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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
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蝸竜舌対綾御前!絶技の応酬、勝敗の行方は…?

見れば見るほどに、異様な構えだ。

両腕を折り畳んだまま、王蝉は決して拳を見せない。こちらを向いているのは手の甲なのだが、恐らくはその中にその謎の凶器を呑んでいるはずなのだ。

「ウォン・ロン・シー」

と、王蝉は言った。

大陸の武器だと言う。それにどう言う字を当てるか判らないが、王蝉の足もとに散らばる無数の斬殺死体を見れば、そこにうかつに飛び込むことは愚策でしかないと言うことは、誰にでも分かった。

「どうぞ。通りたかったら、通ってもいいですにぇ。一人でも二人でも。一気に頸を掻き切ってやるですにぇ」

王蝉の余裕はただの虚勢ではない。どんな武器を持っているかは分からないが、眼前に立ちはだかる王蝉のただならぬ気配は、虎千代ですら足を停めるほどの危険な威圧感を放っていた。

足元の男たちを切り刻んだのは、切れ味からしても恐ろしく鋭い刃物のようだ。綾御前は王蝉の間合いがかなり広いと言った。

しかしだ。このすれ違いにも苦労しそうな廊下で、そんなに長い得物を自在に振り回せるものなのだろうか。そして王蝉は本当に、そんな長い得物をどこに隠し持っているのだろうか。

直接相対する綾御前ばかりじゃない。王蝉の武器がどんなものか判らない以上、先を急ぐ僕たちにも、手の打ちようがない。何と言うことだ。文字通り、僕たち五人は王蝉たった一人に釘付けにされているのだ。

「案ずるな」

綾御前は杖を突きつけながら、背後の僕たちに言った。

「どうせ、奴からは来ぬ。あやつの相手は、一人では済まぬ。綾の他にお前らがいるゆえな」

「にぇはー、そりゃあーまた舐められたもんですにぇ」

すると、王蝉が肩をすくめ態勢を崩したのだ。

「そんなこと言うんなら、こっちから行きましょうかにぇ」

言うや、王蝉が奔った。

逆に真っ向から間合いを潰してきたのだ。

油断していたのもあるが、綾御前は一気に懐に入られた。まさか、王蝉の方から攻めてくるとは予想もしていなかったのだ。

「くっ」

苦し紛れに杖を振りかざすが、しなやかな王蝉の身のこなしはその攻撃をするりと潜り抜ける。狭い間合いを自在に動く姿はまるで猫のようだ。

ステップインした王蝉は、その場でくるりと腰をひねる。全身のバネを利用した鞭のように(しな)る蹴りだ。さすがに中国拳法らしく、蹴り足が空で様々な角度で変化して、めまぐるしく攻め込んでくる。

ミドルでボディを狙うと見せて、ハイキックのダブルを見せたり、顔を狙うと見せてミドルやローに変化したりと芸が細かい。

顔を狙ったハイを辛うじて避けた綾御前だったが、可変した胴蹴りをまともに喰らい、真後ろへはね飛ばされる。

「おのれっ」

がむしゃらに杖を振りかざすが、王蝉は巧みに懐に入りこんできて密着しての蹴り技で綾御前を翻弄する。

「こうるさしっ、小手先の技は見飽きたわ。さっさと拳の武器を出さぬかっ」

「にぇはは、威張ってるけどどーせそっちはただの棒ですにぇ。刃物じゃないから安心して間合いに入れますにぇ。こっちはさんざ蹴り放題ですにぇ!」

「馬鹿にしおって」

綾御前が間合いを測って距離を置き、態勢を整えようとしたときだった。

それを狙って王蝉が例の折り畳んで交差した拳を振り下ろす。綾御前は蹴りの間合いよりも遥かに遠ざかっている。

遠すぎる。

たとえ持っていたのが槍だとしても、そこから満足に届くはずがなかった。

しかしだ。

次の刹那、何も持っていなかったかに見える王蝉の拳から黒い何かが(ほとばし)り出て、一気にその間合いを喰いつぶした。それはまず僕の目には黒く見えたのだが、どんな形をしていたのかすら、まず視認するのも難しい速さだった。気がつけばそれは、後退した綾御前を追撃して姿を消していたのだから。

