遠くのまちで生きている
※この作品には犯罪行為を含む描写がありますが、それらの行為を助長する意図はありません。
じんじんと日差しが主張を始める季節になってきた。まだ汗が止まらなくなるほどの絶望はないが、首元に染み出してくる熱が鬱陶しい。
来島リネツは、学生鞄を右肩に下げ、若干体を左に傾けながら、出来るだけ日陰を選んで歩いていた。
なぜ長袖のカッターシャツを着てしまったのか。朝は寒かったからだ。今朝の自分を恨んだり許したりしながら、足を進める。
そんな来島の目に、ふと少年が写った。
少年は一瞬で視界の右端から左端へと移動する。おや、と顔を向けたときにはもう、姿は消えていた。
などとぼんやりすること、二秒。
「くおらァ! またてめえか!」
後ろから爆風のように飛んできた怒号に、思わず来島の肩が跳ねる。
六十代くらいの男が「クソッ」と吐き捨てたあと、「そこの兄ちゃん、こんくれえのクソガキ、見なかったか」と来島に近寄ってきた。男は頭の頂点に視線を集めがちな風貌で、鋭い目つきで来島を見る。来島は少したじろぎながら、「ええ、たぶん……一瞬だけ」と応えた。
「どっちへ行った?」
「こっちから……こっちへ……」来島は自分の見たままに、右から左へ人差し指を動かす。
「ばか言え、どっちも塀じゃねえか」
「だから俺も不思議に思っていたところなんですよ」
来島が少年の走り去った方向を見ていると、男は何かに気付いたような声色で言った。
「……その左手に持ってんの、なんだ?」
「え?」
来島が左手に視線を落とす。青色のスプレー缶が、いつも通りと言わんばかりに、当たり前の顔をして握りしめられている。
え? ともう一度、念を押すように来島は言う。
「おい、まさか――今日の犯人はてめえか? 常習犯になすりつけて逃げようたぁ卑怯なことをするじゃねえか」
「いやいや、待って、誤解です。俺こんなの……」
「何が誤解だ。よく見りゃお前、袖のところにもしっかり証拠が染み込んでるじゃねえか?」
「はっ?」来島の左袖には、飛び散ったスプレーの痕がしっかりと残っている。ただ袖に吹き付けるだけではこうはならないだろう。「いや、しかし、本当に俺じゃ」
「とにかく来い! 全部落としきるまでは帰さねえぞ」
起きたことをありのまま受け止めるなら、おそらくあの少年が、来島に近づいた一瞬で、小細工をしたうえでスプレー缶を握らせ、走り去ったということ。
来島は思わず、いやいや、と浮かんだ考えとその頭を左右に振り払う。あの少年は何か、目にもとまらぬ速さで神業を施す、人に罪を擦り付ける達人か何かなのか。
自分自身が学校帰りにどこかで青いスプレーを購入して、知らない家に吹き付けるなどという気が狂ったことをした上で、その後突然記憶を失ったのだというのでない限り、これは来島の犯行ではない。本人なのだから間違いはない。
「分かりました。どうしても俺じゃないと認めてくれないなら、その常習犯とかいう子供をここに連れてきますよ。本人の口から釈明を聞いてください」
男に負けず劣らず尖った目で来島が言うと、男は「はんっ」と喉を鳴らした。
「連れて来れるもんなら連れてきてみろ。二人まとめてとっちめてやる」
来島は、男の挑発には返事をせず「この塀の向こうは家ですか」と尋ねる。少年が消えていった側の塀だ。
「あん? 家に決まってるだろ。それがどうした」
「家の向こうには何が?」
「お前、この辺に住んでるわけじゃねえのか」
「ええ、初めて来ました」
「……その家の向こうは、公園だ。そんなにでかくねえ」男は訝し気だ。
どうも、と言って歩を進める。この家を回り込んで、反対側の公園へ出るつもりだった。
行先を公園と決めたのは、実に単純な理由だった。スプレー落書きの常習犯で、近所の親父にクソガキと怒鳴られる子供の居場所なんて、そこぐらいしかないだろう。
ところが、来島の予想は当たらなかった。来島が角を曲がったとき、少年はそこに待ち受けていたのだ。道路の真ん中に、仁王立ちで。
