(3)
翌日から、リリーは一人で登校することにした。オルトにはこれ以上助けを求めたくなかった。オルトがリリーをかばうのは幼馴染だからだが、周りはそう見てくれない。あの朝の出来事はマイカたちだけでなく、オルトに夢中な他の女の子の神経も逆なでしてしまったらしく、廊下で過ぎざまに文句を言われるようになったのだ。
マイカたちもリリーに話しかけなくなった。少し離れた場所でリリーを見ながら内緒話をしては笑っている。他の教養学科生もリリーと積極的に仲良くしようとする人はいない。完全に孤立した中で、トープだけがリリーに声をかけて常にそばにいるので、そのうちひやかされるようになってしまった。
ある日の授業中、教室の窓の外をふと横切る影があった。リリーが気づいて目をやると、青い法衣を着た生徒が数人、空を飛んでいた。
(『翼の法』だ……)
風の法専攻生が最初に学ぶ法術。リリー自身も初めて唱えたのが『翼の法』だった。
あの頃は楽しかった。うまくできるようになると嬉しかった。
もっと知りたい。もっと勉強して、いろいろな法術が使えるようになりたい。
“すごいわ、リリー。お父さんが見たらびっくりするわよ”
『神々の寵児』として有名だった父。普通は守護してくれる神は一神なのに、すべての神が応じてくれる、何十年かに一人しか生まれない稀有な存在。
(どうしてお父さんは、風の法を選んだの?)
どの法術も使えるから専攻を自分で決めたという父。上達するのに一番時間がかかると言われている風の法を、なぜ選択したのか。
もし父が別の法術にしていたら――母の守護神が風の神でなかったら、自分の守護神も違ったかもしれない。
「リリー、そんなに見つめられると、さすがの僕でも照れるよ」
寒気がするほどのねっとりとした口調が耳に触れ、リリーは我に返った。風の法専攻生をぼんやり眺めていただけなのに、間にいたトープは自分を見ていると勘違いしたらしい。
すぐに否定しようとしたリリーより先に、周囲の生徒が口笛を吹いた。
「おっ、ついにトープの気持ちが通じたか?」
「授業中まで見つめあうなんて、熱々ね」
マイカたちもくすくす笑う。教官が注意をしたので騒ぎはすぐにおさまったが、興味深そうにちらちら視線を投げてくる同期生たちから逃れるように、リリーはうつむき、唇をかたく結んだ。
(頭が痛い……)
やっと放課後になり、リリーはトープに捕まる前に教室を出た。トープは追いかけてこようとしたが、あせったのか机の脚に引っかかって転んでしまい、持っていたカバンの中身が床に散らばった。待ってくれと泣き声が聞こえたが、無視して廊下を急ぐ。
こんなことがいつまで続くのだろう。
神法学科を拒んで教養学科に入ったのに。つらいことから離れたかったのに、まさか別の問題に悩まされるなんて。
「リリー、ちょうどよかったわ。迎えに行こうと思ってたの」
生徒会室の前まで来たところで、馴染んだ声が届く。ふり向くと、セピアとオルトが立っていた。
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
セピアがリリーの額に手を当てる。熱はないが、少し冷たいセピアのてのひらが気持ちよかった。
「リリー、最近どこで昼食をとっているんだ? 姿を見かけないんだが」
「あ、えっと……マイカたちとあちこちで食べてるから」
オルトの追及に目をそらす。本当は何も食べていなかった。昼休みは人目を避けて移動しているから。
「嘘。最近あの人たちとうまくいってないんじゃない?」
セピアの話では、このところマイカたちは休み時間や放課後は、いつも大地の女神の礼拝堂のほうへ向かっているらしい。そこでオーメン教官と楽しそうに花壇の水やりをしているという。
「教養学科の人たちがリリーとトープを恋仲にしようとしてるって聞いたの。私たちと朝一緒に登校しなくなったのも、もしかしてオルトのことが絡んでるんじゃないの?」
