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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
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急襲する死の天使!黒姫奪還の非常事態、虎千代の果断とは…?

熱を持って腫れ上がったあごで噛みしめると、血の味にじゃりっと、陶器の破片のような欠片が入り混じる。

(ちっ)

鬼小島はそれを顔をしかめて吐き捨てた。これで何度目か。血の泡に混じっているのは、なんと細かく欠けた歯の破片だ。

それは今からちょうど、三十分ほど前のことだ。

一瞬の隙を突き、鬼小島は最初の追手であるイェスパを何とか喰い止めた。それから数合、撃ち合ったのだが、あの歴戦の鬼小島にしても、高度な技能に裏打ちされたイェスパの格闘技をこの局面を打開する糸口はいぜん見つからない。

(おいおい、相手は素手だぜ)

心中、毒づいてみせるがイェスパは鬼小島よりさらに頭一つほど身長は高いが、リーチも並み外れて大きい。だらりと脇に下げれば拳は膝関節近くまで届くし、両手いっぱいに広げればその長さは、二メートルを悠に超えるだろう。

さらにはイェスパの両拳に嵌められているのは、鋼鉄の刃を防ぎきる凶悪な鈍器だ。それは、もちろん競技用の衝撃を吸収するボクシンググラブなどではない。鉄鋲のついた革手袋のようなものだ。

利き腕の左手を垂直に立て、ボディから顔の側面を守るとイェスパは、反対側の右拳は倒して腹の脇に下げる。そこから、その右腕の前腕が振り子のように上下した。死神が鎌を振りかざすような特徴的な構えだ。出入りを誘うにようにせわしなく動く右腕から、繰り出される一撃は、角度もタイミングも変幻自在でかいくぐれる隙がない。さらにはこの左右は、鬼小島の動き方によって突然入れ替わった。

(こいつ…どっちの腕も利きやがるのか)

それも鬼小島を混乱させる要因だった。近代ボクシングを知らない鬼小島には無論、スウィッチヒッターの概念はない。ボクサーは訓練によっては、右利き、左利き、どちらも自在に扱えるようになるのだ。イェスパはそのコントロールを、ほんの僅かな継ぎ目を見せぬほどの絶妙なタイミングでやってのけた。

しかもここは、長い武器を自在に振り回せない杉木立ちの間だった。太い古木の左右から不規則に左右の両腕を突き出してくるイェスパを捉え切れないまま、鬼小島はすでに、かなりの体力を消耗してしまっていた。

やがて音もなく、イェスパの長身が姿を現す。無駄な肉のついていないその身体は、鬼小島の死角に回りこんで、長巻のような長大な武器も容易に翻弄した。

「くうっ」

長巻の刃を鬼小島は翻そうとしたが、それよりも早くイェスパはその懐に飛び込んでいる。

「無駄だ」

長巻の柄で鬼小島の動きを抑えつけるようにすると、イェスパは素早く数発のボディを放った。肝臓を狙った的確な一撃だ。鬼小島は胴丸をつけているが、衝撃は深く身体の芯にまで響く。

苦し紛れに鬼小島は反撃しようとするが、そのときにはイェスパは素早く、木立ちを楯に距離を取っている。

「くそ…ふらふら妙な技で嬲りやがって。いくさやる気あんのかよ」

イェスパはフットワークを踏みながら、かすかに首を傾げた。

「失礼なことを言うな。ボクシングはれっきとした軍隊格闘だ。紀元前四千年のエジプトですでに兵士たちの戦闘術として採用されていたんだ。おれたちの時代には、ただの娯楽だが、戦い方によっては十分、お前みたいな武器持ちとも渡り合えるのさ」