「このスプレー、お前のか」
「うん」少年は、唇で弧を描きながら、来島を見上げる。
来島は、一つため息を落とすと「ついでにこっちも返すよ」と、左袖の青色を少年の頬で拭う。もちろん、ほとんど汚れは落ちない。憂さ晴らしに過ぎないわけだ。
少年はけらけらと笑った。「どうする? 俺を捕まえて持っていく?」
「君は労働が好きなのか? それとも、怒られるほうか?」
「どっちも嫌いだよ。当たり前じゃん」
「そうか。じゃあ、逃げよう」
「いいの? 俺を連れてくるって言ってたじゃない」
「話を聞かないジジイに土産なんていらないね」それに、と来島は口角を上げる。「俺も怒られるのは嫌いなんだ。行くぞ」
来島は少年の手にスプレー缶を握らせると、反対側の手を掴んだ。のんびり歩いていてもあの男はきっと追いかけてきたりしないだろうが、こうした方がそれっぽい。
「ところで、あの家に何を描いたんだ?」
「りんごだよ」
「青いスプレーで?」
「そう、青りんご」
「そりゃいい。子供の描いたりんごなら下手でも芸術だ」
「あーあ、そんなこと言っちゃって。見られなくて残念だったね。世界で一番上手だったのに」
「へえ、ゴッホより?」
「ゴッホより」
「ダリよりもか」
「誰それ」
角を見受けたら、とりあえず右に、とりあえず左に、何も考えずに走り続ける。
来島の想定では、途中でこの子供がバテて泣き言をいうので、小馬鹿にしながら止まってやる筈だった。ところがこの子供、来島の足が泣き言を言い出しても、まるでけろりとしている。
来島の走るペースが半分以下になってから、そういえば、一瞬で俺に罠を仕掛けて一秒と経たずに消えていく野生動物のような子供だったということを思い出す。
「もうバテたの?」くっく、と煽るような笑顔で来島を見た。
来島は「そろそろお前も疲れたんじゃないかと思ってな」と強がりを言う。来島の襟元が汗に浸されていて、不快になってきた。子供に負け、馬鹿にされるのは癪ではあったが、ちょうど家の陰になる場所で立ち止まった。
そこは住宅街の一角は静かだが、あまり大声を出すと目立ちそうだった。
「そういえば、名前は?」来島は、気持ち程度に声を抑えつつ、少年に訊く。
少年は、湯木ミドと名乗った。
「……発音が難しい名前だな」
「放っとけ。母さんの付けた名だ」そして「あんたは?」と来島に尋ねる。
来島も自分の名前を名乗り、ミドを見る。
改めて眺めてみると、ミドの顔立ちはかなり整っているといえた。一つ一つのパーツがはっきりしていることには年齢的な作用もあるのかもしれないが、来島はどこか、ミドに圧倒されるような感覚を覚える。
体格だけ見れば小学生くらいとみて間違いないはずだが、ともすればそうとも言い切れない色気がある。特に、こんなふうに表情のない瞳で見つめられたときなどは。
「そういえばお前さ、この辺で見ない顔だよな。でも、明らか学校帰りだろ、その感じ」
ミドが来島に問う。
「ああ、そうだな」来島が薄く笑うと、間髪入れずに次の問いが飛んできた。「何してたんだ?」
「俺か? 今はストライキをしているところだ」
「スト……画家の名前か?」
ちげーよ、と来島は吹き出す。「俺は普段、“優等生”って仕事をしてるのさ。ところが、あんまり待遇が悪いから、改善がみられるまで働くことをやめたわけ」
「タイグウ……働く……? 何言ってんだオマエ、中学生だろ?」
「高校生だ。殴るぞガキ」
来島は言葉とは裏腹に苦笑を浮かべた。
「俺は、家や学校でお利口さんに優等生をする代わりに、最低限の生活とそこそこの自由を与えられているのさ」
「最低限の……」
ところが、と来島は肩を竦める。「ここのところ、どうも理不尽な制限が増えてきてね。あれじゃ契約違反だ。……といっても、十年以上前の口頭契約だけど」
変わった親なんだよ、と来島は結ぶ。そう言いながら、来島は目の前で無表情にこちらを見ているミドの親を思い浮かべる。きっとこの子供の親も、自分に負けず劣らず、“変わって”いることだろう。
