‐‐アリサ(2)‐‐
「ここはどこ?」
アリサは二階の部屋で着替えてきてから尋ねた。
「太陽の王国から少し東にある小さな町だ」
男は立ち上がって建物の外に出たので、アリサもついていった。この宿は町の外側にあるのか、そう遠くないところに砂漠が見え、ちょうど町と砂漠の境界のあたりに薄い虹色の光の壁があった。壁は町全体を覆っていた。まるで砂漠から守っているかのようだった。
男が宿の前の石段の上に座り、アリサもその隣に腰かけた。ひんやりとして気持ちよかった。
「どうしてここは砂漠の中なのに涼しいの?」
アリサは尋ねた。
「あの結界だ」
男はたった今アリサが見た虹色の光の壁を指差した。
「あれは太陽の王国の王が自らの魔法で作ってくださったものだ。太陽の国はもちろん、砂漠の中に存在する町は全て太陽の王国の支配下となる代わりに、この結界で温度や湿度を調整してくれる。でないと、今頃熱で町ごと溶けてしまっているだろうな」
「あの砂漠はそんなに暑いの?」
「ああ。生身の人間なら、この結界から一歩でも外に出ればすぐに身体が焼けて死んでしまうだろう。この砂漠は外の方では〈死の砂漠〉とも呼ばれているそうだ」
アリサはふとさっきの話を思い出した。
「でも、私は砂漠にいたんでしょ? どうして無事だったの?」
「ローブだ。アリサが纏っていたローブは熱から身体を守ってくれる。おそらく砂漠に接する町で手に入れたんだろう」
「そんな神呪力があるの?」
アリサがそう言うと、男は驚いたような顔をして一瞬黙った。
「神呪力を知っているのか?」
「うん。人が何かを強く願った時に、手に入る力でしょ?」
「そうか、砂漠の外から来たなら知っていても珍しくはないか。アリサは神呪力を……」
男は言いかけてやめた。きっとアリサが神呪力をもっているのか訊こうとしたが、アリサが記憶を封印されていることを思い出してやめたのだろう。
「ローブはおそらく、〈熱から身を守る力を付与する〉能力をもった神呪力の効果でもかかっているんだろう。だれかがその神呪力で砂漠を渡る人にローブを売っているんだろうな」
「いろんな神呪力があるんだね」
「いいか、神呪力のことは太陽の王国では絶対に話してはならない」
男は険しい顔をして言った。
「人々はその存在を知らないんだ。もしアリサが神呪力をもっていたとして、それを思い出しても、その力は使用しちゃいけない。特によそ者のアリサが使ったのが誰かに見つかれば、すぐに捕らえられて処刑されてしまう」
「でも、神呪力を使っても魔法だって思われるんじゃないの?」
アリサが疑問を提示するが、男は顔色一つ変えなかった。
「いや、神呪力を使えば、人々はそれが魔法でないことには気付く。ちょっとアリサのローブを取ってきてくれないか?」
アリサは自分が寝ていた部屋に戻り、机の上のローブをもってまた外に出てきた。
「このローブをよく見てみるんだ」
男の言う通り、アリサは目を凝らしてローブを見つめた。最初こそ何も見えなかったが、しばらく目を凝らしていると、何かが輝いたのが見えた気がした。
「あっ!」
虹色の粒子がローブの周囲を微かに漂っていた。一度見えると、少し距離を取っても粒子が普通に見えるようになった。
「魔法では虹色の粒子は発生しないんだ。太陽の王国には魔法が当たり前のように浸透しているから、誰でもその粒子のことは知っている。粒子は魔法や神呪力の使用者、使用した場所などどこかに必ず発生する。アリサのそのローブの粒子は、ローブに神呪力の効果が付与されていることを意味する」
会話が途切れると、男はせっかくだから町を案内しようと申し出た。アリサは男と共に町の中を歩いた。砂漠の中だけあって少し砂っぽかったが、畑や牛舎、厩もあって、結界の中でも十分な生活を営むことができるようだった。立ち並ぶ建物はほとんどレンガか石造りで、全てが住居というわけではなく、酒場などの娯楽施設も散在する。町の中心部の方には綺麗な泉があった。雨が降った時に、この泉に水が溜まるように町の地形が整えられているらしい。この町には魔法も神呪力も使える者はいないようだった。
この町の人々は、基本的に自由な生活スタイルで生きているという。例えば、ある人は、一日の前半は農耕に従事し、残りは酒場で飲みながら一日を終える。ある人は、一日の始めから知人と語りながらぐでんぐでんに酔っぱらい、酔いが醒めた頃、警備のために町を巡回する。ある人は、農家から野菜を買い取って回り、それを屋台に載せて販売しながら一日を過ごす。だらしがない人はいても、働かない人は決していない。それが町に秩序と安定をもたらしているようだった。
町の散策から宿に帰った時には頭痛がぶり返し、砂漠を歩いていた疲れも残っていたのか、部屋のベッドの中に倒れこむようにして、再び眠りに落ちた。
この日は知っていたたくさんのことを忘れたが、まるでそれを補うように知らなかったたくさんのことを知った。一番驚いたのは、この町のほとんどの人は「夜」という言葉を知らず、経験したこともないということだった。男の話では、この町――いや、この巨大な砂漠の中では、常に空から光が降り注ぎ、夜が訪れることはないのだとという。