黒姫奪還、収容所最深部へ!惨劇の追跡、待っていたのは…
「…そもそもこの島には、至るところに得体の知れぬ洞穴や地下道が張り巡らされておるのだ」
と、綾御前は地図を見せながら、僕たちに説明してくれた。
「この島も源平の頃より、水軍どもが隠れ棲んでいた島なのでな。今でも島の住民すらも把握出来ぬほどの地下道やら、地下壕がごろごろ溢れておったのだ」
なるほどビダルはそこに目をつけたわけだ。
まるで旧日本軍の塹壕戦術である。地図上で見る限りも、大小のトンネルが無数に張り巡らされ、文字通り島のあらゆる部分を網羅していた。
どうやらこれらの地下道群のいくつかはビダルがやってきてから、整備したものらしい。しかもこの地下道の出入り口は島の縦横に張り巡らされ、いざと言うときに誰にも知られず、最短距離で島のあちこちを移動できるようにしてあるのだと言う。
「先般あの毛坊主が、我らを先回りして現れたのもこの地下道を利用してのことと間違いない。綾がおのれらを先回りするために使ったのもこの穴だったのだからな」
得意げに綾御前は胸を張る。
「では、姉上の使っていたこの地下道のどれかが、奥へ通じているのですね?」
と、虎千代が尋ねると、綾御前はにわかに表情を曇らせた。
「うむ。…恐らくはそう言うことになろうが」
虎千代の使う軒猿衆の情報収集力をしのぐとされる綾御前ですら、ビダルが作り上げた地下の中枢部の入口に至る道を見つけることが出来なかったのだ。
「無論、無理に行くとなればそれなりの道を探させるが、それがどこへ続いているのか、保障は出来ぬぞ。ここらのほとんどはあくまで天然自然の洞穴ゆえ、暗い穴倉の中で立ち往生と言う事態も十分ありえる」
綾御前の言うとおり、時間をかけて無駄な道を辿っては引き返すと言う事態になったら目も当てられない。
「と、なるとやはりあそこへ戻るしかないか」
重たいため息をつくと虎千代は上空を見上げた。
こうして僕たちは、山頂の収容所への復路を急いだ。色々話し合ってはみたがやつらを追うのには、そもそもビダルが僕たちを追いかけて来たと思われる、山頂の収容所から行くのが確実だろうと思われた。
周り道とも言えるが、この場合最善の選択だ。
ビダルが黒姫をさらってから、もう半刻(一時間)ほどは経った。ビダルたちはすでに逃げてしまっているかも知れない。しかし外海には隈なく三好勢が包囲網を敷いている。もし不審な船があれば、ひと騒ぎあるはずだが、今のところそうした気配もない。それとも、それを知ってなお、ビダルには海路脱出の目算があると言うのだろうか。ありえないとは思いつつも、あの男なら、ありえないことはない、などと考えてしまう。否応なく焦りと混乱が募っていくばかりだ。
そうこうしているうち、山上の様子もすでに様変わりしている。
さっきの息詰まるような静けさとは打って変わって、そこは騒がしげな人いきれでどよめいていた。綾御前の部隊が扇動した島中の反乱軍がここを占拠し、収容所から監禁されていた人々が解放されているのだ。
長い監禁で顔はすすで汚れ、足腰が萎えてしまっている人たちも痛々しく目立ったが、久し振りの明るい太陽を浴びて群がる人たちの、表情は明るかった。もっとも広場では、特大の鉄釜がいくつも据えられ、廃材で盛大に炊かれた薄い粥の雲気が漂っている。
「虎千代さん、真人くん、こっち!こっちやあ!」
炊き出しの集団の中に、なんと宗易さんがいる。三好勢に伴われて彼もまた上陸してきたのだ。
「ようご無事で。心配しましたで。で、真菜瀬さんの方は首尾よう助けてくてましたか」
