(1)
第二部スタートです。ある程度書き溜めていた第一部と違い、手探り状態かつ見切り発進でいくので、投稿は非常にゆっくりになるかと思います。更新も多くなるかもしれませんが、ご容赦ください。
その日、シータはゲミノールム学院の正門をくぐった。『水の女神がまどろむ月』も近いせいか、空気は冷たく乾いている。
まず一番に目を向けたのは、中央棟の右手にどっしりと建つ闘技場だ。自分が通っていた頃よりさすがに古くなっているが、そのぶん趣も感じる。何より、なつかしさに胸が震えた。
思わずそちらへ進みそうになるのをこらえたところで、複数の話し声が聞こえた。つい今しがた運ばれてきたばかりなのか、花の苗がぎっしり詰まった木箱が中央棟の前に積まれている。黄色い法衣を着た生徒たちが二人がかりでせっせと運んでいく中、指揮をしていた教官がシータを見て微笑んだ。
「入学試験願書のご提出ですか?」
二十代半ばくらいだろうか。灰茶色の長い髪を首の横でゆるく一つに束ねた、まだ若い教官だ。そういえば少し前に、大地の法の教官が出産で休みを取ったと聞いた気がする。
「オーメン先生、植木鉢がもういっぱいでたりませーん!」
遠くから生徒が叫びながら走ってくる。
「あら、そうなの。じゃあ残りは花壇に植えてちょうだい」
生徒と同じ黄色い法衣をまとうその教官はシータに軽く一礼すると、生徒と一緒に去っていった。
今の時期に植えた苗は長い寒さに耐えた後、卒業式や入学式の頃に花開く。あれだけたくさんの花がいっせいに咲き誇ればさぞ華やかになるだろう。
自分が入学した年も、美しい花々に彩られていた――と思う。
確信がもてないのは、入学式の日に遅刻して慌てていたせいだ。夫と最悪の出会いをしたのもその日だった。当時のことが脳裏によみがえり、シータはふふっと笑った。
願書の受付は今日が最終日だからか、学院を訪れる保護者の姿もまばらだった。そのため、受付部屋は大勢が入れる大会堂ではなく、学院長室に変更になっている。
「やっと来たね。待っていたんだよ」
学院長室の前まで来たところで、朽葉色の髪の教官が声をかけてきた。長衣の上に青い法衣を着た同い年の教官に、シータは手持ちの大きな封筒を軽く振ってみせた。
「遅くなってごめんなさい。ギリギリまで説得していたの」
「それで、どうだった?」
暗緑色の双眸を期待にきらめかせる相手に、シータは眉尻を下げた。それだけで伝わったらしい。彼は「だめだったか……」と肩を落とした。
教官が三度扉をたたき、中からの応答を確認して扉を開く。「どうぞ」と通され、シータは部屋に踏み入った。
「久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
大きな机で書きものをしていたトウルバ・ヘリオトロープ学院長が笑顔で迎える。ずいぶん白髪が増えたが、その穏やかなまなざしは変わっていない。
「ご無沙汰してます、学院長」
「願書の提出だね。いつ来るかと心待ちにしていたんだよ」
学院長に勧められ、シータは長椅子に腰を下ろした。その目の前に学院長も座る。
「よければロードン先生もご一緒に……ああ、その顔はもしかして残念なお知らせを受けたのかね」
学院長が苦笑する。同席を誘われたニトル・ロードン教官は「そうなんです」としょんぼりしながら学院長の隣に着席した。
「夫からも話をしてもらったんですが、やはりどうしても法術を学ぶことに抵抗があるようで……申し訳ありません」
封筒を差し出しながら、シータは頭を下げた。
「せっかくの才能をぜひとも活かしてほしいと思っていたが、残念だね」
封筒を開けて中の書類を取り出した学院長はざっと確認すると立ち上がり、壁際の長机に並べられていたいくつかの箱のうち、教養学科と書かれた箱に書類を入れた。それからふり返り、口角を上げる。
「いつでも編入試験を受けられるよう、準備はしておこう。君たちの子だ、このままひっそり目立たず学院生活を送ることはないと思うよ」
「学院長、それではまるで私たちが問題児だったみたいじゃないですか」
シータが口をとがらせる。それから二人は笑いあった。
「どれだけ嫌だと言っていても、心の奥底にある学びへの渇望はまだ消えていないと私は思っているよ。だからきっと……なるようになる」
学院長はまだうなだれているロードン教官の肩に手を置いた。
「その時は頼みますよ、ロードン先生。間違っても、彼女がやる気になる前からぐいぐい迫って勧誘することだけはしないように」
「……善処します」
ああでも顔を見たら後を追ってしまうかもと、ロードン教官がぶつぶつぼやく。その様子を想像し、シータはたまらず吹き出した。
