サンクト・トルーツクの思い出 誰にも知られることのない勝利の味
ヴェーラちゃんの家は、サンクト・トルーツクの郊外にあった。
ぼくは、月を見上げながら、待っていた。
体にまとわりつくような視線に気がついたのは、ぼくが優れた魔女だからじゃない。
そんなものがなくても気がつくほどに、連中は景色から浮いていた。
あまり賢くなさそうだ。
訓練も受けていなそう。
まともな教育も受けていなさそう。
ぼくは、視界の端でちらちら動く連中を観察しながら、そんな風な感想を抱いていた。
その晩、ホテルで連中について口にすると、舞雪ちゃんも気がついていたようだ。
舞雪ちゃんが言うには、奴らは闇堕ちのドラゴンというグループのメンバーとのことだった。
「森で倒したあいつの仲間かもしれへん。あいつらは常に情報を共有してる。五感から得られた情報や思考なんかがそれやね。うちがあいつを仕留め切った瞬間まで、それは行われていたはず」舞雪ちゃんは、ウォッカのショットを飲んだ。「うちの責任やから、うちがやる。空ちゃんとジェロームくんは、ヴェーラちゃんたちを守って欲しい。そうすれば戦いに集中出来るから」
「そんなに抱え込まなくて良いんじゃない?」ぼくは言った。昼間見た感じだと、連中は、大した能力があるようには見えなかった。少なくとも、森で襲いかかってきたあの変態ほどの恐怖は感じられなかった。「ぼくも手伝うよ」
「陰キャには荷が重い」
「ふぐぅ」ぼくは胸を抑えた。その言葉はぼくの胸を引き裂いた。舞雪ちゃんの口調のおかげでそんなでもなかったけれど、次来られたら、今夜中は立ち直れない。ふて寝だ。
舞雪ちゃんは小さく笑った。「気持ちは嬉しいけど空ちゃんが連中に捕まってエロ同人みたいな目に遭ったりしたら、うちの脳みそが破壊されてまう。うちの性癖まで捻じ曲げられてまう。それだけは避けんと」
ぼくはなにか手近なものを舞雪ちゃんに投げつけようかと思ったけどちょうど良いのが見つからなかった。笑って許してやることにした。
舞雪ちゃんは、その灰色の瞳から、揺らめく灰色の光を漂わせていた。「空ちゃんって姿勢ええな」
「ありがと」
「歩き方も体幹しっかりしとるし、足運びも滑らかやし、格闘技やっとった? それかバレエとか」
「体育の護身術くらいだよ」
舞雪ちゃんは首を傾げた。「そういう感じやないんよね」
ぼくの脳裏に浮かんだのは、グロリアだった。
あいつは、たまにぼくを学園の周囲を囲う樹海に連れ込んで、サバゲーに付き合わせていた。
ぼくはぼくで程良くアドレナリンが出て、程良く力を実感出来るそのゲームにハマった時期があった。
グロリアは、魔法を使って姿を消したり、地形を変えたりしてぼくを混乱させ、背後に回り込み、プラスチックの弾を撃ち込んできた。
騙し討ちや不意打ちやトラップの設置の得意なあいつと戦う内に、ぼくは生命の魔法による身体強化を向上させていた。
筋力や体の柔軟性、五感や反射神経、全身の感覚を向上させ、不意に飛んでくるプラスチック弾や木の実、急になくなった足場、頭上から落ちてくる丸太なんかをかいくぐり、不意に影から顔をのぞかせて挑発してくるグロリアを、夢中になって追い回していた。
数え切れないくらいあいつとゲームをしたけれど、結局ぼくは、あいつに弾を当てることは出来なかった。
ただ、一度だけ。
あいつの服にゴム製のナイフを当てることが出来た。
その時の感覚は今でも覚えている。
あいつとのゲームをこなす内に、グロリアの行動や思考のパターンがなんとなくわかったのだ。
今なら、あいつはぼくの背後に回り込んでくる。