「知るかよ」

血の塊を、鬼小島は吐き捨ててから、気づいたように言った。

「…て言うかお前もビダルと同じ、未来から来たのかよ」

「部下だ。ボスにはずっと世話になってる。ボスの判断は、常に正しかった」

「へっ、こんなことになってもかよっ」

ふいを狙って鬼小島は武器を振り回したが、イェスパはそれをふらりとすり抜ける。

「あさはかだな。油断すると思ったか」

「いてっ」

話しながら、イェスパは細かいジャブを積み重ねてくる。不覚にも被弾したのはむしろ、鬼小島の方だ。

「またそれかよ、こうるせーんだよさっきから…大体てめえ、なぜ一気に仕留めに来ねえんだよっ」

「そのときが来たら、行くさ。こっちだって時間がないんだ。お前一人に、時間を浪費していられない」

そのとき深い地鳴りのような音がしたのに、鬼小島は気づいた。心なしか小刻みに地面が揺れている感覚があったのだ。

「聞こえたか」

イェスパは無造作に辺りを見回してみせた。

「あれは、爆薬を使ってる音だ。今頃、ゲゼルがお前たちに追いついているはずだ。残念だったな。あの女は、お前たちを絶対逃がさない。お前が捨て石になったののも、これで無駄だ」

「へっ、あの金髪の化け物か。あんな女一人でお嬢たちが止められると思うなよ」

遮るように鬼小島は言うと、がしゃりと足元に長巻を棄てた。そして腰に差した鎧通しを逆手で抜き、ゆっくりと腰を落とす。

「あんまりおれたちを舐めるんじゃねえよ」

戦い方を変えた鬼小島に、イェスパは表情を動かした。

「なるほど、悪くない判断だ。これでまだあと少しは、遊んでやってもいいかもな」

「るせえっ、その言い方がいちいちむかつくんだよっ」

鬼小島は吼えたが、イェスパの言うとおり、その戦い方はボクシングを知らない鬼小島が選びうる最良の戦い方と言えた。

言うまでもなく狙いは、超接近戦である。距離感を制するイェスパの技の秘密はリーチの長さと足運びだ。その距離を潰して懐に飛び込むことは、その両方の利点を潰すことに他ならない。鬼小島が瞬時に判断した戦い方は、現代の総合格闘家がボクサーと相対するときに取る常套手段とも言えた。

しかし鬼小島の技は、戦場で鍛え上げられた具足組手である。

その技はかつて虎千代がしてみせたように、相手を殴り殺したりするばかりではなく馬上の敵を投げ飛ばして組み伏せたり、逆技(関節技)や絞め技も含む、容赦なしの戦場の格闘技だ。

中でももっとも恐ろしいのは、左手に構えた鎧通しだ。これは当時の具足での格闘の必需品とも言える代物だった。

この鎧通しと言う武器、左手差(めてざ)しとも言う。利き腕で相手を抑えつけて使うためだ。

長剣に比べると寸が短いので斬り合いには不利だが、身幅が厚く丈夫に作ってあるために、どんな乱戦でも折れることはない。現存する鎧通しの中には、刃を頑健にするために切っ先だけを鋭く尖らせて、刃がつけられていないものもあるほどだ。これで硬い鎧の隙間をこじ開けて、急所を突き刺したり、強引に首を掻き取ったりするのだ。鎧通しはいわば、武士たちが戦場で使いうる最後の武器と言っても過言ではない。

鬼小島が使えば、それはまさに解き放たれた肉食獣の牙だ。この豪刀ならば、同じ巨漢とは言え、イェスパの首を押し切りにねじり獲ることなど造作もない。

前傾姿勢を保ったまま、鬼小島は無言で迫る。勢いだけで攻撃してきていたさっきとは打って変わって、不気味な威圧感だ。

イェスパの足運びを読み切ろうと、じりじりと間合いを詰めてくるその姿に、さすがのイェスパもさっきのような、うかつなジャブは放てない。

「へへ、やっとそのこうるさい手が止まりやがったぜ」

刃物をけん制に使い、鬼小島も相手の間合いを操ろうとする。先ほどと違い小回りの効く武器は懐が深く、イェスパの『得物』に対しては何より効果を発揮した。どれほど離れた間合いから放とうと、イェスパは必ず自分の拳で攻撃しなくてはならないからだ。

「甘くみるなよ」

そして一方、さっきとは違う鬼小島の雰囲気に警戒しながらも、イェスパもだらりと下げた片腕はそのままだ。反対側の手で防御を行うようになっているとは言え、パンチを放つ方の半身の防御はがら空きになっている。鬼小島を誘いこもうとしているかのようだ。