音で得た認識の方がむしろはっきりしている。そのとき耳朶を打ったのは金属の軋るような不快な摩擦音と、その黒い何かが空を裂く鋭すぎる風切り音だったのだ。

とっさに綾御前は杖を戻して前傾すると、身体の中心を庇ったはずだ。辛うじて致命傷を負うのだけは避けられたのだ。

しかし、負った傷は無惨そのものだった。

王蝉が放ったウォン・ロン・シーは、綾御前の両肩の肉を着物の布ごと抉っていったのだ。あの二つの流れが喰い破った痕は炸裂し、血が音を立てて飛沫いた。そこに、まるで鮫に喰い破られたかのような無惨な噛み痕が出来た。

あれは一体何だったのだ。

それは広範囲の間合いを持ち、かまいたちのように風を切って綾御前を傷つけた。

「鞭か」

いや動きはそれに近いが、その傷は、鞭のようなものでつけられたものともまた違う。ぽつりとつぶやいてから虎千代も違うと思ったのか無言でかぶりを振ったが、だとするとあの金属性の軋る音はなんだったのだろう。

鉄製の武器となると黒姫が使う鎖分銅の暗器にも似ているが、それより動き方は遥かに軽く柔軟で変幻自在だ。武器としてやはりもっとも近いのは鞭だと思われるが、その正体は一度見ただけで、定かになるものではない。

綾御前の肩を噛みきった黒い流れはヨーヨーのように張力を発揮すると、一瞬で王蝉の手の中に収まった。

「ご覧頂けたですかにぇ、あっ、つーか全然見えませんでしたかにぇ?」

何かを握ったままの両手を広げて王蝉は挑発を続ける。

あれが、ウォン・ロン・シーか。

王蝉の手のひらの中にあるのは、そこにすっぽりと納まる大きさの円形の筒だった。手の形に合わせて渦巻き状の傾斜が刻まれており、まるで蝸牛(かたつむり)の殻のようになっていた。その先端には小さな出入りの窓が開けてあり、あの黒い流れは恐らくはそこから射出されたものと思われた。

「ふん、馬鹿にするな。今のも見えておるわ。お虎たちにもお前の得物を見せてやろうと思うたまでじゃ」

負け惜しみなのか、強がりなのか、綾御前は言い返す。この人も本当にめげない人だ。

「それにその暗器、見覚えがあるわえ。物珍しさをひけらかして図に乗るでないわっ」

いや、それは強がりすぎだろ。

「姉上、それはまことに」

愕いたのか呆れたのか、虎千代が声を上げる。綾御前はそれをぴしゃりと叱りつけ、

「姉を見くびるでないわ。あれは確か蝸竜舌(かりょうぜつ)なる暗器よ。綾が知らいでかっ」

蝸竜舌。それがウォン・ロン・シーの正体なのか。

いや、ただのはったりじゃないのか。そうではない証拠に、あのにやにやしていた正体の読めなかった王蝉の表情がぴたりと停まったのだ。綾御前の言うことはあながち、その場限りの出まかせでもない。

「にぇにぇっ、あいやあ、どこでそいつを聞いたですにぇ?」

「この綾を見くびるなと言うたであろう」

傲然と不動の綾御前は、胸を張って相手を睨み返す。

「我が家に出入りしておる明人の薬師が、しきりに武器を売る算段をしておったわ。お前らの言う不死の軍勢を売り物とする他にな。そもそもおのれら倭寇の商いは武器を売りつけることであろう。あの南蛮毛坊主は商売敵ではないのか?」

