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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
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盲目の暗闘、虎千代の絶技!地底の追跡、その先には…?

そこにはっきりと。

確かに聞こえた。

このおぞましい地底の地獄を創り上げた悪鬼の声が。

「ゲゼル!」

だがその刹那、闇は一瞬にして溶け拡がり、辺りは茫漠とした無で満たされた。どっと注ぎ込まれた濃厚な暗闇はあっという間に僕たちの五感を塞ぎ尽くしたのだ。まるで一気に、怪物の胃の腑に叩きこまれたかのようだ。

ともすれば天地の区別すらも、見喪いそうになる完全な闇だ。今、確かに耳朶に響いたはずのゲゼルの声でさえ、間近であったのか、それとも遠間からしたのか、判断しようにもなんの縁もない。

敵がいる。そのはずなのに。このままでは、まるで無防備だ。煮られるようにせり上がる恐怖と混乱を必死で鎮めようとしながらも、僕に出来ることは、あてもない闇の中でどうにか視界を利かせようと、瞳を巡らせるだけだった。

それでもうかつな叫び声だけは、上げてはいけない。それだけは肝に銘じた。突然、漆黒の闇の中に叩きこまれた僕たちと違い、あの怪物はすでに夜目に慣れているのだ。だからこそ、明かりをはたき落とす手を使い、視界を封じて機に乗じると言う手段を採ったに違いなかった。

「黙っておらぬで返事をせい!…皆の者っ、無事かっ」

「誰かっ、明かりを」

「ワタシは無事ですっ、皆さんドコですかっ?」

暗闇の中に押し殺した誰かの声が響く。今のはたぶん、綾御前と鬼小島、最後はラウラの声だ。

(虎千代は?)

僕はとっさに思った。暗くなる前の一瞬、虎千代は確か僕の右前方にいたはずだ。

「虎千代っ」

僕も名前を呼びながら手探りで、その姿を探した。しかし、闇はどこまでも広がってなんの手ごたえもない。この廊下は二人の人がようやく行き来できる程度で、それほど広くはないはずなのに。今はこのまま手探りでどこまでも踏み出していけそうだった。

「どこだっ、虎千代。返事して」

僕が不用意に足を踏み出しながらもう一度名前を呼ぼうとしたときだった。

『お待ちなさイ』

ぞくりとした。すぐ背後で、声がした。本当にすぐ真後ろにいる気がした。それはゲゼルの声だった。

『無駄な動きをするのは、やめることでス。ワタシには、はっきりと皆さんが見えています。このまま花を摘むように皆さんの首だけを掻き切ることが出来マス。死にたくなければ、どうぞ、そのまま』

「おのれっ」

綾御前の声がした。

「姿を現さぬかっ、この綾の前で無礼であろうっ」

『…興奮しても無駄です。…ワタシはこうした暗い塹壕で生まれたので、皆さんよりここでは遥かに目が利くのです。…突然明かりを消されても、何と言うことでもありません』

ゲゼルは科学者らしい明晰な口調で断言した。

それにしても、ゲゼルの声は一体どこから聞こえてくるのか。

よく考えてみると、すごく遠くにいるようにも思えるし、いや、ものすごく間近だからこそ、はっきりと聞こえているようにも思える。

皆、それを感じているからこそ迂闊に動けないのだろう。僕たちの間では身じろぎする音すらも、聞こえなくなった。

『そうです。それでいいのです。…目的を達した今、ワタシたちはなるべく穏便に去ろうと考えていまス。…つまり、出来ればもう皆さんと争いたくないのでス。多少の波乱はありましたが、当初の予定通り人質交換も無事に済んだことですシ、ここは痛み分けに致したいと思いマス』

「それほどまでに黒姫が必要か?」

これは虎千代の声だ。ゲゼルと同じように、よく判らない方向からした。

『絶息丸のことをよくご存じだと言うなら。狗肉宗の伝承はアナタがたが彼らを滅ぼした時点で、絶えてしまいました。黒姫サンにはどうあってもワタシに協力してもらうつもりでス』