答えることができず、リリーは黙り込んだ。
「リリー、俺はどうしたらいい? 俺があいつらの相手をすれば、元に戻るのか?」
リリーはかぶりを振った。そんなこと、オルトには頼めない。今でもたくさんの女の子たちに囲まれて、疲れた顔をよくしているのに。
「オルトが入るとどうやってももめるからだめよ。彼女たちに付き合えば別の人たちもうるさく言うから、収拾がつかなくなるわ」
セピアにもとめられて、オルトが唇をかむ。
「ねえ、リリー。神法学科に編入しない?」
セピアの提案にリリーははっとした。
「このまま教養学科にいても、あなたにとって何もいいことがないと思うの。神法学科なら、私と同じ授業も取れるから、今よりは一緒にいられるわ」
「……神法学科には行きたくない」
一生涯忘れられないだろう苦しみがよみがえり、リリーは震えた。
「風の法は使いたくないの」
リリーの返答にセピアとオルトが眉根を寄せる。
「心配しないで。もう少し落ち着いたら、きっと話のできる友達ができるから」
無理やり笑おうとして、リリーはかたまった。セピアたちの後ろに、ルテウスが立っていたのだ。
「お前、やっぱり風の法を使えるんだな」
ルテウスは大股でリリーに近づいた。
「素質があるのになんで学ばない? 風の法を専攻したくてもできない奴だっているんだぞ!?」
「だって……私には、無理」
ルテウスからぶつけられる苛立ちに息苦しさが募り、リリーは胸を押さえた。
「何が無理なんだよ!?」
「ルテウス、あなたはリリーに接触禁止だって言ったでしょっ」
リリーに詰め寄るルテウスの法衣をセピアが引っ張る。
「できないものはできないの。風の法だけは使いたくない。風の法は嫌いっ」
ルテウスが目を見開く。怒りの爆発した顔で、ルテウスは手を振りかざした。
バシッ!
背後から頭を押さえつけられる形で抱え込まれる。頭上ではじけた音に、リリーは呼吸をとめた。
おそるおそる顔を上げる。リリーの代わりに平手打ちを食らったソールの耳は赤くなっていた。
「――貴様!!」
オルトがルテウスの肩を引っ張って向きをかえさせながら、その頬を殴った。
「リリーに何てことをしやがるっ」
吹っ飛ばされて壁に背中を打ち付けたルテウスは、オルトをにらみつけた。
「うるさい! 風の法を嫌いだと!? この女だけは絶対許さねえっ」
「リリーの事情を知らない奴が横から文句言うな!」
ルテウスの襟をつかんで引き上げようとしたオルトの膝をルテウスが蹴飛ばす。体を折り曲げるオルトにルテウスは馬乗りになろうとしたが、先にオルトがルテウスの腹にこぶしを叩き込んだ。
「ちょっとオルト、落ち着いてっ」
セピアが叫ぶが、取っ組み合う二人に割って入ることはできない。リリーを解放したソールがため息をついて一歩踏み出したとき、オルトとルテウスの間に飛んできた小さな火球がボッと火柱をあげた。
「あっつ……!!」
飛びのいた二人がそれぞれ火をはたいて消す。やってきたのは炎の法専攻生とフォルマだった。
「はいはい二人とも、喧嘩はなしだよー。よかったねえ、僕の法術がまだ習いたてで」
そうでなければ今頃黒焦げになってるよ、と物騒なことを言う炎の法専攻生は、フォルマとよく似た顔立ちをしていた。柔らかそうな狐色の髪も同じで、瞳の色だけが違う。
法衣を貸してくれた炎の法専攻生とは双子だとフォルマが言っていたことを、リリーは思い出した。
「レオン、お前、自分の専攻で人を攻撃するのは規律違反だぞっ」
「嫌だなあ、ルテウス。僕は攻撃なんかしていないよ。ちょっと法術の練習をしただけだし、それくらいでけがをするような君たちじゃないでしょ」
抗議するルテウスにレオンが青い瞳を細めて笑ったところで、剣専攻担当のラーヴォ・ウォルナット副教官が走ってきた。
「お前たち、何をしている!」
明らかに喧嘩していたのがまるわかりの状況だけに、言い逃れはできない。ルテウスは舌打ちして横を向き、オルトも唇をかんだ。