空はところどころうっすら雲がかかっているものの、十分に日が差していて清々しい。まだ夜や明け方は少し冷えるけれど、ありとあらゆる生き物が目覚める『風の神が駆ける月』が、リリーは大好きだった。
「リリー、受付はもう終わった?」
大会堂の渡り廊下からぼんやり空を仰いでいたリリーに、褐色の髪を二つにくくった少女が呼びかける。生まれた時からの付き合いであるセピア・アーラエは、くるぶしまである白い長衣の上に左肩から黄色い布を斜めにかけ、黄玉で布をとめている。神法学科生の正装だ。対するリリーは教養学科なので、白い長衣の上に黄色い羽織を重ね、それをとめる黄玉は胸元で光っている。
「うん、さっき終わった。オルトは?」
「あそこよ」
もう一人の幼馴染を探してきょろきょろするリリーに、セピアがあきれ顔である方向を指さした。
「入学試験の時にもう目をつけられていたみたい。予想はしてたけど、すごいわね」
たくさんの女の子たちに囲まれているオルトは、周りより頭一つ分出ているので、困惑顔がこちらからでもよく見える。きらめく金髪に赤い瞳、そして凛々しく整った顔立ちが若い頃の父親そっくりだと言われているオルトは、その剣の才能も受け継いでいて、入学試験では剣専攻一番の成績だったと聞いた。
「入学式後の代表戦にも出るから、ますます騒がれそうね」
「仕方ないよ。オルトは本当に格好いいから」
くすくす笑うリリーに、セピアは薄紫色の瞳を細めた。
「笑ってる場合じゃないわよ。リリーももう少し周りの視線に敏感にならないと……」
セピアの忠告が終わるより先に、誰かがリリーの長い髪に触れた。
「きれいな青銀色の髪だね。君、名前は何て言うの?」
背後からねっとりとした声でささやかれ、リリーは総毛だった。おそるおそるふり返ると、リリーと同じ教養学科の正装をした、でっぷりと太った男子生徒がにんまり笑った。
「入学試験の時から、かわいいなって思ってたんだ。名前、教えてよ」
灰緑色の瞳をぎらぎらと光らせる男子生徒にリリーは後ずさったが、彼はリリーの髪をつかんで放さない。引っ張られた痛みに顔をしかめながら、早く逃げたくてリリーは何とか名乗った。
「……リリー……キュグニー……で……す」
「リリーかあ。いい名前だね」
太い指でリリーの髪をもてあそぶ。
「同じ教養学科だなんて本当に嬉しいなあ。この出会いはもう運命だよね」
男子生徒がますます顔を近づけてくる。
「ちょっと、やめなさいよ。リリーが怖がってるじゃない」
足がすくんで動けないリリーから男子生徒を引き離そうとセピアが手をかけるが、彼はびくともしない。
「僕の名前はトープ・デルフィーニー。僕の家はすごいお金持ちなんだ。お父さんに言えば何でも買ってもらえるから」
「リリー!!」
オルトが顔色を変えてリリーのほうへ来ようとしているが、女の子たちの輪は厚く、なかなか抜け出せない。
「君の欲しいものも、僕がお父さんに頼んであげるよ。だから――」
トープが両手でリリーの手をにぎりしめたとき、横からトープをベリッと引きはがした生徒がいた。
「どけ、邪魔だ」
そのままトープを突き飛ばしたのは、肩まである赤茶色の髪を後ろで一つにくくった、黄色い瞳の神法学科生だった。
「何だよ、お前!」
よろめいたトープが乱入してきた男子生徒に文句を言う。体格ならトープのほうがはるかに大きかったが、その神法学科生はつかみかかってきたトープの手を振り払うと、リリーの両肩をつかんでゆさぶった。
「キュグニーと言ったな。お前、ファイ・キュグニー先生の子供か? なんで神法学科じゃないんだ!?」
助かったと思う間もなく怒鳴られ、リリーの心がきしんだ。
なぜ? だって自分は。
「あ、おいっ!?」
「リリー!!」
大きな風に飲み込まれる幻に頭をかかえる。女生徒の壁をようやく突破したオルトが手をのばす前でリリーは倒れ、意識を失った。
「お母さん! お母さん!」
嵐が去った後に残ったのは、全身を切り刻まれ、血まみれの状態で倒れている母だった。
「お母さん、死なないで! お母さん!」
リリーは母にすがりついて何度も呼んだ。濃紺色の母の髪は血を吸ってどす黒くなっている。いつも活き活きとしている薄緑色の瞳も閉ざされたまま、ぴくりともしない。
誰か助けて。お母さんが死んでしまう。
(私が……)
私がお母さんを――
「リリー!? シータ!!」
涙でゆがんだリリーの視界に、馬車から降りて走ってくる父の姿が映る。
風の法ではけがを治せない。人を助けることはできない。
風の法は危険だ。
風の法なんて――――大嫌い!!
