(2)
ようやく本葉が大きくなり始めた。大地の女神の礼拝堂のそばにある花壇で水をまきながら、ベルム・オーメン教官は口の端を上げた。
卒業式と入学式に間に合うように植えた苗は、もうあたり一面で咲き乱れている。一緒に学院に運び入れたこちらの苗は、これからどんどん育っていくだろう。
でもまだ栄養分が足りない。もっともっと肥料をやらなければ。
美しい花を咲かせるために、とても上質な肥料を――。
授業が始まると少しは落ち着くかと思っていたのに、リリーの周囲は相変わらず騒がしかった。まずトープがとにかく寄ってくる。朝は正門でリリーを待ち伏せしては一緒に登校したオルトに追い払われ、教室を移動するときも可能なかぎりそばに張りつき、もちろん授業を受けるときも隣の席を確保しようとする。マイカたち数人の女生徒がはじいてくれるものの、ちょっとでもリリーが一人になればどこからともなく飛んできて話しかけるのだ。
トープを遠ざけてくれるマイカたちには感謝しているが、こちらはこちらでオルトのことばかり聞きたがり、たまにオルト本人が顔を出した日には悲鳴をあげてオルトを取り囲む。マイカたちに質問責めにされるのが苦痛らしく、最近はオルトも剣専攻の同期生と行動をともにしながらさりげなくリリーの様子を見ることが増えている。
さらにもう一人、入学式でリリーに詰め寄った神法学科生の存在だ。水の法専攻生のセピアからの情報によると、彼の名はルテウス・ティモン。大地の法専攻生らしい。セピアやオルトと同じく一回生代表で、入学試験では全学科あわせた中で圧倒的一番の成績で合格したという。
「レオンが言うには、ルテウスはリリーのお父さんを尊敬を通り越して崇拝してるんだって」
朝の登校中に並んで歩きながら、セピアがそう報告した。神法歴史学の授業で隣になった炎の法専攻生のレオン・イクトゥスがルテウスの幼馴染で、事情を聞いたのだ。
「なんでも小さい頃に爆発事故があって、ルテウスは大けがをしたそうよ。そのときたまたま神法学院から帰る途中だったファイおじさんが駆けつけて、治療してくれたんだって」
リリーの頭の中で、父が『治癒の法』をかけている相手がルテウスから母へと変わる。惨劇がよみがえりかけ、リリーは無理やり記憶を押し戻した。
「リリーに接触しないように、レオンからルテウスに言ってもらったから、大丈夫かなとは思うんだけど」
確かに、あれ以来ルテウスは近づいてこなくなった。近づいてはこないが、遠くからリリーをにらみつけていることがよくある。
ローが気にかけていたルテウスがまさか彼だったとは……あの様子では、とてもではないが穏やかに言葉をかわすことなどできない。
父が有名な神法士だからといって、子供まで同じ道を進むとはかぎらないのに。
なぜ、神法学科生にならないといけないのか。
なぜ、風の法を学ばなければならないのか。
風の法なんて、何の役にも立たないのに――。
うつむいていたリリーは、正門をくぐったことに気づかなかった。だから、隣にいたオルトに急に引き寄せられてよろめいた。
あちこちで女生徒たちの悲鳴がわく。目をしばたたいて顔を上げたリリーは、自分の肩を抱いているオルトの鋭いまなざしをたどってぎょっとした。
大きな花束をかかえたトープが、リリーの数歩先まで迫っていた。
「行こう、リリー」
口を開きかけたトープを視線だけで黙らせ、オルトがリリーを促す。おとなしくオルトに従ったリリーは途中、自分を見つめるマイカたちの暗い表情を目にした。
マイカがはっとしたさまで顔をそらす。そして周囲の友達と何かこそこそ話すと、マイカたちはその場を離れていった。
「おはよう、リリー。朝のオルト、格好よかったね」