そして、やたらとエロい手つきでぼくの胸を揉んで、おっぱいどこにあんの? とかなんとか、ぼくを挑発してくるのだ。
考えただけで殺意が湧いてくる。
腹をぶっ刺してやる。
そう思いながらナイフを振りかぶると、ゴム製の刃は、ちょうど背後12cmの距離にいたグロリアのジャケットを突き刺したのだった。
グロリアは、あいつにしては珍しく、心の底から驚いたような顔で、ぼくから飛び退いた。
いつもにやにやしているグロリアの顔から表情が消え、その目はぞっとするほど暗かった。
だが、それは一瞬のこと。
次の瞬間には、グロリアはいつものにやにやに戻ろうとして失敗し、数秒経ってから、いつものにやにやに戻った。
それからしばらく、グロリアからゲームに誘われることはなく、ぼくの方から気まぐれに誘っても、あれこれと理由をつけて断られた。
それからさらにしばらくして、グロリアから再びゲームに誘われた。
ぼくは、以前と変わらない楽しい時間を過ごしながら、なにか違和感を抱いていた。
グロリアの動きを予想しやすくなったのだ。
それがあちらにも伝わったのかもしれない。
ヌルゲーのように感じられていたゲームには、いつからか再び、研ぎ澄まされるような緊張感が戻っていた。
最後にあいつとゲームをしたのは、旅に出る前の休日のこと。
その時も結局、ぼくの攻撃があいつに当たることはなかったけれど、そのゲームが終わったとき、あいつはぼくに言っていた。
『そんだけ動ければ、旅先で変態に襲われても逃げられるでしょ』
ぼくはその時、小さく笑って応えたのだった。
「そういうことか」
舞雪ちゃんの言葉に、ぼくは顔を上げた。「なにが」
舞雪ちゃんの目が、薄い灰色の光を放っていた。「グロリアのこと知っとるんやけどね」舞雪ちゃんは、ぼくの目を見ながら言った。「そっか、それなら……」舞雪ちゃんは、唇を撫でて、うつむいた。「連中のことどう思う?」
「頭の悪そうな奴らだなって思う」ぼくは言った。「まともな教育も受けてなさそうだし、そのクセ自分を強く見せるための服装や立ち振る舞い、表情。嫌いなタイプだね」
「せやね。でも、そうじゃなくて、あいつらを殺すとしたら、何分掛かると思う?」
ぼくは、息を止めて、呼吸を再開した。「気絶させて縛り上げるだけなら、三分くらいじゃない?」
「気絶させるだけなら?」
「うん」
二秒ほど沈黙が生まれた。
舞雪ちゃんはぼくを見ながら動きを止めていた。
ぼくの言葉を待っているようだ。
しまった……。
ぼくは思った。
またなにか噛み合っていない。
会話をしているときに生まれるこの沈黙が、ぼくは嫌いだった。
「え、どういうこと?」
舞雪ちゃんは小さく笑った。「縛り上げんでええねん。気絶させるだけなら?」
「三十秒くらい?」
「そか。じゃあ、殺すとしたら?」
ぼくは少し考えた。
たぶん、十秒くらい。
「しないよ。そんなこと」
「するとしたら?」
「しない」
舞雪ちゃんはその灰色の瞳で、ぼくを見て、ぼくは、その灰色の瞳を見返した。
そうすること数秒、ジェロームくんが、そのもふもふの黒い背中で舞雪ちゃんのつま先をくすぐりながらこちらへやってきた。
ジェロームくんはぼくの膝の上で丸まり、眠った。
「今作戦を考えとるんよ」舞雪ちゃんは言った。
ぼくは頷いた。