「…にぇははっ、確かに。そこまで判っているとは、お話が早いですにぇ」

王蝉は乾いた笑い声を洩らすと、軽く首を傾げて見せた。

「そもそもワタシたち倭寇があんたたち日本の武家と商いをする目的は、武器の売買ですにぇ。ビダル師たち南蛮人は確かにあんたらに銃を伝えはしましたが、結局は売り損なったですにぇ。それはなぜか、単純な答えは一つ。ワタシたちが先に銃を売っちまったからですにぇ」

確かにその話は、おぼろげながら訊いたことがある。

そもそも鉄砲の日本への伝来は一般的には天文十二年(一五四三年)八月二十五日、大隅国(鹿児島県)種子島において漂着した二人のポルトガル人が所持していたマラッカ銃(『鉄炮記(てっぽうき)』)が最初とされている。

確かにこのときに伝わった銃の構造が日本に火縄銃を国産化するための大きな第一歩になり、種子島を領する薩摩島津氏が日本で初めて鉄砲を軍用化し、やがては日本の戦史を変える決定的な転換点になるのだが、それ以前、またはそれと同時にポルトガル人によってではなく、アジア経由でもっと広範囲に渡ってこの兵器は広く汎用化したのではないかと言うのが、最近の鉄砲研究では浸透しつつある説なのだ。

特にこの戦国期、室町幕府による日明貿易が絶えてからは、九州から瀬戸内海を中心に暗躍した倭寇たちによる私的な密貿易が盛んに行われた。西洋式のいわゆる火縄銃が伝わる以前から、中国、朝鮮を通じてこの無国籍の海賊たちが使っていた火薬兵器、鳥銃(ちょうじゅう)と言う形で鉄砲が伝わっていた可能性が高いと言うことなのだ。

ちなみに彼ら倭寇の暗躍のお陰で、地理的制約の大きいイスパニアを初めとした南蛮人たちの兵器ビジネスがとん挫したと言う見方も出来なくはない。

例えば彼らは当時最新鋭の歯輪式ホイールロックの火縄銃を日本人に売りたがっていたが、そのときにはすでに日本人は近江筒や堺筒をはじめとした国産式火縄銃の汎用化に乗り出していたのだ。

これは自分たちの銃を売りたがる南蛮人たちがその構造を容易に明かさなかったが、それに対して商売敵の倭寇たちはその秘密を広く当時の日本人たちに浸透させたことを、如実に裏付けている。その面では、南蛮人たちの兵器ビジネスは倭寇のせいで不調に終わったとも言えるのだ。

特にイスパニア王室は前述したように、コンキスタドールたちを世界中に派遣して派手に交易範囲を拡げていたが、嵩む渡航費と戦費で破産寸前であったとされる。以降、兵器ビジネスに失敗したイスパニアは、巻き返しを図るためにしきりに日本の有力な大名に海外派兵を焚きつける方針に転化することになる。

例えば豊臣秀吉が実現した『唐入(からい)り』は、織田信長の時代から宣教師たちを通じてのイスパニアの工作が実を結んだ結果とも捉えられなくもない。証拠に宣教師たちはたびたび報告書の中で、当時の日本の武士たちが自分たちのための『アジア侵略の先兵』となりうる可能性を強調している。いわば彼ら南蛮人は新たな輸入兵器の需要を日本の海外派兵と言う名目の上、実現しようとしたのだ。

「そもそも種子島でポルトガル人との銃の売買を仲介したとされる五峰(ごほう)、又の名を王直(おうちょく)こそがワタシの元締めですにぇ。ビダル師の提案は本当に魅力的でしたにぇ。師が不死の軍隊をイスパニア王室に売りつけると言うのなら、ワタシたちはそれに相応しい兵器を売ると言うのが元々の密約でしたにぇ。加えて不死の薬も手に入るとなれば、その薬は明でも必ず抜群に売れますにぇ。欲しがる王侯貴族は沢山いますにぇ。これは、商売ますます繁盛ですにぇ」