「気がつきましたかー?」
重いまぶたを上げると、見慣れない天井が目に入った。やけにのんびりした口調の主がリリーの顔をのぞき込む。
「入学式の日にー、気絶するなんてー、お父さんそっくりですねー」
母に聞いたことがある。水の法専攻担当のキュアノス・ケローネー教官は、非常にゆっくりとしゃべるので、話しているといつも眠くなるのだと。
(今、何時なんだろう……)
一番見たくない夢を見たせいか、頭が痛い。リリーは手をついて、のろのろと上体を起こした。
「頭はー、打っていないようですがー、おかしなー、ところはー、ありませんかー?」
穏やかな薄青色の双眸がリリーを見つめる。温厚な性格が外面に表れていてとても癒されるが、確かに思考を奪うほどの眠気も感じる。
「大丈夫です。私、倒れたんですよね? 入学式は……」
「そろそろー、代表戦がー、始まる頃ですかねー」
「行かないと」
オルトが代表戦に出るのだ。絶対に見ていてほしいと言われたのに、こんなところで寝ているわけにはいかない。
「それじゃあー、私もー、ついていきますねー」
にこにこしながら、ケローネー教官がリリーに手を差し出す。その手を借りて寝台を降りるとまだ少しめまいがしたが、ケローネー教官がゆるやかな歩調で案内してくれたので、大会堂へと何とかたどり着くことができた。
大会堂の扉を開くと、すでに入学式は終わり、並べられていただろう椅子はすべて片づけられていた。そして生徒たちは壁際に寄り、中央が広く開けられている。
「リリー!」
ケローネー教官と一緒に現れたリリーに、セピアが駆けてきた。
「もう起きて大丈夫なの?」
「うん、心配かけてごめんね。オルトは?」
「準備してるわ。オルト! リリーが目を覚ましたわ!」
剣専攻一回生の集団にセピアが声を張り上げる。ふり返る生徒たちの先に、鎧を身に着けたオルトの姿があった。
「リリー、大丈夫か?」
オルトが大股で近寄ってくる。
「けがは?」
「気を失っただけみたい。間に合ってよかったわ。代表戦、頑張ってね」
ほっとした表情を浮かべたオルトは、リリーの応援に力強くうなずいた。
「オルト、何をやっている! 時間だぞっ」
剣専攻担当のトルノス・カルタ教官が急かす。オルトは「行ってくる」と右手を軽く挙げて、背を向けた。
大会堂内が大きな歓声に包まれる。二、三回生も見学しているため、大会堂は二階に渡された細い通路まで人であふれていた。
「剣専攻一回生代表、オルト・カエリー!」
「槍専攻一回生代表、ソール・ドムス!」
それぞれの担当教官に名を呼ばれた二人が中央へと進み出る。
「ドムスって、もしかして槍専攻教官の息子か?」
強敵の出現に剣専攻生がどよめいた。
「だから何だ。オルトは武闘館の剣専攻教官の息子だぞ」
絶対に負けないさと反論が上がる。武闘館はゲミノールム学院をはじめとする下等学院の卒業後に、武闘学科生たちの大半が進学する学校だ。
「それにオルトの父さんは、ゲミノールム学院から武闘館まで、ずっと剣専攻の代表だった人だぞ」
「でもたしかドムス先生も、槍専攻代表の座を一度も誰かに譲ったことがないんだよな」
上級生も二人の父親の功績を知っているのか、話し声はいっこうにやまず、ついに他学科の教官たちが「静粛に!」と注意して回るようになった。
リリーは胸の前でぎゅっとこぶしをにぎった。オルトは強いけれど、相手の槍専攻生も相当な腕前なのだ。
オルトは背中しか見えないが、がちがちにかたまりすぎているといった感じではない。そして対面する槍専攻生も、黄赤色の瞳をまっすぐオルトへと向けていた。臆した様子もなく、ただ静かに闘志を燃やしている――その深い熱にリリーは引き込まれた。
始めの合図はない。ようやく場内が静まった後は、いつ、どう動くかは戦う二人が決める。
にらみ合いが続く。先に動いたのはオルトだった。構えた剣で突きに行くオルトに、ソールも槍先をのばす。
ガンッ!
