3.泣いて怒って……聖女になった?
過去の記憶が甦り、とんでもない三歳の誕生日を迎えた私、ビアンカ・アレイザは、気持ちの整理も情報収集もままならないまま次の日を迎えた。
「この場合は過去の記憶じゃなくて、前世の記憶と言うべきかしら」
教会の子ども達が眠る四人部屋。朝日が差し込む角のベッドで、私は目覚めた。
すっかり三歳児の舌に慣れて、うまく喋れるようになった。でも話しているのは日本語じゃないということに後になって気が付いた。
きっと、ビアンカ本人が三年間に聞きまくった教会の人たちの言葉を、私が潜在的に学習したのだろう。
昨日の誕生日会で祝って貰えた感じでも充分に分かったけれど、本当に賑やかで、笑いの絶えない明るい孤児院だ。きっとビアンカは、人の声をたくさんたくさん聞いていたのだ。我がことながら微笑ましくなる。
良い環境で育てて貰えてよかったと、心から思った。
私は上体を起こして外を見た。
窓にはうっすらと自分が映っている。プラチナピンクの髪にイエローゴールドの瞳。下がり気味の眉がどこか頼りなくて不安そうだ。ガラスがひび割れているのでよく分からないが、まあまあな目鼻立ちだろう。低く見積もっても中の下。きっと前世よりかわいい。ちょっと嬉しかった。
次に部屋全体を見た。
酷く軋むベッド。よれて黄ばんだ布団。雨漏りの痕がある天井。壁には風穴があいていて、寒い。
建物の傷み具合や食べ物が質素だったのを鑑みるに、きっと財政は厳しい。どこの世界でも貧富の差というはあるのだなと少し辟易もする。
しかし、今の私にはどうすることも出来ない。言い方は悪いが、どうしようもないことで己の非力を嘆いても何もはじまらないし、誰も得をしない。
ひとまずは生きることに専念させて貰おう。その後に恩返しをすればいい。
そうやって意志を強く持って、開き直ることにした。
そういえば昨日、少しではあるが収穫もあった。
誕生会が終わったあとに、ベッドに入って落ち着いて考えてみたら、ビアンカとして生きていた時の記憶が朧気に思い出せたのだ。
まず、シスター達が廊下でこっそりと会話をしていた、とある日のことだ。
その時の話によれば、私は生まれたばかりの赤子。おそらく生後数日程度の時期に捨てられ、この教会の門の下に布にすら包まれていない状態で置かれていたらしい。真冬の寒空の下に素っ裸で大泣きしているのを、昨日の優しいシスターが発見したそうだ。
だから私にとってあのシスターが育ての親で、シスターに発見してもらった日が誕生日ということになる。
なんとも複雑な境遇だな私。こんなんじゃ嫁のもらい手も見つからないんじゃ……。
私は慌てて頬をつねって考えるのをやめた。
駄目よビアンカ。諦めるのはまだ早い。生まれた環境を覆すほどの何かを身につければいいのよ。それに見た目はそこまで悪くないはずだからまだ望みはある!
まあ、それはのちのち考えるとして、次に思い出したことを整理しよう。
私が気を失って、シスターの部屋に運ばれた原因についてだ。
どうやら私が教会だと思っていたこの建物は、実は教会の敷地内にある孤児院のようだった。
この孤児院は三階建てで、一階がキッチンやダイニング、ちょっとした教室に応接室、それにシャワー室がある。
そして二階が寝室で、今私がいる場所。三階は、屋根裏部屋と物置部屋があるようだ。
そんな間取りで三歳児が一番気をつけなければならない場所といえば、なんといっても階段だ。ここには幼児の階段転落を防ぐ柵、ベビーゲートがない。それが原因で私は二階から一階まで、見事に転落したのだ。その時の光景が記憶の片隅に残っている。
思い出すだけで寒気がする。
孤児院の階段は急で段差が大きい。一段落ちるだけでもかなりの衝撃なのに一番下まで落ちるなんて、よく生きてたなビアンカ。ちょっと信じられないぞ。
それにしても、その衝撃で前世の記憶が甦ったのか、はたまた、その事故でビアンカが死んでしまって、私の魂と入れ替わってしまったのか。どっちなんだろうか。
なんて、オタク検証みたいな思考回路が働きそうになったが、不毛なので頭を振って中断した。
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シスターが、朝ご飯ですよと言いながら部屋に入ってきた。
まだ私のことが心配だったようで、シスターが私を負ぶって階段を降りてくれた。私と同い年くらいの男の子もいたのだが、その子は違うシスターが負ぶってくれていたので一安心した。
ダイニングルームに着くと、固そうなパンと、薄そうなスープがテーブルに並んでいた。子ども達が行儀良く座り、お祈りを捧げて食べ始める。
三歳児の私は、さすがに食べるものが違う。ひび割れた丸いお皿に雑炊みたいなものが入っている。