「死の商人め。黒い宣教師の死臭を嗅ぎつけてきよったか」

虎千代が苦々しげに吐き捨てると王蝉は瞳を細め、軽く肩をすくめた。

「にぇははっ、怖い顔はなしですにぇ。まー要はあんたたち倭人が不死の軍勢になって、どんどん海外に輸出されるようになりゃ、ワタシの任務は終わりですにぇ。今はそのときに向けて我々も、絶賛新しい兵器を開発中ですにぇ。火薬を使わない兵器、この蝸竜舌(ウォン・ロン・シー)も例外ではありませんですにぇ」

王蝉は言うと、両手を閃かせた。

すると黒い流れが再び飛び出して、風を切って鋭くうねった。蝸竜舌はちょうど巻尺のように中に折り畳まれているのか、バネの力で飛び出し、遠心力を発揮して元に戻っていく。その際、さっきのように抜群の切れ味を見せる構造になっているようだ。

「この蝸竜舌はもともと、海の上で使う兵器ですにぇ。こいつには防腐処理を施し、渦巻き状に刃をつけて編みこんだ鉄線が織り込まれているのですにぇ。バネの力で切り刻むので足場の悪い甲板の上でも十分に威力を発揮する上、携帯にも便利と言うお得な商品ですにぇ。見ての通り、知ったかのお姫さまもきれえに切り刻むことが出来るですにぇ。どうですかにぇ、皆さんも一家に一台」

「ほざけっ」

綾御前が不意を打って、杖を突き出す。ひらりとかわした王蝉は、その攻撃の終わりを見すまして蝸竜舌を浴びせかけた。一瞬で間合いを潰し、気がついたときには手元に戻る蝸竜舌の刃を防ぐ術はない。綾御前は肩に再び傷を負った。

「にぇははははっ、だーかーら、無駄だと言ってるですにぇ。つーか間合いの広さでは、その杖じゃ蝸竜舌の足もとにも及ばないですにぇ。とっとと諦めた方がいいですにぇ。まあ降参しても、命は助けたりしませんけどにぇ」

王蝉はなおも嵩にかかって、相手を挑発する。

「調子に乗るなよ」

綾御前は無暗に突貫するが、王蝉を捉えることは出来ない。飄々とした挑発を続ける王蝉にまるで闘牛のように、綾御前が踊らされてしまっている形だ。そこからはまったく同じ場面の再現だった。

綾御前の杖の間合いを潰し、拳法を駆使して接近戦を挑むかと思えば、綾御前の反撃の機会を見すまして後退し、離れ際に蝸竜舌を浴びせ掛ける。綾御前は追撃のチャンスを潰されたばかりか、間合いの外から絶妙な牽制を喰らい、逆に手傷を負わされる羽目になる。王蝉は無傷のまま、綾御前はどんどん消耗していくようにしか見えない。

今や勝負の形勢は一目瞭然だ。

「おのれ…ちょこまかと…逃げ回りおって!」

「ははは、何度やっても同じですにぇ!とりあえず、血を喪って動けなくなるまで続けますかにぇ?!」

蝸竜舌の攻撃は鞭よりも数段素早く、軌道も独特で捉えにくい。さすがに綾御前と言うべきはここまで辛うじて致命傷がないことだが、このままだと確実にジリ貧だ。もはやなす術もない形になっているようすら思える。

「虎千代」

僕は思わず見かねて、言った。

ここは思い切って加勢して、同時に王蝉を追い詰める形を取った方がいい。

僕の目からみても綾御前のこれ以上の特攻は無謀な上、意味がなさすぎる。あの王蝉の絶妙な挑発に乗せられて我を喪っているのかも知れないが、このままでは、ただ悪戯に傷を負い、命を喪うだけじゃないか。

