とある侍女の幸せな日々
私の父ははっきり言ってクズな人でした。
子爵という地位を国王陛下から頂きながら、権力の上であぐらをかき、その上、更に上の地位を求める野心家。しかも、妻と娘に平気で暴力を振るう。
もう、どこからどうみてもクズです。
幼い頃は母が私を守ってくれました。ぼろぼろになりながら私だけは絶対に傷つけまいと、必死で私のことを守ってくれた背中が印象的です。もう顔も声も覚えておりません。母は私が七歳のときに儚くなりました。
それからは地獄のような日々です。邸の中では日中は常に怒声が響き、これ以上父の機嫌を損ねないようにと息を潜めて過ごす日々。夕方になれば父は直ぐに酒に手を出すので、殴られないようにと震えながらクローゼットの中で身を潜める。
探しに来るのです。鬱憤を晴らす為の存在を。
「お前のような娘は体を使ってでもしないと、婚約者の一人も捕まらないだろう。なーに、色仕掛けをすれば、高位貴族のお坊ちゃまなんて直ぐに釣れるさ。そうすれば我が家も…」
父は汚らしい声でとんでもないことを娘に言いました。貴族どころか、人としても失格です。こんな男と血が繋がっているのだと思うと、心底嫌気がさしました。
私が十一の時、コンラッド王国では後に「大厄災」と呼ばれる災いが訪れました。
田舎町であった我が伯爵領は、地震で家が崩壊し、暴風で畑が荒れ、大雨で川が氾濫。それはもう甚大なる被害が出て、もともとそれほど栄えていた訳ではない我が領は、もはや人の住めるような場所ではなくなってしまいました。
それでも生き残っている領民もいます。彼らは領主である私の父に詰め寄りましたが、父は自分のことしか考えていません。領民がどうなろうと関係ないのです。
領民がいなければ領主にはなれないというのに。
そして、父に頼れないとなった領民たちの矛先は次に私に向かいました。父の次に偉い身分であった私が次のターゲットになるのは、当然と言えば当然でした。
ですが、まだ十一の小娘に何が出来るというのか。ダメな父の代わりに当時から既に領地経営に携わってはいましたが、それでもまだまだ未熟な私に落ちるところまで落ちた伯爵領を立て直すほどの経営手腕などありません。私が寝る間を惜しんで働いても、伯爵領が立て直ることは一向にありませんでした。
そして、「大厄災」から半年が過ぎた頃のこと。気づけば、誕生日も終わっていて十二になっていましたが、日々忙しくそんなことは気にも留めていませんでした。それでも、餓死や栄養失調で次々と残りの領民たちが一人二人と亡くなっていきました。
そんなある日、それまでどれほど苦労しても全く芽すら出さなかった野菜の種たちが、一斉に芽吹き始めたのです。あまりのことに、全身の力が抜けてへなへなと座りこんでしまいました。そして、直ぐに天へと祈りました。
ああ、神様ありがとうございます。これで少しでも彼らの空腹を癒せるように努力します。ありがとうございます。
田舎の伯爵領に住んでいた私は知りませんでした。それが、かの帝国の聖女様のおかげだということを。
それから三年後、私は王都に来ていました。十五になった私は学園に通うことになったのです。貴族は皆この学園で学ばなければいけない義務がありました。領民と領地のことが心配で後ろ髪がひかれる思いでしたが、この機会を無駄にはせず、学べるだけ学んで立派になって帰ってこよう。そう、決心しました。
しかし、私が充実な学園生活を満喫し始めた頃、伯爵領から緊急帰郷命令がくだされました。父からです。
何があったのだと急いで駆けつけてみれば、私がいない三ヶ月で、やっと持ち直してきていた伯爵領はものの見事に以前の状態に逆戻りしていたのです。
直すのに時間のかかるものほど壊れるのはあっという間だということを、この時私は身をもって経験しました。父に初めて殺意が湧いた瞬間でもありました。
しかし、そんなことには一ミリも気付かない父は、地に頭をつけて許しを請うなんてことはせず、こんなことをいいました。
「このままでは私は爵位を失ってしまう。貴族の誇り高い矜恃を持っている私にあんな薄汚い生活なんて出来る訳がない。なあ、メルリーナもそう思うだろう。」
ええ、そうですね。豚のように肥え太った貴方は、直ぐに餓死してしまうでしょう。
「だからな、どうにかこんな田舎の領地を立て直さなければいけないんだ。全く面倒なことこの上ないが、先日王家から注意されたんだよ。」
そりゃそうでしょう。一度は立て直したといっても、貴方が散財していたせいで、我が領は他と比べても抜きん出て死者が多かったのですから。それがまた領地経営を破綻させたとなったなら、王家から直接注意されてもおかしくありません。
まあ、そんなこと貴方は知らないのでしょうけど。
「…ところで、お前と同学年に第二王子がいるらしいな。どうにかならんか。」
下卑た笑みを浮かべて、そう問いかける父。
どうにかならんかとは、どういう意味でしょうか。聞かなくても何となく分かりますが、そんなことに私が従うとでも?醜い貴方と違って、純粋な貴族としての誇りを持っている私が、今更貴方に屈するとでも?