「言うことを聞かなければ、黒姫を殺すのだな?」

『…殺すと言わずとも、話をしてもらう方法はいくらでもありまス。…ワタシのいたナチスドイツは尋問と拷問、そして脅迫にかけては、右に出るものはない技術を持った国でした。後のことは、ご心配には及びません』

「…黒姫を無事に帰す気はない、と言うことだ」

刺すような殺気を帯びた音に、虎千代の声が変わった。

『何をしようと言うのですか。無駄です。いくらアナタが達人だろうと、この闇に眼が慣れていない状態でワタシに勝ち目はありません。ワタシが必要なものを持って去るまで、大人しく待った方が身のためですよ』

虎千代は返事をしなかった。代わりに、かちり、と言う金属音が聞こえた。これは、刀の鯉口を切る音だ。

「虎千代っ」

僕は思わず声を上げていた。ゲゼルの言うように、今の状態で勝ち目はない。

しかし、事態は思わぬ方向へ転がった。

虎千代が剣を振るう風切り音がしたと思った刹那、ばたっ、と言う重たい打撲音が耳に飛び込んできたのだ。

これは、まさか。

確かに聞こえたのは、ぎょっとするような濡れて重たい音だった。

僕はこの時代に何度も聞いている。これはまさしく、日本刀が生きた肉を斬る音だ。

まさか、虎千代がゲゼルを斬ったのか。

『アアアアアッ!』

続く、悲鳴のような、獣の咆哮のような、甲高い絶叫。これは間違いなく、ゲゼルの声だ。やはり、虎千代の刃がゲゼルを捉えた。しかし、この足元すら定かではない闇の中でどうやって。

『みっ、見えているのですかッ…』

ゲゼルの声は、苦悶と驚愕に震えていた。

「見えぬ、と言った憶えはない」

対して虎千代は、刺すように冷然と切り返した。

「逃げるなら、ビダルに伝えおけ。こちらは逃がす気はない。黒姫を傷つける前に、その命をもらいに行くゆえ、覚悟するがいい」

『ウウウッ、覚えておきなさいっ』

ゲゼルのうめき声とともに、おびただしく血が滴る気配がした。さっきよりも強い噎せ返るような、獣の匂いが鼻腔を覆った。このことだけでも虎千代は、かなりの重傷をゲゼルに負わせたに違いないと思われた。

「誰か、明かりを」

すかさず、虎千代が言う。

すると、ラウラが急いで照明を灯す。闇を溶かして、虎千代の姿がおぼろげに現れる。

「二人とも、逃げられたか」

懐紙で剣を拭う虎千代の頬には、返り血が飛んでいた。その肩は激しく上下し、抑えていた感情が一気に噴出したあとがうかがえる。

「皆さんっ、ご無事か!」

これは宗易さんの声だ。僕たちの異変を察し、応援を呼んで戻ってきてくれたのだ。

沢山の明かりが暗闇を駆逐し、周囲の様子を如実に描き出した。

虎千代の周囲は、目を覆うばかりの惨状だ。

タールを流したような黒い血が、飛沫の跡をつけて散り、岩肌に無惨な模様を描いている。いくつかは、天井近くまで飛んでいるものもある。

「とっ、虎千代さん…なっ、なんですかこれは…?」

事情を知らない宗易さんが声を強張らせている。

「獣を、仕留め損ねたわ。我にもなく激したせいか、刃筋が狂った」

虎千代は大きく息をつくと、刀を納めた。

虎千代の剣は、どうやらゲゼルの腕を断ったようだ。宗易さんが悲鳴を上げかけたのは、暗がりに人間のものではない左腕が一本落ちて、掌を向けていたからだ。この時点で、僕はまだゲゼルの本当の姿を見ていなかったが、鬼小島の話通りのようだ。肘から先を切り取られた腕はびっしりと黒い毛が生えているばかりではなく、掌は灰がかった分厚い肉に覆われ、まさしく山の獣そのもののようだ。

