手のひらの雪
まぶたが少し重い気がした。
大気中の水分がそう感じさせたのか、あるいは乾いた空気でまぶたが張り付いてしまったのか。ゆっくりと眠りの世界から意識を引き戻すと、じわりじわりと肌に寒さが伝わってきた。
目を覚ますと、かまくらの中だった。
外ではまだしんしんと雪が降り、ふわふわした結晶がかすかな大気の動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。
少し赤くなった手に、無意識に息を吐きかけながら考えた。
なぜ私はかまくらの中にいるのだろう。
今年の仕事が終わって、いつ地元に帰ってきたんだっけ。
ここ数年、かまくらが作れるほどの雪が積もったことはあっただろうか。
いろんなことが頭を巡っては消えていくけれど、答えは判然としなかった。
「お姉さんも、雪に願い事、するの?」
突然そんな声がして、入り口に目をやると、一人の少年がこちらを覗き込んでいた。
雪が積もっているからか、足音らしい足音は聞こえなかった。
少年は、するりとかまくらの中に入ってくると、かまくらの中の様子を観察した。小学生くらいだろうか。実家の近所にこれくらいの子供がいる家はなかったはずだ。どこかの家の親戚の子かもしれない。少年特有のくりっとした目にさっぱりした短めの黒髪が印象的だ。一見わんぱくに思えるが、男の子にしては肌が白い。まるで雪の妖精が現れたみたいだという言葉が頭をよぎったが、笑いそうになって考えるのをやめた。
「雪に願い事?」
「そう、雪の結晶をつかまえて願い事するの。知らない?」
知らない、と言いかけて、頭の隅になにかひっかかる。とても懐かしいなにか。目の前の少年とはかけ離れているけど、どこか近い何か。
そうだ。昔、彼と同じことを言っていた男の子が一人いた。遠い昔だけれど、確かに。こんな雪の中で。
少年が、突然言葉を切った私の顔を、不思議そうに見つめている。その瞳に吸い込まれるように、私はひとつ、まばたきをした。
「雪をつかまえると願いが叶うんだぜ」
年の瀬に初雪が降った日、公園で大きな石の山に登った彼は、大きな瞳をきらきら輝かせて、そう言った。
「父さんの部屋の本に書いてあったんだ。本当だぜ」
思えば、ケセランパサランあたりとごちゃ混ぜにしていたのだと思う。あぶないよ。ころんじゃうよ。そんな私の声はそっちのけで、彼は雪を掴もうと飛び跳ねていた。彼の短めの黒い髪に、薄く雪が積もっても、彼はとても楽しそうに雪景色の中にいた。
年が明けて、学校が始まった。
彼は風邪で学校を休んだ。
私は彼にプリントを届けるために彼の家に行ったが、インターフォンを押しても、だれも出てこなかった。
次の日も、彼は学校を休んだ。
その日もプリントを届けにいったけれど、やっぱり誰も出てこなかった。
彼の家から帰る途中で、雪がちらつき始めた。ふと気になって、あの公園に足が向いた。なんとなく、予感がした。
少しだけ溶けて茶色くなった雪の上に、それを覆い隠すように、雪が降り積もっていく。
新雪と土と、少し凍って硬くなった雪に足跡を付けて、私は石の山に向かった。石の山は、積もった雪に土が混ざることもなく、古い雪と新しい雪が協力しあって、綺麗に白い意匠に包まれていた。石の山の下の部分にはトンネルがあって、まるでおおきなかまくらみたいだった。
かまくらの中に膝を抱えて座っていた彼は、私をみつけると、力のない笑顔でこちらに手を振ってみせた。
私たちはそのまま、かまくらの中で座り込んでいた。私はなにを言うともなくゆらゆら揺れる雪を眺め、彼は最初に「よぉ」とだけ言ったきり、黙り込んでいた。
どのくらいの時間そうしていただろう。
私が飽きもせずに雪を眺めていると、
「雪合戦とかさ、したか?」
「雪合戦はしてないなぁ。お正月に雪だるまなら作ったよ。人参の鼻のやつ」
「お父さんと?」
「ううん。お母さんと」
彼はしばらく押し黙ってから言葉を繋いだ。
「雪合戦、約束してたんだ。父さんと」
彼が、私がしていたのにならうようにゆらゆら揺れる雪を見つめる。その先の雪雲を睨みつけているかのようにも思えた。
「でも父さん、約束守ってくれなかった。」
「お仕事だったの?」
彼はかぶりを振った。
「いなくなっちゃったんだ」
いなくなった。非日常的な言葉だった。頭がついていかない私を置いて、彼は続けた。
「母さん、泣いてた。俺も、雪合戦するって約束がなくなっちゃったんだってわかって、悲しくなったけど、そんなこと母さんに言えないし、思えなくなった」
私は黙りこくったままだった。なんとなく、なにが起こったのかわかっていても、それに当てはまる言葉や、気持ちがみつからなかった。なんとなくなにが起こったのかわかっていて、雪合戦ができなくて悲しいと思った彼の心が、きゅうっと締め付けられているような気がして、何を言ったらいいのか、わからなかった。
「雪、つかまえたら、叶うのかな」
彼が小さくつぶやくのが聞こえた。
彼はトンネルの中から雪に手を伸ばしたけれど、雪の粒は彼の手のひらを、指の間をするりと抜けて、地面に着地した。
その日、私たちは、それ以上言葉を交わさずにそれぞれの家路についた。
彼が転校してしまったのは、学年が変わる直前だった。彼は、彼の母親と一緒に、消えるようにどこかへ行ってしまったのだった。
三月が終わるのを待たずして引っ越したのは、彼の父が同じ街に居続けることを選んだからだとか、彼の母の身体がストレスに耐えきれなかったからだ、だとか近所のオバサンが嬉々として語っていたのを聞いた。
それ以来、彼とは会っていない。
彼を思い出すのに、どれくらいの時間呆けていたのだろう。
少年は、私の顔を覗き込んでいた。
「悲しいの?」
不意にそう尋ねてくる。
「ううん。悲しいわけじゃないよ」
少年のきょとんとした顔が、引っ越していった彼と重なった気がした。
そんな私の心情を知ってか知らずか、彼はやわらかくにこりと微笑む。彼の黒い髪の上に、薄く雪が積もっているのがわかった。
その時、かすかな風が吹いた。
その風に乗って、雪の結晶が一粒、かまくらの中に舞い込む。
ふわふわと宙を舞うそれは、知らず知らずのうち私と少年が二人で作った、手のひらのお碗の中に、静かに舞い降りた。
思わず顔を見合わせる。
示し合わせたように、壊さないように、優しく包み込むようにお碗を閉じる。
二人は、ゆっくりと目を閉じた。