オルトの剣をはじいたソールの槍が無駄なく次の一手を繰り出す。もちろんそれでひるむオルトではない。ソールの攻撃を難なくかわして反撃する。入学式の代表戦に出ると決まってから、オルトは槍鍛錬所を営むセピアの父に稽古をつけてもらったので、長さの面で有利な槍相手に気後れせずに攻めている。
「いけ、オルト!」
「そこだっ」
剣専攻一回生たちが身を乗り出して、オルトの一振り一振りに声援を飛ばす。槍専攻生のほうから届く激励も重なり、大会堂内の熱気はどんどん膨れ上がった。
二人ともまったく引かない。入学したばかりとは思えない両者の打ち合いに皆が興奮して力み、立ちくらむ者まで出始めたとき、「やめ!」と武闘学科の教官二人が同時に手を挙げた。
最後に一発互いの武器をぶつけあってから、二人は距離をとった。
「勝敗がつかないなんて……」
「入学式で引き分けってめったにないよな」
二階の通路で上級生たちがざわついている。卒業式後に三回生が打ち合う代表戦では引き分けになることも珍しくないが、入学式後の代表戦はまだ未熟さが目立つ一回生同士の戦いのため、たいていはどちらかの集中力が早めに切れて勝ち負けが決まることが多いのだ。
今年の一回生は優秀だなという上級生の称賛を浴びながら、オルトとソールがそれぞれの専攻生が待つ場所へと下がっていく。大会堂内に響く大きな拍手はなかなかおさまらなかった。
オルトが剣専攻生たちにもみくちゃにされている様子に、リリーも胸が熱くなった。ふと隣を見ると、セピアも涙を流している。
「すごかったね」
泣き顔を恥じるように隠し、セピアが笑う。リリーもうんとうなずき、笑みを返した。
代表選後は各専攻に分かれ、上級生について学院内を見て回ることになった。一緒に案内を受けた同じ教養学科のマイカ・ぺレインはとても話しやすく、リリーはすぐに打ち解けることができた。
「それにしてもさっきの代表戦、二人ともすごく格好よかったよね」
草色の髪を肩のあたりまでのばしたマイカは、胸の前で両手を組んで、こげ茶色の瞳を輝かせた。
「リリーはオルトと知り合いなの?」
幼馴染だとリリーが答えると、マイカは「いいなあ、うらやましい」と何度も口にした。そのとき、前方から聞き覚えのある声が届き、リリーはびくりとした。
大声で自慢話を繰り広げているのは、受付のときに絡んできたトープ・デルフィーニーだ。思わずマイカの背に隠れてしまったリリーは、トープたちが目の前で角を曲がっていったのを確認してから、ほっと息をついた。
「あー、トープね。リリー、変なのに気に入られちゃったみたいだね。彼、けっこうしつこいので有名みたいだから、大変かも」
マイカが肩をすくめる。そこへオルトがやってきた。
「リリー、終わったか?」
「うん、セピアはまだ?」
「もうじき来ると思うぞ」
オルトの視線が隣にいるマイカに流れたので、新しく友達になった子だとリリーは紹介した。マイカは真っ赤な顔でどもりながら名乗って頭を下げた。
「あ、あの、代表戦、すごく素敵でしたっ」
「ああ、うん。ありがとう」
両のこぶしをにぎって感動を伝えるマイカに、オルトは少し困り顔で礼を言った。
「絶対勝てると思ってたんだけど。あいつ、すごく強かったな」
オルトとしてはやはり不本意な結果だったらしい。金髪をかきながらため息をつくオルトの悔しそうな表情にすらマイカは見とれていて、リリーは苦笑した。
やがてセピアも合流したので、リリーはマイカとさよならの挨拶をして、オルトたちと一緒に下校した。
「やあ、リリー!」
帰宅したリリーを玄関で熱烈に出迎えたのは母でも父でもなく、二人の友人だった。
「久しぶりだね。しばらく会わない間にすっかり大きくなって。しかもますます美人になってるじゃないか。おじさんは嬉しいよ」
ぎゅううっと抱きしめてくる相手に「ローおじさん、苦しい」と訴える。
「今日は入学式だったんだろう? どうだった? リリーのことだから、もう友達はできたんじゃないか? 先生方はご壮健かな。僕の在学中にいらっしゃったのは――」
「ロー、そんなところで質問攻めにしなくても、お茶を飲みながら聞けばいいじゃない。リリー、お帰りなさい」
奥から顔をのぞかせた母が、一度着替えてくるようリリーに勧める。ようやく解放されたリリーは二階の自室で手早く式典用の衣装を脱いでから、母たちが待つ階下に戻った。