一転、鬼小島が動いた。鎧通しを急所に突き刺そうと、左に溜めこみ、反対側の利き手でイェスパを捕らえようと入り込む。柔道の奥襟を取る要領だ。

イェスパは素早く後退しながら、めまぐるしくジャブを繰り出す。その長い腕は変幻自在の軌道を描きながら、めまぐるしく鬼小島を打ち据える。土砂降りのように降り注ぐ手数に鬼小島も顔を伏せたまま堪えるのが精いっぱいで、中々その懐に入れない。

「くそおっ、大体なんなんだよっ、その殴り方は」

「お前に言っても判らないとは思うが、いいだろう。教えてやる」

イェスパはジャブを放った長い腕を振り子のように揺らすと、間合いに入りかけた鬼小島を突き放した。

「これがフリッカーと言われるジャブを駆使した、いわゆるデトロイトスタイルの基本的な戦い方だ」

「は…?なんだって…?」

もちろん、鬼小島にはちんぷんかんぷんだと思うので、一応解説をすると。

フリッカーとは腕のしなりと手首の返しを使い、パンチを繰り出す撃ち方だ。通常のジャブが肩を入れて体重を乗せ、ほぼ真っ直ぐの軌道を飛んでくるのに対してフリッカーは手首のスナップを利かせることにより、腕の筋肉のしなりと遠心力を使って打つ。基本のジャブをラウラやミケルの使う刺突剣とするならば、いわば先端に重りを入れた鞭を想像すると分かりやすい。

通常、ボクシングのパンチは肩を入れて体重を乗せて威力を出すので、腕の力任せのいわゆる『手打ち』を嫌うのだが、フリッカーでは特に腕の作用が重要視される。手頸の強さはもちろんのことだが、何より腕のしなりを活かすための長いリーチが必要不可欠なのだ。

確かに体重の乗らないパンチでは相手を倒すと言う威力は減殺されるが、その分、腕を使って打つので連射が利く上に変幻自在の軌道を確保できる。この上、足を使って相手を翻弄すれば、速射砲のようなジャブの嵐で相手を釘付けにすることが出来るのだ。

「ちなみにこのデトロイトスタイルを駆使して、史上初の五階級制覇を成し遂げたのがトーマス・ハーンズだ。一九八〇年代初頭、マービン・ハグラー、シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュランと言った名手とともに、黄金の中量級時代を作り上げた男は、そのスタイルから、『殺し屋(ヒットマン)』『マシンガン』の異名をとった」

その独特のリズムと距離を保ちながら、イェスパは猛牛のような鬼小島をコントロールすると、独り言のように話を続けた。

「トーマス・ハーンズは身長一八五センチにして、リーチが一九八センチと中量級にしては恵まれた体格を持っていたが、アマチュア時代の一五十五勝のうち、相手を倒して勝った、いわゆるKO勝ちはわずか十二勝。愚直なワン・ツーが得意なだけの、非力なアウトボクサーに過ぎなかった」

しかし、ハーンズは、デトロイトでクロンク・レクリエーション・センターで指導を始めたエマニュエル・スチュアートに育てられ、その才能を開花させる。デトロイトスタイルを身につけたハーンズは、アマチュア時代の非力なボクシングを一変させ、デビューから破竹の十七連続KOの記録を打ち立てるのだ。

「非力とされたハーンズが、このデトロイトスタイルをなぜ使いこなせたか、分かるか?」

「知るかよっ」

鎧通しを振り回した鬼小島の勢いに圧されたか、イェスパは打ちかけたフリッカーを引っ込め、足を使ってポジションの入れ替えようとする。背後はまるでコーナーポストのような杉の巨木だ。

「逃がすかあっ」

鬼小島が態勢を低くして、イェスパの懐深く入り込もうとしたときだ。

そのこめかみを狙って、折りたたまれた右腕が斜めに突き下ろされた。拳は鬼小島の顔の横をかつん、と撃ち抜いた。すると狙撃手に撃たれたように、鬼小島の膝が真っ直ぐ落ちた。