しかし、

「大丈夫だ、真人」

虎千代は、まるで意に介していない。

「姉上は、姉上なりのお考えあってのこと。わたしが下手に助勢して水を差しては、無礼にあたろう。案ずるな。姉とて杖術の達人じゃ」

「そうですかにぇ。たーだの猛進馬鹿にしか見えませんけどにぇ。つーかそろそろ、ちっちゃいお姫さま、あんたの出番じゃないですかにぇ?」

虎千代は王蝉を睨みつけると、むしろ玲然と、

「姉を舐めるでない」

「おのれいっ、そろそろ綾にも殴らせぬかっ」

びゅん、とその王蝉の顔めがけて、綾御前の杖が空を切る。

「ばーかっ、アンタが殴る番はずうっとないですにぇ!」

王蝉の蝸竜舌による斬撃のタイミングは寸分狂うことなく、綾御前の攻撃の終わりを狙い続ける。

しかし綾御前、本当に考えて戦っているのか。

と言うか、むしろ悪戯にむきになっているようにしか見えない。体力が尽きるまで走る猛牛だ。それでもあれだけ動きながらもしゃべれるところを見ると、幸いまだ致命傷は負っていないようだが、取り返しのつかないことになる前に、虎千代たちに加勢を仰いだ方がいいのではないか。

そうこうしているうちに、綾御前の足がぴたりと止まる。確かにさすがにあれだけ空振りを繰り返せば当然だろう。綾御前は肩で呼吸していた。

「下郎め…はあっ、はあっ…どこまでも綾を愚弄しおってからに…ただでは…はあっ、はあっ、すまさんぞ…」

「にぇはははっ、だったらどうするですにぇ!つーかあんた、馬鹿みたいにひつこくてさすがに怖いですにぇ。そろそろ別の方に替わったらどうですかにぇ?」

綾御前の肩と胴丸に刻まれた蝸竜舌の斬撃の痕は、無惨だ。蝸竜舌の刃がつけられた鋼線は、バネと遠心力の力でスクリューのように回転しながら、獲物の肉をこそぎとる仕掛けになっているのだ。

今や足元に散乱した無数の屍の無惨な傷が、綾御前の末路を如実に描き出していた。綾御前の手が止まれば、あとは一方的な虐殺になる。あの鋼線が頸を掻き取り胴を食い破れば、そこですべては終わりだ。

「お嬢…御前様は、大丈夫なんですかい」

さすがの鬼小島も綾御前が心配になったのか、虎千代に声を掛ける。綾御前も虎千代に負けず劣らず、長尾家の最重要人物の一人なのだ。あたらここで、命を喪っては取り返しがつかない。

しかし虎千代はこの期に及んでも、

「姉を舐めるなと言うておろう」

と、鬼小島をたしなめる。虎千代にとっては綾御前の気迫を尊重したい、と言うか、ああまで熱くなってしまってはあの人を止めにくいところだけど、ここは最悪の事態が起こる前に何か考えるべきじゃないのか。

ラウラも見かねて、虎千代の袖にすがっている。

「でも、虎千代サン危険です。このまま続けたら、綾御前サマが…」

だがそれでも虎千代はあわてた様子もなく、ラウラと鬼小島を一瞥すると大きくため息をついた。

「ふん、これだけ腕利きが揃って目が利かぬとは。まったく不甲斐ない。特に真人」

えっ、僕は戦闘は素人なんですが。

「お前は今の姉の姿を見て、ぴんと来るものがあろう。何か思い出さないか?」

「ええっ?」

言われて僕は、切り傷だらけの綾御前の姿を見直した。ううん、だけど綾御前は綾御前だ。あの強烈なキャラから他に連想するものなどない。その無謀な特攻を見て、何を思い出せと言うのだ。僕が言い返そうとしたときだ。

「蝸竜舌がつけた斬撃の跡を見てみろ」

と言う虎千代の言葉に、僕は声を上げるのを止めた。

斬撃の傷だって。

まさか。

僕は綾御前の立ち姿を見直した。

するとだ。

「…そろそろよいか」

なんと、肩で呼吸をしていた綾御前が身体の力を抜き、構えを変えたのだ。

「これからが、見物ぞ」

何が起こるのか、すでに予想がついているのは虎千代だけだ。その瞳が輝いている。


もう形成が覆るまい、と思ったそのときだ。

綾御前が構えを変えた。半身に開いて杖を突き出し、腰を落とす構えを止め、虎千代がやるように足を使いやすいように動く猫足立ちになった。手にした杖は前方を守ることをやめ、だらりと脇に下げられた。

