4日目 ウェスタン・サルーンでのひととき
ニホニア編最終章です!
ぼくは、いつもよりもゆっくりと、箒を飛ばしていた。
そのせいで、バランスを取ることにも苦労している。
箒の先にジェロームくんが乗っているので、速度を上げるのが怖かったのだ。
箒の先にお行儀よく座るジェロームくんは、ぼくを振り返った。『ずいぶん安全運転だね』
「今日は二人乗りだからね」
ジェロームくんは、あくびをした。『どこに向かってるんだっけ? ウェストサイド・ストーリー? 映画館ならさっき通り過ぎたぜ?』
ぼくは笑った。「違うよ。ウェスタン・ニホニア。映画見たことあるの?」
『あっちから来た魔法使いが見せてくれたんだ。ちっちゃな緑色の機械に入れて持ち歩いてた』ジェロームくんは、ダンシングニホニアにゃん(BL)のように、箒の柄の先で踊り出した。
見ているこっちはヒヤヒヤしてしょうがない。
「……どうやって引っ付いてるの?」
『俺も魔法使えるんだ』
「そうなんだ」
『そうでなきゃ、こんな細っこい箒の先に座ってられるわけないだろ』
「言われてみればそうだね」
ジェロームくんは、ニヤッとした。『俺はフロンジェリーヌのランヌで生まれた。近くの湾の真ん中には、荘厳な大聖堂が立っていてな。モン・サン・ミッシェルだ。そこのシスターに気に入られて、こっちもシスターを気に入ったんだ』
「美人だった?」
『可愛い女の子だった』
ぼくは笑った。「男って奴は……」
ジェロームくんはくしゃみをして、毛繕いでもするように、顔を前足で一回擦った。『それで、よく、その女の子が祈っているときに、そばにいたんだ。初めはなにやってんだこのガキ……、って思ったけど、ヒトってのは面白いな。祈ったり瞑想をしたりしているとき、周囲に漂う魔素を吸収しているんだ。そんなやり方があるなんて、その時まで知らなかった』
「それって、どうやって気づいたの?」祈りや瞑想による集中状態は、魔力を向上させるのにうってつけな方法の一つだ。
『言ったろ。俺も、生まれついた時から魔法を使えるんだ。魔素の動きも、見ようと思えば見れる。大聖堂にいると、魔力が向上するのに気づいて、ついでに女の子も可愛かったから、数十年ほど、大聖堂に住み着いたんだ』
「チャラいね」
『普通にやってるつもりなんだが、そうみたいだな。女の子は大聖堂の管理者になり、俺はマスコットキャラクターになった。だが、たくさんの人間にキャーキャー言われるのが嫌になってな。それで、シスターに挨拶をして、少しの間、旅に出ることにしたんだ。それが、2年前のことだ。それでも……、辛いよな。何かに優れたり、何かに突出した奴ってのは、どこに行っても周囲の奴らを惹きつけちまうもんだ。良くも悪くもな』ジェロームくんは欠伸をした。『別のところに行こうと思うんだ。あの書店は悪くないし、あの店主、俺に対しては良くしてくれるんだが、まるっきり良い奴ってわけじゃない』
「悪い人には思えなかったけど」
『ソラは甘いな。あいつから変な目で見られなかったか?』
「あー」ぼくは鼻を鳴らした。「あれ、なんだったの?」
『割引もされたろ』
「……うん」なんだか心臓の鼓動が大きくなってきた。
『旅人なら覚えておいた方が良いが、ああいう人柄はリスクが高いと思っておけ。ソラの精神衛生上、ああいう人間はよろしくない。みんながみんなそうじゃないが、そうだっていう場合が多い』
「どういうこと?」
ジェロームくんは、箒の下を見た。
もうウェスタン・ニホニアにたどり着いていた。
『このあとはどこに行くんだ?』
「ラシアに行こうかなって」
『そっか。俺は、そろそろフロンジェリーヌに戻ろうかと思う。途中まで一緒に行っても良いか?』
「良いけど、でも、一人旅しようかなって思ってた」
『話し相手がいるのは、ソラにとっても良いだろ』
ぼくは、考えるように唸った。「まあね」
『俺だって一人が好きだ。ずっと一緒にいるわけじゃない。ただ、箒に乗せてくれれば助かる』
ぼくは、ジェロームくんを見て、小さく笑った。
「自分の足で歩くのが面倒なだけじゃ?」
『バレたな』
ぼくは笑った。眼下にティムさんのサルーンが見えた。箒を傾けて、高度を落としていく。「着いたよ。なに食べたい?」
『奢ってくれなくて良い。自分の食い扶持は自分で稼ぐ』
「どうやって?」
ジェロームくんは、ウィンクをすると、クリーム色の砂地に飛んだ。
ーーー
「にゃあ」大勢の魔女たちに抱かれてご満悦の様子のジェロームくんは、おっぱいに頬ずりをしながら、ぼくを見て、ニヤッとしながら、与えられたステーキの切れ端をもぐもぐした。
「そういうことね……」ぼくは呟いた。なんだかちょっぴり、いや、ものすっごくジェロームくんが羨ましかった。ぼくもネコだったらな……。
「お連れさまは大人気みたいだな」
聞き覚えのあるその声に椅子を回し、カウンターの向こうを見れば、ティムさんがいた。ちょうど、ぼくの前に1リットルのビールグラスを置いたところだった。
「ありがと」ぼくはビールを啜って、ジェロームくんを指差した。「一緒に旅することになったの」
ティムさんは口笛を吹いた。「魔獣のお供か。頼もしいじゃんか。可愛いし」
「そ、可愛い。おかげでぼくの可愛さが半減」
「可愛さ二倍の間違いだろ」
「あら」ぼくは小さく笑った。「お客さんを喜ばせるのが上手ですね」
「ごまを擦り続けてこの道30年」ティムさんはウィンクをした。
ぼくは笑った。「確かな実績ですね」
ティムさんは笑った。「なににする?」
「ステーキをお願いします。この間と同じものを。今日はちゃんと払いますよ。ビールの分もね」
ティムさんは笑った。「旅って、どこに行くんだ?」
「ラシアです」
「ムキムキのスライムは雇えたか?」
ぼくは首を横に振った。「結局箒で行くことにしました。ラシアでもスライムは借りれるでしょう?」
「ラシア語しか話しやがらないがな。プリヴィエット」
「疲れたり、景色に飽きたらスライムを雇おうかと」
