‐‐アリサ(13)‐‐
一階の中庭は妙に広々として見えた。庭の中央の大部分を占める芝生の上には誰もおらず、遠く向こうまで続く芝生の起伏まで目にできるからかもしれない。大広間の天井を取り外し、芝生を設置した長方形の空間。外から平原の空気は入ってくるが、四方を壁に囲まれて雄大な平原の景色を眺めることはできない。天井が取り除かれているせいで、芝生の上に遠慮なく灰色の雨が降り注ぎ、芝生を色あせて見せる。雨水は庭の縁で芝生を取り囲む排水溝へちょろちょろと流れていく。
子供たちは排水溝よりさらに外側の、屋根のある薄暗い石のタイルを敷かれたスペースで、雨を避けて遊んでいた。この狭いスペースでは当然のごとく、ほとんどが二、三人という少人数で遊んでいる。壁下に並んで座って大人しくしりとりをしている子供たちがいれば、あまり幅広とは言えない雨よけスペースを走り回って騒いでいる子供たちもいる。
リーンがいつか、地区によっては人種が固まっているところもあるとアリサに話したことがあったが、白人金髪の子供や浅黒い肌に黒髪の子供など、ここでは人種にも統一性はない。それだけ人々が地区をまたいで平和的な一日を過ごしていたところに、赤髪族が襲来してきたということになる。しかし、おそらく当事者の子供たちは、皮肉なことに自分たちの差し迫った不幸や王国を震撼させている危機には一切関知していない。ただ、内心駄々をこねながらも退屈しのぎに精いっぱい遊んでいるといったところだろう。
――のんきな人たち。でも、ここも落ち着けるとは思えない。
アリサが求めるのは、人が寄りつかず、静謐で広々とした空間だった。
ホールに戻ると、ライールが先ほどの落雷など我関せずとうそぶいているように、相も変わらぬ態度で酒をあおっていた。女たちが取り囲み、ライールはすでに泥酔状態へと逆戻りしている。いや、そもそも給仕の男に水をかけられた時点でも素面になどなっていなかったのかもしれない。
例の給仕の男も、ライールの再びの泥酔には文句をつけるつもりもないらしく、また、館の者たちに下していたエントランスへ続く出口封鎖の任も解いていた。
アリサは、立ち入り可能な場所で自分がくつろげる場所は、もう一つしかないと考えた。
人が寄り付きにくく、広々として悠々と構えることができ、うたたねができそうなほど静寂な空間。この館において、それはエントランス以外にはなかった。
両の壁際に縦列を成すように並ぶ、向かい合ったソファとそこに気持ちよさげに挟まれる低い大理石のテーブル。その片側の真ん中あたりのソファの一つに腰をかける。人の視線を気にせずのびのびとしていられるのは、そう頻繁にはない特別なひとときだった。
――リーンはちゃんと避難してるかな……
アリサは自分でもそんなことを考え出すとは予期していなかった。
――私は本当にリーンを心配しているの?
