れて行かれ、もしも彼女が『契約者』だったとしたら、彼女が召喚術を学んだのは”神殿”でのことだ。”神殿”内でそんな罰当たりな召喚を行える筈がないし、彼女は”神殿”を出て真直ぐシタンに戻り、そのまま待ち構えていた貴方の兄と結婚した、間を置かずに。しかし神殿に彼女を迎えに行ったのはあなただ。そしてそのあとずっと側にいた。夫を除けば彼女の一番近くにいたのは貴方だ。にもかかわらず、あなたは何も気付かなかったのですか」
「そんな筈はない……契約者は、彼女のはずがない。彼女は、そんな人ではなかった! 」
「魔物は何故、彼女が死んで六年経ってからなんて半端な時機に、この谷に降り立ったという事になっているんです。彼女が契約者なら――彼女が生前に交わした契約ならば、そんな時期に告げにくるのは不自然だ。契約が交わされたときか、或いは彼女が死んだとき、でなければもっと遅く――今年のうちかせめて去年になってから。でなければそもそもそんな宣言無しに、シャナが二十歳になったその日に突然やってきて、攫うのが当然でしょう」
「何も知らぬくせに、下賎の傭兵風情が」
術師の口調は、常の物静かな彼には似つかわしくない激しさを帯びていたが、ジンの反応は冷ややかだった。
「あなたは、一体何を隠してるんです? 」
ジンの問いに答えは無かった。
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6
+++
シャナの誕生日、空は快晴、空気は程好い湿気を含み、午後には気温が高くなりそうだった。
多くの土地を救う犠牲の儀式だというのに、寂しい旅立ちだったが、シャナは構わなかった。涙に濡れた送別会など催されても持て余すだけだ。彼はジンに手伝わせて身支度を整えた。生贄には生贄なりの作法がある。
体中、爪の先まで磨き上げ、香油を擦り込んだ。足元は裸足、長く裾を引いた白い衣、魚とイチジクの木を織り込んだ金の飾り帯を締める。髪は肩に垂らし、母の形見の額飾りを掛けている。顔の両脇に長く房を垂らした姿を見て、ジンがおどけて言う。
「花嫁のようだ」
シャナも陽気に応じた。
「こんなにめかしこんだからには、もう、泥は踏めない。抱き上げていって貰わなければ」
「花婿のように? 」
「新床にご招待できないでお気の毒様」
顔を見合わせて笑ったとき、キアンが部屋に飛び込んできた。
「ああ、キアン……」
シャナは憂鬱そうな様子に戻ってしまった。キアンの顔に浮かんだ濃い憔悴を見てしまったからだ。
「兄上、あの……お美しい」
キアンは、酷く間の抜けたことしか言えないでいる自分が情けなかった。兄を力づけ、安心させるような事が言いたいのに。しかし兄はちょっと微笑んでくれた。気を取り直し、持ち込んでいた果実酒の壜を掲げ、
「お別れに」
と言った。シャナがほっと溜息をつく。
キアンがグラスを三つテーブルに並べ、ジンがそれぞれに果実酒を注いだ。酒には、叔父に渡された麻痺薬を溶かし込んである。キアンは飲み込む心算は無かったが、乾杯の仕草でグラスを掲げた。
「お別れに」
シャナは一息にグラスを空けた。そしてジンも。
キアンは、震える手でグラスをテーブルの上に置いた。形だけ口をつけたグラスには、まだなみなみと果実酒が満たされている。
叔父は即効性の麻痺薬だと言った筈だ。
しかし、シャナもジンもけろりとしている。
「兄上…ご気分は」
「なぜ、キアン」
兄はきょとんとして返す。ジンが面倒そうに口を開いた。
「彼は、おれたちに何か盛ったんだ。薬か、毒かを。なんだかは知らんが」
「なにを…」
キアンは慌てて反論した。
「おれがそんなものを盛ったというなら、同じものを飲んだ貴様が無事なわけが無い」
「飲まなかったから。飲むふりをして床に捨てた。あんたは入ってきたときから、挙動不審で怪しかったし、人に勧めておいて、自分は飲まなかったしな」
ジンは平然と答える。飲みもしないのにどうしてわかる、と反論しても良かったが、うろたえたキアンはシャナを振り返った。兄は優しく笑って両手を広げた。
「私はそんなこと、全然気付かなかった――でも、私には、薬は効かないんだよ。少なくとも、動物か植物由来の神経毒や鉱物の類は。お前が何を盛ったかもわからないけど」
「兄上……」
キアンの顔が歪んだ。兄は慰めるようにその頬に手を触れる。弟の方が少しだけ、背が高い。
「兄上、馬鹿な真似をして…でもおれは……」
弟が、許しを乞うように兄を抱きしめようとする。兄はその両頬を両手で挟むようにして自らの顔を寄せる。その姿はまるで接吻するかのように見えた。
しかし、次の瞬間には、弟の体からがくんと力が抜け、ジンが何か反応を示す前に、兄の足元に倒れ伏していた。
「お、おい。弟御に何をしたんだ」
ジンが慌てて駆け寄る。
「いくら薬を盛るような真似をしたからって」
シャナは苦笑をこぼす。
「ジン、悪いけど、キアンを抱いて寝台へ運んでやってくれないかな。気がつくまで床で寝ていたら、酷い筋違いを起こすだろうから」
「一体、何をしたんだ」
屈み込み、キアンを抱き上げながら尚も追求する。
