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魔法使いの世界を旅する一年  作者: Zezilia Hastler
第3章 紳士と灰色の悪夢
29/72

12日目 ドーム

20:04


 

 会食の場から消えたノエルは、セントラル・ニホニアの上空1800mの辺りに現れた。

 白いカクテルドレスが、風にはためく。

 黒いハイヒールが、空中に生み出された魔力の足場を、コツっ、と、固く踏みしめた。

 ノエルは、あちらの世界にいる間に、あちらの世界の基本的な情報を全て頭に叩き込んでいた。

 AWとあちらの世界、地球の地理は瓜二つだ。

 違うのはスケールだけ。

 こちらは大きく、地球は小さい。

 こちらの世界でもあちらの世界でも、ニホニアは、広大な土地を有する島国だ。

 そして、ニホニアン・ガムラスタンやウェスタン・ニホニアや今晩の会食の場などは全てが一つの街、セントラル・ニホニアに収まっていた。

 あちらの世界でいうトーキョーというエリアに当たる。

 もっとも、トーキョーはセントラル・ニホニアよりも、12分の1ほど小さかったが。

 ノエルは、そんなことを思い出し、考えながら、右手に持つシャンパングラスから、シャンパンを啜った。

 魔法使いの鋭敏な五感。

 鷹のような目。

 上空からなら、街の様子がよくわかる。

 空を見上げれば、満点の星空が広がっている。

 良い天気だ。

 だが、眼下は違った。

 薄雲が張っており、その向こうにセントラル・ニホニアの街が広がっていた。

 街には、灰色のモヤのような精神の魔素が広がっていた。

 精神の魔素は、街中に広がっていた。

 街の様子を、朧げにしていた。

 街中にいる人々の表情まではわからない。

 それでも、街中にいる人々の動きはわかった。

 霧の濃淡には差がある。

 場所によっては、街の様子をくっきりと見ることが出来たり、あるいは、まったく確認出来なかったり。

 闇落ちのドラゴンの信奉者は、十中八九、あの霧が濃い場所にいるはずだ。

 なにせ、セントラル・ニホニアの街に複数あるそのポイントを中心に霧が広がっており、その発生地点は動いている。

 連中も考えてはいるようで、ダミーを用意しているようだ。

 そちらのダミーは動いていなかった。

 混乱の源は見つけた。

 だが、そこだけにあるとは限らない。

 自分はそれを見つけよう。

 ノエルは左手を広げた。

 5本の指先に、透明の球体が現れた。

 それらは指先を離れ、ノエルを中心に、放射状にふわふわと離れていった。

 ノエルの視界とは別に、5つのビジョンが、脳内に浮かんだ。

 それらは、ゆったりと飛びながら、眼下を見下ろす景色を映している。

 意識を失い、眠りにつく人々。

 そんな人々を治療しようとするニホニアの衛兵たち。

 民間人たちは、意識を失った人々を通りの隅に寄せたり、背負ったり肩を貸したりしてどこかへ運んだり、頬を叩いて起こそうとしたり、忙しない足取りで建物の中に逃げ込んだりしている。

 闇落ちのドラゴンの信奉者たちを見つけるのは簡単だ。

 民間人や衛兵たちとは違う、少し外れたことをしている人々を見つければ良い。

 このような状況で、連中が取る行動は一つ。

 何かしらの目的を果たすこと。

 その目的はなんだろう。

「マーク」ノエルは、会食の場にいる、若い魔法使いに向けて言った。右手にはめたマークの指輪。これを通じて、同じ指輪をはめる者達と五感や感覚を共有出来る。「目を5つ飛ばした」



ーーー



「ありがとう」マークは頷いた。ノエルに与えた指輪のおかげで、5つのビジョンが脳内に浮かんだ。『マイク、サム、ジム。見えますか?』マークは、その場にはいない仲間に、脳内で語りかけた。



ーーー



 脳内に響いたマークの言葉に、マイケルは頷いた。「あぁ。見える。あと7つは欲しいな」

 セクシーなため息が、脳内に響き渡った。『無茶言わないで。面倒臭いわ』

 マイケルは笑った。「ポーズはやめてくれノエル」

『貸し一つね』

 少しすると、脳内に浮かぶビジョンが5つ増え、その後さらに2つ増えた。

「ありがとう」マイケルは、キツツキ印のアパートに入った。オルガから一時的に与えられているものだが、彼はキツツキ印の意味を知らなかった。「目的はなんだろうな。なんにせよ、一番都合が悪いのは、追跡出来ない状況で連中が逃げること」