「まったく……オルト、父親が泣くぞ。喧嘩の原因は何だ?」
ウォルナット副教官が嘆息しながら灰赤色の髪をかきむしる。オルトはルテウスを指さした。
「こいつはリリーを殴ろうとしたんですっ」
「何だと?」
褐色の瞳がぎらりと光ってルテウスを射抜く。
「だってあいつが風の法を嫌いだなどとぬかしやがるから! キュグニー先生の娘のくせにっ」
ウォルナット副教官が驚いたさまでリリーを見る。リリーは後ろめたさに下を向いた。
「あー、その、なんだ。人にはいろいろあってだな……まあいい。話を聞くから、お前たちは一緒に来い」
その発言から、ウォルナット副教官も自分が教養学科に入った理由を知っているのだとわかった。この学院の教官には両親と関わった人が多いから、情報が伝わっているのだ。
ウォルナット副教官がオルトとルテウスを連れていく。セピアがソールに近づいた。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっと耳が痛いくらいだ」
「外だけ? 中も痛い?」
両方だとソールが答えると、「治療するね」と言って、セピアは水の紋章石のはめ込まれた杖を構えた。
「生命の滴を司りし水の女神エルライ。かの者に癒しの口づけを。血は血より、肉は肉より返らん」
最後にセピアが宙に円を描く。水の紋章である円から放たれた銀色の輝きがふわりとソールを包み込んだ。
「――つっ!!」
ソールが顔をしかめた。
「ごめん、まだ習い始めだから加減がうまくできなくて」
表面上の赤みは消えたが、痛みが後をひいているのか眉間にしわを寄せたままのソールに、セピアが申し訳なさそうな顔をする。
「リリー、ごめんね。ルテウスがまた怖がらせちゃって」
けがはないかとフォルマに優しく聞かれ、リリーはうなずいた。
「ルテウスはこの学院で、キュグニー先生と同じ風の法専攻生になりたかったんだ。でも守護の儀式をしたら、応えたのが大地の女神でさ、入学試験の後はすごく落ち込んでたんだ。元々勉強熱心だから、今は黙って大地の法を学んでいるし優秀だけど、風の法に対して未練がすごくてね。やつあたりと呼ぶにはちょっと激しすぎるけど、いずれ時間が解決すると思うから、勘弁してやってくれないかな」
穏やかな口調でレオンも弁護する。この二人はトープに追いかけられていた自分を助けてくれたのだ。そんな二人がかばう幼馴染が悪い人であるはずがない。
「数日中にはあやまりに行かせるから」と言うレオンに、リリーはかぶりを振った。
「あやまらないといけないのは私のほうだよ。大事にしているものをけなされたら、怒って当然だもの」
落ち着いたらルテウスときちんと話がしたいと頼むリリーに、フォルマとレオンも「ありがとう」と笑って去っていった。
「セピア、オルトのことを任せてもいい? ルテウスも今は私と顔をあわせたくないだろうし」
謝罪はしたいけれど、日を改めたほうがいいだろう。
「わかったわ。リリー、あまり気にしちゃだめよ」
セピアも走っていく。すっかり静かになった廊下で、リリーは隣に立ったままのソールを見上げた。
「あの、助けてくれてありがとう。それから、けがをさせてしまってごめんなさい」
ぺこりと頭を下げてから、リリーはソールの耳を見て尋ねた。
「もう痛くない?」
「ああ。というか、ひっぱたかれたときよりも、むしろ『治癒の法』が効いている間のほうが痛かった。水の法って思ったより凶悪な治し方をするんだな」
「習い始めたばかりだって言ってたから。術の扱いに慣れれば、もっと優しく回復すると思うよ」
そういうものかとつぶやいて、ソールが確認するように耳に触れる。
沈黙が落ちた。話を続けるべきかリリーが迷っていると、先にソールがくるりと背を向けた。数歩進んでから、不思議そうにリリーをかえりみる。
「帰らないのか?」
一緒に帰るつもりだったのか。びっくりしたものの、何となく導かれるようにリリーはソールを追った。