「良い選択だな。あそこは同じ景色ばかりで飽きる。瞑想にはちょうど良いがな。ステーキ待ってろ。焼き加減は?」
「一番美味いので」
「了解。待ってな」
「ありがとうございます」
ティムさんは厨房に入った。
ぼくはビールを啜った。
きゃーっ、という声にそちらを振り返ると、ジェロームくんの鳴き声に、魔女たちが胸を締め付けられているところだた。
店内は、なんだか様相が変だった。
あっちのテーブルには吸血鬼やエルフやニンフのコスプレをしたセクシーな魔女たちがいたし、そっちのテーブルにはいかにも魔法使いといった格好をした魔法使いたちがいたし、ちょっと離れたテーブルには、ドワーフの格好をしたマークくんと付け髭をしたフィリップさんがいた。
二人は、なんだか会話を楽しんでいる様子だったので、話しかけるのは控えておいた。
目があったら手を振るくらいにしておこうと思ったけれど、二人は会話に夢中なようで、こちらに気づく様子は一向になかった。
ぼくは、リュックサックから先程買った、白紙のハードカバーのような、12冊の立派な日記帳と、万年筆と、インクを取り出した。
なんて事のない文房具のように見える。
日記帳のページをぱらぱらとめくっても見るが、なにもない気がする。
それでも、なんだか胸騒ぎがした。
ぼくの保有する生命の魔力と、ぼくが扱える生命の魔法は、人の生命力に影響するものであり、生命力や、ありとあらゆる生命に宿る魔素や魔力なども感知することが出来た。
ジェロームくんのように快活な人柄の持ち主は、その体にポジティブな生命力を漲らせていて、その全身から溢れ出る爽やかな生気に触れていると、心が軽くなり、心地良い暖かみも感じられる。
一方で、先ほどの本屋さんの男性もまた、生命力を漲らせていたし、全身から溢れ出ている正気には暖かみも感じられたが……。
先ほど向けられた、あの居心地の悪さを感じさせた視線が頭に浮かんだ。
生命の魔法は、人の生命力や全身から醸し出す雰囲気などを触れるように感知することが出来るが、心の中まで見られるわけじゃない。
心の中を見るためには、精神の魔法や万能の魔法を扱える必要があるが、ぼくには扱えない。
ただ……。
ぼくは、指先に魔力を込めた。
指先に生み出したのは、眼鏡だった。
ぼくは、眼鏡をかけた。
全ての生き物に宿る魔素もまた、ぼくの生命の魔法が敏感に感知することの出来る【生命力】の一つだった。
メガネのレンズには、魔素を高度に感知し、可視化する機能をつけておいた。
レンズ越しに文房具を見たぼくは、眉をひそめた。
文房具には、霧状の魔素がまとわりつき、染み付いていた。
霧状の魔素、色はグレー。
この色は、精神の魔素のものだった。
ちなみに、生命の魔素の色は黄金色、万能の魔素は琥珀色だ。
見た感じだと、ぼくが購入した文房具には精神の魔法がかけられていた。
マンドラゴラの本には、なんの魔法もかかっていなかった。
ぼくは考えた。
呪いというものがあるが、あれは精神の魔法が生み出すものだった。
呪いの文房具だから、あの本屋の男性は、格安で譲ってくれたのだろうか。
呪いの文房具を手放せる上に、お金も入る。
あちらとしては、悪くない話だ。
なんだか、頭がくらくらしてきた。
気持ちが悪い……。
視界が、ぼんやりとしてきた……。
その時。
サラサラの毛並みが、ぼくの頬と鼻先をくすぐった。
ジェロームくんが軽やかにカウンターに飛び乗ったのだ。
途端に、先程の、深い酩酊状態のような気分の悪さが、嘘のように消え去った。
彼は、その小さく丸い黒の手の先で、日記帳と万年筆とインクに触れた。
彼の小さな前足が触れた先から、灰色の魔素が消え去り、文房具は淡い琥珀色に輝いた。
ジェロームくんは、ぼくを見上げた。『あいつの魔力は祓っておいた。これで大丈夫だ』
「大丈夫って?」
『これで一人旅が出来る』ジェロームくんは、カウンターから飛び降りて、魔女たちの元へ戻った。
ぼくは、ジェロームくんの言葉の意味を考えた。
その時気がついた。
魔法使いは、物質に宿らせた自分の魔力を感知することが出来る。
『観光客か……?』と、あの男性はぼくに尋ねてきた。
ぼくをストーキングして、押し倒そうとしたのかもしれない……。
最悪……。
ティムさんが、ステーキを持って現れた。
ぼくは文房具をしまい、眼鏡を外した。
メガネは生命の魔素を表す黄金色の霧となり、ぼくの皮膚に吸い込まれた。
「お待ちどう」
ぼくは、両手で顔を覆い、両掌で、鼻を前に引っ張った。
鼻先はまだ、琥珀色に輝いていた。
ジェロームくんの魔力だ。
ぼくはため息を吐いた。「……わけわかんない」
ティムさんは、キョトンとした。「ステーキだよ。頼んだろ。返品なんて言わないでくれよ。俺の夕食にしたって良いけど……、ちょっとな」
「違いますよ。ありがとう。いただきます。さっき本屋に行ったんです。そこの男性がぼくを気に入ったみたいで、文房具に魔力を注ぎ込んで、ストーキングしようとしていたみたいなんです」
ティムさんは、眉をひそめた。「で、その魔力はどうしたんだ?」
「ジェロームくんが祓ってくれました」
「ジェローム?」
「あの猫です」
ティムさんは、魔女の歓声に包まれるジェロームくんの方を、ぼくの肩越しに見て、ぼくの肩に、優しく手を置いた。「どんな奴だった?」
「親切でしたよ。ただ、目がちょっと、なんだか常に観察されてるみたいで居心地悪かった」
