転落
それは一瞬の出来事だった。千里の兄が振りかざしたナイフは、真奈美の頬をかすめた。その隙に真奈美は、降りてきた足場の悪い傾斜を必死に登った。千里の兄は真奈美を逃がすまいと、ナイフを持ちながら登った。
「ハァ……逃がすかよ。千里は…千里はお前らクラスに殺されたんだ。ハァ…お前ら全員、皆殺しにしてやるよ。まずはお前からだ!ハァ…」
真奈美は、傾斜を登りきる一歩手前だ。すると千里の兄は、左手で真奈美の足を掴んだ。
「きゃあっ!」
するとその時だった。太い音を鳴らした虫が、千里の兄の右目に飛んできた。
「うわっ!」
カメムシだった。千里の兄は、ナイフを持った右手でカメムシを払おうとした。その拍子に、自分の額をナイフで傷つけてしまった。
「いてえっ!くそっ!」
その瞬間、掴んでいた真奈美の靴が、真奈美の足からズボッと抜けた。
「あっ!!あああぁああああぁあ!!」
千里の兄は、登ってきた傾斜を、悲鳴をあげながら転がって落ちていった。そして…
ゴッ…!
千里の兄は、傾斜の下にあった大きな石に、頭を打った。彼は口をパクパクさせながら、ゆっくりと目を閉じた。彼後頭部からゆっくりと、紅い血がトロトロと流れ、草むらへと落ちていく。
僕は千里の体を揺すった。しかし彼の目は閉じたままの、動くことはなかった。横たわる彼に手向けるように、側には彼が持ってきた花束が添えられていた。
その姿は、二年前の千里の死に様そのものだった。傾斜の上の千里の乱れた呼吸音が、ここまで聞こえてくる。救急車を呼ぶべきだろうか。いや、もう死んでいるかもしれない。警察に事故だったと言って信じてもらえるだろうか…
傾斜の上にいた真奈美が再び下に降りてきた。そして、横たわる千里の兄の左手に握られた自分の靴を力付くで抜いた。
「逃げるわよ…」
「え…?」
「見てわからない?コイツ、もう死んでるわ。このままここにいたら疑われるでしょ。はやくこの場から離れるのよ。いい?警察に何を聞かれても、私達はここに来ていない。いいわね?アンタだって警察に疑われるのはごめんでしょ?」
「……うん」
僕らは森を抜け出した。動かなくなった彼を残して…
巻き込まれていく…。僕はいつも、些細な理由で早く登校しているだけだった。それが災いして、厄介なことに巻き込まれた。もう平穏な日常には戻れないだろう。
寄生蜂とは、いったい誰なのか…?何故、僕らをこんな目に遭わせるのか…?