「毒娘、を知ってるかな」
シャナは小首を傾げて答えた。
「毒娘? 」
「そう、毒娘。幼い頃から少量ずつの毒を与えて子供を育てる秘術で、普通は女児に施す術だから、そんな風に呼ばれているけれど。成人する頃には体自体が毒の壺のようになっていて、吐息で薔薇さえ枯らすという」
「まさか」
「わたしは十の歳から自分で調合した毒を慣らしながら服んでいる。毎日少しずつ」
「あの、酷い匂いの常備薬……! 」
「そう。あの薬。だから多少の毒では効かないし、吐息だけで、大の男を昏倒させられる。その気になればね。言い伝えられている程の劇的な毒性は無いけれど、身を守るには十分だ」
道理で道々の宿場で誘いを受けたところで動揺もしなかったわけだ。彼が人間相手に身の危険を感じる理由などまるでない。それが公子の抱いた秘密だ。彼の冷静さ、諦念と見えたものは、実は挑戦する戦士の高揚と胆力の賜物だったのだ。
「起きたらしばらく頭痛がするだろうけど、まあ、心配は無いよ」
キアンを寝台に横たえるジンを横目に、シャナは言った。
「さあジン、次は私の番だ。抱いていってくれ」
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7
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「ジン…なんだか気分が悪い…」
「そうだろうな」
シャナを抱いて泥を踏むジンにも、はっきりとした瘴気のよどみが感じ取れるようになっていた。それはあの川辺の祭壇の方へ向かって段々に濃く深くなっていく。シャナは青ざめ、一層強くジンにしがみ付く。召喚術の適性が無いシャナには、この瘴気はきつすぎるようだ。何故かも知らず、ただ体温が下がり、唇から血の気が失せていく不快感に耐えている。ただでさえ彼の体は普通でなく、動いてはいても、半分死んでいるようなものだ。
『毒娘』は、治らない病を常に負って生き続けるような秘術だ。その病は、母体である彼自身を殺すことこそないが、彼に触れるものは死ぬし、彼が触れるものもまた殺し、彼自身は常に苦痛の下にある。いかに強大な力を誇る魔物であっても、彼を犯したり、喰らったりすればただではすまない。それは物質的な毒以上に、長い時間をかけて蓄積された、呪いそのものの姿だからだ。かれの血の隅々までに毒は行き渡り、かれを殺すとしてもかれに触れてはならず、知られてはならず、血の一滴も流してはならない。
シャナは自らを少しずつ殺していきながら、自らを少しずつ毒へと摩り替えていった。それは気の遠くなるような呪いの秘術だ。
この、優しげな美貌の主が。十の子供が半生かけて、自らを炉にして毒と呪いを練り上げたのだ。自分の運命に一矢報いるために。
人はみかけによらない、とありがちな感想を抱いて、ジンは歩を進める。
川辺の一等地、先日引いた魔法陣の脇、瘴気の吹き溜まりに、シャナの叔父は佇んでいた。渦巻く穢れの真ん中に、かれは立っていた。地面の下では蚯蚓か蛇の様な気配が蠢いている。
シャナは叔父の体が心配だった。自分は、ジンに抱かれていて助かったと思うほど気分が悪い。恐らく一人では立ってもいられない。ジンは召喚術に親しんでいるというからともかく、叔父は自分と同じくそういった資質のほうは乏しかったはずだ。
「叔父上、随分顔色がお悪い。きっと、魔物が近くまで来ているんです。もう館にお戻りになってください、ジンと一緒に。私は大丈夫ですから」
叔父にはそう告げ、ジンを促す。
「ジン、下ろしてくれ、陣の中に。それで、叔父上を助けてすぐ館に戻ってくれ。お前だって、こんな場所に長くいては障りがあるだろう」
「駄目だ」
何を察したのか、ジンは表情を硬くして、一層強くシャナを抱きしめた。美しく整えた衣装に皺が寄って、シャナは困ってそれを見下ろした。それでなくても気分が悪いのだ。はやく陣に入りたかった。
「ジン、放して。どうしたんだ、一体。キアンじゃあるまいし」
「あんただったんだな」
ジンは声を絞り出した。
「ジン? 」
不審そうな公子の声を無視し、その叔父を見据えたまま、一介の傭兵は手のうちにある花をますます固く抱きしめた。
「あなただったんだ、大公の弟御よ。この惨状はあなたのせいだ」
「よくおわかりだ」
シャナの叔父は穏やかに言った。
「そうだよ、私だ」
「叔父上? 」
「キアンは失敗してしまったんだね。あれも嘘のつけない子だから仕方が無い。ジン、シャナを陣に下ろしなさい。私はもう仕方ないが、ここ一帯に満ちる気は、全くその子には毒だ。陣のうちなら少しはましだろう」
「叔父上、どういう意味です、ジン、放せ! 」
シャナは不安がり、腕をつっぱってジンから逃れようとした。それでも放れない指をこじ開けようと爪を立てながら、苛立って叫ぶ。
「ジン! 今すぐ放さないと、キアンと同じ目に合うぞ! 」