「俺も、優等生になったら自由になれっかな」
「ははは、そりゃ無理だ」
独り言のように呟いたミドに、来島は即答する。ミドは、来島のその反応に口を尖らせた。「なんで言い切れるんだ」
「優等生を欲しがるようなタイプの親が、今のお前をみすみす見逃してるはずがないからだ」世間体を気にするタイプでないと効果はないだろう。そ
れにこの子供は、自分ほど器用には見えない、というのが彼の率直な感想だった。
「じゃ、俺、どんな仕事したら自由になれる?」
住宅街を奥へ奥へと進みながら、あくまで軽いトーンでミドは尋ねる。二人は、お互いの背景をぼんやりと想像しながらも、明確な言及は避けていた。
「家を飛び出したら、かな」
来島が言いながら青いばかりのつまらない空を見上げると、ミドは反対に、深く俯いて押し黙ってしまった。
長細い影と、細いが短い二つの影が、しばらくの間静かにまっすぐ進み続ける。やがて堪えきれなくなったように一つ、汗が落ちた。心なしか、太陽の熱気が高まっているような気がする。
「……親がいやになって、オマエ、優等生やめたのか?」
「期間限定でな。だからお前と一緒に逃げてるんだ」というよりは、もう既に、どちらかというとただの散歩である。
「優等生だったら、俺を捕まえてた?」
「優等生だったらこんなところにいない」
来島は、塾をサボって、適当な電車に乗って、当てもなく歩いていたところを冤罪被害にあったのだった。
「優等生って何すんの?」
「……そんなに優等生に興味があるのか」
「まあね。俺はやらないけど」
「そうだろうな。――優等生ってのは、何かをするんじゃないんだ。何かを“しない”でいれば、なれる」
来島はミドに向けて目を細めた。
口答えをせず、規則は守る。指定された成績のボーダーを少しだけ上回り、余計なトラブルには首を突っ込まない。反感を買わず、クラスメイトとそこそこ仲良くなっても深い友情は育まない。
「俺には、悪ガキのほうが分からない。悪ガキの称号を得るには何かを成さねばならないだろう」
言われたことに逆らわなければいつの間にかなっている「優等生」と違って、「悪ガキ」「問題児」と呼ばれるには汚れた実績が必要だ。
「成すってなんだよ。やりたいことをやってたら、こうなっただけだ」
「やりたいことって?」
「そりゃ悪いことだよ。偉そうな大人が顔真っ赤にして俺に振り回されるからね」
ミドの鼻高々とした表情を見て、来島は「悪ガキと呼ばれるにふさわしい性格だな」と苦笑する。善悪の区別がついた上でやっているのが末恐ろしい。
次に、「それなら教えてくれよ」と来島の挑戦的な目が、ついにミドのひらひらと掴みにくい瞳を捉えた。「悪いこと」
ミドは一瞬目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。
「明日、同じ時間にあの公園にいろよ」
「公園? ……と言うと、お前がバンクシーしてきたジジイの家の近くの公園のことだな」
「バンクシーってのは、今度こそ画家の名前か?」
「そうだ。他人様の壁にスプレーをぶっかけるんなら、バンクシーの名前くらい覚えとけ」
来島は、教えてくれ、という言い方をしながらも、腹の内では「この寂しそうなガキとしばらく遊んでやるのもいいかもな」という気持ちでいた。ただ、この生意気だが素直な子供のすることを知りたいと思ったのも、嘘ではなかった。
「そういえば、名前、なんだっけ」ミドが尋ねる。どうやら、先ほどの自己紹介の時には来島への興味は微塵も無かったようだ。
「来島リネツ。まあ、覚えなくてもいいけど」
「リネツか。分かった」ミドは大きく頷く。
いつの間にか太陽の傾斜が進んでいた。影の長さが現実を伝えている。自身はともかく、そろそろこの子供は家に帰さねばならない時間だろう。
「ところでミド、駅はどっちだ」
来島が尋ねると、ミドは吹き出した。あんた現代人だろ、と来島を見上げる。「携帯くらい持ってねーの?」