「あ…?」

事態が判らないまま、鬼小島はもがいたが、自分の意志で身体が動かない。落ちた膝の上に上体が力を喪い、顔から地面に落ちた。完全に意識が絶たれている。

パンチはクリーンヒットしたようには見えない。イェスパのグラブについた鉄鋲は、鬼小島の兜の端をかすかにぶらしただけだ。

「これがその理由の一つだ。彼は学んだんだ、ボクシングでもっとも効果的な打撃がなんであるかを。それは決して力任せに殴ることなんかじゃない。問題はいかに合理的に、人体を機能させなくするかだ。あごの骨を砕かずとも、頭蓋骨の急所を揺さぶって脳震盪(のうしんとう)を起こさせれば、相手は容易に壊れる」

棒のように倒れた鬼小島は、目は開いているがもはや指一つ動かせない。

「どうだ、もう動けまい」

イェスパは射殺体のようなその姿を見下ろすと、レフェリーの代わりに無情なダウンを宣言した。

「これで終わりだ」


その頃には、地鳴りの音はますます強くなってきていた。断続的な爆発音に空気どころか、風景全体がブレ始め、不穏な緊張感を増している。うつぶせに倒れ伏した鬼小島の身体もそれにつれて小刻みに揺すぶられたが、巨体は動く気配もない。

「下は大分、無茶してるようだ。お前は運が良かった。私が相手でな」

返事のないその身体に独り言のように話しかけながら、イェスパは震える空を見上げた。

「あの女はいかれてる。あいつにバラバラにされるよりは、そうやってぐっすり寝てる方がどれだけましか」

「…いかれてるのを知ってるなら、なぜあんな真似をしやがる」

軋るような鬼小島の声が突然響き、イェスパも表情を強張らせた。完全にあのパンチは振り抜いたはずだった。本来なら、あれで自力で目を覚ませるはずがなかった。

「お前…まだ立てるのか」

「ああ。身体のどっかがぶっ壊れたわけじゃねえ。だったら、戦える。それがいくさ場だろうが」

と、言うと鬼小島は手の甲で身体についた土を払いながら本当に立ち上がった。

「だが痛くねえのに動けねえって言うのは、初めてだ。おれも知らねえうちに、地面で眠らされてるとはな…ボクシングだかなんだか知らねえがよ。悔しいが、認めてやるぜ。確かにこいつはおれたちのいくさ場にはねえ…理にかなった戦い方だ」

兜が威力を軽減したのかと思えるが、いやそんなことはない。何かで顔を覆っていたとしても、衝撃で脳そのものを揺さぶるやり方は、利点を喪わないのだ。

「お前まさか、当たる瞬間打撃の方向へ顔をぶらして…?」

イェスパは愕然とした。ヘッドスリップと言われる高等技術を鬼小島があの局面でやってのけたからだ。

「さあな。お前の拳を何発も喰らい過ぎて、こっちは憶えちゃいねえんだ」

こんこん、と拳で鬼小島は自分のこめかみを叩いた。

「だがよ、いくさ場の勘は寝てても忘れやしねえ」

イェスパは目を見張った。

「さすがに戦国(センゴク)の武士だ。思ったよりも、骨のある男のようだ」

「あんたもだよ。あんた、あの化け物みたいな金髪女をいかれてると言ったよな。それでもなぜ、あいつらがやってることを止めない?」

「馬鹿な。何を言うかと思ったら」

イェスパは目を丸くして、肩をすくめてみせた。

「おれがボスの判断に口を挟むことは、かつてありえない。なぜならボスの判断は常に正しいからだ」

「軍令には理由を聞かず服従するってのは、今も昔も変わらねえみたいだな」

鬼小島はイェスパのパンチで腫れ上がった鼻を鳴らした。

「言うまでもない。当り前のことだ」

「だがな、あんた自身はこの島のことはうんざりしている。誰だってうんざりするさ、あいつらは虫けらを殺すようにただただ、死体の山を量産してんだ。島の住民だけじゃない、よそからさらって来た連中まで使ってな。確かにおれらが行く戦場は死体の山だが、あいつらのすることよりは遥かにましだ。違うか?」