しかし公子の可愛らしい脅迫など、ジンは歯牙にもかけなかった。にやりと笑うとその顎を掴んで無理やりに傾け、わずかに開いた桃色の唇の間に、ふっ、と息を吹きかける。先刻、シャナがキアンにしたのと同じように。途端、華奢な体はあっけなく力を失って、くたりと倒れた。それをジンは抱きなおし、身軽に立って行って陣の中に収めた。そして、その陣を背中に、シャナの師から庇うようにして立った。
老いた錬金術師はいきりたってジンを責めた。
「なんだ、何の真似だ、シャナに何をした? 貴様何者だ」
「何の真似とは、あなたに訊きたい」
ジンは落ち着き払ってそう吐き捨てた。
「何故、自らの氏族と兄の領地に毒を流したのか」
彼らの足元で、ざわざわと瘴気が騒ぐ。一層強くなったそれらの気配を、今はっきりとジンは感じていた。毒気を持った小さな羽虫のような多数の精霊たちが、外へ出たがってもがいている。
「これらは、私の使役する魔物でね。私がこの半生かけて練り上げた究極の蠱毒、魔物以前の無数の悪意だ」
目を細めたジンの表情を読んだ錬金術師は、こともなげに呟いて足元を踏みしめた。まだ出番ではない、と戒めるかのように。ジンはその足元をみやって、嫌悪に顔を歪めた。
「こんな真似をして、土地が穢れるのも無理は無い」
聞いた事も無い秘術だった。錬金術師が執念で編み出した術式だったのだ。あちこちに据えられた結界石は、土地を浄化するためのものなどではない。ただ空間を閉じて外に秘密が漏れ出るのを防ぐため、澱みを溜め込む堀池を作っていただけだ。
「長いときをかけて少しずつ、この身を餌にこの谷に集めて封じ込めてきた。自らの意志など持たぬ低級魔精の群れ、半生かけて育てあげた呪いの坩堝だ」
いっそ、誇らしそうに、彼は言う。
「初めの何年かは、術も未熟だったために毒が漏れ出て辺り一帯が大変な有様だったが」
「あんたは、シャナが生まれた時に、もう、この外法を始めていたんだな」
「正確にはその一年後、キアンが生れ、その母親が産褥に身罷ってからのことだ。その頃、他のものはシャナにかけられた契約の呪いを知らなかったのだから。私一人で始めた。しばらくはまだ城内に住んで、シャナの教育をしていたが、数年後には土地の穢れが飽和状態に陥って、毒が流れ出し、領民達も異変に気付いて騒ぎ出した。兄が専門家を派遣すれば、術式など簡単に読み解いて、私のしたことがばれてしまう」
「だから、魔物をでっちあげたんだ」
「そうだ、流れの召喚師を買収していい加減な報告をさせた。契約の存在は確かだったが、汚染もその魔物のせいにしたんだ。ここに潜む魔物を、恐ろしがって近寄らないよう、怪しまないように。私自身はこの土地に移り住んで、魔物の瘴気を封じるのだと吹聴した。私もやがて熟練し、濫りに毒を外に漏らすような下手も打たなくなった。私は毎日つききりでこの土地に、毒を溜め込んだのだ」
錬金術師の顔は土気色だった。嫌な汗が額をじっとりと濡らしていた。まさにかれは命を削って、この土の下のものどもを保ち、封じてきたのだ。
自ら意志を持ち、思考する魔物との契約には制約が多い。しかし、彼の溜め込んだものどもはそれぞれ虫のようなものだ。一つ一つは脆く、弱いが、同時に致命的な毒をも運び、また数を揃えれば圧倒的な力にもなりうる。しかし制御は難しく、その動きも予測しがたく、利用を思いついたとしても実際に行動に移した術師は稀だったろう。彼が初めてだったかもしれない。
「低級魔精といえどもこれだけいれば魔物にも大した痛手だろう。まして魔物は穢れに弱い」
震える声でそう呟く。
「そのために、毒を注いで育ててきた。一矢報いてやる」
「あんたたちは良く似ている」
ジンは呆れたように呟いた。
「あんたたち? 」
「あんたと、シャナだ。シャナの方は、まだ幼くて、あんた程の知識も応用力もずぶとさも無かったから、古典を紐解いて『毒娘』の秘術を研究したんだろう。十の歳から自らの体に毒を溜め込んで、血肉を毒と呪いで練り上げた。見上げた執念だ。妄念といってもいい。たかが十歳の幼子が」
シャナの叔父は虚を衝かれて絶句した。
「毒娘だと? ――馬鹿なことを。まさか、あの薬品の数々は、そのために? 馬鹿なことを。馬鹿な――そんな生は人のものではない。自分で人生を台無しにするなど」
「案外あんたを見本にしたんじゃないか。あんたの生き様を師として育ったんだ、そうとは知らずにその姿勢を見習ったのかもしれない、不屈の闘志というのか、魔物相手に恐れを知らない」
ジンの口調には、いっそ嘲笑の色さえ濃くなってきた。
「さすが、父子だ」
錬金術師は驚きに目を見開いて、ジンを見返した。
「――なんだと、どういう意味だ? 」
「分かっているくせに。あんたとシャナは親子だ。正真正銘、血の繋がった」
ジンは微笑み、陣の中に手を伸ばして、倒れ伏すシャナの頬を撫でた。
「あんたは、手篭めにしたんだ、シャナの母親を、兄の花嫁を。成長した彼女を神殿に迎えに行った、その帰りの旅で」
容赦なく断罪し、相手の反応を待たずに言葉を継ぐ。
「そして彼女はシャナを孕んだが、あんたが知ったときには、既に大公の妃に納まっていた。そうだったろう。日数は微妙だったが、巫女である彼女には判っていた。シャナがあんたの胤であることはな」