来島は、鞄の中からスマートフォンと取り出すと、ミドに手渡す。無言のまま受け取ったミドは、裏返したり回したりした後、「どこも壊れてねえじゃん」と言った。
「電源を切っているんだ。電源を入れていたら、電話と通知が鳴り続けて電車なんて乗れやしないだろうからな」
ミドは、それを聞いてまた笑うと、「あっち」と分岐の左を指さした。「……か、あっち」次に右。「それか、あっち」と、自分の背面、後ろに親指を向ける。
「……それは、道案内とは言わないと思うが」
「ふふん。せいぜい迷って帰れ」今日一番の爽やかな笑顔を見た。「そうだ、明日は段ボールを持って来いよ」と捨て台詞つきだ。
前言撤回。来島のこめかみに皺が浮かび上がる。
この生意気なガキに大人の怖さを思い知らせてやる。そういえば、このガキに己の罪を押し付けられていたのだということも、ついでに思い出した。
来島は返事をせずに踵を返した。とりあえず、来た道を覚えている限り引き返そうということだった。住宅街をぐるぐると走っていたお陰で方向感覚がほとんどないのが不安だが、いざとなればミドの言う通り、現代人らしく携帯の電源を入れればいい。
来島は、「また明日」も「段ボールなんて、小学生らしく工作かよ」すらも無く、無言のままミドと別れた。来島の眉間の皺は少しずつオレンジ色の太陽に引き伸ばされ、いつの間にか口元が緩むまでに至っていた。
翌日も、うっかりしたら汗をかきそうなくらい、じんわりと暑い一日だった。
来島は、昨日よりは鞄の中身を少なくして家を出た――昨日のストライキは当然彼の親に知られ、また彼は既に開き直っているので、昨日のように大量の教材を持ち出すカモフラージュはもう必要ない――はずなのだが、昨日よりも手荷物は大きかった。
昨日見た小さな背中が目に留まり、「やあ」と声をかける。背中が振り返り、ミドがニヤリと口角を上げる。
「それだけあれば充分だ。よく見つけてきたね、段ボール」
「第一声がそれか」
ミドは、ポケットからマジックペンを取り出した。太いほうのキャップをあけ、大胆に曲線を引いていく。完成したのは、なんとも煽られている気持ちになる、「あかんべえ」の表情をした人間の絵だった。
ミドは、自分よりも少し小さいだけのその段ボールを抱えると、絵を描いた面を内側に、インターホンを隠すように立てかけた。数か所のみをガムテープで留めると、器用に段ボールの上からインターホンのスイッチを探し当て、そこを指の腹でぐっと押す。
ピンポーン、と間抜けな音が鳴ると同時に、ミドが走り出すのが見えた。慌てて来島も走り出した。
ピンポンダッシュかよ。来島は呆れて胸中で零す。それも、煽ることに関してことさら手の込んだピンポンダッシュ。
涼しい顔をして走るミドを追う。やはり小学生とは思えない、驚異的なスピードだ。しかし、このまま置いて行かれてはまた身代わりにされることは目に見えている。しかも今度は冤罪ではない。共犯なのだ。
来島は、体育祭よりも真剣な走りを見せた。
現場から遠く離れ、ミドが少しずつペースを落とし始める。来島も「ようやく解放される」と安堵しながらミドに倣った。
「俺、昨日ストライキってのを調べたよ。……“労働条件”ていうのが“改善”されたら、オマエ、優等生に戻るの?」ミドが、先ほどとは打って変わってしおらしい。
「ああ。親の扶養下にいる俺は、そうしなきゃ生きていけないからな」
そう言ってから来島は、挑発するような目でミドを見て、口元をニヤつかせた。
「ひょっとして、これからも俺と遊んでほしいのか? そうかそうか」
「な、ちげーよ! そもそも遊んでやってるのは俺だろ」
ミドは口を尖らせ、すたすたと足を早めた。来島は大股でその速度に合わせて歩く。
いつの間にか大通りに出ていた。車道は片側二車線で、遠くを見るといくつも看板と信号を見つけられた。ミドはどこへ行こうかと迷う素振りも見せず、まるで目的地が決まっているかのようにしっかりと歩いている。
「もしかしたら、俺の親父も、“ストライキ”をしてるんじゃないかと思ったんだ。それなら、今はだめでも、いつか、仕事に戻るだろ」