「なんですか、そろそろ疲れたから諦めますかにぇ?」

「ふん、何を馬鹿な。疲れてなどおらぬわ。おのれの斬撃など、屁でもないわ」

「にぇふふっ、そーんなぼろぼろの姿で、負け惜しみ言ったって、かっこ悪いだけですにぇ!つーかお姫さまの癖に馬鹿ですにぇ!棒馬鹿!」

王蝉はけらけら笑って綾御前を挑発する。しかし、さっきと打って変わって綾御前の表情には、いつの間にか森の泉のように静かなたたずまいが備わっている。

今までの激昂が嘘だったかのように。

綾御前の何かが変だ。

ほとんど無傷の王蝉と、蝸竜舌の斬撃を受け、綾御前。

情勢がどちらに傾いているのか、この状況では誰が見ても明らかに見えるが。

僕の見方はすでに百八十度変わっていた。

挑発を繰り返す王蝉自身は、果たして気づいているだろうか。あれだけ矢継ぎ早の蝸竜舌の斬撃の嵐を受けながらも、綾御前は身体の中心にほとんど傷は負っていないと言うことを。

よくよく見ると蝸竜舌によってつけられた傷の分布は、ほとんど身体の外側なのだ。それも運動に必要な臓器や筋などの急所は巧みに避け、一見傷を負っているように見せながら、有効な斬撃はほとんどもらわないようにしている。

僕はさっき、綾御前は幸い、致命傷は負っていないようだ、と言った。それはもしかしたら偶然ではないのかも知れないと言うことを、虎千代の言葉に愕然としつつも気づきつつある。

はっきりと僕が直感した答えを言おう。

綾御前はわざと、蝸竜舌の斬撃を受け続けたのだ。

信じられないことだが、僕はその信じられないことをやってのけた人間をすでに一人知っている。これはちょうど、あのときと同じ状況なのだ。

「勝負はつく」

僕が察したのに気づいたのか、虎千代は自信に満ちた口調で言った。ラウラが心配そうに様子をうかがっている。虎千代は彼女に言った。

「何も案ずることはない」

綾御前が猫足立ちの歩調のまま、王蝉との間合いを潰し始めたのはそのときだった。杖で上半身を守っていたさっきと違い、身体の急所は完全にガラ空きのまま。王蝉の蝸竜舌にとっては絶好の獲物にすら見える。

「にぇははっ、ついに覚悟したんですかにぇ!じゃーどこから、えぐりとって欲しいんですかにぇえ!」

邪悪な笑みで顔を歪めた王蝉が、後退しながら蝸竜舌を振るう。ガードの態勢を全くとっていない綾御前は一気に頸を切り裂かれるかに見えた。

しかしだ。

綾御前は色のない瞳で蝸竜舌の刃を見極めると、それほど速くない動作で二本の鋼線の軌道を外したのだ。かわしたと言うよりは、まるで影のようにすり抜けたと言う印象だった。それは蝸竜舌が初めて、この獲物を逃した決定的瞬間だった。

「はにぇ!?」

手元に鉄線を戻した王蝉は、迫ってくる綾御前に対して間合いを取りながら尚も攻撃を続けるが、綾御前は苦もなくそれをすり抜ける。

「どっ、どう言うことですにぇ!?」

結論はただ一つだ。

「…綾御前は、今までので蝸竜舌の間合いを見極めたんだ。だからもう、蝸竜舌の斬撃には翻弄されない」

「よう見た。さすがは真人よ」

と、虎千代は誉めてくれたが、もちろん僕がそれを出来るわけじゃない。だがさっきも言ったようにこれと同じことをした人間がいたからだ。

そう、煉介さんだ。

刃渡り二メートル近い大太刀を振るった煉介さんは、速度で遥かに上回るかささぎと相対したときに、同じような戦法を取った。それはなんとまず斬撃を身に受けて、その致命的な間合いを見極めると言う危険極まりない方法だったのだ。