ジンに決めつけられて、罪人は否定もなく両手で顔を覆った。
「そうだ、彼女は私にそう告げた。胎の赤子は私の子だと。それを教えるのは、父親に知られずに生まれた赤子は不幸になるから、赤子のために報せる、ただそれだけの理由だと。兄と別れて私と一緒に来てくれるようにと、泣いて頼んだよ、私の赤子の母になって欲しいと」
「しかし彼女は拒絶した。大公を愛していたからだ。彼の側から離れるつもりはなかった。しかし、あんたを哀れんでいた。彼女はあんたを断罪しはしなかっただろう? 」
「しかし、彼女は兄を裏切れなかった」
と、哀れな男は呟いた。
「シャナを生んだが、兄の子に受け継がれるべき世襲財産を、シャナに与えて平然としていられるほどには兄を裏切れなかった。彼女はシャナを腕に抱いて言った、シャナが大公家を、シタン領を受け継ぐ事はないだろうとな。どういう意味かは判らなかった。シャナは完璧な宝石のような赤子、健康で、愛らしく、瑕一つ持たずに生まれた。長子に生まれて、大公家を継げない訳がない。判ったのは、一年後、彼女がキアンを生んで死んだときだ」
「そう、彼女が死んで、契約の魔物は遣いを出した、契約の続行を彼女に近しい人間に伝えなければならなかったからだ。律儀なことだな。シャナ本人はまだ赤子だったし、彼女の身近でそういった心得がある人物は、貴方しかいなかったし、貴方が適任だった。赤子の父親なのだから」
「そうだ、小さな羽のある蛇がやってきて、人間の言葉で私に伝えた。生前の大公妃との契約によって、二十歳になったらシャナを受け取りに来ると。私には耐えられなかった」
「それで、貴方はこの谷に結界を張った」
「そうだ。ここを特別な力場に作り上げ、魔物を迎え撃つ覚悟だった。時間と空間の掛けようによっては、私如きの力でも、十分賭けが成り立つと考えたからだ。人里離れたこの谷ならば、谷全体を祭壇に捧げるのに好都合だし、城市の真ん中で事を構えるよりもずっと被害を抑えられる。それに、秘事が漏れてはならなかった」
「あんたは、大公妃の名誉を守らなければならなかった。城の真ん中、大公のまん前で、魔物に口走られては困る事が多すぎた。初めは、ひっそりと事を進めるつもりだったのだろう、あんたはシャナを大公の跡継ぎにと望んでいたはずだ、自分の息子を、何不自由ない身分に押し上げたかった。自分と同じように冷や飯を食わせたくはなかったはずだ」
「そう、私はシャナに大公位を望んだ。私の得られなかった全てのものを。シャナが二十歳になるまで事を伏せ、二十歳になったシャナをこっそりとこの谷に招いて魔物を撃退し、そのまま城に戻って幸せな人生を歩んで欲しかった。私の未熟のために、毒が漏れ出したりなどしなければうまく行くはずだった」
「しかし、あんたは失敗した」
「そうだ、私は失敗してしまい、次善の策を取るしかなかった。魔物が谷に降臨したとでっちあげる以上、その目的をシャナとしなければ、大事の後嗣を、谷に呼び寄せる言い訳など有り得ない。シャナが城から動けなければ、彼が罪の子であることが白日の下にさらされてしまい、やはり彼は廃嫡されるだろう。それくらいならば、彼が成人するまで寂しい育ちをしたほうがまだましだ。魔物の生贄に選ばれたシャナは廃嫡されたが、教育だけは私が施した。為政者としての教育は、命を助かってからでも遅くはない」
「それはあんた個人の考えだ」
ジンの答えは素っ気無い。その声の調子に、錬金術師は我にかえったようにはっとして、口元を押さえた。普段なら口が裂けても言葉にはせぬようなことを、滔滔とまくし立てていた自分に気付いて驚く。これ以上悪くならないだろうと見えた顔色が、ざっと血の気が失せて一層蒼白くなった。
「術を掛けたな」
白くなった唇をゆがめて錬金術師が押し殺した声を上げた。
「私に術を掛けて、こんなに喋らせて、先ほどのシャナといい、貴様は一体何者――」
言いかけて、絶句する。ようやく思い至ったようだった。
「そうだよ」
ジンは、いっそ優しいといっていいほど柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「そうだ、おれだ。おれが、シャナを連れに来た魔物だ」
錬金術師は声にならない叫びをあげ、強く足元の土を踏んだ。地面が割れ、亀裂から無数の虫が湧き出てくる。瘴気が一層濃くなった。
「貴様――貴様が」
錬金術師が力強く腕を振ると、袖が風を孕み、足元の有象無象がかたまりとなって一斉に人のような形をよそおった魔物に襲い掛かった。
「無駄だ」
ジンは冷ややかに宣言し、ふうっ、と息を吐いた。すると頼みの低級魔精たちは、毒を撒き散らしながら砕け散り、四散した。ただ、吐息だけで。
「あんたにもシャナにも気の毒だが、おれには通用しないんだ。そういう生れではなくてね、申し訳ないが、この程度の呪いも穢れも飲み込んでげっぷもでやしないんだよ」
彼は言葉通り、全く平然として見えた。
「残念だったなあ、目の付け所は全く悪くなかったんだが。おれでなければ、多分かなり応えたろうと思うよ。全く惜しい」