「……お前の親父、働いてないのか」
ミドは、素直に寂しそうな顔を見せた。汗をかくほど暑いのに、一瞬風が冷たくなったような錯覚に陥る。ひょっとして、彼はいつもこの暑さの中妙に涼しい顔をしているのではなく、本当は、本当に寒い場所に一人取り残されているのではなかろうか。そんな風に思うほど。
その日の帰り道、緩やかな坂に差し掛かったころ、来島の後ろから、「ちょっと」と声がかけられた。来島は、足を止めしばし硬くなる。それもそのはず、来島に声をかけたのは、つい今しがた段ボールを立てかけ、チャイムを鳴らした家の者だったからだ。
伊藤と書かれた表札から、徐々に目線を上げていく。髪をひとまとめにした中年の女性がそこに立っていた。
姿を見られたか、来島は観念して、頭の中に何種類かの言い訳を浮かべる。ところが、予想に反して女性は来島とミドの悪事に言及はしてこなかった。
「ミド君と、仲がいいの?」
「まあ……少しだけ」
彼女は自らを「伊藤」と名乗った。伊藤は、「あの子が心配なの」と語った。
話を聞けば、彼女の家はミドの家の通学路に面しているのだという。基本的には、健康そうに、元気よさげに毎朝駆けていき、夕方帰ってくるが、時折憔悴しきった様子でフラフラと歩いていくのを見かけることがあるのだという。
「ひょっとして家や学校で何か起きてるんじゃないって思って。最近、何かと物騒だし」
そういうことなら、ああいうイタズラも納得できるのよ、と伊藤は苦笑する。
自分も関与しているところまではバレているだろうか、ミドと繋がりがあることを知られている時点で……。
「俺も、知り合ったのは最近で、あの子の家のことはよく知らないんです」
神妙な顔で来島は答えた。出来るだけ彼女の意識を「イタズラ」から遠ざける必要がある。ミドの涼しげな顔を思い浮かべ、さらに続けた。
「もしあの子があなたにも助けを求めてきたら……どうか助けてやってください」
逃げるようにその場を後にし、駅の方向へ走り出した。
あの子を心配する大人もいるのだ。
来島は、言われてみれば当たり前のことに、今になって気付いた。きっと、彼女だけではない。ミドの被害に遭った大人のうち何人かは、ミドが何か深い傷を抱えているに違いないと思ってはいるのだ。
来島は、電車の窓に反射した自分の顔を見て驚いた。眉間に皺。鋭い目つき。強く握られた拳。客観的に見れば、「怒って」いる様子だ。
その通りだと己を認めた。来島は、間違いなく怒っていた。
気付いているのに、推測しているのに、心配までしているのに、一体どうして手の一つや二つも貸してやらぬのか。
「俺、呪いの人形なんだ」
次の日も、その次の日も、何日経っても、来島はミドの元へ足を運んでいた。ミドの考えるいたずらは、一見幼稚に思えたが、なかなかどうして、本気でやろうとするとどれも神経を使った。高校生である来島には、バレたら絶対に許されないという確信があるからだろうか。
さて、いつものように一仕事を終え公園で足を休めているとき、先のようにミドが零したのだった。逆光で彼の顔はよく見えない。
「呪いの人形?」
おかしなことを言い出したぞ、と笑いだせる雰囲気でないことはすぐ分かった。
ミドは、寂しげにこくんと頷く。ここ何日かで、頻繁に目にするようになった表情だった。
「昔、ずっと昔、学校の図書館で読んだことがあるんだ。不気味な日本人形があって、あるときそれをゴミにまとめて捨てちまうんだけど、次の日には同じように家にある。捨てても捨てても帰ってくるんだって」
「確かに、よく聞く怪談だな」
ふむふむ、と来島は続きを促す。
「俺も一緒。俺は自分で逃げ出すんだけど。いつか親父に殺されちまうと思って、図書館のパソコンで調べたんだ。“ギャクタイ”されてる子供がどこに逃げたらいいのか、たくさん調べた」
ミドは、色んなところに行ったんだ、と顔を曇らせた。次に、本当だよ、と瞳から雨を降らせる。「でも、いつの間にか、家に帰ってきてるんだ」ミドの受けた絶望が、ぽたぽたと地面に落ちていくのが見える。
