仕掛人は母親で
「どうした?」
「ちょ、ちょっとお母さんがすぐには来れないみたいで」
「そりゃ一人暮らしするくらいなんだから、家がある程度遠いのは予想してる」
「そ、それはそうだけど、そうじゃなくて」
言いにくそうにしながらスマホを差し出してくる。受け取ってみれば、まだ電話は繋がっているようで見知らぬ番号が表示されていた。
「お母さんが話すって」
「俺と? まあいいけど」
頷かれたのでミュートを解除して電話に出る。車の行き交う音が聞こえてくるので出かけているところだったのかもしれない。
「椿の母親の橙子と言います。ドジな娘を助けていただいてありがとうございます」
「あ、いえ、ちょうど通りかかっただけですし、貸しただけで何もしてないので」
何か世話したわけでもなく、シャワーと服とスマホを貸しただけだ。今電話に出てはいるが、それまではノートパソコンで動画見てただけだったし。
……そういや、香坂が今着ているのって俺の服なんだよな。首元とか少し緩いし、前かがみになったりしたらやばそうだ。
「悠人くんでよかったかな?」
「あ、はい。倉橋悠人です」
「もう一つお願いがあるんだけど良い?」
「別にいいですよ。やることもないですし」
どうせしばらく娘を部屋に置いていてほしいとかそんなんだろう。この部屋はワンルームじゃなくて2LDKだから自分の部屋にでもこもってればいいだろう。
「ごめんね。何か椿にできることあったら頼んじゃっていいからね。じゃあ、明日の昼くらいにはそっちに行けると思うから、それまでお願いね」
「は?」
「あれ? 聞いてなかった? 今ちょっと出かけてて早くても夜中になりそうなの。その時間になるくらいなら泊めてもらった方がお互い楽かなと思ってね」
確かにいつになるかわからない夜中まで起きておくのも面倒なのはわかる。向こうにしても夜中に車でこっちまできて、その日のうちに帰るのは大変だ。
ここに香坂を泊めて、明日の昼頃に来てもらうのが互いに楽なのは同意するが、別の部屋で寝ることはできるとはいえ、二人きりの家に泊めるというのは気がひける。
そわそわとしている香坂の顔を見ると、キョトンとした表情で返されたので、声に出さないように小さくため息を吐いて肩を落とす。
「さすがに泊めるのはどうかと。俺はどこか行ってますんで」
「高校生だと夜中にでかけてたら補導されるかもしれないわ。迷惑をかけて補導までされたら申し訳ないもの。椿は服がないから外に出れないし、部屋が余ってるなら泊めてあげてもらえないかしら」
「いや、もっと心配するところあるでしょ」
「そうやって確認してくる人はよっぽどのことがない限りなにもしないのよ。元からしようとしている人は黙って了承するものなの」
「……わかりました。できるだけ早めにお願いします」
「ありがとうね。椿は勉強も家事全般もできるように教えてあるから、してほしいことがあったら言っていいからね」
「はい。では明日」
ブツっと電話が切れて画面が待ち受けに戻る。数秒スマホをそのまま見つめて、気持ちを切り替えるようにため息をもう一度吐く。
「今日はこの家に泊まるようにってさ。来るのは明日の昼頃になるって」
「え……ここに、泊まるのですか?」
「ああ。早くても夜中になるから泊めてくれって」
「い、いえ! 最近は24時間やっている店も増えてますから、適当にどこかで過ごします!」
「その格好で?」
「うっ……」
勢いよく立ち上がろうとしたせいでズボンが一瞬ズレる。脱げるほどではなかったが慌てて引っ張り上げ、お腹の部分を一折りしている状態では反論のしようがないだろう。
「俺もそうしようかと思ったが、俺たちの年齢じゃ警察に見つかれば補導される可能性だってある」
俺が無慈悲な奴で、この状態で香坂を追い出せるような人間であれば、それかこのマンションかすぐ近くに泊めてくれる知り合いの家でもあれば、二人きりで一晩明かすなんてことはしなくて済むが、咄嗟に出てこないならそんなアテは香坂にもないのだろう。
「幸い部屋はあるから、別の部屋で寝ればいい。俺はこっちの部屋を使うから、香坂は向こうの部屋を使ってくれ」
「……はい。ご迷惑をおかけします」
「別にいい。どうせ向こうの部屋はほとんど使ってないから」
一人暮らしで2LDKの部屋に住む。最初はリビングはリビング。寝室は寝室。といったように分けて使おうとしていたが、結局面倒になって一部屋しかほとんど使ってない。
「晩ご飯買いに行かないとな。何か食べたいものはあるか?」
「材料があれば作りますよ? 泊めてもらうならそれくらいはさせてください」
香坂の料理か。どんなものか気にはなる。香坂の母親も家事全般はできるように教えたと言っていたから、結構上手いんだろうな。
香坂の手料理を食べました。なんて学校で口を滑らせたら、問い詰められて大変そうだ。
「あいにくと調理器具がほとんどない。調味料とかも全部買わないといけないから、コンビニのもので我慢してくれ」
自分で料理なんてしないから調理器具なんて持ってない。ラーメンを作る時に使う鍋が一つと皿が数枚あるだけだ。
洗濯はさすがにしないと服がなくなるからするしかないし、掃除は物がなさすぎて適当に掃除機をかければ終わるからたまにしているが、料理はやる気がでない。
「冷蔵庫見てもいいですか?」
「別にいいけど。中にあるものは適当にとっていいから」
ガバッと冷蔵庫が開けられ、中を見て数秒固まる。何かの見間違いかと一度閉めて、もう一度開けて中を確認し大きくため息を吐いた。
「いつもこうなんですか?」
「だいたいは。たまにコンビニで買った飯が入ってることはある」
「よく生きてますね……」
生きていることに驚かれるとは思わなかった。自炊を全くしない人くらい探せばそこそこいるだろう。
「普段何食べてるんですか?」
「その二段目に入ってるマルチビタミンとマルチミネラルをできる限り交互に。たまに気分とかで偏ることはあるけど」
冷蔵庫の一番大きな扉を開けた中は三段に分かれていて、一番上にはエナジードリンクが、二段目にゼリータイプの栄養補助食品が、三段目にはペットボトルの水が入っている。
「他には?」
「そっちにお菓子があるからそれ食べるか、たまにご飯食べたくなるからレンジで温めるご飯もそこに。後はコンビニで買ってかな」
おかずになる物も置いてないからどっちにしろコンビニに買いに行かないといけないのは変わりない。
「で、何か欲しいものはあるのか?」
「お弁当二つ……は、ちょっと多いかもしれないので、お弁当一つとおにぎりを三つでお願いします。食べられないものはないので、倉橋くんの好きなものでいいです」
「はいはい。飲み物は?」
「飲み物はここにある水をもらってもいいですか?」
「それでいいならご自由に。じゃあ行ってくるけど、もしチャイムが鳴っても出なくていいから」
「わかりました。お気をつけて」
家に誰かがいるなんて久しぶりの感覚だ。いつもはコンビニ程度なら鍵を閉めないこともあるが、あの服装の香坂がいるので鍵をかけたことをしっかり確認する。
帰ってきた時よりかは少し弱くなった気がする雨音。一人ならこの雨の中コンビニに行く気も起きないが、今はむしろ外に出ている方が気が楽に思える。