五月蝿い羽虫か何かを追うようにして手を振ると、ジンのほうへと押し寄せていた低級魔精たちは、てもなく追い散らされ、一層毒気を強くして、方向を変え、術師の方へ向かった。しかし使い手はこのような危険を予め想定していた。素早く護身呪符字を切ってそれを防いだが、わっ、と群がる羽虫はじりじりぷつぷつと結界を破り、少しずつ中へ毒を流し込み始めた。
「シャナを――どうするつもりだ! 」
唇を白くして初老の男が叫ぶ。
「連れて行く」
ジンはこともなげに答えた。
「どこへ――シャナに何をさせるつもりだ」
「さあ、それはシャナ次第だ。おれは連れて行くだけ。連れていけと、それが契約だ」
「え」
一瞬、飲みこめずに、哀れな人間は問い返した。
「契約だ。それが、契約だったんだ。契約によりシャナを連れて行く、と伝えただろう。何かの報酬に、彼を受け取るなどといわなかったはずだ、お前たちが勝手にそう思いこんだんだ。おれは、シャナの母親と、彼が二十歳になったら、大公家を出て、どこへでも好きなところへ行けるように取り計らってくれと請願されて、これを受けた」
「――どういう意味だ」
ジンは呆れたように溜息をついた。
「だから、彼女はあんたが見込んだ通りの女だったとそれだけの話しだ。我欲の為に子を売るような女ではなかったと、そう断言したじゃないか。己の妊娠を知って、彼女が何を考えたか。不義の子を大公位にはつけられない。それは夫に対しても、大公の血筋、祖先から子孫までに対しても裏切り行為にあたる。しかし、シャナを堕胎することもなかった。彼女はその方法を知っていたのに、シャナを殺せなかった。既に、腹の赤子を愛してしまっていたからだ。愛する男の胤ではなくても、シャナは彼女のいとし子だったんだよ。彼女はそういう女性だった。そして彼女は中途半端な解決策を見出したと言うわけだ。つまり、上の子供が成人し、一人で生きていくだけの力をつけるまでは大公家の息子として何不自由なく養育し、そうしたのちに、正当な血統である下の息子に後継を譲って姿を隠すようにとな。彼女が下の息子の産褥に身罷りさえしなければ、おいおいシャナに言い含め、育てるつもりだったんだろう。そこまではおれの知るところではないが。とにかくおれも、この土地を離れていたから、戻ってきてこんなことになっていて驚いたよ。谷に居座っているとかいう魔物は、どういうつもりでおれの名を騙っているのかとも怪しんだしな。それで、様子見で、こんな姿に身を窶して現れたと言うわけだ。まあ、結局は人間の浅知恵だったと言うわけだが」
「シャナがそうでないというのなら、報酬に、貴様は何を奪うつもりだ」
「知る必要の無い事だ」
ジンはそっけなく、短い答えを返した。その冷ややかな仮面が割れて、彼自身、抑えてきた魔物としての瘴気が漏れ出始めていた。今、辺り一面に低級魔性の毒気が渦巻いていたが、羽虫の形をしたそれらは全て、ジンに触れる一瞬前に四散し、地面におち、周囲を空しく腐らせていた。シャナを護る魔方陣も危ういかに見えたが、ジンが手をかざすとその効力を持ちなおした。
汚染が、恐ろしい速さで広がっていた。土は塩を吹き、草木も萎れ、周囲の空気まで変って見えた。
「彼女は、あんたたちに平穏に過ごして欲しかったんだと思うが――ま、こんな事になったのも、それぞれの業というものだろう。そら、もう結界も長くは保つまい」
魔物の言うとおり、虫は結界を食い破り、術師を殺しにかかっていた。術師は音を立てて歯軋りした。
「おのれ……」
「諦めろ。こうなることは、覚悟の上だったろう? 」
確かに、術師は覚悟していた。このように統率不能な有象無象を用いようとするからには、自らに振りかかる禍いを考慮に入れないわけにはいかない。失敗すれば、術師を食らい尽くさずには置かないし、成功し、その場から逃れ得たとしても後始末が出来ない。放たれた無数の毒は、見境なく土を汚し、水を腐らせ、空を覆って、多くの人々と生物にとっての脅威となり、自然階層の均衡を崩す。後先考えない自暴自棄が、この術の特徴だった。そういう術式は、邪道だ。だから、まともな術師ならば用いない。用いる以前に成り立たない。理屈からすれば、成功する筈のない禁断の魔術だ。術師は執念だけで成立させたが、その力技もここまでだった。
「いかん、戻れ、来てはならん! 」
突然、魔物と向かい合った術師が、怒号した。振りかえると、その視線の先に、低級魔性に雲霞の如くたかられた、キアンがよろめいていた。キアンの目には、羽虫のようなそれらは見えてはいまい。彼にはその資質が全く無い、恐らくはシャナ以下だ。おまけに、先ほどシャナに毒を含んだ息を吹き掛けられている。それでもまだ立っていられるのは、巫女でもあった、母の血だったろう。シャナが自らにかけた無茶な秘術に耐え得たのも、その血の賜物だ。それだけ強い霊力を、彼らは母から受け継いでいたのだ。
慌てた魔物よりも素早く、術師は袖を払い、彼の無防備な甥に集る低級魔精を追い散らした。魔精は一斉に散り、キアンから離れたが、その一瞬の隙に、今度は術師本人に襲いかかった。体勢が緩んでいた叔父は、敢え無く結界の突破を許してしまう。