しかし驚いた。今の虎千代の発言からすると、ゲゼルの姿をおぼろげに捉えて虎千代は当てずっぽうで剣を振り回したわけではなく、どころか、精確にどこを斬ったのか把握していたのだ。

「虎千代サン、まさか見えていたのですか?」

ラウラが信じられないと言う面持ちで訊く。彼女も虎千代が目をつぶったまま振るった剣を見たことがあるとは言え、今の攻防をにわかに理解しがたかったのだろう。

「ああラウラ、以前、お前には一端を伝えたがこれが極意だ」

虎千代は首を振ると、ラウラの前で音もなく歩いてみせた。それはすり足を使った独特の歩き方だ。

四足(しそく)と言う。能の運び(歩き方)だが、剣理でもある」

「なるほど、能楽の歩き方ですか」

と言ったのは、芸道に深い宗易さんだ。

「能のお役者は能面を被ると極端に視界が狭くなるのですわ。演目によっては、ほとんど足元が見えない状態で足場を動かなければならない、と言われますな」

確かに五感は制限を受けると、そうでない感覚が鋭敏になりその代わりを補うと言われる。このようにあえて視界を狭めた状態では、聴覚ばかりでなく、空気を感じる能力、足先までの身体の感覚がより研ぎ澄まされると言うことだ。

「然様。四足とは、まさに『視感』以外の四つの感覚で『歩く』と言うことよ。すなわち、四足と言う運びの、その肝要(こころ)は、大気を感じ、大気に溶け、そこにある異物を感じることにあるのだ」

目を閉じてみよ、と、虎千代はラウラに言った。何をするのか分からないがそこで、ラウラにならって僕もその通りにしてみた。

するとだ。

「我が声、どこより聞こえる?おのおの、指をさしてみよ」

四足を使い歩く、虎千代の声が、どこともなく聞こえた。

(あれ、これって…?)

さっき暗闇の中で虎千代の声に感じたのと、まったく同じ感覚だった。すぐ傍にいたはずなのに。

「もうよいぞ。目を開けて見よ」

さらに驚いた。なんと僕とラウラが虎千代のいる方とさしたのは、まったく別の位置だったからだ。

「かくのごとし。あの女もこの闇に住まい、目が慣れていたのだろうが、何より不意を打ったのが幸いした。あの一太刀で決められれば、なお良かったのだが」

と、言うと虎千代はなぜか腕を組んで考え込んだ。

「すごいです。虎千代サン、日本の武士(ブシ)の技、本当に奇蹟です」

まるで魔術のような虎千代の動きに、ラウラは目を見張っていた。

僕も驚いた。虎千代は、まだこんなびっくりするような絶技を持っていたのだ。本当に底が知れないやつだ。

だが確かに、能が武士の文化に与えた影響は少なくない。例えば能狂言で使われる言い回しは国言葉の違う武士たちがコミュニケーションを取るためのいわば公用語のような存在を果たしたし、擦り足を中心とした能衣装での立ち居振る舞いは、武士たちの殿中での振舞い方の様式を整えたとされる。

しかしそれはあくまで儀礼上のことであり、剣術との関係までは想像もつかなかった。それにしてもまさか、擦り足ひとつ極めるだけで、こんな超人的な武芸になるとは。

「いやあ、剣は野蛮な芸やと思うておりましたが、中々奥が深い。これは眼福ですわ」

宗易さんも虎千代の歩き方を見て、しきりに真似をしている。

「うむ、この空気を騒がさず足音を立てぬ歩き方、茶の湯の道にも通じますな」

「そうおだてるな。四足は習い覚えたばかりの技ゆえ、まだ心もとない。ほんの試技ゆえ、先ほどは肝を冷やしたのだ」

と、虎千代はラウラを見た。

「これは奇蹟になく、五感を持った人の業ぞ。教えたところで感じるところがなければ、何も出来ぬ。ゆえに、お前はお前の感覚を拓かねばならぬ。ミケルと相対する前に、お前はお前の理を掴むべし」