ああ、パンだけじゃなくてお米の文化もあるんだ。パスタはあるのかなと変なところで興味が湧いた。
あっという間に食べ終わり、スプーンがうまく使えるようになったわね、なんて褒められながら、また抱き上げられる。
「シスター、私、ちゃんと歩けるわ」
「まあ、昨日のことがあったのに偉いわね。でも駄目よ。今日は私とずっと一緒よ」
ええええ。シスターちょっと過保護じゃないの。確かに身体は幼児だけど、中身は二十七歳だからもう大丈夫なんだけど、と言いたい。
「じゃあ、お外でシスターと遊びたい」
ちょっと可愛い子ぶってみる。これなら叶えてくれるだろう。
早く外の世界を見たいのだ。自分のいる世界がどんなものか見定めて、今後の人生設計を立てないといけないからね。
するとシスターが、やけに険しい顔になって黙ってしまった。
あれ私、そんなに変なこと言ったかな。というか他のシスターも気の毒そうにこっち見てるし。
「じゃ、じゃあビアンカ。その前に絵本を読みましょうか。何か読みたい本はある?」
なるほど外は駄目なのか。ニュアンス的に今は駄目だけど後でならいいってコトかな。なにか大人の事情があるのだろう。絵本なら字の勉強ができるから、ここはシスターの言いつけを守って絵本に……。
「あっしゅは?」
突然、隣に座っていた男の子がこっちを見て言った。
あっしゅ? なんだろう、ものすごく聞いたことのある響きだけれど。
するとシスターがこらっと男の子を叱った。近くにいた別のシスターは、酷く慌てた表情で男の子の口を塞いでいる。
「あっしゅ? ……あっ」
言葉を口にした瞬間、私はそれが名前であることを思い出した。
アッシュって……ビアンカが大事にしていた子犬の名前だわ!
教会に捨てられていた時から、ずっと一緒にいた黒い子犬。今はもう立派な成犬になって、それは美しい毛並みをしていた。ラブラドール・レトリーバーみたいなかっこいい犬で、私はいつもその子と遊んでいたのだ。
アッシュは賢い子だったけど、私以外には絶対になつかなくて、私もアッシュとばかり一緒で、他の子ども達とは全然遊ぼうとしなかった。
そうか。だからみんな、私が目を覚まして言葉を発しただけであんなに驚いたんだわ。
「シスター! アッシュはどこに行ったの?」
「それは……」
私の質問に口ごもって、ちらっと北の窓を見るシスターに嫌な予感しかしなかった。
私は全身をバタつかせてシスターの腕から脱出し、ダイニングを飛び出した。
「ビアンカ! 待ちなさい!」
「いやよ!」
待てるもんですか!
おかしいと思ったのよ。あんな急勾配の階段の上から下まで転げ落ちたのに、擦り傷だけで済んだなんて!
玄関のドアノブにジャンプして開け、外に出る。走って北の物置小屋に向かう。
まず東側の庭を通る。
ここ、覚えている。アッシュが大きくなって部屋で遊べなくなってからは、いつもこの庭で遊んでいた。
私がボールを投げると、アッシュが走って取りにいくのが嬉しかった。
私はまだ「とってこい」が言えなくて、それでも意を汲んだアッシュが何度も何度も咥えて持ってきてくれたのだ。
その東の庭を横切ると遊具場がある。
ここでもたくさん遊んだ。特にブランコが楽しかった。アッシュが私の背中を鼻先で押して優しく揺らしてくれのだ。
思い出はここだけじゃない。寝るときはいつも一緒で、いつも私を起こしてくれた。シャワー室で身体を洗ってやったり、食べるのが遅い私を、ダイニングでじっと待っていてくれたり。教室で暴れる年上の男の子から守ってくれたり……。
前世の記憶が甦ったせいだ。
飯島良子の記憶が大きすぎて、ビアンカの記憶がショートしたんだ。
一時的な記憶喪失。
悔しい。これほど前世の記憶を恨めしく思わずにはいられないなんて、残酷だわ。
今の人生にまったく関係のない記憶に押されて、大事な存在を忘れてしまうなんて、こんな悲しいことってある⁈
思い出すべきじゃなかったんだ。前世の記憶なんて何もかも。
そう思えるほどにアッシュは、ビアンカにとって大切で、かけがえのない子だった。
涙が止まらない。視界の邪魔になる。はやく北の物置小屋まで行かなくてはならなのに上手く走れない。
「おじさん‼」
なんとか小屋に辿り着く。私の声に驚いた木こりのおじさんが、作業の手を止めてこちらを振り向いた。
「な、ビアンカ! どうしてここに……!」
そう言ってスコップを落とした。手が震えている。
落ちたスコップの横に黒い影が見えた。間違いない。アッシュの毛並みだ。
「アッシュ‼」私はアッシュに向かって全力疾走した。飛びついて、大きく揺する。「アッシュ、アッシュ!」と何度も呼んだけど、愛犬はピクリともしない。いつもホカホカで暖かかった身体は冷たくて、スベスベだった毛並みもボロボロになっている。白く尖って美しかった牙は折れ、前足は変な方向に伸びてしまっていた。