かささぎの山犬だたらを受けながら、煉介さんは忠実にそれを実行した。長年の戦場勘を頼りに煉介さんが見極めたのはかささぎの太刀の間合いばかりでなく、切れ味の癖、すなわち致命傷を与える刃筋の具合や攻撃の角度だった。

それを把握した煉介さんは、かささぎの動きを逆手にとり、まるで操り人形を操るようにその動きをコントロールしたのだった。その技は九州熊本藩に伝わる『心の一方』の応用とも言える絶技だったが、その極意は極限の空間把握術だったのだ。

そもそも日本刀を含む『斬る』ことを主体とした刃物には、物体を切断する最適の道があり、そこを誤まると満足な威力を発揮しないようになっている。蝸竜舌もその例外ではないと言うことだ。

しかし恐るべきはそれを見極める綾御前だ。あのキャラクターはどうにも厄介だが、武術の勘とセンスは剣の達人の虎千代に匹敵する。

「ふふん、心配いらぬと言うたであろう」

虎千代は誇らしげに言うと、もう一つ言えば、と捕捉を加える。

「あの蝸竜舌なる暗器は鉄線で敵を囲い込むいわば面の動きに対して、姉上の杖術は点と線の移動の動き。あれで王蝉の動きを捉えることは至難の技であったろう。元々、手が合わぬ武器同士だったのだ」

それでか。綾御前はそもそもが得意とする拳法の足運びに、今になって急に構えを変えたのだ。

「でもそれだったら、最初からあれで戦えば良かったんじゃないの?」

「真人、判っておらぬな。それをせぬで蝸竜舌を受けたところが味噌なのよ」

そのとき、綾御前が放った蹴りが初めて王蝉を捉えた。全身のしなりを使ったハイが王蝉のこめかみをかすり、ようやくその足を停めさせる。

「くっ」

脳が揺れたのか、膝をつきかけた王蝉に容赦ない綾御前の追撃が殺到する。

「なんじゃ、人をあれだけ挑発しておいて、おのれは打たれ弱いと言うことはあるまいな!やっと綾の番じゃ。もそっと殴らせるがよいぞ!」

「ふざけっ…黙れってんですにぇ!」

蝸竜舌を持った手で殴りつけようとする王蝉の二の腕を取り上げ、綾御前は鋭い鉤突きを見舞う。一転、さっきから綾御前のやりたい放題だ。

「そうか」

知らずのうちに、王蝉は目が慣れていたのだ。一定の法則で前後する綾御前の杖術の動きに。だから、綾御前がまったく足運びの違う拳法にスウィッチしたときに、とっさに対応が出来なかったのだ。

「く…っても我が姉ぞ」

虎千代は胸を張る。

最初の言葉が濁っていたのは腐っても、と言おうとしてあわてて憚ったのか。いや、でもさすがは虎千代のお姉さんだ。

「はぁ…はぁ…くそっこいつっ…しつっこ…もうっ、沢山ですにぇ…」

いつしか疲弊しているのは、綾御前にどつきまわされた王蝉に入れ替わっている。さっきまでの形成が嘘のような大逆転だ。

「はははっ、歯応えのない倭寇よ。口ほどにもないわ。まあよい。遊んでやったついでにもう一つ、よいことを指南してやるわえ。その蝸竜舌、売り物にならんな。この短い攻防で二つも欠点を見つけたわ」

「なっ、なんてこと言うですにぇ!」

細い目を剥いて王蝉が放った二本の蝸竜舌を、綾御前は苦もなくすんででかわす。もはやかすりもしなかった。

「まず一つ目の弱点。この鉄線、手首を返して獲物を『引き切る』のが主眼ゆえ、初撃にそれほどの威力はない。ゆえに、綾ほどの達人でなくとも多少の傷を負う覚悟さえあれば楽々と間合いに入れるわえ」