虎千代は伝えたかったのだ。今のはまさに、ラウラに出来る最後の授業なのだと。目を惑わすミケルの俊敏なエスパーダを破るため、これこそがラウラに残された、たった一つの突破口なのだ。

ラウラはそれを感じ取ったのか、息を呑んで頷いて見せた。


「何をもたもたしておるかっ、下郎ども。時間がないのではないのかっ」

綾御前はなぜか一人で、ぷりぷり怒っている。

「あっ、姉上。何かお気に召さぬことでも…?」

虎千代は恐る恐る訊いた。

「ふんっ、喧しいわ…まったく無礼な奴らじゃ。綾が折角、大陸伝来の勁術を見せてやったと言うのに、お虎の技にばかり喰いつきおって」

どうやら自分の活躍が虎千代の四足の絶技によって霞んでしまったことに、ご不満らしい。妹相手に、本当に大人げない人だ。いや、確かに綾御前の技も凄かったけど、四足は初めて見たし、聞いたし、みんながそっちに驚くのも無理はないのだが。

「あっ、姉上の拳法にこそ我ら愕かされました。人の身体が宙に浮くほどの凄まじい勁の力、この虎も及ぶところではありませぬ。さすがは姉上」

虎千代は一生懸命、めんどくさいお姉さんをフォローしている。苦労してるな。

「分かれば良いのだ。ここはそもそも綾が見せ場なのだからな!」

綾御前はふんぞり返って上機嫌になる。乗せれば扱いやすいのだけが、唯一の救いだ。

「ふふん、ならばついでに、もっと佳きことを教えてやろうぞ。手負いのはずのあやつらが一瞬にして消えてしまったからくりのことよ」

言われて僕たちは、あっとなった。ゲゼルも王蝉も傷を負っていたのだ。この奥行きのある通路で一瞬にして姿を消すことは不可能だ。

「それには秘密があるのじゃ…ふふふっ、すぐに気づいたぞ。あやつらめどこから逃げたのか。この綾の目は誤魔化せぬぞえ」

と言うと、綾御前は廊下の壁を杖で突いた。するとゴン、と硬い音がして、岩間に嵌め込まれた板戸が押し倒れる。そこにちょうど人が一人、通れるような大きな穴が開いていた。

「なるほど、あやつらここから出入りしていたか」

虎千代は戸の足についた血糊を抜け目なく確かめて、言った。穴は下へと勾配になっていて、それが抜け道として機能していることは目にも明らかだ。

「まあこの穴、地底深くどのようにあやつらのところへ続いているかは分からぬがな」

と言いつつ、綾御前は足元の石くれを穴に向かって放り込む。それは拳大のかなり大きな石だったのだが。あれっ…いつまで経ってもなんの音もしない。

「はっ…はははっ、たとえ罠だとしても、綾の責ではないぞ!」

自分で言っておいて、なんて無責任なんだ!

しかし、さすがは虎千代だ。

「行こう」

即座に、決めた。

「姉上、付き合うてはくれるのでしょう?」

虎千代が訊くと、綾御前はあごを引いて頷いた。

「当たり前だ。あの黒姫も長尾家の家人じゃ。我らが行かいで、なんとする」

さすがに綾御前、いつも言ってることは無茶苦茶だけど、やっぱり長尾家を裁量するだけはある。度胸だけは虎千代に匹敵する。

「あっ、ありがてえっ」

目を合わせて覚悟のほどを確かめあう二人の前に、鬼小島が平伏する。

「お嬢だけじゃなく御前様までがお二人揃って、あの腹黒なんざには、勿体ない御言葉。この鬼小島弥太郎、改めてここで、お二人に一命、捧げまする。地獄の果てまで御供しますぜ!」

