~ナモンの帰省~
別段行くあてもなかったはずだったのだが、ナモンは気付いた時には塔へ続く石橋の上にいた。下方には自由街への影がその末端として蔓延り始め、上方からは人目にさらそうと心をざわつかせる双太陽の光が燦々と降っている。少し前に王や上官との話に上ったこともあるのかもしれないが、塔へ向かおうと思った一番の理由には、やはり郷愁の思いに駆られたというのがあるのだろう。
一つ目の塔から螺旋階段を上がり、コンクリートの灰色の橋を渡る。適当に人の気配の感じる方へ歩を進めて塔を渡り歩いていると、しばらくして兵士が何人かと、上等そうなローブをまとった兵士ではない身分の高そうな二人の魔法使いのいる塔にたどり着いた。 塔の囚人がみな塔の一番下にいるとは限らないようで、そこは塔の中ほどの高さに牢があった。林立する内部構造まで完全な複製物にしか見えないこれらの塔群の、橋のかかり方や牢の場所を全て覚えるのにはたいそう難儀しそうだった。
女性を一人含めた三人の下官兵士は、牢の周囲を取り囲むように立ち、身分の高そうな魔法使いのうち、頭部全体を黒いベールで隠したすらりとした長い黒髪の女性は、兵士たちの後ろで不気味なしじまを醸して囚人の方へ顔を向けていた。塔の入り口付近に杖をついて立っているもう一人の魔法使いは、年齢を計り知れないほど老いた老婆で、これから行われる囚人の拷問の見物でもするようだった。
兵士たちが老婆から少し離れた入り口脇にナモンの姿を見つけた時、明らかに塔に迷い込んだ子供だろうと起こり得ない空想を働かして面倒そうな顔をしたが、肩の自分より高位の紋章を目にするや、例外なく全員眉を吊り上げて黙り込んだ。
「始めろ」
まるで人間味を感じさせない無感情の低い声でベールの女性が言った。
「はい」
兵士たちは女性の言葉にてきぱきと行動し始めた。牢の扉を解錠して中に入るとまず、死人を演じているかのようにぐったりとしている真っ白な囚人服を着た若い男の囚人を立ち上がらせ、両手を封印する鉄かせを牢の天井の鉄輪にくくりつけると、今度は両足の鉄かせも同様に、コンクリートの冷たい床の専用の鉄輪にくくりつけ始めた。
囚人の拘束は両腕と両足の鉄かせだけという、甚だしい手ぬかりだと感じられるほど簡素なものだった。しかしよく目を凝らすと、囚人の頭部や服の表面が、透明度の高い虹色の膜のようなものが覆っていた。
「準備完了いたしました、サリーナ様」
兵士たちが一切の肌を見せないベールの女性――サリーナに報告すると、彼女は兵士を下がらせ、囚人の前に立った。
サリーナが囚人の胸に手の平を押し付けると、にわかに囚人の身体を覆っていた微かに虹色の透明な膜に波紋が生じ、牢の鉄格子やサリーナの身体を非物理的にすり抜けて球形を取るように膨張した。その非物理的な謎の膜の膨張は他の人間を呑み込まないようにサリーナが調整し、膜の球の中には、囚人と共にサリーナだけが残った。
二人の男の下官兵士がそそくさと、部屋の牢とは反対側の隅にある壁のランプの下の大きめの木製の机につき、紙とペン、インクを懐から取り出した。
サリーナは特にそれを確認することもなく事を始めた。彼女は第一に掌中にナイフを数本生成し、囚人の四肢に一本ずつ刺して貫いた。甲高い悲鳴が塔内を――そしておそらく自由街にまで響き渡った。サリーナはすぐにナイフを取り出して無造作に放り、しばらく囚人の不健康そうに濁った血を流れるままにして何もせずにいた。
二人の男兵士が忙しく囚人と紙面に視線を行きつ戻りつし、囚人の観察結果を紙に書き込んでいるようだった。
さらにサリーナは淡い緑の炎で身体に大穴を開けたり瞼ごと眼球をナイフで貫いたりし、その度に兵士は不快そうに顔をしかめながらも囚人を観察して紙に書き込み続けた。
