~ヴァイス、長寿の雌鹿に会う~
翌日のまだ早い時間。ヴァイスは弓と矢筒を背中に携え、明るい森の中を目にもとまらぬ速さで疾駆していた。その日の砂漠での狩りは年下の者たちに一任し、彼は大いなる森の数百キロ南下した先の草原へ向かっていた。
全力で森の中を駆け抜けるのは数年ぶりだった。木を避け、地面から出た根っこを蹴り、髪をたなびかせ、風を切るように猛スピードで跳躍する。この上ない快感に、近頃溜まっていた鬱憤がきれいに払拭される気がした。
奇形化した他民族の者が森の神聖な力では治らないほど重度の病に倒れたため、ヴァイスはサラムから、千年生きると言われる森の南の草原に生息する鹿の角を削って取ってくるよう頼まれた。すぐにでも取ってくる必要があったため、森の住人で最も身体能力の高いヴァイスの一族の誰かが大急ぎで向かうことになった。しかし、反乱に加わった一族の者たちを失った今では、一族の最年長世代にしか長寿の鹿の存在を知らないため、ヴァイスがその仕事を請け負うことになった。
森の中を駆けるにつれ、徐々に周囲に変化が現れ始めた。あたりが仄暗くなり、心なしか空気が冷え始めているようだった。知らない者には恐怖してもおかしくないことなのかもしれないが、ヴァイスはその正体を知っていた。
――まだこっちは〈朝〉が来ていなかったか。
偽太陽は王国のすぐ上空に小さく浮いているため、王国から遠ざかりすぎると偽太陽の光が届かなくなり、〈夜〉の訪れる場所へ突入することになる。ヴァイスが夜明け前の森を走ることになった要因は、砂漠付近の森を出発したのが午前の早い時間だったこと、そして偽太陽の光が届く範囲の人間には、日付が変わって少しした頃活動を始める習慣があるという二つだった。
ヴァイスが山の麓の草原地帯に到着した時、まだ本物の太陽は山の向こうだったが、空はぼんやりと明るんでいた。あたりの静寂な闇の中に微かな夜明けの気配が漂っていた。
ヴァイスは小高い斜面を颯爽と駆け下りた。遠慮でもしているように柔らかくくるぶしをかすめてくる草の先端が気持ちよく、童心に返ったように草の上を走り回る。浅く面積の広い水たまりが点々とできている。
――ここは雨もちゃんと降るんだったな。
ヴァイスは幼い頃、一族の大人にこの草原へ連れてきてもらった時のことを思い出した。しばらく新鮮で美味な空気を吸いながら瞼を下ろして懐古の思いに浸っていた。すると、不意に身体を温かい絹で包み込むかのような抱擁感を覚えた。気付かぬうちに、黄金色の朝日が山の中腹から顔を覗かせていた。
そこで、一陣の優しい風が吹いた。
〈赤髪族のお方ですか?〉
はっと振り向くと、いつの間にか真後ろに、背中の斑点の模様のきれいない美しい雌鹿が立っていた。そして一番驚いたのは、身体の大きさと変わらないくらい大きく、荘厳で神々しさすら感じさせるその立派な角だった。
〈あなたは雌鹿なのに角をおもちなんですか?〉
ヴァイスは音なき言葉で慎み深く尋ねた。
〈はい。この世界が生まれ、私たちが生を与えられた原初の時代からそうです。この角には、万物の病を打ち払う生命の神秘の力が宿っています。おかげで私たちは、永遠にも近い時間を生きていくことができます〉
〈あなた方のことは一族の者からよく聞いていました〉
ヴァイスは敬うように言った。
〈私たちも、あなた方のことは夫からよく聞いていました。大いなる森に、唯一こうして他種の生物と心を通じ合える人間がいると〉
〈たいしたことではありません。ただ、そうしなければ生きていけなかったというだけのことです〉
雌鹿は悲しい表情をして言った。
〈おつらい運命を歩まれているようですね。この世界は……一万年以上前に誕生してからずっと、いつ崩れてもおかしくはない崖のようなものなんです。地上の王と天空の女王が争い続ける限り、この世界に平穏は訪れません〉
〈天空の……女王?〉
ヴァイスは目の前の美しい雌鹿が何を言っているのかわからなかったが、彼女の言葉が真実であることは、本能的に感じていた。
〈はい。大宮廷と呼ばれる、天空の黄金の宮廷に民を連れて暮らしています〉
〈なぜその天空の女王と地上の……〉
〈人間のお方。あなたがここを訪れたのには何か目的がおありだったのではありませんか?〉
ヴァイスは失念していたように「あっ!」と叫び、重度の病に倒れている森の住人がいることを思い出した。
〈実は……〉
〈みなまで言わずとも十分です。我々の角の力を必要としているのでしょう?〉
〈申し訳ありません。こんなことをすれば、あなたの寿命が……〉
〈お気になさらないで。でも、大いなる森の神聖な力でも治らないとなると、類した力をもつ我々の角では治ると保証することができません〉
〈全力を尽くしても命を落とすことになるのであれば、それはきっと定められた運命だということでしょう〉
〈時には妥協することも大切ですが、愚かな神の定めた運命が変わると信じることも、忘れてはいけません〉
そう告げると、長寿の雌鹿は角の一端を草の上に落とした。
〈どうぞお使いになってください〉
〈ありがとうございます。この御恩のことは森の住人に永遠に伝えていきます〉
ヴァイスが角を手に取ると、再び一陣の風が吹き、立ち上がった時にはもう雌鹿の姿は消えていた。
そして、ヴァイスが森に戻るためと踵を返そうとした刹那、それは起こった。空から降る一筋の物体が、どこからか弧を描いて草原の向こうへ突っ込んでいた。
ヴァイスは全速力で走り出していた。
――今の……確かに人の形だった。
ヴァイスは走りながら、唐突に高らかな指笛を吹いた。しばらくして、上空の方から「ピーヒョロロ」と鳶の鳴き声が聞こえた。すぐにヴァイスのもとに下りてきてスピードを合わせ、低空飛行を始めた。
〈どうかしたか?〉
鳶が訊いた。
〈これをサラムっていう族長のもとまでもってっておいてくれ〉
ヴァイスはそう言って、鳶のくちばしに長寿の雌鹿の角を挟ませた。
〈これもったままとんずらするかもしれないぜ?〉
鳶が挑戦的な口調で言った。
〈その時にはかわいそうだが、お前らには絶滅してもらう〉
〈……貸し一つだ〉
鳶は方向転換して大いなる森の方向へ飛び去った。