『同感ね』



ーーー



 ノエルは、セントラル・ニホニアの中央広場に舞い降りた。

 彼女の履く黒いハイヒールの爪先が石畳に着くとともに、そこを中心に彼女の魔力が広がった。

 魔力は球状に膨らんでいく。

 地上には、ノエルの魔力によって生み出された、透明のドームが広がっていった。

 ドームはその直径と高さを急速に増していき、そして、10秒足らずで、広大なセントラル・ニホニアの街を覆った。

 空間魔法。

 戦いにおいては、敵を自分の空間に取り込めば、自らの想像力が及ぶ限り、ありとあらゆる方法で敵を打ちのめすことが出来る。空間内を無重力にしたり、自分の周囲にだけ酸素を集めて窒息させたり、或いは、相手の力を奪い自分の力に換えたり。

 日常生活においては、自分の周囲を森林や湖畔に変えたり、トランクやバッグの中を倉庫のように広げたり。自らの周囲に酸素や暖気や冷気を纏って快適さを演出することも出来る。

 その代わりに、膨大な魔力を消費する。

 今回は、外界との隔絶という一つの目的に絞ったが故に、魔力の消費は少なく済んだ。セントラル・ニホニアの街を覆うドームは、ノエル以外のあらゆる者を外界に逃がさない。闇落ちのドラゴンの信奉者たちに、ドームを破壊することが出来れば話は別だが、そうなると、ノエル以上に強大な魔力を有しているか、あるいは巧妙な魔力の扱い方を心得ている必要がある。

 どちらも問題はない。

 ノエルは、眠りに落ちたセントラル・ニホニアの中央広場を見た。意識を奪われなかった者たちは、すでにどこかへ避難したらしい。広場には、霧と静寂が漂っていた。薄い霧が、街灯の光をくぐもらせている。そんな街灯の光を受けて、夜露に浅く濡れた石畳が、光っている。

 ノエルの緑色の瞳がキラキラと輝いた。彼女は、吐息を静かに漏らした。

 悪くない景色だ。

 ノエルは、屋台の焼き鳥や焼き肉を失敬して、それを楽しみながら、シャンパンを啜った。シャンパンを飲み干してしまうと、シャンパングラスをパッ、と消し、鼻歌を歌いながら、串焼き肉を食べ、霧の濃い街を進んだ。「じゃ、わたしの仕事は終わりね。自由に動いているから、用があったら声かけて。──」



20:16



 マイケルは、キツツキ印のアパートの一室で、暖炉の火を見ながら、考え事をした。連中も馬鹿じゃない。少なくとも、ステップの第一段階のつもりだろう。どの目的に進もうとしている? 切羽詰まっているからこんな手を選んだんだろう。だが、でかい行動はすでに始まっていたし、上空でもでかいことはやっていた。これだけの人員を使うのはなんでだ? 前回と、数十年前と同じことをやろうとしている? 被害者を増やして恐怖を煽るか、注目を集めるか……、他の地域、他の国でこんなテロがあったなんてことは聞かない。それならなんでニホニアが始まりなんだ? あるいは、何かを手に入れようとしている? ニホニアに何か重大な魔道具やら何やらがあるか、ニホニアに何か世論操作に使える人材がいるか。あるいは、上空で大損害を与えたビルギッタの情報を持ち帰ろうとしている? 情報なら、共有は簡単だ。わざわざ物理的に出ていく必要はない。すでに共有されているだろう。それなら、自分たちに何が出来るかを誇示しようとしている? それならすでに目的は達成されているわけだ。