ミドは、このようなことを話した。
ミドの父親がいったいどのように、何と言って数多の大人を言いくるめているのかは分からないが、どういうわけか最終的には、ミドは家へ連れ戻され、彼自身が怒られることさえあるのだという。
来島は、いつだったか、「どうやったら自由になれる?」とミドに問われたことを思い出した。対して「家を飛び出したら」と答えたことも。
思い沈黙が広がった。空よりも広く広がった。海よりも広く。
その日、来島は家に帰らなかった。
正確に言うと、最終的には帰ったのだが、ミドと別れたあと、まっすぐ帰ることはなかった。
角を曲がって息を潜め、やがて元来た道を戻ったからだ。つまり、ミドの後をつけたのである。
ミドの家は、工場の立ち並ぶ地域に、隠れるようにしてひっそりと存在していた。工場、と言っても実際に動いていそうなところはほんの一部で、あとは空っぽの工場が完全に開放されていたり、むき出しの鉄骨だけになっていたりするものがほとんどだった。
ミドの家は、そんな廃工場の一つの裏手に、まるで倉庫のような佇まいで存在していた。家だと言い張れば、そんな気もしなくはない。従業員がたまに仮眠をしたりちょっとした食事をとったりするための簡易的な小屋なのだと言われれば、よりそんな気がする。
来島は、ミドの家から四角になる、廃工場の一角に腰を下ろし、中の様子に耳を澄ませていた。時折、ガシャンと何かが壊れる音がするほか、時折、微かに悲鳴のような声が聞こえる。ミドのものと思われた。だがそれも、午後七時半を過ぎると聞こえなくなった。
午後八時を過ぎると、玄関からミドの姿が現れた。ミドは軒先でうずくまり、肩を震わせながらじっとしている。
来島は、ずっとその場にいた。この時期、夜になると少し肌寒かった。自分の膝に強く爪を立ててしまい、制服がよれている。ミドが落ち着いたのか家の中へ戻っていっても、それでもずっとその場にいた。
夜も更け、終電に乗って自宅へ向かうさなかも、来島はずっと、あの小さくて大して腕力もなさそうな少年のことを考え続けていた。
それからさらに数日、時間が過ぎた。
ミドの様子は先日と変わらず、形ばかりの不敵な笑みを張り付けたり、時々表情もなく遠くを眺めたり、寂しそうに地面を見つめたりする。ミドがこんなにもコロコロと表情を変える感情が豊かな子供であることに、どうして初めから気付かなかったのだろうと不思議に思うほど、来島のミドに対する印象は変わっていた。もうただの「素直で生意気なガキ」ではなかった。
「なあ、ミド」
その日、来島はまだ太陽の高いうちに、そうミドに切り出した。
「俺、明日でストライキを終わるよ」
ミドは、目を丸くした。そして、すぐに伏せた。
「そっか」
それきり、何も話さなかった。
二人は、公園までの道のりをぼんやりと歩いた。来島はミドの顔を見なかったので、ミドがどんな表情をしているのか分からなかった。歩く速度はいつもと同じだったように感じたが、いつもの速度がいかほどのものだったかは覚えていなかった。
公園に着いたら、ミドが先に中に足を踏み入れた。いつも座るブランコの片方を、つばの広い、お揃いの帽子を被った親子が使っていた。
ミドは、背中を押されるたび高い声を上げて喜ぶ女の子の姿を一瞥して、木で出来たベンチに腰掛けた。
じわりじわりと、太陽が迫ってくるように、少しずつ体温が上がっていくような気がしなければならない。
「オマエってさ、大事なもんとかある?」
しびれを切らしたのか、先に口を開いたのは来島だった。
「ない」
ミドは、あまり深く考えてはいないようだった。
「親とか友達とか」
「ないな」
「蝉の抜け殻とか、熊の置物とか」
「そんなにガキでもジジイでもないっつーの」
「スプレー缶とか、段ボールとか」
来島が何本指を立ててもミドは首を横に振った。来島はそれを、小さく頷きながら聞いている。