最初の授業の教室に入るなり、マイカたちがリリーに群がった。オルトが触ったものなら何でも触れたいとばかりに、リリーの肩を順番になで始める。
「こう、さっと抱き寄せて……本当に素敵よね」
「ねえ、リリー。オルトって幼馴染なんでしょう?」
「う、うん」
「でも、あれだと何だか恋人同士みたい」
口元は笑っているのに、マイカたちの目は怖かった。
「最近オルトってば全然会いに来てくれないし」
「もしかしてリリー、私たちがオルトと仲良くするのが気に入らなくて邪魔してるの?」
「そんなこと……」
オルトは元々女の子たちに囲まれるのが好きではないのだ。オルトの都合などおかまいなしに取り巻いて、動きを封じてしまうから。だからマイカたちがそばにいるときは、オルトはあえて近づかず遠目に見守るだけになった。
自分がオルトをとめているわけではない。でも、それを正直に伝えるのは気が引けてリリーが口ごもっていると、マイカが扉のほうを見て笑顔になった。
「あっ、トープ! リリーがね、朝花束を受け取れなくて申し訳ないって言ってるわ。大勢の前だと恥ずかしかったそうよ。荷物にもなるから、放課後に欲しいんだって」
重たい体を揺すりながら、トープがにこにこして寄ってきた。
「なんだ、リリーは恥ずかしがり屋だなあ。いいよ、放課後に渡すから、一緒に帰ろう」
「マイカ……?」
勝手に話を進めるマイカに、リリーは驚き、とまどった。
「待って、そんなこと私言ってな……」
「ほら、トープ。今日はリリーの隣を譲ってあげるわ」
呆然とするリリーを残し、マイカたちはくすくす笑いながら離れた席へと移動していった。
その日の午前中の授業は、マイカたちの壁がなくなったリリーの横をトープが占領した。教官が説明している間も、トープはずっと自分の横顔を眺めているので、リリーは気分が悪くなった。
今日の昼食時間は一人になるかもしれない。せっかくできた友達との関係が壊れはじめていることに、リリーは泣きそうになった。
ところがお昼になると、マイカたちはまたリリーににこやかに声をかけ、中庭で一緒に昼食をとった。
話題は相変わらずオルトのことだったが、これ以上マイカたちの機嫌を損ねたくなくて、リリーはオルトの小さい頃の話を披露した。そして午後からの授業へと向かう途中、生徒会室の前を通ったリリーたちは、『冒険者の集い』と『ゲミノールムの黄玉』についての告知が掲示板に貼られているのを見た。
『冒険者の集い』は、一年に一回行われる大きな行事だ。七人で冒険集団を結成し、学院が提示する宝を期日までに探していく。両親が学院生だった頃は、『冒険者の集い』に参加して無事に宝を持ち帰った集団は『虹の捜索隊』として登録され、特待生試験も有利だったというが、今はその制度は廃止され、純粋に冒険を楽しみたい生徒たちのための大会になっている。
また『ゲミノールムの黄玉』は、学院の顔となる代表を選ぶ人気投票のようなものだった。
「見て、オルトの名前があるっ」
有力候補の名前と簡単な紹介も一緒に貼り出されているのをマイカが見つけ、指さした。
「さすがよね、一回生で候補になるなんて」
「あ、ソールの名前もあるわ。代表戦、二人とも格好よかったものね」
通りがかった他の生徒たちも足をとめる中、リリーは自分の名前を見つけてしまい、慌ててマイカたちをせかしたが、遅かった。
「黄玉の姫の有力候補だって。リリー、やるじゃない」
空気がひやりとした。とがった視線を向けられ、リリーが返事に困ってうつむきかけたとき、セピアが声をかけてきた。
「どうしたの、リリー? あっ、リリーの名前が出てる。オルトもだわ。二人ともすごいね」
屈託のない笑顔を向けられ、リリーは思わずセピアにすがりつきたくなった。
ここで泣いてはだめだ。泣けばもっとマイカたちとの仲が悪くなる。