凄まじい絶叫が響いた。
術師は、足元から、手指の先から入りこみ、彼を食い尽くそうとする毒の姿をはっきりと見ていた。からだの末端から、みるみるうちに変色していく。おぞましく、目を覆いたくなるような光景だった。
「お、叔父上…」
何が起こっているかはわからなくとも、変事の進行を察したキアンがよろよろと近づき、叔父の体を支えようとするが、叔父が身振りで振り払い、先ほどとはうってかわって、すがるような目でジンを仰ぐ。もう、自分には甥を守る力が無いと悟ったのだ。頼まれなくとも、魔物は既にキアンを保護下に置いていた。彼の体にはもう、毒虫は集ってはいなかった。しかしそれはキアンには自覚できない。かすんでしまった叔父の目にも、既に映ってはいないのかもしれなかった。
「ジン、ジン! 一体何が起こっている。何が!? 」
不安に急かされるようにして叫び、傭兵に助けを求めた。恐怖に潤んだ目で辺りを見まわす。風景は急速に腐敗し、変色し、異臭を放ち始めている。風が空気の淀みを掻き回し、辺りを一層濁らせる。
「シャナを…頼む……」
かすれ声で、術師が囁いた。彼は泣いていた。膝を折り、手をついた。その手は既に腐った肉の色をして、膿み崩れ始めていた。
「どうか…彼を。どうか」
「ジン! 」
キアンは悲鳴を上げた。
「何を見ている、どうにかしてくれ! 叔父上を助けてくれ! 」
いまやキアンの叔父は、みるみるうちに変色していく皮膚を纏う、物言わぬ肉塊に堕していた。ただ水っぽい、うめきとも嘆きともつかない呼吸音を漏らしている。
ジンは首を振った。もう、手の施し様も無かったし、因果というものでもあった。彼は魔法律を侵した。報いは受けねばならない。
彼も当然覚悟していたはずだ。人工的に練り合わされた悪意の塊が、目標を失って、生み出し手であり、一番手近の人間である術師に襲いかかるだろいうということは。
見守る甥とジンの前で、ついに、錬金術師は跡形も無く腐り落ち、絶命した。後には、吐き気を催すような匂いと、汚染された土地と水だけが遺された。一方、羽虫の様子は落ち着いたようだった。大半は既に消え去っていたし、残りもめくら滅法に突き当たった対象に取りつき、汚染を広げ、毒を流し込んで腐敗させては、その毒の中へ溶けこんで消滅していく。
キアンは衝撃に声も無い。
「さあ、立ちなさい。ここに長くいてはいけない」
ジンが手を貸し、キアンはされるまま大人しく立ちあがった。
「ジン、どういうことだ…叔父はお前に兄上のことを頼むと言った。一体、何があったんだ?
兄上…兄上は? 」
キアンは陣の中に倒れているシャナを見つけ、慌てて駈け寄った。張り綱に手を触れるのを躊躇うようにしてジンを見たが、彼が頷くのを確認して綱を跨いで中に入る。兄を抱き上げて、首に、次に頬に触る。
「あたたかい…」
安堵の溜息と共に言葉を吐き出した。
「一体、何があったんだ、説明してくれ。なぜ、兄上が無事で、叔父上があんな有様に…」
ジンは、一瞬、考え込んだように見えたが、妙にはきはきとした口調でこう言った。
「叔父上は、魔物と戦って倒れなさったのです」
キアンはジンの口調に含まれた皮肉に気付かなかった。目を丸くし、感嘆の声をあげた。
「ああ、叔父上――身を挺して兄上をお守りになったのだな。あのとき、仰ったのはこのことだったんだ……魔物は? 」
「もういない、つまり、彼を殺したものに関しては。少なくともこれ以上新たに被害を出すことは無い。今のままでも十分酷い有様ですが」
ジンは嘘をつかなかった。キアンは歓喜し、兄を強く抱きしめた。
「すぐに、この吉報を城に届けなければ。父上がどんなにお喜びになることか」
「駄目だ」
「どうして」
キアンは心底驚いてジンを見る。気分が悪かったことなど遥か彼方にに飛んでいた。すぐに城に戻り、父や親族、領民たちと歓びを分かち合いたい。皆、どんなに喜ぶことだろう。
シャナの頬を軽く叩いて気付かせようとする。
「兄上、兄上起きて。助かったんですよ! 」
「公子」
ジンが厳しく押し留める。
「その話しは後です。とにかく早くここを離れましょう。長くいるような場所じゃない」
ジンは、シャナを軽々と抱き上げて肩に担いだ。
「一旦館に戻って、それから起こしましょう。彼の身の振り方を勝手に決めたなんて、後で知ったら、酷い目に合わされるに違いない」
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酷い目に合わされる、とジンは言ったが、それは半ば本気だった。
要するに、シャナはそういう男なのだ。
殊勝そうに自らの運命を受け入れる様な素振りで、その実凄まじい執念で仕返しを企み、罠を張って力の行使を躊躇う事がない。母親の依頼だったからなどと言ってジンが正体をあらわしたところで、納得してついて来るとも思えないし、まして有無を言わせず攫いでもしようものならば、もてる限りの力を駆使して抵抗するに違いなかった。
ジンは寝台の脇に座って、シャナが目覚めるのを待つ。