鬼小島は、ここは黒姫に代わって頭を下げたつもりだったのだろう。普段はやりあっているが、なんだかんだ言っても、やはり同じ長尾家の一員なのだ。

「行きましょう」

ラウラも意を決して言った。

ビダルは、着々と脱出の準備を進めている。ここが奴らが選んだ最短のルートだと言うのなら、もはや他に道を探している時間などない。

「ここに、賭けよう」

僕も、虎千代に言った。

覚悟を決めて、行くしかない。

何より、黒姫を取り戻すためだ。


「あの四足の技、習ったものと言ったな。実は黒姫から習ったものなのだ」

虎千代はさっきと同じ足運びをしてみせると、僕に言った。

「これは剣術ばかりでなく、忍びの足運びにも、通じるものじゃ。あやつは生まれて間もなくからこの足運びを仕込まれる故、わたしなど到底及ばぬ」

忍者が一人前になると言うのは、十四、五歳だと言う。ほとんど生まれながらにして、あらゆる術を仕込まれる。子供とは言え、課題をこなせないものたちは淘汰される厳しい世界だ。虎千代と黒姫は、僕と同い年の十七歳だ。と、言うことは、黒姫は、ほとんど生まれたときから、虎千代の影働きをするべく過ごしてきたのだ。

ゲゼルが黒姫の身柄について話した時の、虎千代の怒りはこれまでにないほどに深く凄まじかったに違いない。それほどに、繋がりの深い二人なのだ。もちろん黒姫が望む関係ではないのかも知れないが、その交わりの濃さは普通の主従を超えている。

「待てよ、黒姫」

道中、虎千代が焦り苛む自分に言い聞かせるようにつぶやいているのを、僕は何度も聞いていた。


そして、さらに地底に潜る。こうなると僕たちは、どこまで地上から離れていくのか。自分の頭の上に積み重なっていく地面のような重苦しい不安にのしかかられるながら、僕たちは先を急いだ。

綾御前が見つけた穴は、深い勾配を見せながらどんどん下へと続いていく。さっきまでの通路とは違い、壁に照明もないのでほとんど手探りだ。微妙にスロープしているらしく、僕は何度か壁にぶつかった。照明をもった鬼小島を先頭に、僕たちは一列になって一人ずつ、進んでいくのだが、通路の幅や天井が狭いせいか、進むごとに心なしか息苦しくなってくる気がする。まるで生きながらにして、埋葬されているようだ。

「見よ、奴らはここを通ったようじゃ。ふふふっ、やはり綾の勘に狂いはなかったではないか」

先を行く綾御前が足元を照らし出す。岩場には点々とかすかに黒いものが滴った跡がどこまでもついていた。これで入口だけ血を滴らせた罠、と言う線はなくなった。

ゲゼルは王蝉を連れて、確かにここを通ったのだ。腕を切り取られて、かなりの重傷だったはずだが、死に物狂いで逃げたのだろう。壁にも血をなすった痕や、引き摺った痕が散見出来た。

「でも一体、どこまで下に続けているのでしょう」

ラウラはいまだ勾配の続く道を不安そうに眺めた。

「案ずるな。行きつく先は地底の果て、と言うことはあるまい」

見よ、と虎千代は、ふるふると震える蝋燭の火を僕たちに掲げて見せた。

「風の気配がする。こちらに、外気が流れているに違いなし」

つまりずっと行けば外に出られると言うわけか。

それでちょっと不安が和らいだ。

何だかさっきまで息苦しかったのだが、それは気分の持ちようと言うことだ。この先が、本当に墓穴のような密閉された地下ならば、蝋燭の火すらも、か細くなっていったはずなのだ。

「ふん。恐らくこれは城の地下などに設ける抜け穴の類に似ておるわ。思ったよりも、長い距離を進んでいるやも知れぬぞ。もしかしたら、この上はすでに海かもな」

ぞっとするようなことを、綾御前は平気で言う。だがあながち、否定も出来ないのはこの穴倉に入ってから、堪えず響いている地鳴りのような音だ。巨大な質量を持った何かが動く、不穏な気配。頭の上が海だとしたら。まかり間違って海水でも入ってきたら、一巻の終わりじゃないか。