ナモンが先刻会った上官は塔で拷問が行われると言ったが、サリーナが行ったのが拷問でないことは一目瞭然だった。ただ囚人の身体を傷つけるだけで何の要求もせず、兵士たちに観察させて紙に何かを記録させて、まるで苦痛を味わわせるための何かの刑のように終わった。サリーナの拷問ならざる拷問が終わると、サリーナが薄虹色の透明な膜を元の形に収縮させ、女性兵士が囚人の傷を悉く癒していった。どうやら女性兵士は王宮専属の医術士でもあるようだった。
「……結局今日も傷は治らんかったか」
サリーナと兵士たちが去ったところで、ナモンから少し離れた場所にいた老婆が溜息混じりに言った。そして踵を返そうと振り向いたところでナモンの存在に気付いた。
「おお、何じゃ。こんなところにこわっぱがおるではないか。塔の中で迷子にでもなったのか、え?」
「……僕は王宮の人間です」
ナモンはそう言ってすぐに立ち去ろうとしたが、老婆が呼び止めた。
「よお見れば、おぬし、貧民街の人間じゃな?」
ナモンがキッと振り向いて獰猛な犬歯を覗かせた。
しかし老婆はうろたえるどころか、どこかおもしろがってすらいた。
「そんな牙ではヒヒの一頭も噛みちぎれんわい。人を脅したいならもっと太く鋭利な、そして美しい牙を見せるんじゃな。まあ、おぬしにはそんな牙などなくとも、神に呪われし力を授かっておるようじゃがな」
ナモンは一気に興ざめしたように老婆の相手をするのを面倒に感じ、老婆に言葉を返すこともなくその場を後にした。
「ほう、つまり帰省したいと?」
そのある日、ナモンは例によって例のごとく、王に世間話をするために有無を言わせず呼び出されていた。その何の味も風味もない話の途中でナモンは、一度故郷に帰りたい旨を告げていた。
「それは何をするためにだ?」
王は玉座で頬肘をついて偉そうにふんぞり返りながら尋ねた。
「太陽の王にお話する必要はありません」
ナモンは冷たく言い放った。形式張った敬語がいかにもな侮蔑の念を強めていた。
「王たる僕に何たる口の利き方だ、まったく。かわいげのないやつだな、君は。ま、いいか。あそこは遠いし、ちゃんと王宮に戻ってくるなら、二週間くらいなら許可するよ」
王は軽いノリでナモンに帰省の許可を与えた。
「では、明日からしばらく故郷へと帰ります。一、二週間以内には戻ります」
「ああ」
ナモンはその日のうちに身支度を整えた。故郷で人肉を喰らうのは気が進まなかったため、二、三食分の携行食糧も用意した。
翌日、ナモンは王宮の自室で目覚めると同時に王宮を出て北へ向かった。王宮以北に街はなく、民の姿もまったくない。すぐに影に呑み込まれた世界が待ち受けている。高いところに王宮と最初の塔を繋ぐ頑丈な石橋が見えてくる頃には、少しずつ気温が下がり始め、影が増え、巨大な塔群の高い部分がちらほら見えるようになっていた。
故郷はナモンがいた数か月前と何も変わっていなかった。時が経過しないこの自由街では至極当然のことだったが、ナモンはそれでも何やら得体の知れない安堵を覚え、そのまま王国の影そのものである生まれ故郷に足を踏み入れた。
故郷で暮らす影の住人に〈光の道〉と呼ばれる自由街を抜ける方法は、王に連れ出される時にしかと記憶していた。しかし、ナモンの両親が生きていた頃の彼らの根城を探し出すのにはかなり手間取り、一日では見つからなかった。
巨大な塔の壁面と影だけの自由街の景色は、どれだけ歩いても変わることはなかったが、ナモンがそこに行き着いた時には、確かにここだ、と感じるものがあった。
ナモンは口に出して呟いた。
「ただいま」