「詭弁だな」

イェスパは拳を固めると、再び、デトロイトスタイルの構えに戻った。

「お前も軍人なら、分かるはずだ。判断するのは、おれたちの仕事じゃない。それがどんな理由あってのことでもだ。それが、ボスが求める理想の兵士だ」

「ただ、戦うのか。何も考えず、死体のようにか?」

「ああ、ボスの判断はいつもおれより正しかった」

振り子のように腕を振りながら、イェスパは眉をひそめた。

「そうかい。そいつは、いよいよ救いようがねえな」

鬼小島は吐き捨てるように言うと、放りだされた鎧通しを拾い上げ、その柄で胸を叩いてみせた。

「お嬢なら、そんなことは言わねえ。命令の如何に問わず、おれが信じた大事なことなら、ここに仕舞っとくなって言うさ。それが命令なんかより、おれたちにとって本当に大事なことならな」

「…御託はいい。何を言おうとお前は、おれを倒さない限りは何も出来やしない。それがおれたちが生きる戦場ってものだったはずだ」

「ああ、いくさ屋ってのは因果な商売だよ」

足を踏み固めて、鬼小島はゆっくりと腰を落とす。なんと、デトロイトスタイルで完全に封じ込められたのにも関わらず、再び刃物を使った接近戦闘に戻ろうと言うのだ。

「正気か」

イェスパはさすがに目を剥いた。

「考えがないのは、お前だ。その顔の腫れ、忘れたのか」

「よく憶えてるよ。だがよ、こっちも仕事だ。やらなきゃいけねえことは、どんな手段使ってもしなきゃいけねえんだよ」

フリッカーは芯に響く威力はないが、鞭のように顔の表面に腫れを残す。鬼小島の顔は今や、目が塞がれるほどに腫れ上がっていたが、その目は白く潤んで真っ直ぐに、イェスパを見つめ続けていた。

「また同じことの繰り返しをして何になる。寝ていた方がまだましだぞ。お前こそ、救いようのない馬鹿だ」

「るせえな。馬鹿は馬鹿なりに考えがあんだよっ!」

鬼小島は吼えると、一気に間合いを詰めた。さっきと寸分違わぬ、勢い任せの特攻だ。その頑迷さにイェスパは顔をしかめて、首を傾げる。

「理解出来ん」

もちろん、イェスパにまったく躊躇はない。かすかに上がったあごを目がけて、突進を止めるためフリッカーを放り込んだ。

猛牛の顔が跳ね上がり、足が止まる。やはり何も変わっていない。なすすべもなく、フリッカーを被弾した。

「畜生っ」

そこから苦し紛れに攻撃を再開してたとしても、フリッカーを放ちながら、イェスパは鬼小島の間合いの遥か外に回っている。うんざりするほど繰り返されてきた展開が、また姿を現すのか。

と、思えた瞬間だ。

「うっ」

長い腕を突き出して(たい)を入れ替えようとしたイェスパに対して鬼小島は、左手に構えた鎧通しをいきなり投げつけたのだ。

突くと見せて、得物を投げつける。

離れるはずの間合いを思いもよらない方法で潰してきた鬼小島の攻撃に、イェスパは意表を突かれはしただろう。それでも唯一の武器を棄てると言う手はあくまで奇策であり、冷静に対処すれば致命的なミスを被らずに済むと瞬時に判断がついたのだ。イェスパは手首を翻して、フリッカーでそれを撃墜した。

問題はそこからだった。

目の前の鬼小島が、消えた。

小刀を撃ち落とすために一瞬集中を移したイェスパの視界から、突然、鬼小島の巨体が消えた。あの巨体が見えなくなったのだ。さすがにイェスパも心を動かされた。

(どこだ)

答えは下だった。なんとあの刹那、鬼小島はさらに低く身を屈めてイェスパの足腰をひっこ抜こうと超低空タックルをかけてきたのだ。

ボクサーは腰から上を打つルールがあるために、極端な上下動には対処が遅れる。顔面への攻撃をフェイントにしてすぐさま、低空タックルに移る。知ってか知らずしてか、鬼小島は奇しくも総合格闘家が行うボクサーの泣き所を突くためのもっとも効果的の秘策を繰り出してきたのだ。

「ぬをっ」

端正なイェスパの表情に初めて、歪みが走る。猛牛の突進を受けたせいでフットワークは止まり、完全に懐に入られたのだ。何とか押し倒される愚は避けたが、腰にぴったりと組みつかれたイェスパに状況を打開する効果的な手段はない。

