3 グロリアの指輪
おねえさんは、グロリアに向けて、にっこりと微笑んだ。「お久しぶり」
「うん」グロリアは、この人にしては珍しいことにそっけない様子で返事をすると、スタンドテーブルに近づき、書類に記入をした。「変わらないなー」
おねえさんは、ふふふっ、と笑った。
ぼくは、おねえさんを見上げた。
ぼくは156cm。
グロリアは180cmと、背が高い方だが、おねえさんの方はさらに背が高い。多分、2m近くある。
おねえさんはにっこりと微笑んだ。
ぼくも笑顔を返した。
グロリアはぼくを見た。
ぼくは、魔法で自分の体を宙に浮かべて、スタンドテーブルの上の書類に記入をした。
【出入国記録 2010 #144】
書類には、いくつもの名前が並んでいた。記入に使われている文字や、記入されている名前を見るに、グロリアと同じ国出身の人たちのようだ。
記入を終えたぼくは、箒を手に生み出した。
「ニホニアね」と、グロリアは言った。
「はいはい」と、おねえさんは言って、ドアを開けた。
先日見たような大空が、ドアの向こうに広がっていた。
この場所はかなりの高度にあるが、部屋の中が気圧の変化による強風によって掻き乱される、などといったことはなかった。
グロリアは、箒も持たずに大空に飛び出した。
ぼくは、箒に乗って大空に出た。宙に滞空しながらおねえさんを振り返ると、彼女は優しく微笑んで、ぼくに向かって手を振った。ぼくも、彼女に手を振り返し、グロリアを追った。
ーーー
箒がなくても空を飛ぶことは出来る。ただ、それにはある程度以上の慣れが必要だ。
グロリアは、鳥のように両手を広げて、大空の中をものすごい速さで滑空していった。
ぼくも負けじと、箒に乗って彼女を追う。
追いかけっこをしているからか、いつもよりも速度が出ている気がする。
グロリアの横に追いついたと思ったら、グロリアは楽しそうな様子でぼくを一瞥して、再び速度を上げていく。
腕の差を見せつけられているようで、なんか悔しくて、ムカついた。
そこからはレースだった。
おかげで、先日よりも早く地表に降り立つことが出来た。
ーーー
石畳に足を着けたグロリアは、ジャケットを脱ぐと、それを振って、パッ、と、手品のように消した。瞬きをした次の瞬間には、グロリアの服装が変わっていた。白のTシャツに、七部丈の黒のパンツに、歩き易そうな水色のスニーカー。
魔法で生み出した物だ。
彼女の服はいつもハンドメイドで、その時々でシルエットやデザインが違う。
気に入った物が出来た時は、先程のジャケットのように消したりはせずに、小さく丸めてポケットにしまったりするようなので、先程のジャケットはそのラインには達していないようだった。
グロリアはタバコを咥えて火をつけた。「変わんないねーっ」その楽しそうな声から察するに、なんだかんだで、グロリアもこの世界が好きな様だ。「カフェ行こ。ドーナツドーナツ」と、グロリアはぼくの左腕を抱き寄せた。
グロリアの新しい服装も納得なほど、今日は暖かかった。
暖かいを通り越して、暑いくらいだ。
Tシャツの生地が分厚いから気が付かなかったけれど、グロリアはブラをしていなかった。
ーーー
グロリアが連れてきてくれたカフェ【Dolce Donut Donatello】は、先日の中央広場から伸びる道にあった。
幅の狭い木造の店内にはレジカウンターと、その下にドーナツをはじめとしたお菓子や、パニーニなどのサンドウィッチの入ったガラスのショーケースがあるだけだった。
壁には古びた絵画や黒板が下がっている。
黒板には、ぶどう酒やコーヒーや紅茶などのドリンクや、ジェラートやグラニータなどと書かれていた。
テラス席はなく、テーブル代わりの大樽が1つ置かれているだけだ。
大樽にはすでに先客がいた。