ティムさんは頷いた。「一人旅だろ? 気をつけないとダメだ。他人からプレゼントされたとしても、受け取る時は相手を選べ。選べる余裕を常に作っておけ」ティムさんは、ぼくの肩から手を離し、親指を立てて、自分の胸を、指した。「胃袋と心の中にな。親切に飢えないで済むようにしろ。そうすれば、その親切が純粋なものか、作り物かがわかる。冷静に見られるようになる。そのためには、常に自分を大切にして、その上で人に親切にするんだ。そうすれば相手もそれに応えてくれる。応えてくれずに更なる親切を求めるような奴が相手ならすぐに離れろ。そいつは搾取するだけの奴だ。君はそんな奴になっちゃダメだ。短い仲だが、きみは良いところを持ってる。そこを大切にして、そこを伸ばすんだ。そこに漬け込もうとして来る奴は君の持ってる素敵な人間性を鼻で笑い、否定してくるだろうが、君を利用しようとしているだけだ。連中の言葉は無視して、テキトーにあしらえ。君は善い奴でいるんだ。だが、馬鹿にはならないようにな。健全な幸せを得られるコツさ」
「ちょっとわからないんですけど……」
「若いからな。そのうちわかる。あと、あれだ。男には近づくな。どんな奴にもだ。イケメンでも面白い奴でも優しそうな奴でもだ。声かけられても、すぐに離れろ。メモしろ」
ぼくは、万年筆を取って、どの日記帳にしようか選んだ。なんだか嫌な感じのことなので、オレンジ色の日記帳には書きたくなかった。新緑の日記帳を選び、その最後のページに書いた。万年筆を置いて、日記帳を置いて、頭を抱えた。「……せっかくのステーキなのに」
ティムさんは、申し訳なさそうに、眉を垂れた。
「嫌な気分にさせちまって悪いな。代わりに、良い気分になるまで酒はサービスするよ」
「飲み放題?」
ティムさんは、笑顔でステーキを指差した。「ステーキはタダにしてやんないぞ」
「悪いよ。ちゃんとお酒のも払います」
「ビールの原価知ってるか? そのステーキの切れっ端程度さ」ティムさんはぼくの肩を叩いて、「はいよっ!」と、言って、ウェイトレスの伝票を受け取り、厨房に戻った。
「いただきます」ぼくは、ビールを啜り、付け合わせのたくあんを摘んだ。この間のお礼に、あっちの世界のたくあんやきゅうりや茄子の漬物や、白菜のお新香なんかを持ってきた。
他にも、簡単に漬物を作れるヤツとかも。
でも、前回に引き続き今回も酒をタダにしてもらってしまった。
何か付け加えようか。
先日のジェンナーロさんを見た感じだと、あっちの食品は、こちらでは結構重宝されるもののようだ。
ウェスタン・サルーン全部がそうなのかはわからないけれど、ここはどうやら、気軽に飲んで食べれるカジュアルな場所のようだった。
でも、ポテトチップスやトルティーヤチップスや、フィッシュ&チップスなら、ここにもあるだろうし……。
どんなお返しなら、喜んでくれるかな。
そんなことを思いながら、味噌汁を啜り、ご飯を食べた。
肉を食べるには、もう少しお腹と心が落ち着いてからが良い。
でも、冷めてしまったら美味しくない。
『美味しそうだな』ジェロームくんが、カウンターに乗って、ぼくのステーキを見ていた。
「お肉食べれる?」
『三切れくれ』
「それだけで良いの?」
『じゃあ6』
ぼくは、笑いながら、ステーキを切り分けて、小皿に乗せた。
ジェロームくんは、ステーキを加えて、もぐもぐした。『うめー』
ぼくは笑った。「おいし?」
『うん。でも、もうお腹一杯だ。魔女たちと来たら、どいつもこいつも俺を箒に乗せたがったぜ。俺はソラについてくって決めてんのにな』
「さっきの魔法、なにしたの?」
『日記帳とかペンに嫌な感じがついてたから、祓ったんだ。あの店、立地が良くなくてな。悪い地縛霊が住んでるから、よく買った物に憑いてくるのさ。そういう悪いものを祓う力は、大聖堂の女の子から教えてもらったんだ』ジェロームくんはステーキをかじった。『あの子の笑顔が恋しいぜ。ソラも撫でるのが上手いが、彼女には敵わない』
「一途なんだね」
『彼氏はいるのか?』
「いないよー、興味ないし」
『恋はしてみるもんだぜ』
ぼくは声を上げて笑った。「そうだねー、ま、良い人がいたらね」
『ま、そうだな』
「このお店の人に、お酒タダにしてもらっちゃったんだけど、君は飲むの?」
ジェロームくんは鼻を鳴らした。『冗談だろ。俺が飲むのはミルクだけだぜ』
「一杯飲む?」
『お、悪いね』
ぼくは手を上げてウェイトレスさんを呼び、ジェロームくんにミルクを一杯頼んだ。
ミルクはすぐに運ばれてきた。
ぼくの隣の席に腰掛けるジェロームくんは、その小さな赤い舌でミルクをすくい、前足で口の前を毛繕いした。『うめーにゃ……』と、唐突な可愛さアピールをしてから、彼はぼくを見た。『タダにしてもらったって、なんでだ?』
「なんかちょっと重い話して、美味しくステーキを食べれなくなったから、優しくしてくれたの」
『良い人だな』
「前回来た時は、初めてだからってタダにしてもらっちゃったし、なんかお礼上げたいんだけど、なにが良いかな」
『なにをあげるつもりだったんだ?』
「ピクルスが好きな人だから、それの詰め合わせみたいな感じのものをあげるつもりだったの。でも、それは前回のお礼だから、何か付け加えたいなって。面白い味のポテトチップスもいくつかあるんだけど」
『面白い味?』
「ブイヤベース味とか、パエリヤ味とか」
『ポテトチップスで? 面白いな。それで良いじゃんか』
そう言われれば、それで良い気がしてきた。
ぼくは、ステーキを切り分け、箸を使って、食べ始めた。
ーーー
フィリップとマークは、ウェスタン・サルーンにいた。
二人はこの数日、ソラの護衛を探していた。
勘が良く、気軽さと身軽さを好み、そして、他者の意思に敏感で、自らの意思で道を選び、自らの足でその道を歩くことを好む、と、オルガからは聞かされていた。
そうなると、ジェロームは最適だった。
ジェロームは、ニホニアでは有名な魔獣だった。
見た目は普通の黒猫と変わらず、魔力の扱いを熟知しており、魔力を持たないライオンやクマどころか、魔力を持っているだけで扱いこなせていない、理性や知性を持たない魔獣など歯牙にも掛けない強さを持っている。
数年連続箒乗りチャンピオンで、毎年変わることでも有名なジェロームのパートナーを務めた数人の魔女たちは、みんなその後、有名になり、様々なところからの真摯なオファーと真摯なサポートを受けて、望む道を思いのままに進んでいる。