「まさか、あの突進を何度も繰り返してたのは、これをするためか…?」

「ああっ、痛え思いにはうんざりだが、やっと引っ掛かってくれやがったなっ」

ボクサーの泣き所は足腰とは言え、遠い間合いで低空タックルを仕掛けても、動きは丸見えなのでフリッカーで牽制されてしまう。鬼小島が考えたのは、自分もパンチのタイミングに慣れること以上に、相手の目を慣らすことだったに違いない。

同じような展開に集中力を切らせる一瞬に鬼小島は賭けたのだ。そして駄目押しの奇策に、イェスパは掛かった。

「お前、あの一瞬でそこまで考えて…?」

「馬鹿には馬鹿の考えがあるって言ったろうが」

イェスパは愕然としたが、すでに時は遅い。

「ぶっこぬいてやるぜっ!うおおおおおっ!」

巨木をひっこ抜くように、鬼小島の巨体がイェスパの細長い身体をリフトする。無駄な肉がついていないとは言え、イェスパの身体は巨大だ。その両足が高く、地を離れた。その態勢から、鬼小島は背後に思いっきり倒れこんだのだ。地獄直行のブレーンバスターだ。二人分の体重にスピードが乗った投げ技は、大型車の交通事故級の破壊力だった。

「くそっ」

しかし、それで仕留めるには至らない。落下の一瞬、イェスパは長い腕を使って受け身を取ったのだ。脳が揺れるほどの衝撃はあったが、それでも何とか持ち堪えた。同じく後ろに倒れこんだ鬼小島と、立ち上がったのもほぼ同時のタイミングだった。

コンマの差で早く立ち上がった鬼小島が岩石のような右拳を振り上げてこちらに殴りかかってくる。膝を突いたまま、イェスパも反射的に長い腕を突き出した。

まさにその一瞬のタイミングの差が、明暗を分けた。

かつん、と軽い音を立てて、驚くほどスムーズに拳が振り抜かれた。

交差した二つの腕、イェスパの左腕は鬼小島の頭の後ろをすり抜けている。一方、鬼小島の拳は、イェスパの長いあごを的確に撃ち抜いていた。絵に描いたように見事なクロスカウンターが決まったのだ。

「なんだと…お前…おれの技を盗んで…?」

イェスパの身体が糸が切れた人形のように、膝をついて力を喪う。

「馬鹿言え。おれはボクシングとやらは、知らねえ。まあ興味はあるがな」

拳を突き出したまま、ふれれば切れるような今の一瞬の緊張を解くため鬼小島は大きく息をついた。

「だがよ、これだけは知ってるぜ。あごの長いやつはそこが弱点だってな」

いわば振り子の原理だ。長いあごを撃ち抜かれると、その分だけ派生する大きな振幅は脳に致命的な衝撃になって響く。完全なタイミングでそのあごから脳を大きく揺さぶられたイェスパにはもはや動く力は残されていなかった。

「ふ…馬鹿め…それが…ボクシングだ」

その言葉を最後に、イェスパは音を立てて倒れこんだ。鬼小島はそれを見下ろして、むず痒そうにもう一度ため息をついた。

「だから知らねえって言ってるだろ」

ちなみに、だ。五階級制覇と言う前人未到の記録を打ち立てた、トーマス・ハーンズの唯一の弱点はその典型的なもろくて長いあご(グラス・ジョー)だったと言われる…が、もちろん鬼小島が知るはずもない。


「で…どうなったのだ?」

「どうなったか…すよね。えっと」

虎千代が詰め寄ったが、怪我で朦朧(もうろう)としているせいか、鬼小島は目を白黒させて怪訝そうな顔をするばかりだった。殴られ過ぎて記憶がぶっ飛んでしまっているせいか、順序良くあったことを思い出すのに時間が掛かるらしい。気持ちは分かるのだが、聞いているこっちがじれったい。