それでもどうしてもこらえきれなかった一粒がこぼれた瞬間、誰かがドンッとぶつかってきた。けっこうな勢いで体当たりされ、声にならない悲鳴をのみ込みながら、リリーは肩を押さえて相手を見た。
「悪い」
こげ茶色の髪に黄赤色の瞳。リリーよりもかなり高い角度から投げられた謝罪に、リリーは目をみはった。
「リリー、大丈夫? ちょっと、武闘学科生が女の子を泣かせるなんてあんまりじゃない?」
セピアが腰に手を当てて、男子生徒をにらむ。
「セピア、違うの」
衝突した痛みで涙が出たわけではないと弁護しようとしたリリーを、ソール・ドムスは一瞥してからそっけなく言った。
「そんなところでぼうっとつっ立ってるからだろう」
「何よ、それっ」
かみつくセピアにかまわず、ソールはそのまま過ぎていく。
「何なの、あの男」
ぷりぷり怒るセピアの横で、リリーはソールの後ろ姿を見送った。
(あの人……)
混んでいるとはいっても、マイカたちがリリーと距離をとったせいで、リリーの周辺は十分に空間があったのだ。だから普通に歩いていただけなら、よそ見でもしていないかぎり絶対にあんなに強くぶつからないはず。
(……もしかして、わざと?)
「あ、予鈴だわ。リリー、また後でね」
セピアが手を振って走っていく。いつの間にかマイカたちも姿を消していた。
ソールが自分の状況を把握しているとはとても思えない。だから偶然だったのかもしれない。
でも、ごまかせたのは彼のおかげだ。まだ湿っている頬をそっとなでたリリーは、ソールが去ったほうを顧みながら教室へ向かった。
放課後、リリーは必死に中央棟内を逃げ回るはめになった。朝マイカたちにけしかけられたトープが大きな花束を持って追いかけてきたからだ。
朝の出来事を見ていた生徒たちから、「彼女はそっちに行ったぞ」とトープに教える声も飛ぶようになり、どんどん逃げ場がなくなっていく。中央棟のいくつかある出口は、二人の追いかけっこを面白がる生徒たちがふさいでしまい、リリーを通そうとしなかったので、トープが来る前に移動を続けるよりなかった。
そろそろ限界かもしれない。息はとっくにあがり、ひざも震えている。壁に手をついて胸を押さえていたリリーは、不意に名前を呼ばれた。
「こっち。早く」
地理学の教室の扉を開けて手招きをしている生徒がいる。服装からして武闘学科生だ。リリーはとまどったが、自分を捜すトープの叫び声が近づいてきていたため、思い切って扉の奥へ飛び込んだ。
すぐに扉を閉めた生徒は、暗青色の双眸を細めて苦笑した。
「ほんと、変なのに絡まれてるね。あまりかわいいのも良し悪しだね」
狐色の髪はかなり短い。すっきりした面立ちは一瞬男の子と見間違えたが、女生徒だった。背も高く、武闘学科の制服がよく似合っている。
「あの……」
名前を尋ねようとしたリリーの唇に、女生徒が人差し指を当てる。黙れということらしい。
やがて扉の外側をドスドスと重たげに走っていく音がした。トープの気配が完全に遠ざかるのを待ってから、女生徒は口を開いた。
「私はフォルマ・イクトゥス。弓専攻の一回生だよ」
そう言って、フォルマは手にしていた赤い法衣を広げた。
「レオンに借りてきた。今日は代表生徒会があるからオルトたちもあなたを守れないし、これをかぶって正門まで行こう。私がついていくから」
状況がのみ込めない。彼女は自分を助けようとしてくれているのか。今日初めて会ったのになぜ――困惑するリリーに、フォルマは肩をすくめた。
「うちの幼馴染があなたに迷惑をかけたから、罪滅ぼしだよ」
最初はぴんとこなかった。だが目の前の炎の法専攻生の法衣とセピアの話がつながり、はっとした。
「ルテウスの……幼馴染?」