先客のカメは、日向ぼっこをしながら眠っていた。
どうしよう、これじゃ食べる場所がない……、そう思っていると、グロリアは、カメの横に、フツーにエスプレッソの小さなカップを乗せ、カンノーリを頬張って、幸せそうな顔をした。
「え、ぼくの分は?」
「自分で買いなよ」
「ちぇ」
ぼくは、カプチーノとフルサイズのクロスタータというイタリアのパイを買った。
パイには、砂糖漬けのブラックベリーがぎっしりと詰まっていた。
ところが、レジカウンターの上に商品が出されて、ぼくは眉をひそめた。
驚いたことに、カプチーノにはソーサーがなく、直径15cmほどもある大きなパイの方にはフォークがついていなかった。
しょうがないので、ぼくは自分で魔法を使い、ソーサーやティースプーンやフォークを生み出すことにした。
「7FUだ」店主であるドナテッロさんは言った。
「え?」ぼくは、メニューを見た。【カプチーノ−1FU、クロスタータ・ディ・モーレ−3FU】。「でも、そこには……」ぼくはメニューを指差した。
「それは持ち帰りの値段だ。表で食べていくならプラス3FUだ」
「なるほど……、それならそうと書いておいてくれればいいのに」
「貴重なご意見どうも。参考にさせてもらうよ」と、ドナテッロさんは言った。
その様子を見るに、絶対に貴重なご意見だなんて思ってないし、今後の参考になんかしないだろうということが窺えた。
ぼくは、カプチーノとクロスタータを手に、店を出た。
見れば、グロリアはニヤニヤしていた。
「なに?」
「いくらだって?」
「ここで食うなら3FUプラスだって」
グロリアは笑った。
「なに?」
「あのね……」地球で言えばヴェネツィアに相当する場所から遠路遥々ここニホニアまでやってきたアテリア人であるドナテッロさんは、信じられないことに、店を訪れる人の顔を全て覚えているらしい。
それだけ聞けば、なんて良い人なんだろう、きっとドナテッロさんは人が大好きな暖かい人なんだな……、と思うものだが、さらに話を聞いてみれば、どうやらそういうわけでもないらしい。
奴は、初めて訪れる客からは、必ずぼったくるらしい。
その名目は、イートインスペースの利用料だったり、入会費だったりと様々なようだ。
ドナテッロさんのお菓子を気に入って二度目に来店した者たちは、二回目からは、『あんたはイートインスペースの利用料はタダだ、常連さんだからな』、という、ドナテッロさんの欺瞞に満ちた笑顔に感動してしまうらしい。
イタリア人が観光客からぼったくるというのは有名な話だったが、驚いたことに、連中は遠路はるばる異世界転移をしてこんな場所にやって来てまで、ぼくのような観光客からぼったくっているようだ。
まったく困ったもんだぜ……、と思いながら、クロスタータを食べてみると、さくさくもちもちのパイ生地からはバターの風味がして、ブラックベリーが甘くて美味かった。
パイによって刺激された嗅覚と味覚が、周囲に漂う、心地良い花の香り掴んだ。
ぼくは、目を瞑り、鼻で深く息を吸った。
バターとブルーベリーの香り、花の香り、カプチーノの甘い香り、コーヒーの香ばしい香り、秋の香り。
新鮮な空気には、様々な香りが含まれていた。
サクサクのパイ生地を噛む音、そよ風に揺られる花壇の花々、鳥の鳴き声、硬い靴底が石畳を叩く音……、コト……、と、すぐ近くで、何か硬いものが、硬い木の板に置かれる音に目を開けてみれば、グロリアが、樽の上にエスプレッソのカップを置き、タバコを咥えていた。
視線を感じてそちらを見れば、樽の上で眠っていたカメが、いつの間にやら目を覚ましていた。
カメは、ぼくを見上げて、パイを見て、再びぼくを見上げた。
ここでも利用料を要求されてしまった。
ぼくは、パイを摘んで、欠片をカメの前に置いた。