町の中央広場にたどり着くまで、リリーもソールも無言だった。並んで歩いているものの、何を話せばいいかわからなくて、リリーは内心で汗をかいた。剣ならまだしも槍のことはほとんど知らないから、うかつなことを言うと変な顔をされるかもしれない。
ソールも槍専攻一回生代表なので、きっと勉強のほうもできるのだろう。自分の周りは優秀な人ばかりだなと、リリーは劣等感に小さく息をついた。
「ちょっとそこに座ってろ」
ソールが噴水の縁を指さしてから、屋台のほうへ向かう。いぶかしみながらも素直に腰を下ろしたリリーのもとに、屋台で飲み物を二つ買ったソールが戻ってきた。
一つを渡されてきょとんとするリリーに、ソールも首をかしげた。
「疲れたのかと思ったんだが、違うのか?」
はっとしてリリーは慌てて否定した。
「あ、違うの。違わないけど、えっと、その……」
「どっちだ」
ソールが苦笑する。
さっきのため息をソールは聞いていたのだ。勘違いだとも口にできず、リリーはおとなしく飲み物を受け取ると、隣に座るソールに礼を言った。
緊張していたから、のどはからからに渇いていた。ソールはよく気がつく人だなとリリーは感心した。
「俺の父さんとお前の母さんは、同期生だったんだ」
ソールが自分の飲み物を一度口にしてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ゲミノールム学院から武闘館まで、それぞれの専攻の代表で、大会ではずっと対戦していたらしい」
リリーの母は女性としてもやや小柄なほうだったが、ゲミノールム学院だけでなく、武闘館に進学してからも、常に先頭を走り続けていたのだという。
「ソールのお父さん、お母さんのことを何て言ってるの?」
今も現役で活躍している父の噂はちょくちょく耳にするが、結婚してからは知り合いのパン屋と剣鍛錬所で手伝いをしている母のことは、父ほどには聞かない。昔一緒に冒険していたというセピアやオルトの両親から、たまに教えてもらうくらいだ。
リリーの問いに、ソールは少しためらうように視線をさまよわせた。
「……阿呆だったって」
「えっ!?」
「勉強嫌いだったみたいで、授業中によく寝てたそうだ」
(お、お母さん……)
リリーはがっくりとうなだれた。それはちょっと恥ずかしい。聞かなければよかったと後悔しかけたリリーに、ソールはくすりと笑った。
「でも、すごく強かったらしい。それから、あきらめが悪かった」
ぱっと顔を上げてソールを見る。ソールはまた一口、自分の飲み物に口をつけた。
「危機に陥っても絶対に逃げないで、相手が仲間だろうとそうでなかろうと、助けるために一生懸命だったそうだ。だから、みんなから頼りにされていたって言ってた」
自分を守るために身を投げ出した母の姿が目に浮かぶ。母は昔から、そんな人だったのだ。
「入学試験の前に、俺とお前が同い年だって父さんに聞いたときは、どんな奴かと思ってたんだ。まあ、あきらかに武器を振り回しそうには見えなかったから、父さんたちみたいに戦えないのがわかって、残念じゃないと言えば嘘になるが、さすがにな」
ということは、ソールはずっと自分のことを観察していたのか。そう考えて、気づいた。やはりあのとき、マイカたちとのやり取りで泣きそうになった自分に、ソールはわざとぶつかってきたのだ。
リリーの薄緑色の瞳に涙がにじんだ。
みんな優しい。セピアも、オルトも、ソールも――フォルマやレオン、そして父と母も、何も追及しない学院の先生たちも。
それなのに、自分は前に進めない。あの日から、風の法に目をそむけたままだ。
「……私……私ね、小さい頃に風の法を使ったの」
六才の誕生日を迎える直前だった。父の部屋で風の法の本を見つけ、読めない文字は父に教わって、初めて『翼の法』を唱えた。
一回で体がふわりと宙に浮いた。すぐにコツをつかんで、部屋の中を自分の意思で飛ぶくらいならできるようになった。