 マイケルは、傍に置いておいたスコッチを啜った。

 上空からのビジョンで、連中を見つけることは出来る。ジムとフィリップが適宜対処する。あとは……。俺は……。何を……。……まとまらない。

 マイケルは、ため息を吐いた。「……なあサム」

「なんだ?」

「連中の根城は抑えたよな」

「あぁ」

「じゃあ、そこに向かおう。連中に聞くのが手っ取り早い」

『フィルがもう向かってるよ』

 マイケルは、脳内に響いた幼い同僚の声に、頷いた。「じゃあ、何かわかったら教えてくれ。もうちょい考えてる」マイケルは、スコッチを啜り、安楽椅子にもたれた。焦ることはない。こうして、情報を集め、考えること。そうしているうちに、考えていたこととは別のテーマに基づいた考えが浮かぶ。それは、真相かもしれない。或いは、問題に対する適切な対応かもしれない。そうして、突発的に、ひょっこりと生まれたアイデアこそが、有効になるのだ。マイケルは、ふと、同じくニホニアに潜伏している仲間、ジムこと、ジェームズのことを思い出した。マークの声に、彼からの返事はなかった。まさか、やられているはずもないだろうが……。



ーーー



「──出れないぞ」闇落ちのドラゴンの信奉者が、不安げな様子で言った。

 3人の男たちは、街を覆うドームに魔法を放ったり、拳で殴ったり蹴ったり、自分自身を魔法で変えたりしていたが、ドームには埃一つつかない。

「気持ち悪いな。この魔力……」

「使い手は、よっぽどひねくれてやがんな」

 3人の男は、緊張を和らげるために、声を上げて笑った。

 3人がいるのは、セントラル・ニホニアの街の外れ。3人と、他の信奉者たちの仕事は、街を眠らせ、混乱に陥れることだった。精神の魔法使いが2人、2人から指輪を受け取った影の魔法使いが一人。

 影の魔素を持つ影の魔法使いは、俗に吸血鬼と呼ばれる。人間の魔素が魅了の性質を持つように、影の魔素には根源的な恐怖を煽る性質を持っていた。影の魔素の持ち主を前にすれば、それ以外の魔素の持ち主は、まるで光一つ刺さない暗闇にいるような恐怖や、猛獣と対峙したような恐怖に駆られる。そして、影の魔素の持ち主は、魔法族の中で最も強靭な肉体を持つ。拳で岩山を抉ることも出来るし、肉体を変異させることも出来るし、あちらの世界では息を切らすこともなくユーラシア大陸を駆け抜けたり、エベレストを駆け上がったり、太平洋を泳ぎきったり、裸になって南極大陸の真ん中で過ごすといったことも出来ることで知られていた。

 そんな影の魔法使いがそれなりの影の魔力を込めた拳ですら、ドームには傷一つついていない。

 3人は、静かに焦っていた。

「どうするか」影の魔法使いは言った。

 精神の魔法使いは、上空を見上げた。「飛んでみる。抜け穴はあるだろう。見てくる」そう言って、精神の魔法使いは宙に浮き、シュっ、と、上方へ飛んでいった。

「困ったな……」

「どうする?」

「飲むか」もう一人の精神の魔法使いは言いながら、そばにある建物の外壁にもたれ、右手の平にウィスキーグラスを二つとウィスキーボトルを生み出し、指で挟んだ。高級酒だった。精神の魔法使いはウィスキーを注ぎ、一つを影の魔法使いに渡した。二人は、乾杯をして、ウィスキーを啜った。すると、二人の前に、何か、重たいものが落ちてきた。埃を舞い上げ、横たわるそれは、精神の魔法使いだった。先程飛んでいった奴だ。虚な目。呼吸もしていない。二人は、グラスを捨て、腰を落とした。影の魔法使いは拳を握り、精神の魔法使いは、ゆらりとその身を灰色の霧に変える。