セウェードゥン政府の助力で、ジェロームのパートナーとなった魔女たちと接触をし、話をしてみたが、みんなジェロームと出た箒乗り大会をきっかけに、充実した人生を歩んでおり、そのキューピットとなった黒猫を愛し、感謝もしていた。
「彼は何の見返りも求めなかった」
「ただ、わたしが箒に乗っている姿が好きで、一緒に飛んで見たいって、そう言ってくれたの」
「いつだって優しくて、思いやりがあって、励ましてくれたわ」
「一緒にいると落ち着けるし、癒されるし、彼って聞き上手だし、話し上手なの」
「彼がネコでホント残念……」
魔女たちは、口々にそう言っていた。
ジェロームの性格に疑いの余地はなかったし、ソラもまさか、ネコが何らかの意図をもって自分のそばにいるなど思いもしないだろう。
そして、ジェロームがその小さな胸に抱いている意図とは、ソラの行く末をコントロールすることには一切繋がらないものだ。
加えて、ジェロームはソラを気に入っていた。
フィリップとマークは、生命の魔力を宿す指輪と、ジェロームの体に譲り授けたフィリップの魔力のおかげで、ソラとジェロームの会話を聞くことが出来た。
ジェロームがソラに話していたことは本当だった。
ただ、ジェロームはソラに話していないこともあった。
自らがフロンジェリーヌを離れた理由だった。
それを知っているのは、ジェロームと、ジェロームを愛するモン・サン・ミシェルの修道女、そして、ジェロームを調べたセウェードゥン政府の者数人だけだった。
フィリップとマークも、その数人のうちだった。
二人はジェロームに、「ソラを守ってくれ。そうすれば、フロンジェリーヌに帰れる」と、伝えた。
はじめは興味を示さなかったジェロームだったが、二人は様々な条件を提示して、最終的には引き受けてくれた。
「あの黒猫、本当に信じられるの?」マークが言った。彼は今、小柄なドワーフの変装をしていた。
フィリップは頷いた。彼は付け髭をしていた。「良い奴だ。信じられる。俺と話もあったしな」結婚を控えているフィリップは、今も昔も冗談を口にするのが好きなムードメーカーで、頭の回転が早いが故に勉強もスポーツも人付き合いもこなせるモテモテのタイプだったが、20代になった今と違い、10代の頃は遊んでばかりいた。「あいつを見ていると、昔の俺を思い出すぜ」ふっ……、と、10代の頃の思い出に浸るフィリップだった。
マークは、そんなフィリップを見て、鼻を鳴らした。「それって、あの昔のロックスターみたいな、ダサいキラキラした服着てた時のこと? それともダサい髪型してた時のこと?」
「当時はアレがイケてたんだよ。お前はどうなんだ?」
「なにが?」
「彼女は?」
マークの顔が、ぱっ、と、赤く染まった。「か、かかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか」
マークは壊れた。
フィリップは楽しそうに笑った。
「っか、かんけーないだろっ」
「いーから」フィリップは、ニヤニヤしながら、マークの肩を突いた。「おにーさんに聞かせてみろって。内緒にしてやるから」
と、そこに、黒猫がやってきた。『よう、お二人さん、なにしてんだ? 楽しそうだな』
「別に、こいつの恋の話してたの」
ジェロームは、からかうように『お〜?』と、声を上げて、ニヤニヤとマークを見上げた。
「してない。そんな可愛い目で見上げればぼくが話すと思うなんて、大間違いだ」
『聞かせてみろよぼくちゃん』ジェロームはマークの隣の椅子に飛び乗り、マークの足に、自分のその小さな前足を、ぽんっ、と乗せた。『目を見て話せるようになったか?』
「おーっ、良いこと聞くねっ。俺も気になるわ。どうなんだよ?」フィリップは、マークを見た。
マークは、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。「良いんだよ。ぼくは。それよりも、ソラとはどうなんだ?」
『なんだよつまんねーな。委員長かよ。上手くいってるよ。今日中にラシアに行く』ジェロームは、フィリップを見上げると、その琥珀色の目を細めた。『ところで、本当に、フロンジェリーヌには行けるんだろうな』
フィリップは頷いた。「もちろんだ。彼女とは、ラシアを出るまでは一緒にいてやってくれ。可能なら、フロンジェリーヌとジェルマニアの国境の辺りまで」
『ソラのことは好きだから良いが、ソラは一人で身軽にいたいみたいだからな。あんなんでもレディだし、レディの意思を尊重しないっていうのは、俺の主義に反する』
「そんなお前だから信じられるんだ。俺を信じろ。アルゼス=ロレインヌの辺りでお別れすれば良い。そこまでは、楽しみつつ、見守ってやってくれよ」
ジェロームは、椅子の上でお行儀良く座りながら、しっぽをしゅるりと振りつつ、ソラを見た。
フィリップとマークもそちらを見る。
ソラは、こちらに向けていた。呑気な様子で、ステーキを食べ、ビールを飲んでいた。
ジェロームは、俯いた。『……なんだか、騙してるみたいで気が咎めるな……』
フィリップはジェロームの背中を、そっと優しく撫でた。
『……ソラは、俺と出会ったのが偶然だと思ってる。旅のいい思い出の一つだと思ってるんだ……。ほんとは、先回りしたってのに……』
「確かに嘘を吐いてるみたいだが……、それは別に、あの子を貶める為じゃない。純粋無垢な旅好きの少女が、旅を楽しめるように見守るためだ。それに、その罪悪感の報酬が、フロンジェリーヌへの帰国だと思えば、頑張れないか?」と、フィリップ。
ジェロームは、フィリップを見上げた。『約束だぞ?』
「もちろんだ」フィリップは頷いた。「俺もマークも、ちゃんと見守ってる。お前たちから数キロ離れたところからな。お前に俺の魔力の一部を預けた。お前にも、俺の居場所がわかるはずだ」
ジェロームは、フィリップを睨みつけた。『俺がソラに何かしたら、その魔力を使って俺を殺すんだろ?』