カメは、しゅっ、と、首を伸ばしてパイの欠片を食べようとしたが、パイ生地は、ビリヤードで玉を弾くように、カメの顔に弾かれて、地面に落ちてしまった。
ネコ顔のグリフォンが、どっからともなくやってきて、そのパイ生地を食べた。
ネコ顔のグリフォンはぼくを見上げた。
視線を感じてそちらを見ると、カメも、無表情にぼくを見上げていた。
こいつらグルなんじゃないか……? と思いながら、ぼくはネコ顔のグリフォンを睨みつけた。
ネコ顔のグリフォンはスタスタと歩き去って行ったが、10mくらい離れたところで、こちらを振り返って、再び歩き去っていった。
ぼくは、ため息を吐いて、「これで最後だぞ」と、言いながら、カメの前にパイ生地のかけらを置いた。
カメは、今度は上手にパイ生地を咥えることが出来た。
満足した様子のカメは、ぼくに頷きかけると、首を引っ込めて、昼寝に戻った。
「ネコ顔のグリフォンには気をつけなよ。あいつら調子に乗るから」と、グロリア。
「うん。知ってる」
「ワシ顔の方は、自立してて、自分でネズミとか取って食うから良いんだけどね。でも、ワシ顔にねだられたらあげてやんなよ。あいつらプライドが高いから滅多に人にすり寄ってくることはないんだけど、そういう連中が助けを求めてくる時は、本当に困ってる時だから。プライドが傷つく痛みを堪えて、胸の中で啜り泣きながら助けを求めてくるのよ」
「なんか、どっちにしろめんどくさい奴らだね。グリフォンって」
「関わらないのが一番よ」タバコを吸い終えたグロリアは、店内に入ってすぐに戻ってきた。両手にエスプレッソのカップを持っている。
「お? ぼくに?」
グロリアはニンマリとして、左手のエスプレッソを一口で飲み干し、右手のエスプレッソを啜った。
「けち」
「それ美味しそうだね」
「分けてあげない」
「お願いっ! 一口だけっ! ねっ、先っちょだけで良いからっ! お、俺さぁ……、もう我慢出来ねんだよ……、でへへへへへ……」グロリアは、鼻息を荒くしながら言った。
「しょうがないなぁ」ぼくは、グロリアにパイを差し出した。
グロリアは、パイをちぎった。
結構ごっそり持っていかれた。
グロリアはあーん、と頬張って、むしゃむしゃとした。「美味い」
「だよね」
「ソラってちょっとお願いしたら簡単にヤらせてくれそうだよね。何をとは言わんけど」
「かっ、死ね」ぼくは、残りのパイを頬張り、むしゃむしゃした。ごくん。「死ね」
「大事なことだから二回言ったってわけね。うぇえ〜ん」グロリアは泣くフリをした。「うえんぴえんぱおん」
「なんだよぴえんぱおんって」
「数年以内に流行る。流行らなくてもわたしが流行らせます」
ぼくは笑った。カプチーノでパイを流し込み、息を吐く。「美味しかった。タバコちょうだい」
グロリアはこちらにタバコを差し出してきた。
「ありがと」ぼくは、煙を吐いた。
良い街だ……、と思った。
西部劇っぽかったり、イタリアっぽかったり、ポーランドっぽかったり……。
小6の修学旅行を思い出す。
「そういえば、こっち来る時あのおねえさんに、ニホニアね、って言ってたけど、あれってどういうことなの?」
「土地名を言えばそこまで繋いでくれるの」
「そうなんだ」
「うん」
「この世界広いみたいだから、どうやって見て周ろうかなって考えてたの。細マッチョのスライムを雇うか、自然同化の魔法で行こうかって考えてた」
「細マッチョのスライムねー。スライムに乗るなら、普通のプニプニのスライムが一番よ。筋肉ついたスライムだと走ることしか出来ないし寝心地も硬いけど、プニプニのスライムならウォーターベッドみたいで寝心地最高だし、なんにでも変身できるし、融通も効くから。鳥とかドラゴンになってもらって空から見て周るのもいいし、ユニコーンに変身してもらって駆けても良いし。ただ、スライムって対象を包み込んで形とか性質や能力を記憶してから変身するっていう性質なのよね。形状記憶のボキャブラリーが多いほど強くて、自立心も旺盛でヒトと仲良くしようっていう感じじゃなくなるのよね。雇う費用も高くなるし。鳥に変身できるだけなら、細マッチョのスライムより安いから、オススメね」