そんないいえ一点張りのつまらない問答を繰り返していると、ミドは「あ」と零した。
「でも俺たぶん、大切だよ、リネツのこと」言ったあと、少し照れたように目線の先を動かしながら「ちょっとだけ」と付け加える。
来島は一瞬、面食らったように固まる。そして、「そうか……」と神妙な声を出しながら、言葉とは裏腹に人差し指で頬をかいた。
「……オマエ、優等生に戻るの」
ミドは、か細い声でそう訊いた。来島は目を伏せる。「戻らないよ」
それを聞いて、きょとんと首を傾ける。
「どうして? ストライキは終わったんだろ」
夏の直前の陽が、刺すように光を寄越してくる。相反してミドの目に鋭さはなく、困惑にじわりと揺れている。
来島は、ミドの質問が聞こえていないかのように無視を決め込み、太陽と同じ表情で、刺すように睨み返した。
「ミド」来島は、呼びかけていながらもミドの方は見ない。「ミドは、今まで俺に色々“悪いこと”を教えてくれたよな。感謝してる」
来島は、努めて、どこまでも優しい口調で言った。ミドは黙っていた。質問に答えてくれなかったのが不満なのかもしれない。
「だけど、明日は、俺がオマエに、本当の悪いことを教えてやるよ」
ミドと夜になってから会うのは初めてのことだった。
今日は金曜日。一週間の中で最も後腐れもなく「悪いこと」が出来る日だ。月は細く輝いていて、きっとこちらまでは見渡せないだろうと思われた。一筋の風さえない、静かな夜だった。何か悪いことが起きても仕方ないと思わせる夜だった。
来島は、すでに「悪いこと」の準備を終えていた。あとは、ミドが出てくるのを待つばかりである。
昨日「明日は俺が教えてやる」などと大口を叩いたわりに、今日の来島は誰よりも穏やかだった。いつものように夕方、ミドと出会い頭に挨拶を交わしてからも、それは変わらなかった。
そしてついに、いつもならばミドと別れる時間になっても、ついに来島は動かない。ミドは口を尖らせて「どんな悪いことを教えてくれるっていうんだよ」
来島は、言い聞かせるように応えた。
「家に帰って、飯を食べようが食べまいが、風呂に入ろうが入らまいがどちらでもいいが、午後八時になったら、こっそり家を出てこい。どうせその頃には、オマエの親父は酒に潰れて動いてないだろう」
そのことは、以前ミドの家を尾けていったときに知ったことだった。ミドは、なぜ知っているのかという顔をして来島を見たが、来島はそれを無視した。
「それで、夜に家を抜け出すのが“本当の悪いこと”なのか」
ミドは、怪訝な瞳をこちらに向けた。来島はそれを「さあな」とかわす。どうやらもっと派手な“悪いこと”を想像していたらしい。ひょっとしたら、夜中に家をこっそり抜け出すことなど、彼にとっては日常なのかもしれない。しかし、来島は焦ることはなかった。
――そんな風にミドと別れた夕方を思い出しながら、彼の家の玄関らしき扉を見つめていると、それが重々しく開くのが見えた。
来島はそれを確認すると、手だけでミドに合図を送る。ひらひらと動く来島の手にミドが気付き、来島の元にこそこそと向かってきた。工場の影に座り込む来島の隣に、同じようにミドも腰を下ろした。
来島は、ミドの両手にしっかりと、ミドの手には随分と大振りのチャッカマンを握りしめさせた。そして、玄関先を指さす。
「出て来たときに気付かなかっただろうが、あそこには、一本のロウソクがある」
「ロウソク?」
「それに火をつけてこい」
「火」
ミドは、来島の言葉をオウム返しにする。来島は小さく頷いた。
「ただし、そいつは大人の力でないと火がつかないように出来ている。少しだけ練習してからいくといい」
ミドは、両手でしっかりとチャッカマンを握りしめ、さらに力を込める。チ、と豆粒のような炎が一瞬見えた気がしたが、すぐにどれだけ力を込めても何も起こらなくなってしまった。子供離れした俊敏さをもってはいるが、握力は人並みだったようだ。