「うわあ、すごいっ。これ、全部ローおじさんのお土産?」
卓上に山積みされている豪華なお菓子を見て、リリーは目を輝かせた。
「前に買ってきたときにリリーが好きだって言ってたやつだよ。新しいものもあるから、味見してみて」
ローはにこにこしている。自分の好みを覚えていてくれたのが嬉しくて、リリーは着席するなりさっそく見慣れないものを口に入れた。
これもおいしい。こっちもいいなと手がとまらないリリーに、母が「よく食べるわね」とあきれる。「こういうところは君にそっくりだね」とローはからかいの笑みを母に投げた。
「ローおじさんが来るってわかってたら、セピアとオルトも連れてきたのに」
一日では食べきれないから、明日にでも二人におすそわけしようと考えていると、母から茶のお代わりをもらったローが「そういえば」と話しかけた。
「ルテウスって子がいなかったかい?」
神法学科か教養学科に入ったんじゃないかと思うんだけど、と尋ねられ、リリーはかぶりを振った。
「まだよく知らないから……誰?」
「ああ、うん……交流のあった人の子でね。元気にしてるなら、それでいいんだ」
ごまかすローはどこか悲しそうな笑みを浮かべている。少し迷ったものの、リリーは追及を控えた。
「あ、でも、変な人ならいたよ。トープ・デルフィーニーっていう――」
「デルフィーニー?」
ローが露骨に顔をしかめる。母もかすかに眉をひそめていた。
「……ああそうか、あいつの子供も同い年か。これはちょっと……どころか、かなり災難だな」
「あそこって、市長選に出るのをまだあきらめていないみたいね。今度はヘイズルが立候補するそうよ」
「僕も聞いた。だからこっちに戻ってこないかって、ずっと父さんから言われてるんだけど」
僕は自分の仕事が楽しくてさ、とローが肩をすくめる。トカーナエ高等学院卒業後、政務官になったローは現在、首都アーリストンに住んでいる。たまに休みをまとめてとって帰省した際はいつも顔を出してくれるのだが、ローの聞かせてくれる話はなじみのないものばかりなので面白く、リリーは毎回楽しみにしているのだ。
セピアやオルトの両親も武闘学科と神法学科出身なのでよけいに、教養学科だったローに親しみがわくのかもしれない。無理に神法学科で学ばなくても、やりがいは見つけられるのだと思えるから。
「――で、カナルならいいんじゃないかって思って父さんに推薦しておいた」
「カナルって、槍専攻生だったあのカナル?」
「うん、何度か仕事で会ったんだけど、人柄も信頼できるし、実務能力も高くてさ。まずは父さんの秘書になって勉強してもらって、ゆくゆくは後継者にどうかって……カナルも興味があるみたいだし、一度面接の場を設けて父さんと話をさせてみるつもりなんだ」
「カナルが市長選に出るなら、ジェソたちと一緒に応援しなきゃ」
今にも準備を始めそうな勢いの母に、ローが笑った。
「気が早いよ、シータ」
「だって、知り合いが活躍するのは嬉しいじゃない」
総力をあげて後押しするわ、とこぶしをかかげる母に、「強力な支援者がいて心強いね」とローが言ったとき、父が帰ってきた。
卓上でなだれを起こしている大量の菓子に目を丸くしながらも、父は旧友の訪問を歓迎した。両親の共通の知人は多いが、誰とでも会話がはずむ母とは違い、父はその対応で相手との親密度がはたから見ていてもわかる。ローは父にとって特に気安い存在のようだ。
その日、ローはキュグニー家で夕食をともにした。話題はつきなかったが、入学式の様子を聞かれ、代表戦がすばらしくて熱中したという話の後で、一応と思ってトープにぐいぐい迫られたことをリリーが報告すると、三人はひどく渋面した。学院生の頃に母がはめていた護身用の指輪をリリーにも持たせたほうがいいのではないかというローの提案に、両親も本気で検討しているのを見ながら、リリーは料理を口に運んだ。
父の子なのになぜ神法学科生じゃないのかとなじられたことは言えなかった。
親や教官以外にもそれを望む人がいるとは思わなかったから、動揺が抑えきれなくて倒れてしまったけれど、明日からは警戒を怠らず過ごすことにしよう。
法術は使えない。使いたくない。
もう二度と、あやまちをおかしたくないから――。