「性質とか能力って?」
「たとえば、スライムがドラゴンを包み込んで形状を記憶しているときにドラゴンが火を噴いたら、スライムもドラゴンの火を吹けるようになるの。ドラゴンほど強力じゃなくても、魔法使いの火よりは全然強力なやつ」
「どういう理屈?」
「コピーをして進化するのよ。それがスライムっていう生き物なんだとしか説明できないわね。この世界は幻獣を尊重して、連中と共存しているけど、生態の研究や解明には積極的じゃないの。スライム一つとっても、地球にいる幻獣とはところどころで生態が違うみたいだし、地域ごとにも違いがある。それにインターネットもないし、土地も広いから、情報の共有にも一手間だし。多分、幻獣の研究に力を入れてる人もいるとは思うけど、そういう奴はこんな街中にはいないだろうし」
「スライムってドラゴンの火食らっても生きてられるの?」
「連中は不老不死だから。歳を取ったら、活性化している細胞と弱りかけている細胞に分裂して、弱りかけている方は消滅するんだって。年取ったスライムは、幻獣保護委員会のシェルターに行くみたいよ。で、シェルターの中で若返るんだって」
「繁殖は?」
「たまにするみたい」
「分裂?」
「謎」
ぼくは左手に作った輪っかに、右手の人差し指を差し込んで首を傾げた。
グロリアは笑った。「本当に謎なんだって」
ぼくはタバコの煙を吐いた。「この世界にインターネットがあったらやだな……」
「なんで?」
「ここにいれば肌が荒れないのに、インターネットが普及したら、地球と一緒になっちゃう」
「女の子みたいなこと言うのね」
「やめろ」
グロリアは肩を竦めた。「わたしにはわかんない悩みだね」
「ラッキーだね。でも、それなら交通手段で悩む必要もないね。地図あるし、行きたいと思った地名を言えばそこまで行けるっていうなら、それに越したことない」
「自然同化の魔法って高等部から学ぶんだけどさ、基礎だけなら教えてあげよっか?」
ぼくは、うーんと唸った。
実は、それについてはグロリアの幼馴染であり、ぼくの友人でもあるレオーニさんという、イタリア人のおにいさんから教えてもらって、すでに出来るのだ。「失敗したら死ぬ系はやだよ」
「死なんし。大丈夫。やってみよ」
「良いよ」ぼくは頷いた。「でも、また今度が良いな。今日は思いっきり遊びたい」
「思いっきりね」グロリアは、ニヤリとした。こいつがこういう顔をするときは、ろくでもないことを考えている時だった。「何か食べたいものある?」
「ビール」
ーーー
ぼくたちは、広場から伸びる大通りのカフェに入った。
よく晴れた空の下、ぼくたちはテラス席に腰掛ける。
「冬休みもうすぐだし、課題さっさと終わらせて、1ヶ月まるまるここで過ごそうかなって」ぼくは言った。
グロリアは、タバコを吸いながら、小首を傾げた。ぷかーっと、口の端から煙を吐き出す。「良いんじゃない? ただ、身を守る術は学ばないとね。身体強化とか、武器とか」
「身体強化は出来る。それをやりながらの護身術も授業でやってるし」
「この世界にいるのは、純魔ばかりで……、みんな魔法の扱いに慣れてる」グロリアは人差し指を立てて、ウェイトレスを呼んだ。
ぼくたちは、とりあえず、ニホニアン・ユニコーンを注文した。
先日、ティムさんのいるサルーンで飲んだホワイトビールだ。
「良いところだよね……、この世界」と、グロリアは言った。