その宗易さんも、武装である。羽織の下は鎖帷子を着こんで、腰には船上でも扱い易い厚重ねの大脇差し。脱力系の普段とは打って変わって表情を引き締めると、体格も面構えも立派なので、由緒正しい武家の水軍にすら見える。
「ああ、そのことは無事に相成ったのだが、困ったことになった」
虎千代が手短に現在の状況を話すと、さすがの宗易さんも顔を引き攣らせた。
「あのビダルが、黒姫さんを奪い返して脱出を図ろうとしておるとは…確かにそれはまずいことになりましたな。至急、島中に人狩りを出し、海上にも情報を伝えねば」
と、宗易さんはすぐに人を走らせた。
「島を占拠しておったビダルの手下は、ほとんど捕縛しましたが、ビダル本人の姿はどこへ行っても見つからぬゆえ、おかしいなとは思うておったのですが」
どうやらビダルは初めから、自分の本隊のメンバー以外は見棄ててこの島を出る目算だったらしい。その非情さに、思わず虎千代も顔をしかめる。
「この島に残されたものどもは、自分の手下のものも捨て石か。どこまでも手段を選ばぬ男よ」
絶息丸で不死の兵隊を組織する。
そして永遠に軍事に従事して平和を脅かそうと言う、ビダルの禍々しい野望は、度を越したものだった。あの悪魔をいかなる時代においても外へ解き放つわけにはいかない。そのためには、なんとしてもここで、取り逃がすわけにはいかないのだ。
「とにかく、時間がない。我らは我らで奴を全力で追う」
虎千代は、炊き出しの列に並ぶ人々の群れに視線をやって言った。
「彼らを、解放した場所に案内してもらいたい」
収容所となった山頂の風穴には、やはり広大な地下施設が拡がっていると言う。先ほど僕たちはその一端を目撃したが、まるで吹き抜けの建物のように螺旋状の構造をした巨大な風穴の底は真っ暗で、底が見えず、ただただ、その気の滅入るような息苦しさを思い知らされるばかりだった。
先に到着していた宗易さんも囚人解放のために中へ人を送り込んでいるのだが、この地下の全容は一向に把握できない。
「収容されていた者の話によると、どうやら房の下からは試験房と言われる実験施設だったようです」
半刻後、僕たちは宗易さんの説明を聞きながら、その薄暗い穴の底に降り立っていた。ビダルのいた展望塔からここは真っ直ぐ降りてくることの出来る場所のうち、最下部に位置する。ここまでは建物にして四階建ての建物を見上げるくらいと言うところだろうか。吹き抜けのこの場所は見上げれば、辛うじて地上の空が見えるが堅牢な岩肌ががっちりと視界の周囲を覆っている。
その岩壁のところどころには、いくつもの洞穴が掘り拡げられており、丈夫な入口が鉄格子で塞がれていた。ビダルたちに連れて来られたものたちは、ここへまとめて押し込められたのだそうだ。見たところ、七、八人は入れるだろうか。
「ここには十人も入っておりました。ろくに横にもなれん場所で。ひどい扱いでしたわ」
宗易さんも憤慨したように言う。
ここでゲゼルは一日に三人から五人、多い時は十人近くを連れ出したと言う。
「要はその試験房で実験をするまでの仮牢舎なわけだな」
虎千代が尋ねると、宗易さんはうんざりしたように顔を歪めていた。
「なんしろ、こんなひどい話は初めてや。ほんまに吐き気がしましたわ」
囚人たちの話によると、連れて行かれた人間のうち、三人に一人は二度と戻ってくることはなかった。また戻ってきたものも、すでに物言わぬ状態か、間もなく手遅れになるような状態だったと言う。死ねばまた新しいものが補充され、悲劇は繰り返された。