心の中の自分と対峙し、自問する。しかしどこからも、対峙している自分自身さえも口を固く結んでいた。
――でも、リーンの近くに危険が迫っているような気はしない。もしかしたら、ただ会いたいだけなのかも。リーン……
アリサはようやく、自分はリーンがいなくて寂しいと感じているのだと悟った。先ほど男と話した時に抱いていたリーンに対する感覚というのは、まさにこのことだった。この国でアリサが本当に心を許したのは、リーンとカイルの親子二人だけだ。
不意に、リーンが明日魔法学校へ進学する予定だったことを思い出す。本来なら、明日にはもうリーンと離れ離れになってしまう。カイルの休暇も終われば、リーンともカイルとも会えなくなる。
ふと、今日一日リーンと過ごせない代わりにリーンの進学が少しでも遅延するのなら、それは必ずしも嘆かわしいこととは思えなくなった。それくらい、アリサは今リーンの顔を見たかった。
そんなこんなで、プラスともマイナスとも取れない思考の沼に沈み込んでしばしの時が経過し、ある時エントランスの扉の開く重々しい厳かな音が響き、アリサを思考の沼から引きずり出した。
仕事帰りの男が疲れてイライラしながら帰宅するように、ずかずかとがさつな足音を立て、館へ入り込む数人の兵士。頭からマントの先までずぶぬれになって寒そうに身を縮こまらせている。戦況を伝える伝令として現れてわけではないことは、その疲れ切って早く休みたいと思っていそうな顔から容易に察しがついた。しかし、どういった体裁でこの避難民のための館へ堂々と足を踏み入れてこられるのかは、まるで想像がつかなかった。
「あーあ、結局、俺逃げることで精いっぱいだった」
「あいつら絶対人間とは種類が違うよな」
「っていうか、どうしてここ雨降ってるんだ?」
「目の前で親友がやつらに殺された……くそっ! 一人でもやつらの首を取りたかったのに」
「ああいうのを怪物って例えるんだろうな」
兵士たちは口々に、まるでもう戦場に出ることはないかのように呟いた。
間を置きながら、ぽつぽつと兵士たちが館へ上がってくる。ほとんどが下官だったが、中には中官の姿もちらほらと窺える。
きっとアリサに限らず、館の避難民の大半がどうして王国側は赤髪族と戦うことをやめたのかと訝っているだろう。そして究極的には、ついに王国が赤髪族に屈して占拠され、兵士たちは逃げ帰ってきたのではと悲観的な妄想に囚われ始める。
館の扉を開いてどしどし押し入ってくる兵士たちは、アリサの存在にまるで気付かずホールへと通り過ぎていく。わざと無視しているようにさえ感じるが、それはアリサにとって別段不快なわけではなかった。だが、例のごとく好奇心の炎が燃え上がり始める。
「あの……」
アリサは唐突に立ち上がり、危険を顧みず、意を決して口を小さく開けた。
相手は一人で入ってきた三十代前半くらいの中官の兵士。急に自分の前で立ち上がったアリサを驚きのまなこで見つめている。
「どうかしましたか?」
思いのほか物柔らかそうな口調に密かに安堵する。
相手の敬語につられ、自分も敬語で尋ねてみる。
「えっと……どうして兵士の人たちは、急に館に現れ始めたんですか? もしかして、王国は赤髪族に負けたんですか?」
「民たちはもう敵が赤髪族だって知っているのか……」
男は意外そうにそう漏らした。
だが、すぐにアリサを安心させようとするように、人のいい優男風の笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。まあ、現在の勢力としては、拮抗していると呼ぶにはいささか相手方に分があるのは事実ですがね。でも、我々まで館へ避難してきたのは、これからすぐに始まる赤髪族殲滅作戦の邪魔にしかならないと王が判断されたからです」
男は悪意が潜んでいるのではと疑いたくなるほどの笑みを浮かべたまま、説き諭すように告げた。
「王はついに、命なき化け物たちを全員解放するとご決断なさったのですよ。もう赤髪族は小一時間ともたずに皆殺しにされてしまうでしょう。敵である私からしても、同情するに値する残酷な運命だと感じてしまいます。最初から謀反など企んでいなければ、の話ですけどね」
――命なき……化け物……?
その後半時間と経たぬ頃、一度だけ地震のような振動が館を揺らした。館中の人間がまた何か起きたのかと不安に心を支配されかかったが、結局、男の言葉通り、その直後には緊急事態の解除を教えるゆったりとした鐘の音が聞こえ始めた。赤髪族の鎮圧が完遂されたのだった。
――あの赤い髪の人たちを……もう全部片付けちゃうなんて。
最初からそうすればよかったのではないかと思う反面、そこまで強力な化け物をどうして王国が飼っているのか、アリサの旺盛な好奇心が疑問に感じずにはいられなかった。その不死身の化け物とやらがいなくても、七賢人も手を貸して赤髪族を館に近付けさせないよううまく戦えば、きっと赤髪族を一掃することはできたに違いない。どうして七賢人という圧倒的な力を抱えていながら、それとは別に何か得体の知れない力を保持する必要があるのか、まさに王のみぞ知る、だった。