彼女は、メニューを取り、おすすめだと言う料理をいくつか教えてくれた。
1分経たずに、ビールが運ばれてきた。
グロリアは、おすすめの料理を全部注文すると、グラスを持ち上げた。「かんぱーいっ!」
「乾杯っ!」ぼくは言った。
グロリアは、一息でグラスを空にした。「足りないね」彼女はゲップをして、笑った。「ソラもさ、一応見た目は可愛い女の子なわけだから、身を守れないとダメ」
「なんて言った?」
「身を守れないとダメ?」
「その前」
「女の子?」
「もうちょい」
「一応?」
「行き過ぎ」
「可愛い」
「ありがと。続けて」ぼくはビールを啜った。
グロリアは笑った。「ほんと自分のこと好きね」
「自分くらいは自分を愛してやらないと」
グロリアはほくそ笑むと、頷いた。「だから、あんたには身を守る術を学んで欲しいの。まず第一に、危機を見分ける目、次に逃げ足、最後に護身術」グロリアは、タバコの煙を吐いた。「危機を見分ける目。胡散臭さを感じたら距離を置くこと。距離感のおかしい奴からはすぐに離れること」
「キモい奴には近づくなってことでしょ?」
「そう。次に、逃げ足だけど、あんたは、生命の魔力の持ち主だから、全身に魔力を流して、筋肉とかを活性化させれば、結構な速さで逃げられる。あとは、生命の魔力の応用で、火を自分の生命の源に流すイメージ。火の魔力を、血や細胞、骨の髄、体の隅々まで流し込むイメージをすると同時に、自分の体を構成するあらゆる素粒子と素粒子の間にある隙間を意識して、その隙間に、火の魔力を流し込むイメージをする。火になるわけだから、自分の体を個体でも液体でもなくて、気体だと考えること。そして、自然と同化しているときは、常に理性を保ち、冷静でいること。パニックになったら、あんたの体が空中分解することになる」
「そうなんだ怖いね」と言いながら、ぼくは、右手を火に変えた。
グロリアは目を見開き、小さく笑った。「出来たの?」
ぼくは頷いた。「出来るよ。体育の時間とかじゃ出来ないフリするけど、ぼく、結構なんでも出来るんだよ」
「なんでそんなこと」
「目立つの嫌いだから。褒められたいとか思わないし、悪目立ちなんて最悪だし、蔑まれるのは嫌だし、賞賛されるのは恥ずかしいし」ぼくは、右手を元に戻した。衣類は魔力の膜で覆っていたので、燃えずに済んだ。
こんなところで周囲にうごめいている野郎どもにサービスをするつもりはなかった。
こんなところじゃなくても、そんなことはしないけど。
「可愛くないね」言いながら、グロリアはほくそ笑んだ。
「なにも知らない奴らから知ったような顔で評価されるのが嫌いなんだ。グロリアに言わなかったのは、言う機会がなかったからだよ」
グロリアは頷いた。「護身術は、雷の魔法を使えたら良いんだけどね。相手の体を麻痺させればすぐ逃げられるし、体を雷に変えられたら、そもそも滅多に捕まらないし」
「でも無理。持ってない」
「じゃあ、あげるわ」グロリアは、何も握っていない両手の手の平を、空気を包み込む様に合わせ、ぎゅっと握りしめた。
魔力を込めているようだった。
グロリアの顔に汗が滲んだ。
一分ほどして、グロリアは深く息を吐いた。
震える手の平を彼女が上向きにして開けば、そこには指輪が現れた。
宝石はついていない、フレームだけのシンプルな、鉄の指輪だった。
「これをつければ、雷の魔法を使えるわ。着けてみな」
ぼくは、言われた通り、右手の人差し指に指輪をつけてみた。
指輪から、何か異物が流れてくる。
暖かい。
不快感はなかった。
グロリアの魔力の一部だということが、指輪に触れた瞬間にわかったからだ。
血管を流れる血が体内を巡るように、その異物が、グロリアの魔力が、指先からぼくの体を巡っていく。
暖かな魔力がぼくの心臓に届いた途端に、そこから急速に全身を駆け巡っていくのがわかった。