その試験房の入口は、まさに特別警戒房だったようだ。宗易さんが反乱軍を主導して中へ入ったときは鉄格子のついた二枚扉があり、銃を持った衛兵たちが油断なく警戒していたらしい。
「助け出した人たちを外へ連れ出して、とりあえず私は介抱する方にまわりましたが、この先はまだ、何がどうなっておるか判らんのですわ」
「行こう」
虎千代は躊躇することなく、自ら足を運んだ。
かすかな燭台の明かりが頼りなだけの廊下は真っ直ぐ、百メートルほども続いただろうか。宗易さんが繰り出した人たちがここまではまだ救出作業を続けているらしく、点けられた明かりがぼんやりと闇を溶かし、僕たちを奥へ奥へと導こうとしている。そのわずかなよすがを喪えば、天地すら失いそうになる闇を僕たちは先へ急いだ。
静か過ぎて、あらゆる音が恐ろしく間近に聞こえる。時折するのは、どこかで湧き出ている地下水の気配だろうか。心地いいはずのひんやりとした空気がひどく濃密に、何千年も変わっていないかのような闇の澱に漂っている。
虎千代が一歩踏み出すと、足元でぴちゃっと泥濘を上げて黒い影が走り過ぎた。ドブネズミだ。怖ろしいことに一瞬見た影だけで、子猫ほどの大きさはありそうだった。
「わっ」
ちなみに、悲鳴を上げたのは虎千代じゃない。情けないことに僕だった。
「大丈夫か」
「ああ、うん。ちょっと足元見えなくってさ」
「今の大きなネズミが見えなんだか」
言い訳が苦しすぎる。もちろん察しているのか、虎千代は悪戯っぽく、くすくす笑っている。
「薄く目を閉じて物を見よ。姿より影だ、そのうちに目が闇に慣れてくる」
どっちが女の子だか分かりゃしない。先に何があるか分からないのに平然と歩いていくし、虎千代に怖い物はないのだろうか。
「ふふん、情けない奴よ。この分では、お虎とは到底釣り合わぬなあ」
綾御前がすかさずちくりと皮肉を刺してくる。この人も生粋のお姫さまなはずなのに、全くなんでもない顔をして歩いている。恐るべし長尾姉妹。
「感心した。ただの穴倉を流用したかに見えて、よう拵えてあるわ。我が坂戸の城にもかような地下牢を造らせようかのう」
綾御前は虎千代より早く、目が慣れたのか辺りをぺたぺた触ったりして、様子を確かめている。しかし剣呑な人だ。こんな陰鬱な地下牢を造らせて何をする気なんだろう。
「暗くて危険ですね…」
この中ではラウラがもっとも、僕と感覚が近い。恐る恐る足を踏み出し、つまずきそうになって僕の腕にぶつかってきた。
「きゃっ!ごっ、ごめんなさい…」
「大丈夫?危ないから、近くにいなよ」
思わずラウラの身体を抱きとめてしまって、はっとした。闇の中で虎千代の突き刺すような視線を感じたからだ。
「真人…お前、この期に及んでまだわたしの前で、他の女子といちゃつくか」
「いっ、いや違うだろ!今のはわざとじゃないだろ!」
さっきの真菜瀬さんといい、何が地雷なのか。
「どっ、どうせわたしは怖いものなど何もないわっ」
どん、と僕の胸倉を掴んで引き寄せると、虎千代はぐいぐい自分の身体を押しつけてくる。
「わあっ、危ないだろ虎千代なにするんだよ!?」
「うっ、うるさいっ!」
虎千代は、ぷくっと頬を膨らましてそっぽ向いた。まるで子供だ。
「ともかくお前はわたしの傍を離れるなっ」
つくづく思う。本当に、女の子って判らない。
廊下を過ぎた後も、広大な施設は続く。再び吹き抜けの洞窟のようなものを見つけたが、こここそ試験房の牢舎のようだ。あちらと違ってここには外の光は一切射さない。地下水の流れる暗い穴倉は、あちこちに小さな水たまりを作っている。天井も僕が屈んで入らなければ頭がつかえるほどで、ここに監禁されていた人がいるとすれば、数日で足腰に影響が出るだろう。まるで黒田官兵衛が収監されていた荒木城の獄舎だ。