「奴らはうちらの足跡や現在地を知っとる。恐らく、うちらとヴェーラちゃんの関係性も。旅先で出会った友達程度や。でも、やつらはうちらのヴェーラちゃんに対する好感や、ヴェーラちゃんがうちらに持ってる好感を知っとる。だからそれを利用して、ヴェーラちゃんを人質にしようとする。それならまだええ。うちらがヴェーラちゃんたちのところにまた行くと思って、うちらに動揺をあたえようとして、あの子とその家族の変わり果てた姿をうちらに見せつけようとする。そんなことさせてたまるか。だから、うちらはヴェーラちゃんたちが手に届く場所にいないといけない。ヴェーラちゃんちの村のそばに、森があった。そこで迎え撃つんや」
「作戦は?」
「うちが森に霧を放つ。連中の認知能力が少しだけ鈍る。空ちゃんとうちの見立て通り、連中が格下なら、それだけで十分や。うちだけでも連中を始末出来る。でも、空ちゃんが連中を殺したくないなら、空ちゃんが連中を倒すんや。うちはヴェーラちゃんのところにも空ちゃんのところにも駆けつけられるように、少し離れたところで空ちゃんを見ておく。でも、空ちゃんが危なくなったら、その時は、不殺は諦めるんやね」
ぼくは頷いた。
つまり、ぼくが連中に負けるというのは、つまり、こういうことだ。
連中は死に、舞雪ちゃんは人殺しになる。
いや。
ぼくは舞雪ちゃんを見た。
舞雪ちゃんは、すでに。
「ちゃうで」舞雪ちゃんは言った。「連中がうちに殺されるとしても、それは、そんな末路を辿るような生き方を選んだ連中の自業自得や。自分を守るために拳を振るうならしゃあない。でも、言葉による理解を求めもせずに人を脅すような真似をして、それに味をしめて武器を手に取る選択をしておいて、そんな選択をすれば、そんな選択を続ければどうなるか、そんなこともわからないバカがいるなんて、うちは認めん。そんな主張をうちは認めん。空ちゃんが不殺を貫こうとするのなら、それは、連中と空ちゃん自身に対する優しさや。でも、うちらを殺し、尊厳を奪おうとしている連中を殺すうちの選択を非難したいのなら、空ちゃん」舞雪ちゃんは、力強い眼差しのまま、ぼくの肩を強く握った。「そういう終わらせ方も、解決の仕方もあったんやってことを、うちに見せるんや」
ぼくは、灰色の瞳を見つめた。その瞳の中には、ぼくがいた。ぼくのシャンパンゴールド色の瞳が、ぼくを、まっすぐに見つめていた。「舞雪ちゃん」
舞雪ちゃんは、黙ったままぼくを見つめ続ける。
ぼくの言葉を待っているのだ。
ぼくが、自分で考えて口にする、ぼくだけの言葉を。
ぼくは、頷いた。「痛いよ」
「ごめん」舞雪ちゃんは、ぼくの肩から手を離した。
「出来ると思う?」
「経験から言えば、そんな事が出来たら奇跡やね。こっちが反撃や反論をすれば、それが犯罪かのような反応までしてくる。あの反応見てたら、こっちが間違ってんのかなとすらうっかり思ってまうで」
ぼくは失笑を漏らした。「いるね、そういう人たち」
舞雪ちゃんはぼくに合わせる感じで小さく笑った。「こんな状況じゃなくとも、関わってるだけで手が出そうになるバカしかおらへん。うちとしては、ほんまにどっちでもええねん」
「そっか。でも、ぼくにやらせてくれんの?」
「やってみたいならな。形勢が悪くなった瞬間にうちが出るからな」
ぼくは頷いた。「いつ始める? その、作戦ってやつ」
すべてが終わった後、ぼくは、自分のことが少しだけ分かった。
ぼくが一番怖いのは、人と向き合うこと。
だから、一人でいることが好きなのだ。
周囲と理解し合えない自分を、どうこう思ったことはあまりない。
ただ、相手のことを良い人だなと思ったら、そんな相手を悲しませてしまったり、傷つけてしまったら、そんなとき、自分が情けなく感じる。
その情けなさを感じる度に、ぼくは、一人でいる時間を増やしていく。
そうしているうちに、一人の時間の楽しみ方を知り、そうして、一人でいることをもっと好きになっていく。