「そうびくつくな。大丈夫じゃ。ここは人の手で掘ったものゆえ、意外にしっかりはしておる。もしかしたら、意外な場所に出るやも知れんぞ」

虎千代は意味深なことを言ったが、本当に気がつけばあの世、みたいな事態にならないだろうかと気もそぞろになる。しかし先頭を行く鬼小島は大柄なせいか、さっきから肩身が狭そうだ。

「びびってんじゃねえよ小僧。奴らが通ったってことは、分かってるんだ。後は地獄の果てだろうと行くだけよ」

僕たちがこの穴に入ってどれだけの時間が経ったかは判らない。とにかく黙々と歩くと、傾斜に急かされて苦しかった足取りが、途端に楽になるのを感じた。

「ここが底か」

足元の勾配が緩やかになり、真っ直ぐな横穴が続いている。

「一体どうなっているんでしょうか…」

ラウラも、不安げな表情を隠さない。しかしここでも、血痕は残っているのだ。今は選んだ道を信じて、先を急ぐしかなかった。

そこからさらに暗い横穴をしばらく進んだ。もはや誰も何も言葉を次がない。黙々と歩き続けるだけの時間が過ぎていった。

そうこうしているうちに、道は再び緩やかな上り坂になっている。行く手からかすかに潮の匂いのする風がひんやりとこぼれだしてきているのが分かった。

出口だ。

ほのかな光が見える。

「外じゃ、油断するな」

虎千代は先を急ぐ僕たちをたしなめつつ、自分も足を速めた。この先は一体、島のどこへ出るのだろうか。

行く手にかすかに見えた光を追ううち、やがて空が拓けた。

「海か」

潮騒が間近に聞こえる。どころかすぐに、波が打ち寄せる気配がした。

洞窟の入口には、すでに海水が迫っている。僕たちの足元は、エメラルド色に澄んだ、色鮮やかな海水と目が覚めるような白砂の流れる岩場だった。

あの穴の出口は海だ。そこは入江をそのまま呑みこんだような鍾乳洞の入り口へとつながっていたのだ。僕はさすがに長く胸に溜めこんだ息を吐いた。何しろはるか頭上に拓けるのは、もう二度と見ることが出来ないかと思った、播磨灘の秋の晴れ空だった。大分時間が経ったかに見えたが、幸いまだ陽は沈んではいない。

「ここは…」

洞窟を出た先は、一面、岸壁に囲まれた白砂の海岸だった。見上げるとその空ばかりが拓けている。僕たちが出てきた鍾乳洞の洞穴以外は歩いて出られる出口はどこにも見当たらない。まるで誂えたように円筒状にぐるりを囲む岸壁は深い谷のようになっていて周囲を覆い、そこから外へ出る道は、外海へと伝う一筋のみだった。そこはまるで、海賊の隠れ家のような秘密の入江だったのだ。

「もしや別の島へ抜けたか」

綾御前は周囲を見渡し、懐の見取り図を確認する。

「このような場所、小蛭子島の地形にはない。どうやら城の抜け穴よろしく、別の脱出地点へと抜ける道であったな」

「なるほど。島の包囲を掻い潜って、別の隠し小島から脱出する手はずであったか。確かに最後の脱出手段として、これ以上のものはあるまい」

虎千代が言うように、これは島を脱出するための最終手段と言うべき奥の手だ。ビダルたちはいよいよ小蛭子島から逃げられないとなればこの離れ小島へと抜けだし、黒姫を連れて悠々と脱出する腹積もりだったのだろう。

「舟らしきものは見当たらぬ。まさか、もう逃げたか。あやつらの姿が見えぬわえ」

綾御前が目を細め、周囲をうかがう。白砂のプライベートビーチには朽ちかけた小屋が一軒建てられているばかりだが、この島を抜け出すために必要なボートらしきものは、水辺には見当たらない。