「ちっ、行けば行くほど気が滅入りやがる」
虎千代に代わって照明を持った鬼小島が、無人となった獄舎の低い天井を眺めまわして言う。
「こんな場所がまだまだ、続くわけか」
「果ては、私たちにも判りませぬ。私もこの辺りでええ加減にして、退き上げてきましたのでな」
「ここから先に行ってるものがおるのであろう?」
綾御前の質問に、宗易さんはおずおずと頷いた。
「そのはずなのですがなあ。まだ人がおると思ってもっと、奥まで進んでおるのでしょうかなあ」
人の手が入ったのは確かだ。獄舎の照明は点けっぱなしになっていて、まるで後を追う僕たちを導くかのように、奥へと続く道が姿を現している。
「しかしどこまで続くのかのう。この分だと、あの毛坊主めに追いつく道をここから探し出すのには相当の時間が掛かろうぞ。まさかの無駄足にならぬであろうな」
同じ危惧があったのか、虎千代は応えなかった。
「大丈夫だと思う」
それで代わりに僕は、言った。
「逆にはっきりしたような気がしないか。これだけの施設だ。それこそ黒姫だけを連れてあっさり島を脱出、と言うわけにはいかないだろうさ」
ビダルはここへ戻ってくるのではないか。
とっさにそう直感したのは、虎千代より僕だった。何しろ、虎千代の凄まじい反撃はあのビダルにとっても、突発的な事態だったはずだ。何とか当初の目的だった黒姫を奪還したはいいが、このままこの島をすぐに喪うと言うことまでは考えなかったに違いない。
この地下室には見て分かる通り、ビダルがゲゼルに研究の限りを尽くさせた絶息丸に関する貴重なデータや文献などが残されているはずなのだ。事実、何とか黒姫の身柄を手に入れたところで、奴らの絶息丸の研究は完成するわけじゃない。そのために奴らは必ず、ここへ戻ってくるはずなのだ。
逆に言えばだからこそすぐにでも、島を脱出するような素振りを見せたに違いない。これから否応なく、僕たちはそのことを実感させられることになる。
獄舎を出た僕たちは、ある地点でまったく違う領域に足を踏み入れたのを肌で感じた。それはごく生理的な感覚だが、確かにそうなのだ。上手く説明できないがここから先は今までと何かが違うような、同じようで決定的に異なる世界と世界の境界線を知らずに踏み越えてしまったかのような、落ち着かないを通り越した座りの悪い違和感が身体に充満した。僕の近くにいたラウラも、それを感じていたのだろうか。自然と僕の方へ身体を寄せてきた。ちなみに物凄く強い力で虎千代の方もぐいぐい引っ張ってくるのだが、これはまた別の何かを察しているからに違いない。誤解だ。
「何か妙だ。二人とも、互いの位置を確認して絶対離れるな」
と、思ったら虎千代もちゃんと勘づいてはいるらしい。いや、二人ともそれより歩きにくいのだが。
「お前たち、ふざけておる暇はないぞ。おかしいと思わぬか、明かりのある方向へこれだけ進んでいるのに、まだ誰にも会えぬではないか」
綾御前はさすがに鋭い。
「まさか先で何かが?」
さっと宗易さんが顔色を変えた。
「何があったとは言えぬが、人がいる気配がせぬ。お前の手下は本当にここまで、足を踏み入れたのであろうな?」
不安を抱えつつ先に進むにつれ、この辺りの地勢が分かってくる。ここは先ほどの獄舎とはまた違い、一本の廊下の左右にいくつもの小部屋を持つ構造をしているのだ。それらは用途に分けられ、きっちりと整理されたいわば研究のためのスペースだった。