視界が澄み渡ったかと思った次の瞬間、視界の中で火花が散った。
続いて襲いかかってきたのは、酔ったような感覚。
視界がぐるりと歪み、明滅する。
おでこが痛い。
いつの間にか、テーブルに突っ伏していた。
「急激に魔力の総量が増えたから、脳とか精神とか心とかがパンクしてるのよ。1日くらいで体が順応するわ」明滅して何も見えない中、グロリアの声が聞こえてくるが、どこか夢見心地だった。
徐々に視界が戻っていく。
「あー……」ぼくは唸った。「しんど……」ビールを一息に飲み干して、ハンカチで顔を拭く。
嫌な汗を、びっしょりとかいていた。
いつの間にか、料理が運ばれてきていた。
サラダ、フルーツ、肉料理、魚料理、スパゲッティ。
新しいビールもテーブルに並んでいる。
「ぼく気絶してた?」ぼくは、ナイフとフォークを取りながら、グロリアに聞いた。
「三分くらい目玉回してた」
「恥ずい」ぼくは白身魚のムニエルを切り分けた。「あ、ぼくにくれたみたいだけど、グロリアは、今まで通り問題なく使えるの? 雷の魔法」
「使えるわ。その指輪を作る時に大気中の魔素をいくつか使ったの。この世界は大気中の魔素濃度も高いから、こっちの負担も少なく済んだわ。大気中の魔素のおかげで、ここだと体調も良いし傷の回復も早いのよね。ここで酔っ払ったまま元の世界に戻ると酷い目に遭うけど」
「ふーん。よくわからん。これって、ヴェルの持ってる指輪みたいなもん?」
「そ。自分の魔力の一部を相手に分け与える物。分け与える本人は空っぽ寸前まで魔力を注ぐんだけど、一日寝れば元に戻るし、多分、ここでなら半日過ごせば戻るんじゃないかな。分け与えられた方は、新しい力を使いこなすのに苦労するけど、それも、慣れちゃえばなんともならないし、これが一番でしょ。その指輪があれば、98%くらいの精度で、わたしと同じ魔法を使える。ベストパフォーマンスでね」
「ありがと」
「可愛いソラちゃんのためなら喜んで」言って、グロリアは再び1リットルのビールを一息で空にした。
次のグラスは、すでにテーブルに乗っていた。
ぼくは、右手の人差し指の先に雷を纏わせた。
表面に纏わせた雷を、皮膚に吸い込ませる。
続いて、薬指、中指、親指、小指。
雷は、指先を手の平に下っていき、そこから手首、肘、肩を伝っていく。
そこで、ぼくは右腕を雷から肉体に戻した。「出来そう。火の扱いと同じね。他には何かある?」
「あとはそうね。元の世界独自のスキルを覚えてもらうっていう手もあるんだけど、わたしの先生はあまりそういうのを好かないのよね。この世界の人たちは敵っていうわけじゃないけど悪人もいる。そういう人たちに、あっち独自のスキルを持った人が、仮に捕まったら、悪人たちにスキルが流出しないとも限らない」
グロリアはビールを啜った。
「そうね。手の平に文明的な武器を生み出すの。手の平を離れた瞬間に魔力の霧に戻るっていう風に設定してね。その時は、なるべくパーツが少ない、簡単な設計の物にした方がいい。例えば」
グロリアは手の平に小さな銃を生み出した。
短距離走の時に体育の先生が空に向けて撃つようなヤツだ。
「これは、一回しか撃てないけど、その分、部品も少ないから生成に時間もかからない。一発の銃弾に、一瞬で高濃度の魔力を流し込んで撃てば、ものすごく強力な武器になる。ヴェルが物語の中で闇落ちのドラゴンを倒した武器は、これと、切れ味を上げまくった剣と短剣よ」
「なんでわかるの?」
グロリアは、銃を消して、ビールを啜った。「わたしも読んだことがあるのよ。それで、わたしの方が物知りだから、なにが比喩で、なにが史実かっていう憶測も簡単に立てられるの。大方、銃で翼を撃ち抜いて、剣で鉤爪やらなにやらを削って、短剣で脳みそを突き刺したってところね」