「この入江は大きな船は、入れぬ。恐らくは小舟にて脱出した上で、外海で大型船に連絡して逃れる手段を取ると見たが」

虎千代の推測は間違ってはいない。小舟が停泊していた形跡はあった。砂場に打ちこまれた杭に、絡まっていたロープは恐らくはその小舟を繋留していたものだろう。

「あの明人の女、倭寇の大立者に通じておると吹聴しておったな。もしや倭寇の大船で逃げおったのか」

夕暮れに傾く播磨灘の秋の空に、銃声が響いたのはその瞬間だった。

僕たちは反射的に身を伏せた。忘れようはずがない。ビダルは、現代の戦闘においてだけではなく、この時代でも凄腕のスナイパーなのだ。

弾丸は幸い誰にも当たらず、虚空に消えた。

続いて響いたのは、銃を携えた不吉な悪魔の声だ。

「狙撃と言う概念が生まれたのは、南北戦争時代のアメリカからだった。狙撃を意味するスナイプは本来は、『田鴫(たしぎ)撃ち』と言う意味だった。十九世紀、マスケット銃から進化したライフルが開発されるまでは、ライフルの命中精度は田鴫と言う小鳥を撃つことを競うほどに成熟していなかったとされるが」

小屋の蔭からだ。ゆっくりと、黒い宣教師が姿を現した。こちらに、まだ白煙の上がる歯輪式小銃を突きつけながら。

「この日本に古来から伝わる稲富流(いなとみりゅう)をはじめとする鉄砲術には、古来より猪や鳩の『目撃ち』が秘伝として伝わっていたそうだ。一般に七割とされる火縄銃の命中率で人間をはじめとする生き物の頭を狙うことすら至難の業だったと思えるが、それでも、それを成した達人はいたのかも知れない。

捨て身で突っ込んでくる兵士を銃を使って仕留めるのは思ったより難しい。連発式のピストルを携えたアメリカ西部の開拓者たちも、しばしば弓とナイフばかりのコマンチ族との戦闘で殺された。それがこの日本では驚くことに、戦国時代の鉄砲使いは、剣や槍の武芸者とも平気で果し合いをしたそうだよ」

ビダルは言うと、がしゃりと銃を足元に落として肩をすくめた。

「おめでとう。ここが長い冒険の終着地点だ。待ってもいなかったが、歓迎はするよ」


僕たちは、どの時代の歴史においても、存在してはいけない悪魔の実体に追いすがることが出来たのだ。ついにこの、同じ人間とは思えない危険な男に追いつくことが出来たのだ。

「ビダル…ッ!」

色めき立つ僕たちを前に、ビダルは丸腰のまま平然と歩み寄ってくる。

「さすがに感心したよ。まさか、君たちがここまで来るとはな。正直、甘く見過ぎていたよ」

「黒姫はその中か」

虎千代の言葉に応えず、ビダルは小屋の方を一瞬だけ振り返ると、顔を歪めるように嘲笑った。

「ただで答えると思ったか?」

「そうだな、さんざん、醜悪な見世物を披露してくれたのだ。こちらも、その分、そちらに報いねばな」

虎千代は凍りつくような声で言うと、柄を手にゆっくりと腰を沈めた。

問答無用で斬る気だ。

相手が武器を棄てようと、関係ない。

「正直に言えよ。そんなに私たちを、痛めつけたいのか?」

ビダルが丸腰のまま言ったそのときだ。

ビダルの後ろから、音もなく誰かが姿を現した。ミケル・アリスタだ。この男はすでに、白銀にきらめくエスパーダを抜き放っている。虎千代が不用意に近づけば、すかさず突け入られたに違いなかった。

「兄さんっ!」

ラウラが叫び声を上げる。

「おいおい、殺す相手をまだ肉親扱いか?」

挑発に応えずラウラはレイピアを差した腰に、黙って手を当てた。すでに心は決まっているのだ。ミケルもそれを察して、不用意に間合いを詰めることを避ける。ミケルとラウラ。こちらも一触即発の状況になった。

「ビダル、お前を痛めつけたいか、だと?馬鹿を申すな」

虎千代は薄く目を細め、ゆっくりとその言葉を口にした。

「その命、もらい受ける」


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