ある場所はゲゼルが僕たちの前に運び込んできた実験器具のようなものが放置されたままになっていた。薬品棚には得体の知れない小瓶がいくつも並び、磨き上げられたステンレス製のベッドや古ぼけた車椅子などがここで、悲惨な実験の犠牲者のために唯一用意されたものだと言うことを知らしめていた。
またある場所は書庫だ。無造作に並べられた鉄製の武骨な棚に何列も。人体構造図や解剖図、化学構造式などが掲載されているため薬学や医学の本かと思われるが、英語以外の言語(たぶんドイツ語だ)で書かれているので内容はよく判らなかった。
本が貴重な時代に貴族たちが秘蔵したと思われる、宝石で飾り立てた大判の本などもあった。これは恐らく錬金術の本だと思う。
ここでまざまざと思い知らされたのは、ビダルに遣わされたもう一人の悪魔の面影だ。
ゲゼルは確かにここで、絶息丸に関する研究のすべてを行っていたに違いない。備え付けられていた机の抽斗や、棚の中を入念に調べてみて僕は自分の読みが当たりつつあるのを確信しつつあった。
いくつかの収納にはまるで空き巣が入りこんだように中が荒らされた形跡が残り、隠しようのない不自然な空白が出来ているのだ。
まるで誰かがそこからあわてて、中身を持ち去ったかのように。
ゲゼルは黒姫をさらってから、確かにここへ戻ってきたに違いない。そしてビダルも行動をともにしているはずだ。ゲゼルを欠いては絶息丸の研究は、完成しないからだ。
まだ、僕たちはあいつらを追跡できる。択んだ道は決して間違いではなかったのだ。
「虎千代、来て」
僕がその見解を別の部屋を物色している虎千代に語ろうとしたときだった。
「きゃっ!」
あれはラウラの悲鳴だ。
僕はとっさに身構えた。もしかしたら、敵か。綾御前の危惧が的中したのか。
僕は、とっさに入口にあった、使われていない鉄製の燭台を手に取った。
ラウラは廊下を出てすぐの、目の前の部屋にいる。そこにラウラが一人、立ちつくしたまま固まっているのが見えた。
「ラウラ、大丈夫!?何かあったのか?」
「あっ、あれ…」
ラウラが強張った声を出した。照明を差し出す手が、ぶるぶると震えている。
同じ位置にやってきた僕は、そこにたたずんで絶句した。
そこにあったのは、人の生首だ。
照明の先にぼんやりと浮かび上がっているのは、確かに人の首だった。それは被験者を寝かせるステンレスの台の上に、ぽつんと置かれた大きなガラス瓶にひっそりと安置されていたのだ。
それが切り取られてからしばらく経ったものだと言うことは、白蠟のようにくすんだ肌の感じで判る。切り口の肉は収縮して、薄い紫がかって変色していた。それが茶がかった何かの液体に浸けられ、ゆらゆらとたゆたっていたのだ。月代を剃った若い男の首がそこで目を閉じて深い眠りについていた。
不死を実験するためか、ゲゼルが無惨にもその男の切り取られた生首を保存しておいたのだろう。思わず言葉を喪う光景だった。しかし、驚くのはここからだった。
「この首…」
ラウラが強張った表情のまま、こちらを向いて、ぽつりと言う。
「生きてます」
瓶の中の首が、ぱっちりと目を開けたのはそのときだった。切り取られてしばらく経ったはずの首が、目を剥いて僕たちを確かに睨みつけたのだ。それはまさに自分の正気を疑いたくなるような悪夢だった。
「敵かっ」
武器を持った綾御前と虎千代がこぞって顔を出す。その二人とも生きている首を見て、戸口でぴたりと動きを停めた。
首は新たな闖入者には一顧だにしなかった。