錬金術師は、蒼白い顔をして、脂汗をびっしょりとかいている。連れかえる途中で少しばかり悪い空気を吸いすぎたらしかった。
窓から外を見ると、木々が朽ち葉色をして、一斉に散っている。禍禍しいほど赤い夕日に照らされて、美しい情景とも言えたが、この辺りの木が、そのように葉を落すのは枯れる直前だけのことだ。
やがてシャナの瞼が震え、目を覚ました。
「ジン……」
「シャナ」
ジンが彼の手を取った。シャナは弱々しく握り返して身じろぎする。助けを借りてようやく起きあがった。
「兄上! 」
ワインを盆に載せて戻ってきたキアンが、それを放り出す勢いで兄に抱き付いた。ジンはそれが床に落ちる前に辛うじて救ったが、その間にも、弟はシャナの顔中にキスを浴びせていた。
「キアン、放して。何があったか説明を……ジン! 」
始めはとまどいながらキスを受けていたシャナだが、次第に声を苛立たせる。ご要望に応じて、ジンは加勢し、弟を兄から引き剥がした。
「叔父上が、兄上を救ってくださったのです。叔父上は、残念ながら斃れてしまいましたが。多分、相討ちだったか――力尽きてしまわれたんだ。今、外は酷い有様ですけど、そうやって、兄上のことは守りきった。変わり者だなんて思ってたけど、なんて馬鹿だったんだ、素晴らしい方だ、叔父上は」
ジンの腕を押しのけて、キアンは続ける。シャナの手を取って。
「兄上、一緒に城に戻りましょう。父上も臣民もどんなに喜んでくれることでしょう、おれも――」
「彼が嫡男として戻ればあなたは後継者ではなくなる、それを判って言っているのですか」
ジンが口を挟んだ。
キアンは振りかえって傭兵を睨みつけた。
「判っている、だが、何が問題だ? おれが大公位に固執するとでも思ったか? その為に、おれが兄上の帰還を喜ばないとでも? お前のような流れ者には判るまい、シタンのような土地を統治するということの意味は。兄上のような方こそがシタンには必要だ。おれには、兄の助けになる用意もできている! 」
「あなたは、良い領主におなりだろうよ」
とジンはしみじみと言った。人の心の機微には少し鈍いところがあるように見えるが、そんなもの、シャナの言う通りおいおい学ぶことだろう。
さらに気負って抗弁しようとするキアンを、シャナが優しく遮った。
「キアン。私は城には戻れないよ」
「まだ、ご気分が? いつ頃発てますか。具合がお悪いのに、こんなふうに急き立てるのはおれも嫌ですが、気がせいて。外は変な様子だし、どうせなら、城でゆっくりお休みになって欲しいのです。せめて、もっと不自由の無い場所に」
「駄目だ」
ジンは再び言った。
「何故? さっきもそんなことを言っていたな」
キアンが眉根を寄せて訊ねるのに、ジンが鹿爪らしく答える。
「彼はシタンにいるべきではないからだ」
「よくもそんなことを」
「キアン、ジンの言うとおりだ」
シャナはキアンの腕に手を置き、彼を宥めた。
「お前の気持ちはとても嬉しいけれど、私は大公の器じゃないし、政治に向いてもいない。私はずっと死んでいた、言っている意味はわかるだろう。戻ってもなんの役にも立てない。将来の邪魔になるばかりだ。お前は構わないと言ってくれるけれど、期待していた周りのものは、お前が廃嫡されれば、いい気はしないだろう。お前や父上、血縁と離れることは寂しいけれど、もともと、死ぬ覚悟でいたんだ。私は――」
「シャナは私と共に発った方が良い」
ジンが引き継いだ。
「領民は、それはもちろん一時はシャナの帰還を喜ぶだろう。しかし、全てが一段落し、この汚染された谷が残ったとき、彼らは恐らくシャナを恨む。ただ一人の為に水源が汚されたことを呪う。大公家の治世そのものを恨むかもしれない。守るべき彼らの生活のために、自らを犠牲にしなかったという理由で。シャナは、ここにいないほうが安全だ。魔物が彼を連れていったけれども、その際に、叔父上を殺し、叔父上の死の為に結界が破れてこんな有様になったのだと説明した方が収まりが良い。恨みは魔物だけに向かい、領民たちはシャナの犠牲を悼み、叔父上を悼んでくれるだろう」
「でも、そんな」
キアンは納得がいかない顔だ。
「そんな勝手な」
「そういうものだ」
ジンがきっぱりと言いきる。
キアンは思案した。一度は死人として扱われていたシタンで、シャナの地位は一層不安定なものとなる。例え、兄が正嫡としての地位を固辞したとしても、政治的な混乱の元になりかねないのは事実だ。また、この谷の惨状を間近に見るにつけても、この有様に対する非難の矢面に、兄が立たされるなどと、考えるだにぞっとする。本当にそんなことになってしまうのだろうか。そうなったら、自分は兄を守りきれるのか。
「キアン、これは私の我侭勝手だ。お前にばかり重責を負わせて逃げ出すようでつらいけれど」
「そんな、兄上」
そんなのは全く兄の思い過ごしだ。彼は精一杯のことして、今また犠牲を払おうとしているだけだ。弟は慌てて兄の手を握る。
「そんなふうに言わないで下さい! 」
「お前にシタンをまかせていいだろうか。諾と言って安心させておくれ、私の為に」
「もちろんです。ご安心を」
