月の影
月見の宴の後は、由布の元へはあちこちの公達から本気とも思えない文がたくさん舞い込んで、やる気もなく眺めていば
その中のふと目を引いたのは、白の扇に美しい手磧で書かれていたあの日の今様歌
“心凄きもの
夜道 船路 旅の空
木闇き山寺の経の声
想ふや仲らひの飽かで退く”
そしてその文箱を開けてみれば、美しい薄様に書かれた和歌だった。
逢ひて後 月夜と知らば その影に
眺めてなぞる 白きおもてを ※①
[ ※① あなたに会ってからは、
月夜だと知れば
その影をみながら
あなたの白い顔を
思い出してしまいます]
(これは、きっと月の君…)
由布はあの日の事を思い出して、胸のうちがざわつくのを感じた。忘れ難い人からの文だから由布はそれを手にしてじっと見続けていると
「まぁ、その文がお気に召したのですか?」
菜葉がそっと覗いてきて、由布は慌ててしまった。これ文を見ればこの文の書いた主に顔を見せてしまったことを気づかれてしまう。
「姫様…、お顔を会わされたのです?」
慌てたけれど、菜葉はすでにさっと目を走らせてみてしまった後で、
「…実は渡殿で」
と正直に言うしかなく。
「だから一人で行動されませんよう、申し上げましたのに!」
「…でも、言われたのは、会ってしまった後なのだもの」
「で。どなたなのです?」
「さあ…わからないの」
「文には書いてあるのでは?」
若い女房の吉野が横からにまにまと微笑んで、由布とその文を注視していた。
それというもの、由布が男性からの文に興味を向けたのがこれがはじめてだったから。
「いい男、だったんでしょ?姫様?」
「もぅ吉野ったら」
「照れなくてもいいじゃないですか、ほら、紙ならたんと余っておりますよ。ささ、まずは練習されて」
文机を示して、由布は頬を染めながらもそこに座った。返歌を返すことは……、今回ばかりは由布としてもしたくないわけではなくて。でも、こうして返歌を男性に書くのは、はじめてでとても緊張が解けない。
反古(※要らない紙)にまずは、返歌の練習をしてみる事にして……。
「…もう、見ないで」
両側からみてくる二人の女房に、由布は言うと大人しく距離を空けて見守っているようである。
あひてのち 上るものとは しりながら
月夜ときかば 影も煌めく ※ ②
[ ※② あなたに会ってからは、
(月はいつも)上るものと
わかっているはずなのに
月が上ったときけば、月の影さえも
輝いて感じてしまいます]
普通は…すぐには色好い返歌はしないものなのだろうけど、そんな手腕を持っているわけではなくて、由布の歌は月を(あなたの事を)私も忘れられません、と解釈できる和歌である。
「…で、いったいどなたなのでしょうね?」
文に添えられた名は、左近の少将 篤雅と書かれていた。
「ええ~!」
声を上げたのは、菜葉である。
「今の左近の少将といえば“朝霧の少将”ですよ!」
「朝霧さま!!」
吉野も、舐めるようにその文をためつすがめつ眺めている。
朝霧の少将は、関白左大臣家の藤原の篤時の息子で将来有望で才気煥発で音に聞こえた貴公子なのである。
「…それは、姫様!何としても婿にするべきですわ!この縁をしっかりと結ぶのがよろしいですわ!」
「どうして、吉野がそんなに興奮しているの?」
「姫様…、姫様にお仕えする私たちは、ここにお通いになる婿君をお世話して差し上げるのですよ?お世話するなら醜男より美男がいいに決まってます」
吉野はきっぱりというと、月夜の和歌にふさわしい薄黄色の陸奥産の檀紙を出してきた。これは高級品なので、書き損じはしたくない。
「こんなに趣味の良い方なのですもの。美しい紙でなくてはなりませんわ」
吉野に出された紙を受けとり、由布は筆をとって呼吸を整えて書きはじめた。
それほど、評判を得るほど美しい仮名手を書ける訳ではないけれど、柔らかな筆跡は女らしいと言われる。
「まぁよろしいんじゃないでしょうか?」
菜葉が言えば
「うーん、色好い返歌過ぎますけど…それほど売れ筋の姫様でもありませんしね」
吉野が小首を傾げる。
確かに、由布でもその名を知っている朝霧ほどの有望な貴公子ならば引く手あまたで、“売れ筋”どころか“売れ残り”といっても過言ではないのだから………。
「じゃあ早速、文使いに届けさせましょう」
にこにこと菜葉は立ち上がって
「あ、やっぱり、やめて」
「…届けさせてきますね」
にこっともう一度菜葉は強く言うと、いつにない速さで部屋を退出していった。
「あ………っ」
「楽しみですわね、姫様」
「……もう、次はないかも知れないわ」
「私は姫様が殿方に文を返された、その事が嬉しいのです。このままでは一生、結婚されないかとひやひやしておりましたからね」
「………、いずれは」
「いずれいずれは。やってこない事と同じです」
ずいっと寄った吉野は
「良いですか姫様」
「はい……」
迫力に押されて、つい丁寧に返してしまう。
「左近の少将さまは、朝霧の少将と呼ばれておりまして、身分、見目、お人柄どこをとってみても一つの曇りもなく輝かしくて、そして………まだ結婚されてないんです。ここ、重要です!」
「つ、つまり?」
「つまりは、他に奥様がいないと言うこと。姫様のご身分なら正室になれます」
「そ、そんなに素敵な方なら………情をかわす方も」
ぶんぶんと首をふった吉野は
「それが、今時の公達にしては、そのような噂の1つもなく奥山の雪ように真っ白な方。まさに、今一番、難攻不落な貴公子なのですよ」
難攻不落……。
そう、言われても朝霧のあの柔らかな雰囲気はただひたすらに優しげで、そんな孤高の人だとは思えなかった。