「しないだろ?」
『するわけない』
「知ってるよ」フィリップは頷いた。「そんな機能はつけてない。お前たちの無事は保証される。お前の仕事は、仮にソラに何かがあったときに、俺たちが駆けつけるまでの間、彼女を守ることだ。ラシアを出るまでの間な。失敗の条件は、彼女を守りきれなかった場合だけ。その場合も、君に報酬が支払われないだけ。ソラには、可能な限り、仕事だってことは伝えない。損はないだろ」
『行く方向が同じなら、ラシアの後もついていって良いぜ。彼女が望めばだがな』ジェロームは、椅子の上で、天井を見上げた。
マークは、ジェロームの視線の先を追ったが、そこには、クルクルと回るプロペラがあるだけだった。
ジェロームは、瞳を閉じた。『クレマンス……』
マークは、このネコどうしちゃったの? と言った感じでフィリップを見た。
フィリップは、わかるよ……、とでも言うような目で、ジェロームを撫でながら、家で待つ婚約者の顔を頭に思い浮かべた。
ジェロームは、喉をゴロゴロと鳴らし、目を開けた。『そうだ。今朝、ソラとは本屋で出会ったんだ』
フィリップは頷いた。
『そこの主人が、ソラの買った本とかペンに、魔法をかけてた。精神の魔力で、追跡出来るようになってたし、昏倒の呪いがかけられてた。普通の奴は、そんなことしないよな』ジェロームは、フィリップを見上げた。
「しないな……」フィリップは言った。
「しないね……」と、マーク。
フィリップはマークを見た。
この少年はなにを考えるか、自分と同じ考えに辿り着くか、あるいは自分では思いもつかないような発想をするか、そういったことを確認したかったフィリップは、言葉を発さずに、ナッツを口に運んだ。
「ソラとその店主はなにを話してた?」と、マークは言った。
フィリップは、良いぞ……、だが平凡な疑問だな……、と思いながら、何食わぬ顔でビールを啜った。
ジェロームは頷いた。『途切れ途切れだがな。あっちの世界がどうとか、あんたらが気にしてる様子のヴェルとか、あとは、マンドラゴラとかケーキとか、文房具を割引してやるだなんだ、言ってたぜ。ソラはマンドラゴラやらについて何にも知らないんだな。ほんと、俺無しでちゃんと野宿出来んのかよ……』ジェロームは、やれやれ……、と、首を横に振った。
フィリップは、ジェロームの頭を撫でた。「その、文房具の魔力はちゃんと無視したか?」
『いや? 祓ったけど』
「祓った?」
『教会仕込みの魔法でな。精神を削る類の呪いも込められてたから、危ないだろ』
フィリップはマークを見た。
マークは暗い顔をしていた。「……ジェローム。それだと、ここで魔力が消えたって、そいつにバレちゃうだろ?」
ジェロームは、キョトンとしたような顔をした。『あ……、そうだな。ヤバいな』
「対処するよ」フィリップは言った。「祓った件については、よくやった」
「失敗だろ?」マークは言った。
フィリップは、戯けるように顔をしかめた。「めくじら立てるなよ委員長」
『男の委員長キャラは萌えないぞ』
「こういった些細な失敗に対処するのも、俺らの仕事だ」フィリップは、ジェロームを撫でながら、暖かな微笑みとともに、小さく鼻を鳴らした。「心配するな。ジェローム。お前は10分以内に、ここからソラを連れ出してくれ」
『あいよ。報告と言ったらそんくらいだな』退屈そうに欠伸をして、フィリップを見た。『じゃ、お守り行ってくるぜ。委員長は、ちゃんと好きな子に告れよ』
「うるさいっ」マークは、顔を真っ赤にして、ジェロームを睨みつけた。
『ムッツリめ』黒猫は、椅子から飛び降りて、魔女たちの中に飛び込んでいった。『へっへっへーっ、お待ちどうっ、ぼくちゃんが来たぜっ!』
魔女たちの間から、黄色い歓声が上がった。
フィリップはナッツを口に運美、ビールを啜った。
マークはオムライスをスプーンで掬って口に運び、何かを考えるように、口を動かした。
フィリップは、ビールのグラスを置いた。「どう思う?」
マークはオレンジジュースを啜った。「店主がどこまで知ってるかによるね。もしも、あっちの世界の存在を知っているなら、ヴェルがあっちから来た人間だってことについても知ってる。ヴェルの冒険について熟知してるなら……」マークは首を傾げた。「もしも、あっちの世界の存在を知らないなら、ただ単に、高級な紙とインクをそれなりの値段で売っておいて、後から盗み返そうとしてるか……、わからないね。聞いてみる?」
フィリップは頷いた。「そうしよう」
先日の晩、ユアン、ノエル、ビルギッタはゾーイと話をした。
その結果、4人は一度、あちらの世界に行き、グロリア・グローティウスと、その友人と共に戻ってくることになった。
ノエルはあちらで色んな美容品を買えると言って喜んでいたし、ビルギッタはカップヌードルやお菓子を買えると言ってはしゃいでいたが、こちらとあちらの時間の流れの違いを考えると、そう長くはいられないだろう。
いずれにしろ、フィリップは、マークとともに、あちらの世界よりも時間の流れが早いこちらの世界のニホニアで、あちらよりも長い時間を待たなければいけなくなった。
ソラの警護はジェロームに任せることとなったし、調査に繰り出しても、問題はないだろう。
「出るみたいだよ」
フィリップは、マークの言葉に顔を上げた。
ソラは、店主のティモシーに何かを渡していた。
ティモシーは、嬉しそうな笑顔で、ソラとハグをした。
ジェロームは、ソラのデニムを這い上がり、彼女の肩に乗った。
黒猫を肩に乗せたソラは、店を出る時、フィリップたちへ向けて、笑顔を向け、手を振った。
フィリップは、小さく息を呑んだ。
ジェロームは、そんなソラを見て、フィリップたちを見て、やべ……、という顔で、首を横に振った。
フィリップにはわかった。
ジェロームは言っていない。
それはわかっている。
ジェロームの発言は、彼に流し込んだフィリップ自身の魔力によって、全て聞こえていた。