抑えていた殺意がまた湧き上がります。どうやら流石に父も気づいたようで、私の目を見て焦ったような顔をしました。
殴られようが蹴られようが、今度こそ私は逃げません。今の私には守るべきモノがありますから。
しかし、そんな私の決心はあっさり砕かれました。父が懐から取り出した、不気味に光る石によって。
「はは、父親に向かってなんて目をするんだ。お前がそんな目をするから悪い。くくっ、これからお前は私の言うことに逆らえない。せいぜい良い操り人形になるんだな。」
それからの私の記憶は曖昧でした。
鼻孔をくすぐるローズティーの香り。我ながら上手く出来たと、私は自ら入れたその紅茶を最愛の主の前に置きました。
「ふふっ、ありがとうメル。」
そう言って微笑む主は、今日も世界一美しいと言わざるを得ません。
神々しく輝くような白い肌に、まるで光を織り込んだような美しいプラチナブロンド。桜色の艶やかな唇は、邪心さよりも神聖さを抱かせるのがまた不思議。極めつけは、その金眼。常に慈愛を含んだその眼差しは、人々を魅了して止まない。
これで平民出身というのだから、驚きを隠せません。正に、聖女になる為に生まれてきたようなお方と言っても過言ではないでしょう。
そう、私が仕えているこのお方こそ、カナリア帝国の至宝、聖女サティファ・マルス様です。帝国のかの天才が溺愛して止まないと呼び声の高い、あの素晴らしき聖女様なのです。そんな方にお仕え出来る幸運はどれほど感謝してもしきれません。
あぁ、聖女様、感謝します。
「ところで、彼はあとどれくらいで来るかしら?」
恥じらいながら頬を染めてそう尋ねてきた主の姿に思わず悶えそうになりながら、私は出来る侍女として答えます。
この方に失望されたくありませんから。
「あと、もう少しでございます。」
私がそう答えてからも、主の瞳は忙しなく時計と扉の間を行き来しています。あの方が来るのを待ち焦がれているその様子は、本当に愛おしいの一言に尽きます。
あぁ、今日も私の主が最高に可愛い。
そして、あの方は暫くしないうちにやって来られました。
「ああ、サティ。待たせてしまってすまない、僕の愛しい姫。」
それは、砂糖を何日も煮詰めたかのように蕩けた甘い表情。この方がこのような表情をなさるのは、主の前だけです。それ以外の時は、目線一つで人を殺せてしまうのではと思うほど冷たく光のない表情ですから。
「レイ、私こそ忙しい中時間を使わせてしまって申し訳ないわ。」
「何言ってるの、サティ。僕にとって君との時間は何よりも優先されるべきことだ。サティは違うの?」
その言葉に耳まで赤く染まる主。そして、他国との会議を強制的に中断させてきたにも関わらず、涼しい顔をして婚約者を愛でる帝国の皇太子様。流石です。
お似合いのこのお二方は、カナリア帝国の次代を共に担う方々です。このお二人なら素晴らしい時代を切り開いてくれるだろうと、帝国の民たちは言います。私もそれに関しては心より同意致します。
父に洗脳されていたとはいえ、本物の聖女であるサティファ様を侮辱し、あろうことか自分こそが聖女だと愚かなことを宣った私を許してくださり、その上侍女にしてくださるなんて、私の主はどれほど優しく清い心の持ち主なのでしょう。一生付いていきます。
『メルリーナ、今まで辛かったわね。もう大丈夫よ。あのクソ親父はレイが始末してくれるわ。』
あぁ、あの時の主のお言葉に私がどれほど救われたか。
あの瞬間に私は決めたのです。このお方に私の全てを捧げると。私の心も、身体も、この命も全て。
「サティ、愛してるよ…」
「…私もです」
私としたことが。主たちの良い所をお邪魔してはいけませんね。出来る侍女である私は、空気のようにこの場から去るのです。
では、あとはお二人で。
見つめあって唇を重ね合わせるお二人を背に、私は静かに立ち去ります。
『サティファ様、私の全てはあなたのものです。』
これは、とある侍女のとても幸せな日々のお話です。
fin.
メルリーナの父親がこんな馬鹿をしたのには、実は裏があったりなかったり。ちなみに洗脳する時に使われた不思議な石は、法に違反する危険なものです。使えばかなり重い罪が課せられる代物なので、メルリーナの父は今頃火の中で炙られていたりするかもしれませんね。
以上、どうでもいい補足でした。