カチャカチャと何度も力を入れては火がつかないと唸るミドを見て、来島は、ふっと鼻を鳴らすと、「貸せ」とミドに手の平を差し出す。ミドは不満げに来島の手にチャッカマンを乗せた。
来島は、ミドを背後に従えて、ゆっくりと玄関に近づいた。右手でカチッと、一度でロウソクに火を近付ける。三秒ほど間をおいて、ポッと優しく、ロウソクに火が灯った。
「さて、行くぞ」
来島は小声でミドに耳打ちし、ミドの手を引いて駆けだした。いつかスプレー缶を持ってこうして逃げたことを思い出す。あのときは意味もなく走ったものだが、今は違う。出来るだけ足早にここを立ち去りたかった。
「リネツ、どうするんだ、あれ」
走りながらミドが尋ねる。「あのままだと、うっかり火事になるかも」
来島は、ああそうだな、と生ぬるく返事をする。そして、困惑するミドの手を引いて駅に飛び込み、ポケットに忍ばせていた切符を改札に遠し、電車に乗ったところで、ようやくその手を解放した。
「火事になっても大丈夫だ。もうじき梅雨だから」
ミドは、はあ? という顔をしながら、「はあ?」と言う。来島は、てんで的外れな解答をしていることを自覚しつつも、表情を変えずに続ける。
「それに、梅雨が明けたら夏が来るから、大丈夫」来島は、昨日と同じく、優しい声を意識していた。
電車の中には、人はまばらだった。来島とミドの座る座席には、彼ら以外に人はいない。向かいの座席、来島の対角線上には、一人だけ眠そうなサラリーマンが座っている。ほかの座席も同じように、人がいたり、いなかったりする。
さて、冗談はさておき、と来島は親指から中指を立て、指の背をミドに向ける。
「俺は今日、三つ、悪いことをした」
「え?」
「どこかのガキが帰るべきだった家に放火したこと、どこかのガキを誘拐したこと、それから、ピンポンダッシュだ」
来島はこの日、ミドと別れた後、先日ミドと二人で段ボールを張り付けた伊藤という人物の家を再び訪れていた。そして、インターホンのカメラにコピー用紙を貼り付け、インターホンを押して立ち去った。
コピー用紙には、「本日20:20 湯木ミド」と、出来るだけ端正な字を心がけて記入しておいた。
「あのロウソクは二十分間で溶けきる。もし、風にさらされているにも関わらず、ロウソクが見事に溶けきったら、次は地面に撒いた油に引火するようになってる。でもそれも、試したりしてないから、実際上手くいくかは分からない」
ミドは、え、と声を出した。来島は構わず喋り続ける。
「うまくいけば、オマエの家は大炎上。中の人間は死んじまうだろう。でも俺は、伊藤さんの家に張り紙をして、ピンポンダッシュまでしておいた。伊藤さんが本当にオマエのことを心配していて、オマエの家を訪ねてまでくれるようなお人好しだったなら、家も父親も助かる」
そして、と来島は窓の外を眺める。出来るだけ遠くまで行ける切符を買っておいた。行く当てはいくつかしかない。
「そして俺は、オマエを誘拐した。オマエを逃がす。出来るだけ遠くへ、絶対に逃げ切ってみせる」
ミドは言葉を失っていた。
街の点々とした明かりが、電車の速さのためか線になって視界を横切っていく。街が通り過ぎていく。
電車が自身の最寄り駅で停車したとき、来島はそっと電車とホームの隙間にスマートフォンを落とした。パキッという音を確認する前に、電車は再び動き出す。
「どうだった? “悪いこと”は」
来島は、隣でぽかんと口を開けたままのミドに話しかけた。膝の上で、全財産を詰め込んだ鞄が重さを主張していた。通帳から身元を割り出されては困るので、時間をかけて引き出したありったけを現金で持ってきていた。以前稼いでいたバイト代を、一緒に使うような友達がいなかったことが幸いだった。
「俺、俺さ、今こう思ってるんだ」
ミドは来島を見上げた。来島はミドを見つめ返す。
「あの家、うまく燃えてたらいいな」
ミドは、ぺろりと舌を出した。初めてミドが年相応の笑顔を見せた瞬間だった。
電車の中には人はまばらだったが、そんなミドの声も、来島の楽しそうな笑い声も、響かず電車の機械音にかき消されていった。