目が合ったままの僕とラウラが固まったままそこで見ていると瓶の中の首は半眼になり、ゆっくりと目を閉じたのだ。
虎千代たちはその不気味な生首を、じっと見つめながら中へ入ってきた。
「ゲゼルめが作ったか」
恐らくは、と、僕とラウラは頷く。
「言葉を喪う。これは、まさしく血震丸どもと同じ仕儀」
虎千代は眉をひそめ吐き捨てただけが、綾御前は放胆にも瓶の首を杖で小突いてみたりしている。首はそのたびにぎょろりと目を剥いたが、反応はそれだけで再び永い眠りに戻った。
「…不死とは言え、どうやら意志はないようじゃな」
ビダルたちの話では、血震丸は首だけだが意志を持って絶息丸の消息についてあれこれ語ったそうだ。ゲゼルはそれを元にこの首を作ったのだろうが、さすがに生首に生前の自由意志を留めさせるまでには至らなかったのだろう。そこにある首は、綾御前が瓶を刺激すると、虫が乗ると葉が開く植物のように何度でも目を見開いて反応したのだ。しかし反応はそれだけにすぎない。
ちなみにギロチンが開発された十八世紀のフランスでは、斬首された後の首が二度までの呼びかけに答えたと言う驚くべき記録が残っているが、それも死後二十秒ほどの間のことなのだ。
それを考えるとゲゼルが伝聞だけでここまで漕ぎつけたと言うのは、恐ろしいとしか言いようがない。これだけでも十分、人智を超えた成果だ。
「虎千代、少なくともゲゼルはここにやってきてる」
僕は書庫で見つけた痕跡のことを話した。
「持ち出されたものは本だけじゃない。これも恐らくはあわてて、持ち出されようとしたものの一部だ。こっちを見て」
と、僕は生首の入った瓶の載った台を通り過ぎて、背後にあった開きかけの戸を引き開けた。まさしくぞっとする風景だが、そこにはいくつも同じような首が瓶に詰められて並んでいる。ここから見えたのだが、持ちだされた隙間は二つあった。
「つまりはこの生首を含めて、誰かが二つ取り出して一つだけ持ち去ることにした」
首は嵩張る上に重い。より必要な方を、取捨して持って行ったのだろう。
「ゲゼルが近くにいる?」
虎千代は、はっと息を呑んだ。
「現時点では、そこまでは判らない。でも、ここへはやってきたはずだ」
そのときだ。
「おい、ちょっとこっちへ来てくれ」
今度は鬼小島の緊迫した声だ。
「どうかしたのか?」
明かりを持つ鬼小島と宗易さんが、苦い顔をして佇んでいる。何とも言えない嫌な予感がした。その足もとに、何か黒い大きな影がうずくまっているのだ。
「こいつを見てくれ」
酸鼻を極めた戦場をくぐり抜けてきた男ですら、うんざりした声を出した。ほの明かりに照らされたその影の常軌を逸した正体を見て僕はまた、立ちすくんだ。
うつぶせに倒れているのは、大きな獣に見えた。人間の子供くらいのサイズで黒い硬い体毛を持ち、前屈みのその姿勢からも最初は熊のように思えた。しかしそれは、違った。鬼小島がそれを蹴転がして正体を暴くと、僕たちはまた色を喪った。
それは人間だったのだ。正確には身体は獣で、首だけが人間だった。奇怪な人と獣の混合。着ぐるみなど着ていない証拠に全身のところどころ黒い毛がめくれて直接赤みを帯びた切り傷が顔を出している。無惨にもこの半人半獣は全身を切り刻まれて、何者かに斬殺されたのだった。
「ひどすぎる…」
ラウラがこれ以上堪え切れないと言うようにえづき、顔をしかめた。
鬼小島が出てきた部屋には、この半獣半人が監禁されていたと思われる鉄の檻が放置されていた。かなり暴れた形跡があった。恐らくはこの獣がかなり抵抗したため連れ出すことを諦め、すげなく惨殺することにしたのだろう。
