想いを結ぶ
そして、その夜はやって来た。
「大君………、そこにいらっしゃいますか?」
声は紛れもなく朝霧で、彼は妻戸の側にいる。
そこまではきっと、頼人なり菜葉が居るはずだった、
「朝霧さま、あの……どうぞ、中へ」
居るのはきっと、わかっているだろうに……。これも作法というものか…。
由布の衣は薄花桜の襲(白と薄紅)。明かりに照らされ入ってきた朝霧は桜萌黄(萌黄に裏が赤)の直衣姿だった。
薄ぐらい部屋であるから、お互いによく見えるわけではなくて、ついその姿をまじまじと見つめてしまった。
「そちらに座っても、よろしいですか?」
「は、はい……」
すでに、御簾ごしで幾度となく会ったけれど、やはりこの夜は格別だ。衣擦れの音をさせて、朝霧は由布から少しだけ離れた褥に腰を下ろした。
少しの沈黙の後、朝霧が口を開く
「あなたを大切にしますよ、大君……、名前をどうか呼ばせてください」
名前を交わすことは、より正式な夫婦となるということで……。
「……由布と、どうかお呼びください」
「由布姫……、あなたに似合う優しい響きです」
ふれあった手は、優しくて。
薄暗い中、朝霧を見つめ返した。
「私の事も、篤雅と。そう呼ぶ女性は由布姫だけです」
「篤雅さま」
呼ぶと同時に、衣に包まれて、由布は息を詰めた。
そのまま、由布のすぐ近くで朝霧の声が届く
「恋ひ恋ひて 稀に今宵ぞ 逢坂の
木綿付け鳥は 鳴かずもあらなむ」
(※読人しらず)
[※ ずっとずっと恋し続けて、
今夜ようやく逢うことができた。
逢坂の関にいる木綿付け鳥よ、
おまえが鳴いたら
私は帰らなければならない。
夜が明けてもどうか鳴かないでおくれ。]
木綿付け鳥……、とっさに名前のゆうとかけたのだろうか。
『帰れと、言わないでください』と……。
“恋ひ恋ひて”その和歌を聞いて由布も和歌を返す。
「恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき
言尽くしてよ 長くと思はば」
(※ 大伴坂上郎女)
[※ 恋しくて恋しくてやっと逢えたのだもの
いとおしむ言葉を
惜しむことなく
やさしい言葉を
いっぱい聞かせて下さいね
いつまでもとお思いならば ]
男の人にふれられれば、もしかすると怖くなるかと思っていたけれど……、ひたすらにその温もりも感触も、ただ嬉しくて。
見つめ合ったそのままにゆっくりと顔が近付き、そのまま唇は重なりあっていた。
次第に、その感触に夢中になりながら、由布は朝霧にすがりついていた。
由布を抱き上げた朝霧は、そのまま御帳台へと滑りむように由布を横たえさせて、その側に寄りそう。
「由布姫こうしてようやく触れることが出来た。あなたが恋しいと……同じように返してくれて、とても嬉しい」
「はい……」
由布はおずおずとその背に手を回して、朝霧を受け止めた。
揺れる几帳、そして解かれて行く帯、広がる桜色の衣たち。
流れる黒髪……。
*****
五つ衣の中から一枚、薄紅の衣を朝霧の衣と交換して、直衣をまた着た朝霧は夜明け前に帰っていかなくてはいけない。
「また……今夜も来ますから、待っていてください」
五つ衣を被って顔を半分隠したまま由布は頷いた。
「待って、います」
もうすぐ春だというのに、外はまだ寒くて、
(引き留めたいのに、引き留めてはいけなくて)
「行かないで……と、言えないのは。辛いのです」
「夜明け前に、出立しないとあなたが悪く言われてしまう」
朝霧は囁いてから一度強く抱き締めて、昨夜なんども交わした接吻をしてから
「由布姫が着ていた、衣を身に付けているとずっと一緒に居る気がします」
「……私もそう……思って、この衣を身に付けて待っています」
そう言葉を交わせば、朝霧は静かに由布の側を離れて部屋を出ていった。
しきたり通り父か母かが、朝霧の靴を抱いて夜を過ごしたのだろうか……。
静かなその中に、小さな物音だけが朝霧の帰るのを伝えてきて次第にそれさえも聞こえなくなる。
車宿の牛車にのって、左大臣の屋敷に帰るのだろう……。
ようやく迎えた共に過ごした夜は、あっけないほど、短かかった。