それだけでなく、ジェロームの体を微弱に振るわせるソラの声も、フィリップには伝わっていた。
ジェロームはなにも伝えていないし、ソラは気づいていたような素振りを言動に見せなかったし、動揺のようなものを声色に乗せてすらいなかった。
それにも関わらず、変装を見破られていた。
フィリップは、マジか……、と思いながら、ソラに手を振り返した。
一人の時間を愛しながらも、先日、自分たちに敬意を払っていた彼女は、友好的な笑顔を浮かべながら、店を出て行った。
勘が良いのか、観察力に秀でているのか、この護衛任務は、思った以上に難しくなりそうだ、そう思いながら、フィリップは、ビールを飲み干し、近くを通りかかったウェイトレスに、おかわりを注文した。
ーーー
お店を出る時、ティムさんに漬物とポテトチップスを渡すと、「また来いよ」と、ダンディな笑顔で見送られた。
ついでに、ドワーフの格好をしたマークくんと、顎髭を引っ付けたフィリップさんたちにも笑顔で見送られたけれど、なんだか二人の笑顔はとっても強張っていたので、声をかけるのはやめておいた。
誰にでも、会話をしたい時としたくない時があるものだ。
ジェロームくんは、ぼくを見上げた。『そろそろ行こうか』
「もう一泊しようかなって思ってたんだけど」
『良いだろ。君に彼女の話をしたら、早く行きたくなった』
「どうしよっかな……」
『行こうぜ。ほれほれ』ジェロームくんは、ほれほれと言いながら、そのふわふわのしっぽの先で、ぼくの鼻をくすぐった。『ほれほれ』
「くちゅんっ、わかったよ……、まあ、居座る理由もないしね」ぼくは右手に箒を生み出した。「乗って」
ジェロームくんは、箒の柄の先に、軽やかに飛び乗った。
ぼくは、地面を蹴って、空に舞い上がった。
辺りはもう真っ暗で、遠くに見える中央広場が、オレンジ色に光っているのが見えた。お祭りか何かだろうか……。フィリップさんとマークくんは、これからアレに参加するのかもしれない。あそこに行けば、ユアンさんやノエルさんやビルギッタちゃんにも会えるかも……。「……やっぱりもう一泊しない?」
『しない。行くぞ』
ぼくは小さく笑って星空を見上げ、星の位置で方角を確認すると、音速をはるかに超える速度で、箒を飛ばした。
眼下に広がる街が、次から次へと、後ろに流れていく。
街は、あっという間にはるか後方へと、置き去りになった。
薄暗かった星空が、徐々に明るくなっていく。
それにつれて、眼下に見える明かりが少なくなっていく。
ぼくは、森の上を飛んでいた。
渓谷の上を通り過ぎて行き、山脈の間を通り過ぎていく。
しばらくすると、眼下には海が見え始め、さらに少し経つと、周囲に、陸地は見えなくなった。
「……眠くなったらどうしよう」
ジェロームくんは、ぼくを振り返った。『そうなったら海へ真っ逆さまだな。この時期の海は寒いぜ』
「ニホニアへは、どうやってきたの?」
『俺はこんなだからな。ただ生きていくだけでも、誰かの助けが必要なのさ』
「女の子に頼ったわけね。ヒモかよ」
ジェロームくんは笑った。『空を見てみろよ』
言われるまでもなく、気づいていた。
空には、今まで見た、どんな星空よりも綺麗な景色が広がっていた。
満月は途方もなく明るく、天の川は、その中の一番奥で光っている星まで吸い上げられてしまいそうなほどに、淡く透き通っている。
気がつけば、ぼくは、お気に入りの歌を口ずさんでいた。
イギリスの歌手で、軽快ながらも少しだけ寂しげなリズムの曲ばかりを歌わされている歌手だ。
ジェロームくんは、静かにしたまま、ぼくの歌に合わせて、左右に肩を揺らし、尻尾で指揮をしていた。
はるか彼方まで、水平線が広がっている。
雲一つない空には、満点の星空。
今飛んでいる場所までは、波の音も届かない。
辺りに響くのは、ぼくの歌声だけ。
ぼくは、自由だった。
ーーー
空がジェロームと共にウェスタン・サルーンを後にした、その3分後、ある男性がサルーンにやってきた。
男性は、店主のティモシーに、アジア系の、小柄な魔女を見なかったか、と尋ねた。
ティモシーは、男性と目を合わせた途端、あからさまに不機嫌な態度を示し、見ていない、と、答えた。
男性は、舌打ちをして店を後にすると、箒に乗って中央広場まで向かった。
今日はお祭りが開かれていた。
祝祭日だった。
男性は、賑やかな様子には脇目も振らず、中央広場から伸びる大通りを曲がり、細い通りに入り、そして、その通りにある本屋へと入った。
眉間にシワを寄せた男性は、カウンターの奥に入り、コーヒーを啜った。
この店の店主だった。
ーーー
フィリップは、店のドアをノックした。
店主の男性は、跳ねるように顔を上げ、ドアの向こうに立つフィリップを見た。
フィリップは、人懐っこい笑顔を浮かべながら、ドアを開け、店に入った。「こんばんは。まだやってるかな」
「ついてるね。もうすぐ閉めるところだ」
「良かった」フィリップは、店主に背を向けて、ドアを閉めた。「聞きたいんだけど、この店は呪いの道具を売っているのか?」
店主は、肩をピクリ、とさせ、フィリップに笑顔を向けた。「なんだって?」
「聞こえたろ」フィリップは、笑顔を消して、店主を見据えた。
店主の目が、徐々に形を変える。
それに応じて、彼の顔は赤く染まっていく。「なんだ」
「あの子をどうするつもりだったんだ?」フィリップは、店主を見据えたまま言った。
「別に。ビジネスだ。お前には関係ない」
「それならここには来ていない」
「帰れっ」店主はカウンターを蹴り上げた。カウンターの上で、コーヒーカップが倒れ、コーヒーがこぼれた。「後ろを向いて、出ていけ。二度と顔を見せるな」
フィリップは、ゆったりと、首を横に振った。「答えろよ。あの子に、なにをするつもりだった」
「なにが聞きたいんだ。ただ文房具を売ってやっただけだ。たくさん買ってくれたからサービスをしてやった。それだけだ」
フィリップは、あの子、としか言っていないのに、店主には、それが誰のことなのか、わかっている様子だった。