「ふーん。ぼくは銃は良いや。映画じゃ悪役の武器だし」
「わたしやヴェルも悪役?」
「そうは言わないけど、アクション映画ってスカスカで見応えないからあんまり好きじゃない。スカッとするシーンだけは好きだけどね」
ぼくは、ムニエルを口に運んだ。魚の旨味と、バターやハーブやスパイスの芳醇な香りが絶品な一品となっていた。
「ぼくもね、一つ心配してることがあるんだ。ここで一ヶ月過ごしたら、それじゃ物足りなくなって、気がついたら10年とか20年とか、ここで過ごすことになってるんじゃないかって」
「それはわたしも思った」グロリアは笑った。「この世界の料理って美味いし安いしね」と、大きく切り分けたステーキを頬張った。
「グロリアって今何歳なの?」
「今?」グロリアは、ステーキをぶどう酒で流し込むと、少し切なそうな目をして、それを隠すように、微笑んだ。「そうね、18ってことにしておいて」
ぼくは笑った。「じゃあさ、教えて欲しいんだけど、この世界で、絶対に行った方が良いってところ教えて」
「それはもう、南フロンジェリーヌよ」
「南フランスっぽい感じ?」
「うん」
ぼくは笑った。「この世界って、なんで、いちいち名前もじるのかな」
「ね。でも、ぶどう酒美味いし、安いし、料理もハーブ上手く使ってて美味いから行くべき。過ごしやすいしね。あとはヴェニツァーノね。これはヴェネツィアっぽいとこ」
「パリは?」
「パリはパリって感じね。ロームァはこの世界の中心ってことで行きたがる人多いし、良いとこだけど、まあ、普通って感じ。少なくとも、持ち上げられてるほど良いとこじゃないわ。スカンジナヴィア辺りもおすすめ。中南米はあんまりおすすめ出来ないかな。あれよ、あっちでいうヨーロッパ辺りをテキトーに周っておくのが一番安全。季節が変わるのは3年毎で、北半球が夏の時は南半球が冬っていうのも一緒。中には年中夏で、年中冬って街もあって結構面白い。そういう街はロシアの山奥とかコーカサスの山奥とか、アフリカとか中南米に多い。地形や風向きによる魔素の停滞とかが原因で起こるケースが多いみたい」
グロリアはぶどう酒を飲んでグラスを空にすると、ボトルからお代わりを注いだ。
「確かに一年じゃ足りないかもね。飲む?」
「もらう」ぼくはグラスを持ち上げた。
注がれたぶどう酒を啜る。
ぼくは首を傾げた。
「美味しい?」
「美味いけど、わからない。赤と白とロゼとスパークリングの違いはわかるけど」
「ふっ、子供ね」
「わかるの?」
グロリアは頷いた。「酒なんてなんでも良いけどね。酔えれば良い」
「アル中」
「大人になればわかるわ」
「大人はみんなそう言うよね。ほんと大人になるのが怖くなってくる」
ぼくはボトルを持ち上げた。
これはどこ産だろう。
フロンジェリーヌと書かれている。
ラベルにはどこかの農場の絵が描かれていた。
鉛筆で描いたような感じだが、繊細で優しい、柔らかな筆遣いで、遠近法や影を使った立体感なども表現されている。
南ポロヴァンセーヌ農場で採れたブドウを使用したものらしい。
ポロヴァンセーヌ……、プロヴァンス……。
地名はもじるのにブドウとかクロスタータとかカプチーノとかはもじらないのか……。
ぼくはボトルを置いた。「この世界って、英語なの?」
「都市部はね。基本的にみんな、母国語と英語話せる。田舎の方は訛りキツイけど、一応英語が通じるし、田舎の方でもその国の言葉なら問題なく通じる。こっちもこっちでなんとなくあっちが喋ってることわかる」
なるほどなるほど。
ぼくは、カレーライスを食べつつ、グロリアの話に頷きながら思った。
なんで授業中ってご飯食べちゃだめなんだろ……。
少しでも面白いと思っていただけたならブックマーク登録、☆☆☆☆☆で評価をお願いします!