「ひでえことしやがる。しかもてめえで産み出したものを、てめえの都合で殺すとはな」
鬼小島は堪え切れないと言うように吐き捨てる。
人とも獣とも言えぬ化け物。
この獣は一体、なんのために生み出され、なんのために殺されるしかなかったのか、今となっては誰も判らない。
ゲゼルはナチスドイツの発生学者が生み出した、まさに狂気そのものと言える怪物だった。このおぞましい成果をどんな狂気の持ち主が生み出したか、直接知っている鬼小島がさすがに気勢を喪ったのも無理もないことだ。
「まだ死後、それほど経ってはおらぬな」
一方、虎千代はむっと異臭を放つ遺体の前に遠慮なく屈みこむと、傷の具合を確かめている。
「遺骸から体温もそれほど喪われていない。殺されたは、それほど前ではないぞ」
虎千代は、あえて感情を押し殺した声で言った。彼女のあり方が正しい。今の時点で出来ることは逃げ出したくなるほどの嫌悪を焼き潰してでも、黒姫を救う手立てを探し出すことだ。
「血が落ちておるぞ。これを辿ろう」
綾御前も足元の血痕を発見し、さっさと動き出している。
ゲゼルがまだ近くにいると言うならば、この立ち止まっている一瞬すら惜しい。
だがそれにしても、廊下はさらに左にスロープし、その先には深い闇が落ちるばかりだった。この底なしの悪夢は一体、どこまで続いていると言うのだろう。僕たちは人間の正気が試される限界の領域を、知らず知らずのうちに乗り越えてしまったのだ。
「あのう、ちょっと待って下さい」
宗易さんが、戸惑ったように言った。
「虎千代さん、ここに遺体があると言うことは、私たちの前にこの先に踏み込んだ者は、もしかしたら…」
虎千代はすぐには答えなかったが、答える前に宗易さんの不吉な予感は、すでに的中していた。
「茶坊主」
血痕を追って角を曲がろうとした、綾御前がそこでぴたりと足を停めたのだ。
「怪我をせぬうちに、引き返して救援を呼ぶがいい。ここからはお前は埒外じゃ」
綾御前の緊張した声を、僕は初めて聞いた気がした。
「姉上、敵か?」
柄に手を掛けた虎千代に、綾御前はこくりと頷き返した。
「宗易殿、後は我らが。退き返してくれ。早くっ」
唖然とする宗易さんを叱咤して、虎千代とラウラが綾御前と同じ位置に並んだ。
「真人、だめだ。こちらへ来るな…」
心を押し殺していたはずの虎千代が、思わず走り寄った僕に切ない表情を見せたのはそのときだった。
狭い廊下には、天井まで返り血がぶちまけられていた。男たちがそこに点々と、折り重なって死んでいた。いずれも宗易さんが派遣した救出隊だ。これだけの数がいて男たちはなす術もなく斬殺されたらしく、血みどろに濡れそぼったまま前のめりに倒れこんでいた。この回廊だけ、肉食獣の胃の中のようだった。食いちぎられ、裂かれたものしか、そこにななかったのだ。
「ちっ、あの化け物女の仕業かこいつは」
鬼小島が一歩踏み出そうとするのを、虎千代が停めた。
「うかつに入るな。何があるか分からぬ。見よ」
虎千代は足元に倒れる遺骸を一瞥して言った。
「どのような刃物を使ったか。この傷、信じられぬ」
その虎千代の言葉を聞き、鬼小島もすんでで踏みとどまった。確かに奇妙だ。恐ろしいことに男たちの背には螺旋上に刻まれた傷痕が、無数に残っていたのだ。まるで大型船のスクリューにでも巻き込まれて、何度も何度も切り刻まれたかのように。普通の刃物ではこんな傷がつくはずがない。
「ゲゼルの罠かも知れません。もしかしたらこの先に何か仕掛けが…?」
「馬鹿もの」
