朝霧の少将
返歌をして、その後は音沙汰もなくやはりあれは、単に顔を見てしまったから、彼なりの慰めだったのかとそう思い始めたそんな日のこと。
「姫様、どなたか来られますね」
やや慌てたような足音は次第に近づいていて、菜葉も吉野も、室内を整えて、その来る人を待ち構えていれば
「由布!」
いきなり勢いよく御簾を上げて入ってきたのは、由布の母の北の方である。
「小袿を着て」
「え?」
今の由布は、五つ衣の寛いだ格好である。小袿は、来客の時には着るような物で、それなりの衣装を整える相手が来るなんて初めてである。母の駄々ならぬ慌てぶりに由布もまた緊張が走る。
少しして、父の頼人が誰かを引き連れてやって来たのだ。
近づいてきて、御簾ごしに座ったその人を見て由布は、はっと息を飲んだ。
「大君に、紹介したい方がいるのだよ。左近の少将篤雅殿、皆からは朝霧の少将と呼ばれておいでだがね」
「………は、はい」
緊張のあまり声が上ずる。
「ま、あとはゆるりと話されよ」
頼人はそう言うと、立ち上がり
「では後ほどに」
言いおくと去ってゆき、北の方も菜葉と吉野に目配せをして離れて見えない所まで行ってしまった。
誰もいなくなってしまって、御簾を隔てただけの由布の目線の先にはこの日も若々しく二藍色の直衣を着こなした朝霧が座っていた。
(本当に………あの月の君……)
幻ではなかったのだと、改めて現実なのだと噛み締める。
しん、としてしまったその空気に居心地が良くなくてもじもじとしてしまうと、その衣擦れの音をどうやら聞かせてしまったようで
「…………こういうのは、なんと言いますか照れくさいものですね」
間違いなくあの夜今様を口ずさんでいたその声に、由布の鼓動は暴れて息さえも乱れてくる。
「は、……はい」
また再び、しんとしてしまう。
「あ、あの………ふっ……文を…………ありがとうございました………」
とぎれとぎれにやっとでたのはかすかな声。
ものなれないその反応にか、朝霧はくすっと少し微笑んだ。
「私も、ありがとうございました。………あなたからの返歌を見たときは思わず、人目も気にせずに舞いたくなりました」
手にした扇がぽろりと落ちて、音をたててしまう。
ちらりと向けられたその視線があまりにもきれいで、それを拾うことを忘れてしまう。
「大君……、またこうして会いに来ることをお許しくださいますか?」
「はい…………」
ぽうっと夢心地のままにそう言ってしまっていた。
「ありがとうございます」
そう言うと、朝霧は視線をくるりと庭の方へと向けて
そうしてくれたのはあの夜の再現のようで、顔を向けると緊張してしまうのが伝わってしまったのか
「もう少し……あなたが日頃眺めているこの庭を見させてください」
「庭を……」
この前のように、同じ景色を眺める。
由布にとってはいつも見ている庭を眺める、ただそれだけの光景であるはずなのに塵さえも輝かしくみえてしまいそうだった。
時おり風がかさかさと、葉を鳴らしていて。
その音さえも共に聞いたなら、忘れられなくなりそうで。
「 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
声聞くときぞ 秋は悲しき 」
(※ 猿丸太夫)
ふいに朝霧が口ずさんだのは和歌である。
[※ 人里離れた奥山で、
散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、
雌鹿が恋しいと鳴いている
雄の鹿の声を聞くときこそ、
いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。]
単に秋を詠んだのか、それとも………、深く考えを巡らせて由布は、なにも言えずに反芻する。
「私の声も、悲しく聞こえるでしょうか?」
「いいえ………あなたのお声は……とても、柔らかくて、す………いいと思います」
好きと言いそうになって、言い換える。
「そうですか、それは良かった」
ほとんど言葉も交わさないうちに、秋の日はどんどん暮れていき薄暗くなってゆく。
「そろそろ、灯りのいる時ですね」
すっと立ち上がった朝霧は、立ち姿も凜としていて麗しくて
「また、来ます」
微笑を最後に、歩いて去った彼の清涼な雰囲気は、余韻を残して。
由布は、いなくなったのにずっとその彼が立ち去った先を眺めていた。
「由布」
後ろから声をかけられて、びくん!と跳ねてしまう。
「お母様」
「あなたの事を気に入ってくださるなんて、母はとても嬉しいです」
「気に入って、なんて」
「わざわざ、お父様を呼び止めて朝霧の少将さまから『大君と会わせてもらえませんか』と来られたそうよ。千穂とちがってあなたは内気で、とても心配していたから本当にお父様も喜んでいたわ」
「でも……」
「お父様も、お母様も、内気なあなたに意に染まぬ結婚はさせたくなかったの。それがよりにもよって、当代きっての貴公子ではないの、すごいわ由布」
北の方の微笑みを見て、由布はうつ向いた。
「あの方は、とても優しいわ。少しも怖がることなんてないのよ。だって、うまく話せないあなたに合わせて、黙って一緒に景色を見てくださるなんて」
やっぱり、隠れて様子を見ていたのだ。
「お母様……」
「また文が届いたら、きちんとお返事はするのよ」
「はい、わかりました」
「本当に、良かったこと」
涙ぐむ北の方を見ながら由布はうなずくしかない。
あっという間に、薄暗さを増していく空に女房たちが格子戸を下ろしてゆく。
夜が、長くなってゆく………。
“声聞くときぞ 秋は悲しき”
とくん、とはねあがる。
『私の声も、悲しく聞こえるでしょうか?』
……雌鹿を恋しくて鳴く、その雄鹿と重ねて、詠まれたの?
冬、キンと張りつめるような空気の中の朝の霧。
そんな名をもつ美しい男。
光さす みなれしにはも 真白にて
空さへもみな 冬のあさぎり ※③
[※③ 光がさして、
朝起きてみれば
見慣れた庭も真っ白で
空さえもすべて
冬の朝霧に覆われていました。]
そんな風に……由布の世界を一瞬で変えてしまった、そんなひと……。