ほめちぎる父と母の顔を見るのが嬉しかった。法術を使える自分が誇らしかった。その後、父は防御の法術である『砦の法』も教えてくれた。それもニ回で使えるようになったが、効果はあまり持続せず、強くもなかった。
父が言うには、風の法は他の法術と異なり、攻撃と防御と補助の法術をまんべんなく学んでいかなければ、威力が上がらないらしい。
それからしばらく研究のために神法学院に泊まり込むことが決まった父は、自分に風の紋章石を預けていった。法術は本当は扱いが難しく、使い方を間違えれば大惨事を引き起こすこと、紋章石は術力を安定させるものだから慣れないうちは必ず身に着けること、そして絶対に一人ではやらないことを言い聞かせて、父は家を出ていった。
七日後の自分の誕生日に父は帰宅するから、もっと早く術が発動するように、毎日練習した。それでも『翼の法』も『砦の法』も、ある程度までしか上達しなかった。だからまだ習っていない『嵐の法』を試してみようと思った。
誕生日に披露して二人をびっくりさせたかったから、わからない言葉だけ書き写して母に質問した。
でも、『嵐の法』もなかなかうまくできなかった。明日には父が帰ってくるのに――あせりながら大声で唱えた法術と、近くで洗濯物を取り込んでいた母の呼びかけが重なった。
“リリー、洗濯物の中に紋章石が入っていたわよ”
昨日着ていた服の中に入れたままだったことに、リリーも気づいた。今日、自分はずっと紋章石を持たずに練習していたのだ。
そのとき、暴風が起きた。
少し遅れて発動した『嵐の法』は、荒れ狂いながらリリーのほうへ向かってきた。庭の木々も草花も全部巻き上げながら。
“リリー!!”
洗濯物をカゴごと放り捨てて母が走ってくる。うなりをあげて迫る大風に飲み込まれる寸前、母に抱きしめられた。
耳をつんざく叫び声は、自分のものなのか、母のものなのか、それとも乱舞する風の音だったのか、わからない。どれだけ時間がたったのかも覚えていない。ただ、嵐の過ぎた中で倒れ伏している血だらけの母の姿が視界に入ったとき、自分の心は粉々に砕け散った。
揺すっても、何度呼んでも、ぴくりとも動かない母に、泣いてすがりつく以外何もできなかった。
あのとき、研究が終わったからと、父が一日早く帰宅していなかったら。
父がもし『神々の寵児』でなかったら――水の法を使えなかったら。
母の命はなかったのだ。
「私には、風の法を使う権利なんてないの」
リリーは服をにぎりしめた。
「許されても、使えない。使うのが怖いの」
もう二度と、誰かを傷つけたくない。
自分の使える法術が、水の法か大地の法ならよかったのに。もしくは父と同じ『神々の寵児』だったら、自分で選べたのに。
ぽろぽろと涙がこぼれる。一度あふれ出すと、もうとまらなかった。
飲みかけの果汁の中にも落ちた滴が波紋を広げる。
「別に、無理して親と同じ道を進まなくてもいいと思うぞ」
しゃくりあげて泣くリリーに、ややあってソールがぼそりと言った。
「親が有名だと周囲の期待はどうしても大きくなるけどな。嫌なら嫌で、それを貫けばいい」
ソールがポケットをごそごそ探り、布を引っ張り出す。しかし今日自分がさんざん使って汗臭くなっていたのか、においをかいで顔をしかめると、気まずそうにまた布をしまった。
「でも、怖いだけなら学べばいいんじゃないか? 知らないから怖いんだ。対処法がわかれば、怖くなくなることもたくさんある」
「……もし勉強しても……頑張ってもどうにもならなかったら?」
やっぱり恐怖感がぬぐえなかったら。
「そのときは、やるだけやったとふんぞり返って堂々と逃げ出せばいい」
「ふんぞり返って……堂々と?」
あっけにとられて、ソールの顔をまじまじと見つめる。偉そうに肩をそびやかして逃げるソールの姿を思い描き、リリーは吹き出した。
「そんな逃げ方、聞いたことないよ」
「お前、俺で想像しただろう」
「うん」