「そう。ルテウスは家が近所でね。ちなみに私とレオンは双子だよ」
入学式の日にルテウスにつかまれた両肩の痛みを思い出す。リリーのおびえを感じ取ったのか、フォルマは眉尻を下げた。
「私とレオンはあなたに敵意はないから。ルテウスもキュグニー先生に関することでは目の色が変わるけど、根は悪くないの……本当は、あなたといろいろ話したいみたいなんだけど、今はまだ気持ちの整理がついてないから」
そのとき、また床が揺れるほどの足音が近づいてきた。今度は教室の扉を一つ一つ開けて中を確認している気配がする。
「急いで」
フォルマがリリーに赤い法衣を着せる。法衣についているフードをリリーがかぶったところで、地理学教室の扉が勢いよく開かれた。
トープがぜいぜいと呼吸を乱しながら一歩踏み込んでくる。
「何か用?」
フォルマが冷たい声音で問いかける。リリーは息を殺し、法衣の裾をぎゅっとにぎりしめた。
「リリーを見なかったか? リリー・キュグニー。青銀色の髪の教養学科生だ」
「知らないわ。というかあなた、そんなしおれた花束を贈るつもり? 出直したほうがいいんじゃない?」
フォルマに指摘されて花束に視線を落としたトープは舌打ちした。
「うるさい。お前には関係ないだろ」
そして怒りをぶつけるかのように荒々しく扉を閉めていった。すぐに隣の教室の扉を開ける音がする。
「さて、ばれないうちに行こうか」
フォルマがリリーの肩をたたく。
「大丈夫、オルトほど強くはないけど、これでも武闘学科生だからね……遠距離担当だけど」
ぺろっと舌を出すフォルマに、こわばっていた気持ちがほどけた。リリーはうなずくと、フォルマと一緒に教室を出た。
リリーが炎の法専攻生の法衣をまとっているとは誰も想像していなかったようで、見張りのいた出入り口も無事に通過することができた。正門を抜けたところで、リリーはほっと力を抜いた。
「フォルマ、本当にありがとう」
「どういたしまして。ここまで来たらもう一人で帰れる?」
「うん。あ、法衣……」
「ここで脱いでくれたら、私がレオンに返しておくよ。ああでも、レオンの法衣をかぶったことは、オルトには秘密にしてね。なんか彼、あなたのことになると過敏に反応するみたいだから。助けたのにぶん殴られたら、さすがにレオンがかわいそうだからね」
「レオンにもありがとうって伝えてくれる?」
「了解」とフォルマが笑う。そしてリリーは法衣をフォルマに渡し、家路を急いだ。
「今頃リリー、トープに捕まってるんじゃない?」
放課後、中央棟と大会堂をつなぐ通路から西側にある図書館へと向かいながら、マイカたちはけらけら笑った。
「いい気味よ。私たちの目の前でいつもオルトにべたべたして」
「幼馴染の領域を越えてるわよね」
「ねえ、この際だから、トープとリリーを本格的にくっつけない?」
「いいわね。トープはかなり嫉妬深いから、絶対リリーを他の人に渡さないだろうし」
「ずうっとトープに監視されていれば、もう誰もリリーに近づかないでしょ」
みんなで爆笑する。そのとき、大地の女神の礼拝堂のほうから声をかけられた。
「あなたたち、ちょっといらっしゃい」
花壇の前にいるのは大地の法専攻の代理教官だ。大声で悪口を言っていたのが聞こえたのかもしれない。マイカたちは顔を見合わせてから、緊張ぎみに歩み寄った。
「気持ちはわかるけど、あまり大っぴらに話す内容じゃないわね」
「……すみません」
頭を下げるマイカたちに、ベルム・オーメン教官は艶やかに微笑んだ。
「だから、これからはここで話すようにしなさい。ここなら花壇の世話をしているように見えるでしょう?」
この場所でならどれだけ陰口を吐き出してもかまわないからというオーメン教官に、マイカたちは手を打って喜んだ。