 街頭を背に、男が一人、街灯を背にして、二人の前に、躍り出た。

 スーツに身を包む男。

 その手には、小さなナイフが握られていた。

 ナイフの刃先を滑りのある液体が覆っていた。

 刃先から、何か、水滴が溢れた。

 生臭さと鉄の匂いがする。

 短く整えられたブロンド。

 背は高く、肩幅はそれほど広くはないが、がっしりとしていた。

 手足は長い。

 リラックスした佇まい。

 静かに力強い眼差し。

 その身に宿す魔素の象徴となる、瞳の色は確認出来ない。

 自分たちが周囲に撒いた、精神の魔力の霧の所為だった。

 だが、この状況で動いているなら、ある程度の推測は出来る。

 精神の魔素か、万能の魔素か、人間の魔素か、或いは、仲間から指輪を受け取っている、光か影か生命の魔素の持ち主か。

「……誰だ」灰色の霧に姿を変えた精神の魔法使いが言った。霧の奥から聞こえるような、くぐもった声だ。

 スーツの男はナイフを落とした。「ポストイット」霧の向こうから聞こえてくる、くぐもった声。力強くも落ち着きのある、静かな声だった。「ジェームズ・ポストイットだ」

 スーツの男の姿が消えた。

 次の瞬間、霧に姿を変えた精神の魔法使いは、首から血を垂らして、崩れ落ちた。

 ジェームズと名乗った男は、影の魔法使いのすぐそばにいた。

 すでに、影の魔法使いの脇腹に向けて、その大木のように逞しい右足を振るっていた。

 影の魔法使いは、その右足を、折り曲げた左腕の肘で受け止めようとした。

 ジェームズは軸となる左足で素早く小刻みにステップを踏み、脇腹に向けて振るっていた右足を機敏に折り返し、方向を上向きに変えた。

 影の魔法使いは、その左頬に、ジェームズの履くブーツの爪先を受け、のけぞった。「……っ、お前も、影の」「違う」ジェームズは、静かながらもはっきりとした声で否定の言葉を口にし、影の魔法使いの言葉を遮った。「万能の魔素だ」

「ふざけるな……。万能の魔法使いが俺を超えられるものか。俺だけじゃない。何者も超えられない。器用貧乏同士で足を引っ張り合う負け犬がお前たちだ」

 影の魔法使いが言う通り、万能の魔法使いは、あらゆる属性の魔法を扱えると同時に、いずれの属性の限界値にも及ばない。

 それでも、万能の魔法使い同士で足の引っ張り合いをするというのは、初めて聞く話だった。万能の魔法使いは、その汎用性の高い魔法を組み合わせることで、多種多様な魔法を使い、自分だけのために新しい魔法を生み出すことが出来る。その多彩さは、他の魔素では生み出せない。万能の魔法使いに生まれたことは恥でもなく、見下されることでもない。だが、ジェームズにはわかった。

 今、目の前にいる影の魔法使いは、そういった環境で育ったのだ。その世界しか知らずに生きてきた。それ故に、歪んだのだ。

 オーダーメイドの服を仕立ててもらうために、パジャマではなくある程度の服を着ていく必要があるように。ハードなトレーニングをするために、ある程度の体力と筋力が必要なように。人が環境の中で真っ直ぐに成長し、自らをひたむきに高めるためには、自身にも他人にも、ある程度の人格の成熟が必要なのだ。相互の間に敬意や尊重はあるか。周囲に対するそういった配慮を、誤解されないように常日頃から言動に気を遣っているか。周囲から向けられる配慮を、曲解せずに受け取れるか。ジェームズは恵まれていた。男は違ったのだろう。男が歪んだのは、彼自身の人格がそうだったのか、周囲の人々の人格がそうだったのか。せっかく言葉を交わしたのだ。それを見定めよう。そう思い、ジェームズは、小さく、優しく笑った。「ただ努力をしただけだ。努力は欠かさないのさ。紳士だからな」

 影の魔法使いは顔をしかめた。「……紳士だと?」その顔と声には、嫌悪感と困惑と怒りが宿っていた。

 その反応と声だけで、ジェームズから、歩み寄ろうという気が削がれた。「そうだ。紳士だ。紳士だから、足の引っ張り合いのような、醜いことはしたくなかった。だから努力をしたのさ。紳士だからな。簡単な話だろう。君も紳士なら理解出来るだろう? 理解出来るなら君も紳士だ。私たちは紳士同士話が出来るということさ。話をしようじゃないか。そうすれば、君も今日から紳士の仲間入りだ」

「紳士紳士うるせぇぞっ!」影の魔法使いの右腕が横なぎに振われると同時に、その右手首の先が、鈍い光を放つ斧に変わる。「舐めてんのかっ!」

 ジェームズの目が、失望の色を浮かべた。彼は、影の魔法使いの膝に向けて右腕を振るいながら、身を伏せ、その斧をかわした。

 横なぎに膝を殴られた影の魔法使いは、崩れ落ち、悲鳴を上げた。

「失礼。残念だが、君に理解出来る話ではなかったな」ジェームズは、流れるような仕草で、左手をスーツの内ポケットに滑り込ませ、短剣を取り出し、そして──。

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