罪悪感を持ちながらやっているのか……、と、フィリップは思った。罪悪感がストッパーにならない人種は、フィリップが嫌うものの一つだった。「なるほど、サービスであんな呪いまでつけてやったってのか。ちょっと気になって、この店のことを調べたぞ。例えばーー」フィリップは、当事者でなければ知り得ない情報を口にした。それらが、これ以上なく下劣な行いであるという言葉や、そんな行いをしている店主の人格を蔑むような言葉をあえて選ぶ一方、その声色はどこまでも平坦で、無感情だった。まるで、店主の人間性が腐りきっていることがただの事実であるというような話し方を、フィリップは選んだ。
自己弁護ばかりをする自己愛の強い性格の犯罪者は、自分にとって都合の良い要素だけを掬い上げ、それを基にした妄想で、事実を自分にとって都合よく曲解する。
曲解する余地を与えない為には、感情を用いずに、淡々と話すのが一番なのだ。
大声で威圧するのは、あまり効果がない。
威圧された相手は、その時は反省するそぶりを見せるが、すぐに逆恨みをして、そして、その恨みを別の相手にぶつける。
それが、店主のような人間性の持ち主だった。
フィリップの話を聞いた店主の顔が、怒りの為に血の気を増す。
店主の全身が、怒りに震える。
「ーーってゆーわけみたいだな。まさかそんなことをする奴が、この世の中にいるなんて思ってもみなかったが、その顔を見る限り、どうやら本当みたいだ。確認は取れた。その上で、聞かせて欲しいんだ。もう一度聞くぞ」フィリップは、落ち着いた声色で、言った。「あの子になにをするつもりだった」
店主は手の平に拳銃を生み出してフィリップに向けた。
それと同時に店のドアが勢いよく開いた。
木の葉も揺らさないような静けさと、大木をへし折る突風のような激しさを持ってして店内に飛び込んできたのは、小柄な12歳の少年、マークだった。
マークは、今まさにフィリップに向けて引き金を引こうとしていた店主の懐に、その指先が引き金を引くよりも素早く、一瞬で飛び込むと、店主のその逞しい腕を蹴り上げた。
銃弾が店の照明を砕き、店内は薄暗闇に包まれた。
マークは、店主のこめかみを、突き抜けるような速さの拳で、一息に殴り飛ばした。
店主の体は、硬い石の床の上に倒れ込んだ。
マークは、店主の鳩尾に、右足に履いた硬いブーツの底を叩きつけた。
フィリップは、マークの後頭部と、床に倒れ込む男性の顔を見下ろした。
男性は、その震える目で、フィリップと、自分の鳩尾を踏みつける少年の顔を、交互に見ていた。
「もう一度聞くぞ?」フィリップは、再び唇を開いた。「あの子になにをするつもりだった?」
「やめてくれ……、俺には娘が」「いるわけねーだろ。てめーみてーな奴に」フィリップは、店主の言葉を遮った。「調べたって言っただろ?」
「フィル」少年は言った。「こいつ、嘘言ってない。トッレにいるみたいだ」
「え……」フィリップは、言葉を失い、息を呑んだ。
店主は息を呑んだ。「なんで……」
フィリップは、店主を見下ろした。「……そいつに嘘は通じない。お前と同じさ。精神の魔法だ。人の心が見えるし、聞こえる」フィリップは、静かにため息を吐いた。「子供がいるのに、なんでそんなことが出来るんだ?」
「この世の中は、弱肉強食だ」マークは、自己愛が強いが故に口を開こうとしない店主の心の内を読み上げた。「弱い奴が死ぬのは仕方のないことだ。強い者の糧になる」
「その理屈だと、お前がここで死ぬのも、お前の娘が露頭に迷うのも仕方ないってことになるんだけど、それについてお前どう思う」フィリップは、店主に言った。
「それは嫌だ、怖い、死にたくない」マークは言った。「逃げ切らないと、娘の為にも」
店主は呻き声を漏らした。
マークが、右足を振り上げ、男性の鳩尾を踏み潰したのだ。
「マーチャント」フィリップは言った。「世の中には、こういう連中もいるんだ。娘の為と言って、なんの罪もない他人の子を利用して金を作る。子供を愛する親の胸を引き裂くような思いをさせて、もう二、三個嘘を吐くだけで更に金を毟り取れれば儲けもんだ、なんて考えてる。こういう奴らは、自分以外を人だとは思ってない。愛を知らず、愛を拒んできた者達の末路だ。こいつらは、人を利用する為に嘘を吐く。人を騙し、利用することしか考えていない。だからいつも怯えてるんだ。いつか報復されるんじゃないか、自分よりも強く、賢い者に、食われるんじゃないかってな。こういう奴らがいるから人を見る目が大事なんだ」
「ぼくには必要ないよ。魔法があるから」
フィリップは、マークを見た。
精神の魔法を扱う魔法使いは、精神的に不安定だ。
風に触れるように、景色を見るように、周囲のあらゆる感情や思考に触れ、見えてしまうからだ。
彼らには、人を思いやる言葉やその場を和ませるための建前が、虚しい虚構としてしか映らない。
それ故に、精神の魔法を扱う魔法使いたちは、感受性が豊かな、若者のうちに自殺してしまうことが多いのだ。
マークは、今、彼自身が踏みつけている店主と同じ力を持っている。
「ぼくは、こいつとは違う」マークは言った。
マークに思考を読まれてしまったことに気がついたフィリップは、意識して、思考と心を無にした。
「ぼくは、こんな奴にはならない」マークは、静かに息を吐いた。その息遣いは、抑え込んでいる興奮故に、震えていた。「どうする? 本屋の仕事なら、片手を失っても娘の為に働くことは出来るだろ」マークは、腰に刺している短剣を抜いた。
店主は息を呑んだ。
「良く聞け」フィリップは、マークが感情を爆発させてしまうのを抑制するために、マークの怒りと憎悪の対象である、店主に対して言葉を発した。フィリップは、右手でジャケットの内ポケットを探りながら、店主を見た。「この店のこと、お前のやったこと、すでにニホニアの警察と国際警察に伝えておいた」フィリップが取り出したのは、金属製の、無地のシガレットケースだった。フィリップはそこから一本抜き、人差し指の先から伸ばした火でタバコの先を炙った。彼は、静かに煙を吐いた。「次やれば、一生を刑務所で過ごすことになる」フィリップは、マークの肩に優しく触れた。