一人の時間は良いものだ。
それと同じくらい、良い人と過ごす時間も良いものだ。
不愉快な人と過ごす時間は苦痛なので、やむを得ない事情でそういう時間を過ごさざるを得ないときは、そういう人を可能な限り無視する。
無視をしきれないときは、自分を偽り、決して本当の自分を見せない。
損な生き方をしているうちに、ぼくは、良い人と関わる方法を忘れ、不愉快な相手を受け流すことばかりが身についていた。
今となっては、ぼくは人と向き合うことを恐れてしまっている。
だから、そう。
人と関わらないのは楽で良い。
怖いのは、良い人、仲良くなりたいと思った人と関わること。
怖くないのは、不愉快な人を受け流すこと。
得意なのは、無視や演技で不愉快な存在を否定すること。
難しいのは、良い人と仲良くなること。
嫌われたくないとか、薄汚く見えていないかとか、そんなことばかりが気になってしまう。
でも。
不愉快な連中を否定するのは、今のぼくにとって、とても簡単だ。
だからそう。
たぶん、ぼくは、こういうことも得意なのだろう。
ぼくは、先程までぼくを殺そうとしていた男を見下ろしていた。
男は立ち上がれない。
ぼくが散々打ちのめしたからだし、ぼくは、男の額をかかとで踏みつけ、抑えこんでいた。
敵は八人いた。
残りはこいつだけ。
こいつを片付ければ終わりだ。
ぼくは、今の自分を理解したかった。
だからだ。
こうしてこいつを見下ろしているのは。
男の目には、怒りが浮かんでいる。
恐怖ではない。
怒りだ。
なんでだろう。
なんで、そっちからはじめたくせに。
ぼくはただ、巻き込まれただけで、また、巻き込まれただけなのに。
そんなぼくから反撃されて、どうして。
今、ぼくに命を握られているのに。
なんでぼくのことをそんな目で見るんだろう。
許せないかのように。
ぼくをとんでもない犯罪者を見るかのような目で。
本当に。
「なんなんだよお前らは」ぼくは、ドレスソードを振り上げ、男の首に振り下ろした。
その刃が男の首筋に触れるまで、男は、ぼくに対して、汚い言葉を、酷い言葉を吐き続けていた。
剣の刃が、男の首を殴りつけた。
ぼくは小さくほくそ笑んだ。
男は死んでいない。
気を失っているだけだ。
「みねうちだ」
ぼくは、吐き捨てるように言って、ほくそ笑んだ。
男のおでこをかかとでふみつけ、空を見上げる。
凍りついた空気の中に浮かぶ満月を見上げ、ぼくは、顔を覆うマスクを脱ぎ捨てた。
誰もいない森の中で、ぼくは、今までの人生を振り返った。
誰かに勝つという経験は、これが初めてだったかも。
ぼくは、凍りついた空気を深く吸い込み、吐き出した。
そうか。
勝つって、こんな気持ちなんだ。
ぼくは、浅く息を吸い、短く吐き出した。
「ごめんだね。二度と」
勝つなんて。
こんなこと。
繰り返してたら、おかしくなる。
頭も、心も。
汚れていく。
「っくそ」
だから嫌いなんだよ。
馬鹿は。
ぼくは、深呼吸をすることで、腹の奥から飛び出そうなどす黒い叫びを飲み込んだ。
勝ちとか負けとか。
馬鹿が。
そんなもんに、ぼくを、わたしを、巻き込むな。
お前らの低俗な価値観を、ぼくらに向けるな。
息を止め、どろどろとしたものを、腹の奥に押し込む。
ぼくは、こちらにやってくる舞雪ちゃんを視界の端で見ながら、祈った。
彼女がここに来るまでに、この胸糞悪さが消え去ってくれることを。
誰とも話したくない。
誰とも関わりたくない。
そんな気分だった。
「っ、はあ」
ぼくは、小さく息を吐き、心の膿を吐き出した。