目尻にたまった涙を指でふきながらリリーが笑うと、わざとらしく渋面していたソールも相好を崩した。代表戦のときの黄赤色の双眸は戦意を色濃く映していたのに、今のソールのまなざしはとても柔らかい。
とくん、と鼓動がはねた。初めて感じるふわふわしたぬくもりが全身をめぐっていく。
「保護者が来たな」
つとソールの視線が動いた。同じ方向を見やると、セピアとオルトが足早にこちらを目指して来ている。
「リリー、大丈夫か?」
途中でセピアを置き去りにして猛然と走り寄ってきたオルトは、リリーの頬に涙の跡を見つけたらしく、ソールをにらみつけた。
「お前、リリーに何を言ったんだ!?」
「オルト、待って。ソールは私の話を聞いてくれてたの」
「もう、オルトってば! さっき注意されたばかりなのにまた喧嘩するつもり?」
息せききって追いついたセピアが、あきれ顔で叱りつける。ソールは横に置いていた槍をつかんで立ち上がった。
「そんなに心配なら、首に縄でもかけて連れ歩いておけ」
「リリーを家畜扱いする気か!?」
憤然とするオルトを無視して、ソールは去っていった。
「リリー、本当にあいつに何もされていないのか?」
「うん。帰り道が同じだったみたい。ここまで一緒に来て、ちょっと休憩してたの。ソールのお父さんと私のお母さんが同期生なんだって。それで、学院生の頃のお母さんがどんな感じだったか教えてくれたの」
自分が風の法を使えなくなった理由を話しても、ソールの態度は変わらなかった。同情もしなければ、嫌悪や侮蔑の言葉もない。ただ聞いてくれたことが、リリーは嬉しかった。
「んん? ソールの家ってたしか、こっちとは反対方向じゃなかったっけ」
神法学科の友達がそう言ってたけど、と首をかしげたセピアはぽかんとするリリーを見て、何かに気づいた表情を浮かべた。
「へえええ、これはもしかして……」
にやあっとするセピアに、リリーは動揺した。
「な、何?」
「なーんでもない」
セピアが楽しそうに含み笑いをする隣で、オルトはむすっと黙り、ソールの消えたほうを見つめていた。
その夜、リリーは机の引き出しの奥にしまっていた小さな木箱を取り出した。一度そっとなでてから、蓋を開ける。
厚みのある布にくるんでいたのは、右肩上がりの『Z』の形をした、青い紋章石だ。
もう二度と見たくなくて、でも捨てることもできず、目につかない奥のほうへ隠していた石を、リリーは慎重に手に取った。
あれから何年もたつのに、青い石は曇ったり欠けたりすることなく、控えめな光を放っている。
自分は今、教養学科生だから、これを使うことはない。それでも久しぶりに自分の半身に再会したようで、胸が震えた。
用意していた青い袋に紋章石を入れ、リリーは目を閉じて袋に額を押し当てた。
「オーメン先生、聞いてくださいよー」
大地の女神の礼拝堂前の花壇に、マイカたちがやってくる。オーメン教官は水やりの手をとめて、マイカたちを出迎えた。
「あの子、今日はソールと帰ってたのよ」
「オルトだけじゃなく、ソールにまですり寄るなんて」
マイカたちの文句はとまらない。そのたびに足元の花が実をゆすっていることに、彼女たちは気づきもしない。
そのとき、一人の大地の法専攻生が通りかかった。
「もうほんと、リリーってばむかつくーっ」
マイカたちの声に男子生徒が反応する。赤茶色の髪を後ろで一つにくくっている彼はマイカたちをかえりみたが、すぐに顔をそらして礼拝堂へ入っていった。
彼が祈りに来ているわけではないことを、オーメン教官は知っていた。意に沿わない結果への不満を吐き出すため、一人になれるこの場所へ足を運んでいるのだ。自分の専攻も良いものだからと無理やり納得しようとして――しかし聞こえてくる恨み妬みは、どれほど小さいつぶやきでも、ここで育つものたちには伝わっていく。
(機は熟した)
大切に大切に育んできたねじれ輪の黒い扉が、いよいよ開く。
(さあ、いらっしゃい)
たくさんの憎悪を一身に浴びる少女に、呼びかける。
(その身を、アルファード様に捧げるのよ――)