プロローグ
「アリサは来年、一人で旅に出なきゃいけなくなったらどこに行く?」
隣のベッドで兄のヨークが言った。ヨークは今日で十歳になり、〈お告げの館〉で予言者から使命を授かったので、明日、一人で旅に出なければならない。〈破壊の眼〉をもつ一族は、そういうしきたりになっている。確か、うちと兄妹関係にある金と紅の〈眼〉をもつ一族にも、似たようなしきたりがあったと思う。
夏の夜にしては涼しく、石造りの家の二階の寝室はひんやりとしていた。私はベッドの中で、顔まで布団をしっかりかけていた。
「わかんない」
私はぶっきらぼうに答え、「お兄ちゃんは?」と訊いた。
「僕はサーラを通って、一番北の国まで行くんだ」
ヨークは意気揚々と宣言した。
どうしてそんなに楽しみにしているんだろう。旅に出たら、一人で食糧を調達しなくちゃいけなくなるのに。何があっても、自分で全部対処しなくちゃいけなくなるのに。何より、長い間この村のみんなと会えなくなる。私はそれがちょっぴり怖くて、でもヨークは旅を楽しみにしてる。
「あそこの領主は神呪力をもたないから危険は少ない。アリサも来年、旅に出る時はサーラを通るといいよ」
私は「ふーん」と言って、ヨークと反対側の壁の方に寝返りを打った。目を閉じた。もっとヨークと話したかったけど、目と口の両方を閉じた。
翌日、私が目覚めた時には、もうヨークはベッドにいなくて、斜めだった私の機嫌も直っていた。外で馬の嘶きが聞こえて窓から外に目をやる。厩から自分の愛馬を出しているヨークの姿があった。旅出の時はお別れを言ってはならないことになっている。「必ず帰ってくる」という意味を込めて。
それでも私は、自分の感情を抑えることができず、朝っぱらから叫んだ。
「お兄ちゃん! 行ってらっしゃい!」
ヨークは振り返って少し驚いたような顔をしたが、私の方へ手を振ってくれた。
「うん! 行ってきます!」
ヨークが旅に出てからの一年は、過ぎ去るのがとても早く感じられた。私が旅に出る前の一年で、やらなきゃいけないことがたくさんあったからかもしれない。馬の世話の仕方、自分たちの神呪力の遣い方、礼儀作法。特に神呪力についての訓練は一番大変だった。私を指導してくれたソルダも言った。
「何しろ両眼でそれぞれ力が異なるから、遣い方を覚えるのは他の神呪力よりも格別に難しい」
破壊の眼の一族の村が、家と厩と畑を除いてほとんど平原なのは、感情が高ぶって力が暴走した時の被害を最小限に抑えるためだという。そしてこの一族はみな、異常なほど情緒不安定であり、特に、興奮すると見境なく力を遣って人を殺してしまう(その暴走の加減を、大人たちが天秤という言葉で例えているのを耳にしたことがある)。
普段は安定した精神をもつ大人が子供の暴走を抑えている。未来の自らの子供の暴走を抑えるため、習わしとして、一族の子供は十歳の時に一人で旅立ち、安定した健やかな精神を手に入れなければならない。
旅出の前夜、私はいくつもの大きな石を積んで建てられた塔――お告げの館を訪れた。
ベッドに寝込む予言者の老婆は、げっそりした顔と苦しそうな呼吸から、もう長くはないことがわかった。私たちとは違う神呪力をもった一族で、私たち破壊の眼の一族と共に暮らしている。彼らは私たちに守ってもらう代わりに、私たちの一族の旅出が近付くと、予知夢を見て使命を与え、私たちは旅先で健全な精神を獲得して帰ってくる。そうして予言者の一族と私たちは、相互に益をもたらす同等の関係を築いて共に暮らすようになった。
彼らの神呪力は、常に最高齢の人間にしか現れないため、この予言者が息を引き取った暁には、次いで高齢の一族の誰かに神呪力が発現するだろう。
そして私の目の前の予言者は、予言によって私たちの一族に大きな名誉と功績をもたらし、過去に類を見ない偉大なる予言者と呼ばれている。ヨークもきっと、授かった使命を全うし、旅先で英雄となって村に帰ってくることだろう。
「……アリサよ」
偉大なる予言者は息も絶え絶えに言った。
「……そなたのその傾きやすい天秤のごとき感情は、並大抵の旅では御し切れまい。それを我がものとして御する強く健全な精神を得るには、非常に長く険しい旅となることは必至だろう。それでもそなたは旅に出るか?」
「はい、出ます」
「そうか、ではよかろう。これも神の定めた運命。これからアリサ、そなたに使命を言い渡す。近い将来、ここから遠く離れた東の地で、世界を揺るがす争いが起こる。そなたは、その東の地で起こる争いを鎮めよ」
お告げの後、族長は自分の家に私を招いた。ヨークも同じように招かれたのだろうか。いや、何となくそうではない気がする。
「アリサは本当に力の強い子だ」
族長の表情は優しく穏やかだった。しかし表にこそ出なかったが、私の目には、その中に少し悲しそうな、憐れむような感情を含んでいたように見えた。
族長はもう二十歳になるから、私が旅から帰ってきた時にはもう生きていないかもしれない。
「でも、だからこそ旅に出る必要がある。大きな旅に出て、大人になって、それから帰ってくるんだ」
「いつ大人になるの?」
私は単純に浮かんだ疑問をぶつけた。
「それはアリサの心が決めることだ」
そして族長は、神妙な顔になって言った。
「必ず帰ってきなさい」
――村を出てから二年。
私は今、二つの太陽が照りつける砂漠の砂の上を、目の前の陽炎のようにフラフラと歩いていた。砂漠に接する町で自分の馬を売ったお金の一部で手に入れたこのローブなら、暑さから身を守ってくれると言われたが、とんだぼったくりに遭ったようだった。
「暑い……」
つい思ったことを口に出してしまったが、声に出した分だけエネルギーを浪費してしまったことに気付き、急にイライラしてきた。
目の前の砂を睨みつけ、両目を大きく見開く。
睨みつけていたところに小さな窪みができた。実に虚しく滑稽な光景だった。西方で最も強力だと言われる神呪力が、砂漠の砂に対して発揮できるのは所詮この程度なのか。
「魔法使いたちの王国……まだかなぁ」
私は旅の途中に寄った町で、天に太陽が二つある砂漠に魔法使いたちの王国がある、と聞いた。神呪力は旅の途中に寄った場所でたびたび目にすることがあったが、魔法はまだ見たことはなくて、魔法によって営まれる生活というのを見てみたかった。
しかし、その時の浮かれた気分は今ではすっかり失せ、やっぱりそんな国はないのだろうかと思い始めていた。体内時計ではもう何日も歩いているのだが、砂の山と青空の景色が変わるような気配は一向に現れず、しかも砂漠に入ってからというもの、まだ一度も日暮れが訪れていない。
ふと、前方に黒い人の影が現れた。私がよく観察しようとすると、不意に風が吹いて砂を巻き上げ、視界を遮った。周囲で風が吹く様子はなかったはずだった。しばらくして風がやんだ時には、もう黒い影は消えていた。
そして私は、急に激しい頭痛がして身体がクラクラし、瞼が下がり始めた。視界が暗くなって膝が折れ、全身に柔らかい感触と皮膚を溶かしてしまいそうな熱を感じた。