動揺するラウラに、容赦ない叱咤を浴びせたのは綾御前だった。
「何が仕掛けじゃ。虎、お前も頭を冷やせ。これはお前たちが案ずるような罠などではないわ」
「え?」
「もっと恐るべきことよ」
訝る虎千代たちをよそに、綾御前は一人合点して頷く。
「ふん、この手口、見忘れようはずがない。お前であろう。出て来よ」
綾御前が大きな声で呼ばわったときだった。闇の中から、血肉の皮を踏みしめて、見慣れた顔が現れたのは。
「やあ、やっと来ましたですにぇ。暗くて寂しい中、ずうっと待ってましたですにぇ」
王蝉だ。
たった一人だった。正体の掴めない得物と技を持ったこの倭寇は、ついに本性を現したのだ。武器を持った男たちを相手に、王蝉はこれだけのことをしておいて傷一つ負った様子はなかった。
「まさか、この女が一人でこれを…?」
驚愕するラウラに、綾御前は頷いて見せる。
「それぐらいのことはしてのける女よ。あの化け物女と戻って来たのであろう?」
「対対対(そうそうそう、と言う意味)、おっきいお姫さまの言うとおりですにぇ。ゲゼルさんの忘れものに、ワタシも付き合ってやったですにぇ。ワタシも、あんたと約束したでっけぇ忘れものがありましたのでにぇ」
王蝉は言うと、またあの不気味なポーズを取った。
「おっきいお姫さまに約束したですにぇ。今度こそこんな風に食べやすーくばらばらに切り刻んで、鱶の餌にしてやるですにぇ」
王蝉が取ったのはあのときと同じ、両脇の中にそれぞれの掌を握り込んだまましまう独特の構えだ。この状況を見ると相手はやはり刃物のようだが、あの身体のどこに刃物を仕舞いこんでいると言うのだろうか。
「ちなみにさっきは逃げられたけど、見ての通りこっからは誰も通さないですにぇ。危ないですよお。先に言っときますにぇ」
「倭寇の女よ、なぜあのビダルに加担する?」
「はにぇ?今さらそれを聞くですかにぇ?」
虎千代が尋ねると、王蝉は昼寝を邪魔された猫のように目を丸くした。
「ワタシはこれが商売ですにぇ。師が作る不死の薬、明へ持って行っても高値で売れますにぇ。中原の皇帝、みな不老不死が大好きですからにぇ」
「…かような下らぬ理由で、このような惨状を進んで生み出したるか?」
「にぇっ、にぇにぇ!大きな商売には犠牲が付き物ですにぇ。て言うか、今そんなこと言われても困りますにぇ」
押し殺した虎千代の激情も、王蝉には通じなかった。
「退け、お虎、ここは綾一人でいい」
殺気だった虎千代を押しのけると、綾御前は杖を構えた。
「危ないから下がっておれ。あやつの得物、信じられぬほど遠くまで届く」
綾御前は王蝉と一度戦っているのだ。その武器の見当はついているようだ。
「へぇ、ようく判っててくれてますにぇ。ワタシの得物の正体を。まあ、どーせあんたたち全員、生かして帰さないから別にいいですけどにぇ」
王蝉は言うと、間合いをとる綾御前を遠巻きに軽く腰を落とした。二人の距離は、まだ五メートル近くある。
「ウォン・ロン・シー」
その不可解な言葉を口にしてから、王蝉は細い目をさらに細めた。
「…あ、ちなみに武器の名前ですにぇー。はいっ、初めての方、手を挙げて!」
もちろん誰も挙げるものはいなかったが、誰もそんな武器は聞いたことがない。
「面白い。大陸の言葉は判らんがな。だが、そも綾の杖術も中原直伝の武術よ」
綾御前は不敵に笑うと、あごをしゃくった。
「来い。一手指南してやる」
一気に複数の相手を斬殺した謎の武器を呑んだ王蝉が、まず迫る。
ついに、ビダルたちとの決着の激突が始まろうとしていた。