言うとおり、げんに鉄線をかわした綾御前は王蝉の懐深く忍び寄る。いつの間にか、胸が当たりそうなほど近い。

「そして二つ目。懐に入れば、両手が塞がっているゆえ、とっさの防御が叶わぬ」

「けっ、アンタこそ、こんな近すぎる間合いで何が出来ますにぇ!?」

王蝉が唾を飛ばして面罵した瞬間だ。

ほとんど密着して間合いを詰めた綾御前がぐっ、と腰を落としたかと思うと、王蝉の胸にえぐりあげるような掌底をねじ込んだのだ。

「うええっ」

これは言うまでもなく、中国拳法に伝わる絶技、発勁(はっけい)だ。身体の重心の移動と踏み込んだ際の重力で発動するこの技は、決して非現実的な超能力ではない。達人が放てば、パンチなど打てない密着した間合いからでも、爆発的な威力を発揮する打撃を与えることが出来るのだ。

綾御前の一撃はまさに、正真正銘の中国拳法の精髄を発揮した発剄だった。掌底がめりこんだ両足が浮き上がり、王蝉は背後に数メートルも吹き飛ばされた。何とか受け身をとって立ち上がろうとするものの、すでに膝が笑って立ち上がる力もない。

「こっ、これは…?」

自分の身体が言うことを聞かない。想像もしていなかったダメージに驚愕の表情を隠そうともせず、王蝉は立ち上がろうとする。しかし足掻けば足掻くほど、手足は甲斐のない痙攣を続けるばかりだ。

「驚くことはない。おのれらの国の技じゃ」

綾御前は這いつくばる王蝉を見下ろして、傲然と言い放つ。

「勁は身体の芯に響く。振動は(あばら)の骨ばかりでなく臓に響くゆえ、もはやおのれは立てまいぞ。観念するがいい」

「うけぇっ…な…はずは…つかパクリですにぇ…っざけんなですにぇ!」

血反吐を吐き、憎悪の表情で王蝉は吼えるが、反撃の力は残されていない。

こうして勝負はあった。

まさか中国拳法の国の人間に、中国拳法で勝つとは綾御前も大概、無茶苦茶だが、その卓越した戦闘のセンスはやはり認めざるを得ない。

「ふははははっ、見たか者ども!明人直伝の大陸拳法を習得した綾の絶技を目の当たりに出来るなぞ、滅多にないことぞ!こやつのようにありがたがってひれ伏すがいい!」

「ひっ、ひれ伏してないですにぇッ…くそおっ」

それはあなたにぼこぼこにされて立てないだけです。そう突っ込もうかと思ったが、みんな黙っていた。

「さて案内役殿。今度こそ、とっくりとご案内頂こうか。黒姫をさらったあの南蛮毛坊主がどこへ消えて失せたか?」

杖を突きつけて、綾御前は王蝉を脅した。

「ここもお前一人では来まい。とっとと吐くがよい」

「うるせぇですにぇ、一回勝ったからって調子に乗るなですにぇっ」

「ほほう、いい度胸をしておるな。そう言うのも嫌いではないぞ?」

ぺっ、と血反吐を吐き出して抵抗を見せた王蝉を、綾御前が締めあげようとしたときだった。

がしゃん、と誰かが何かを落としたような金属音が響き、突然視界が真っ暗になった。

何が何だか判らないうちに僕たちは、お互いの眼鼻も知れぬ暗闇に放り込まれたのだ。

「なっ、なんじゃっ、何が起きたか」

「わっ、分かりません。突然何かに燭台を撃ち落とされて…」

続くのは、綾御前の声と混乱しきったラウラの声だ。王蝉は動けない。もしかしたら何者かが入ってきている?左右を見渡すが、何も状況は判らない。その耳に、ぞっとするようなあの狗神の怪物の声が響いた。

「よくここまで来ましたね、長尾家の皆様」


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