一本気な弟はつい気負って請け合い、ジンを苦笑させた。キアンは、年上の男に笑われて、自分が兄にうまく乗せられてしまったことを悟ったが、同時に兄の決心の強さをも理解した。兄は本当に、もう、自分と帰るつもりは無いのだ。
「それに、シャナの体の問題もある」
ジンが指摘した。
「からだがなんだっていうんです。兄上、そんなに具合が悪いんですか。それなら、なおさら」
「違う、違う」
ジンが手をひらひら振る。
「シャナに、昏倒させられたろう。もう忘れたのか」
「忘れはしません…目が覚めたとき、酷い頭痛がした。慌てて飛び出したんですが、ふらふらしましたよ。あれは、なんだったんですか」
「毒だよ、キアン。毒だ。詳しいことは省くが、兄上の体は今、毒のかたまりだ。吐く息に中って大の大人が昏倒するような毒の壷。大公家の生活に戻ろうとしたって、普通の人間としてはもう生きていけないんだ。妻を娶ることも出来はしない、子を持つことも、もちろんそう長生きもできない。そうだろう、三十までは保ちはしまい」
「なんですって」
キアンが青褪めた。
「兄上、魔物の呪いに掛けられたのですか。奴め、兄上を道連れにしようと? ひどいことを」
「違う、キアン、私の愚かしさに対する罰だ」
シャナが自嘲する。
「これは、私が自分で自分にかけた呪いだ。魔物の呪力に対抗できるつもりでいたんだ。けれど、そんな犠牲を払って、なんの役にも立たなかった」
シャナは唇を噛んだ。
「ジンに連れられてあのあたりへ行って、叔父上の姿を見た後のことが全く記憶に無い。多分、魔物の瘴気にあてられて昏倒してしまったんだ。馬鹿みたいだ――」
「兄上……」
キアンは兄が傷ましくてならなかった。自分ではどうしようもない運命のままに冷遇されて、それでも兄は、一度も恨み言を言ったり、誰かにあたるようなことも無かった。なのに、魔物が去ったと思ったら、また、さらにこうだ。どうしてこんな目にあわなければならないのか。
「兄上、何か手立ては無いんですか。解毒剤とか、呪禁師とかに心当たりは」
シャナが首を傾けるようにして考えた。
「――解毒剤」
「心当たりが? 」
キアンが兄に食いつかんばかりにして訪ねる。
「テリアカ。確か、テリアカと」
「なんです、それは」
兄の顔を見、次に傭兵の顔を見上げた。うながされるようにしてジンが説明する。
「伝説の万能薬だ。どんな毒にも効くし、どんな病も怪我も癒すという。貴重な秘薬と聞いたが、試してみる価値はあるかもしれない」
「それを! 」
キアンが飛びあがって叫んだ。
「やはり一旦城に戻りましょう、すぐに取り寄せてもらわなければ」
「それはどうかな」
ジンは肩をすくめた。
「伝説の、と言っただろう。貴重といっても、ただ高価だとか希少だとかいう意味じゃない、薬舗で売っているようなものじゃないんだ」
「では、兄上が練ればいい。随分、貴重な材料が? 製法が秘伝だとか? 」
「材料は――さあ。しかし、大公家の力ですればなんとかなるかもしれん。しかし問題は時間なんだ。確か、数世代に渡って煮詰めたり漬け込んだりするような、恐ろしく手間と根気のいる作業が必要だった筈。シャナが何回か生まれ変わらないと出来あがらない」
シャナが、細い声で応じる。
「多分、あるとしても、どこかの王家か、代々続く錬金術の大家の家系に受け継がれているくらいだろうね。賢者の石のようなものだ。恐らく門外不出、私なんかには見せてもくれないだろう」
「でも、兄上はシャナ・レーンじゃありませんか! 」
キアンは我慢できずに怒鳴った。
「平原でも有数の錬金術師じゃありませんか、その歳で! 始めもしないうちから諦めるつもりですか? 錬金術師や王家が秘蔵してるんなら、それを引き出すような方策を考えれば良い。なにかの秘術や別の秘薬と引き換えに、分けてくれるかもしれない、試してみもしないうちからなんでそんなあきらめるようなことを。兄上らしくありません」
キアンは振りかえり、ジンに言った。
「ジン、おれはお前を雇うことにする。今度こそ。いくらなんでも二度も主を裏切りはすまいな。兄上について、『テリアカ』を捜せ。兄上とともに今すぐ発つんだ」
心を決めると、キアンは早かった。立ち上がり、懐から金袋や為替の小さな冊子を次々出してジンに押しつける。
「夜になる前に発つがいい。おれの乗ってきた馬を使え。現金はこれだけ。手紙をくれればまた送ってやる。行き先はこまめに報せてくれ」
「判った」
ジンは短く応じた。
「勝手に決めるな! 」
ジンの思った通り、シャナはいきり立ったが、キアンは兄の手を握り、目を覗きこんできっぱりと告げる。
「かならず、『テリアカ』を手に入れてください。そしてシタンに戻ってきて下さい。おれはいつまでもいつまでも待っていますし、援助は惜しまない」
「キアン」
「誓ってください! 必ず、戻ってくると。誓って」
「誓う」
キアンの真剣なまなざしに、堪えられない様にシャナの目が潤んだ。
「キアン、愛している。必ず戻る。ありがとう。必ず」
キアンの手を握り返した。
夜があけるのを待って、主従は旅に出た。長い旅、あてど無い平原に。