マークは、もう一度店主の鳩尾を踏みつけると、身を翻し、店を出た。
フィリップは、何の感情も浮かんでいない目を店主に向けると、指を振るった。
それだけの所作に、店主は、肩を震わせ、息を呑んだ。
フィリップの指先から放出された魔力が、砕けて床に散らばった電球の破片に注がれた。
電球の破片は、宙に浮き、天井に上がっていき、砕ける前の元の形に戻っていった。
店内に、明かりが戻った。
フィリップを見上げる店主の目は、震えていた。
顔からは血の気が引いていた。
フィリップは、店主に背を向け、店を出た。
店の外では、マークが空を見上げていた。
彼の視線を先を追えば、雲一つない星空が広がっていた。
今日は、綺麗な満月だった。
フィリップは、マークの頭を撫でた。
マークのサラサラの髪が、くしゃくしゃになった。
「行くぞ。シャワー浴びて、さっさと寝ちまおう」
「殺さなくて良かったの?」マークは、不満げな声色で言った。
「俺たちはセウェードゥン政府の人間で、ニホニア政府からの依頼は受けていない。あれ以上は越権行為だ」
マークは舌打ちをした。
「それに今は他の仕事で忙しいだろ」フィリップは、月を見上げながら、タバコの煙を吐いた。「どんな奴にもやり直すチャンスはくれてやるべきだ」
「同じことをしたらどうするんだ?」
「出来ないさ。これからあいつは監視下に置かれる。それに奴の心はお前が折った」
マークは、鼻を鳴らした。
フィリップは小さく笑った。「もう、奴にはなにも出来やしない。自らを顧みて、悔い改めない限り、惨めに生きて、惨めに死んでいくだけだ」
マークは、小さく頷いた。
彼の幼さの残る顔に張り付いていた険しさが和らいだ。
未だに不満げながらも、少しばかり誇らしげで、満足している様子だった。
「……フィリップも何かやったことあるの?」
「俺か?」フィリップの頭に、新しい闇落ちのドラゴンと疑われているヴェルのことが浮かんだ。「俺は……、若い頃に、友達と喧嘩したんだ。やりすぎて、逮捕された」
マークは口笛を吹いた。「相手は馬鹿だったんだろ」
フィリップはニヤリとした。「なんでわかる?」
「フィリップを怒らせたんだから」
フィリップは笑った。
通りの向かいからやってきたカップルが、ビクッ、と震えて、フィリップたちを見た。
フィリップは、笑い声を引っ込めると、はー……、と、深く息を吐いた。
中央広場の方を見れば、こんな時間だというのに、オレンジ色の明かりで輝いており、人々の、騒々しいながらも心を躍らせる笑い声が聞こえてきた。
ほんのりと、肉の焼ける良い香りも漂ってくる。
俺も、少しはマシになれたかな……、と、フィリップは、ぼんやりと思った。
「昔のフィリップは知らないけど、今のフィリップは好きだよ」
「おいっ」フィリップは笑った。「プライバシーどうなってんだよ」
マークは俯いた。「ごめん……」
「たく……」フィリップは、マークの頭を、撫でるように小突いた。そして、楽しそうで、幸せな雰囲気に満ちた中央広場を見た。音楽が聞こえてきた。ストリートミュージシャンが、ここぞとばかりに稼いでいるのだろう。中央広場に背を向け、こちらにやってくる人たちは、みんな、満ち足りた、幸せそうな笑顔を浮かべている。みんな、今日は幸せな気持ちで眠りにつき、楽しい夢を見るのだろう。「あっち見てくか。楽しそうだ」
「良いの?」
「ユアンたちも、まだあっちの世界にいるだろ。行こうぜ」
マークは頷いた。「うん。腹減った」
「ビールも飲むか?」
「良いのっ?」マークは目を輝かせた。
フィリップは、唇の前で、人差し指を立てた。「ノエルには内緒だぞ?」
「やったっ」
二人は並んで、賑やかな中央広場に入った。
肉の焼ける香ばしい香り、ソースの香りやハーブの香り。
あちらには串に刺さった肉、こちらにはピラフ、そちらにはヌードル、ハンバーガー、ホットドッグ、ブリトー、タコスやシュワルマ、ナチョスやポテトチップスやポップコーン、チュロスやプレッツェルやドーナッツ、計り売りのお菓子、木の手籠や帽子やリネンの衣類やバッグなどといった手作りの民芸品……。
あちらこちらでは、ニホニアにゃんの仮装をした人たちが、魔法使いの格好をしていたり、吸血鬼の格好をしていたり、箒に乗って空を飛んでいたり、ブレイクダンスをしたりしていた。
木製のテーブルに腰掛けて食事をする人々。
マークは、ステーキを食べながらビールを飲んだりワインを飲んだり会話をしたり笑ったりといったことをしている、明るく軽やかな雰囲気のテーブルを見つけると、そこに腰を落ち着けた。
今日から三日間、何かを祝うお祭りが開かれるようだった。
「なににする?」フィリップは聞いた。
「ハンバーガーっ」マークは、キラキラと目を輝かせて言った。
「俺もそれにしよっと。買ってくるから、待ってろよ」フィリップは、ハンバーガーとビール、そして、他にも色々買って、それらとともに、マークの下に戻った。
マークは、ビールの入ったグラスを見た。「これなに?」
「一番美味いビールだ。俺が初めて飲んだビールでもある。飲んでみろ」
「かんぱーいっ! おろろろろ」マークはビールを吐き出した。「にが……、まずっ」
フィリップは、笑いながら、マークにリネンのナプキンを渡した。
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この物語はフィクションです。実在する如何なる人物、団体、出来事と本作品は関係ありません。物語内では未成年が飲酒喫煙をしてますが、彼らは人間ではなく魔法族です。本作品には未成年者の飲酒喫煙を推奨する意図はありません。自分の心と体を大事にしましょう:)