そんなアッシュの姿を目の当たりにして、私は衝撃のあまり当時の記憶が戻った。
私が階段から落ちたとき、アッシュが庇ってくれたのだ。あの時、私はアッシュが好きすぎて、背中に跨がってお馬さんごっこをしていた。それで体勢を崩して、そのまま階段に――。
「ビアンカ。アッシュはあなたの服を咥えて、抱き締めるような状態で階段を落ちたの。打ち所が悪かったみたいで、今朝息を引き取って……」
追いかけてきたシスターが、不憫そうな声で言った。
「なんで教えてくれなかったのっ」
泣きじゃくりながら、私はシスターを睨んだ。
「ごめんなさい。あなたが気が付いたとき、真っ先に言おうと思ったのだけれど、あなたが初めてまともに喋ってくれたものだから、嬉しくて……。それに誕生日に辛い思いをさせたくなくて……」
シスターは辛そうな表情で言った。確かに三歳児には辛い現実だ。でも二十七歳の私には、もっとつらい現実だ。
「アッシュ……」
私はアッシュを抱き直した。木こりのおじさんが掘ったお墓用の穴が目に入って、さらに悲しくなってまた泣いた。シスターが黙っていたことも、おじさんが黙って埋めようとしていたことも悲しかったが、一番は自分がアッシュのことを一時でも忘れていたことが悲しくて許せなかった。
もう一度だけでいい。元気なアッシュに会いたい。
一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒に寝たい。そしてごめんねと、ありがとうを言いたい――‼
そう願った瞬間、私の身体に異変が起こった。
身体が急に熱くなって、節々に激痛が走ったのだ。あまりの痛みに声も出すことができない。寒気のように身体が震え、ドクドクと心臓が脈打つ。やがてその熱が背中に集中すると、異変に気付いたのか、シスターとおじさんが叫びだした。
「ビアンカ! 大丈夫ですか⁈」
「大変だ! 誰か、大司教様をお呼びしてくれ! ビアンカの体が、――ひ、光ってる‼」
光ってる? 私が光ってるって、なに。
苦しくて目を開けられない。自分の状況がまったく分からない。背中が……燃えるように熱い――。
意識が遠退きそう。でもここで気を失ったら、次に目覚めた時にはアッシュは埋葬され、二度と抱くことができないかもしれない。
意地でも気を失いたくない!
だいたい、なんで急に体が光るのよっ。意味分かんないから!
私は大事な友達と最後の挨拶をしなくちゃいけないのよ!
痛みも熱も、全部どっかに行って頂戴!!!
私が心の中でそう叫んだら、背中の熱が急激に冷え、体の痛みもスッと消えた。
あ、あれ。痛くも熱くもない。どなってるの、私の体。
起き上がって確認してみると、体中が汗でびっしょりだった。
なんだか背中がスースーするな。
号泣して汗も流したせいか、気持ちが晴れやかでスッキリしている。
まあいいや。とにかくアッシュにお別れを言わないと。せっかくお墓を作ってくれた木こりのおじさんにも悪いし、おじさんにお礼と、シスターに酷い言い方をしたことを謝らなくちゃ。
「ビ、ビアンカ? その、背中の痣は……」
シスターが震えた声で言ってくる。
背中に痣? もう、さっきから私が光ったとか、背中に痣とかなんなのだろう。
癒しの魔法を行使すると体が光るとか、聖女の証である聖痕が背中に浮かび上がるとか、そんなファンタジーないからね? 乙女ゲームの「堕ちる聖女」じゃあるまいし。
「――ん……?」
私はふと、横たわっているアッシュを見た。
もちろん、亡くなっている。ピクリともしてくれないのは分かっている。でも、さっきまでの亡骸とは明らかに違う。
健康的な毛並み。折れた牙はもとに戻り、曲がった足まで治っているようだった。
今にも起き上がって、ワンとひと啼きしてくれそうな、元通りのアッシュが横たわっている。
「……聖女様……」
「ああ、聖女様の力だわ」
誰かが、そんなことを囁いているのが聞こえた。
「誰か! 早く大司教様を呼んでくれ! 聖女様が降臨しておられたとお伝えするんだ!」
「癒しの力を行使されて、背中に聖痕が浮かび上がっているわ!」
「強大な神聖力で服が破れて仕舞われたわ! 早く、新しい服を!」
「セレイユ王国の救世主よ!」
「これで魔族との戦争も終わるのね!」
――天界の使者・聖女ビアンカ様、万歳!
私はシスター達の一言一句が自分の前世の記憶に合致する恐怖を味わいながら、眩暈で倒れた。
乙女ゲーム「堕ちる聖女」の世界設定まんまのセリフを、現実の大人達が叫んでいる。
薄れゆく意識の中で、私はもう、笑うしかなかった。