さすがの虎千代も痺れを切らした。

「お前の話ばかりで黒姫の話が、いつまで経っても出て来ぬではないかっ!無事なのかそれとも、お前のようにどこか傷を負わされたのか!そっちはどうしたのだっ?」

「…いや、あの腹黒に会ったのは、憶えてるんですよ。それがそのう…」

と言った瞬間、血まみれで怪我してる鬼小島の頭を綾御前の杖が容赦なく叩いた。

「たっ、何するんすか、いきなりっ!」

「ふんっ、家臣の調子が悪い時は、こうすれば治るのじゃ。どうだ、何か思い出したか」

虎千代の家臣でも遠慮と言う概念がない綾御前は平然と言う。しかし、叩けば治るって、壊れたテレビの直し方か。

「あーっ、いってえっ!おっ、思い出しましたって…あいつを倒したら、すぐにおれはお嬢の跡を追ったんです。そしたらもうこの辺り一帯がこのざまで…」


火薬や酸の臭いを孕んだ白煙が充満し、この辺りはすでに死の森と化していた。鬼小島はその中でようやく、武器を持ってたたずむ黒姫の姿を見つけたのだ。

「おーい、腹黒平気かっ!?」

「ぴいっ、なっ、でかぶつっ、戦闘中なのになぜ平然と話しかけるですかっ!?」

突然声をかけられて、黒姫もさぞやびっくりしたに違いない。

「いつものことだろ。お前一人か。お嬢たちは?」

鬼小島は辺りを見回した。

「とっくに先に行ってもらってますですよ!こっちはうすらでっかいだけのあんたの相手と違って、大変なのですよっ」

なぜか黒姫は、柄にもなくうろたえている。鬼小島もさすがに違和感を持った。

「あのキチまってる金髪女の医者だろ。びびってんじゃねえよ。つーか、どこに居るんだよ?」

そのとき、白煙で歪んだ視界がゆらぎ、そこから一つ女の影が迷い出てきた。

「てめえ…?」

その姿を目の当たりにして、さすがの鬼小島も絶句した。

そこに現れたゲゼルは、僕たちの前に初め現れた姿からはまるでかけ離れた姿をしていたからだ。

それは人間などではない。まるで狗と人との間、おぞましい獣人だった。

白衣の下からのぞく発達しきった筋肉の張りきった手足には、針のように強い黒毛がびっしりと植わっており、拳は皺ばって黒ずみ、まるでゴリラやオランウータンのそれだ。また何より驚いたのは、顔である。ゲゼルはあの無表情な肉の下に、本当の顔を隠していたのだ。

僕は初対面で、ゲゼルと言う金髪の女性の表情が乏しくぎこちないのに違和感を持ったのだが、それは正真正銘、仮初めの顔だったのだ。

あの女性の顔はいわば、肉で作った仮面だった。それが今、無惨にも半分、ちぎりとられ、その下にある本当の顔が晒されている。

鬼小島と黒姫が見たのは、まさに狼とも猿とも人間ともつき難い、不気味な素顔だったのだ。拳と同様に、顔色は栗の渋皮を張り付けたかのように灰色に皺ばみ、犬のように尖った鼻の下には耳の端まで割れた長い犬歯をもった口が、のぞいていたのだ。知切狠禎のそれと、ほとんど同じ、人智を超えた異形の怪物だ。

「ひっ、ひい…出たですよ!」

あの顔が何より苦手な黒姫だ。思わず傍らの鬼小島にすがりついたのも無理はない。

「なんだよ、戦ってたんじゃねえのかよ」

「たっ、戦ってましたですよっ!で、ででででも、苦手なものはしょうがないじゃないですかっ!」

イェスパ同様、どうやらこちらも手が合わない相手だったようだ。

「この顔がそれほど怖いですカ、黒姫サン」

ゲゼルは人間以外の動物が無理やりしゃべろうとしているような、軋るような声音を出した。恐らくはそれが、本来の声なのだろう。

「確かに…ワタシは人の手によって産まれさせられた怪物です。ワタシは第二次世界大戦のさなか…占領下のポーランドから来ました。そこではユダヤ人の女性を実験台にして、半分人間、半分獣の獣人兵器を作る研究、進められていました。ワタシ産まれさせたのは、ナチスドイツと言う軍事国家でした」

「軍事兵器…?おい、あいつも軍人なのか?」

「わっ、わたくしに訊かないで下さいよ。真人さんならともかく、未来の軍隊のことなんて…わたくしには関係ないし、知りたくもねーですってばよっ」

軍と言うキーワードに反応して鬼小島は首を傾げる。黒姫は、いぜんその顔を直視できないままだ。

「正確には軍属でス。ワタシ、同じような獣人を作るため研究されていた。でもまさか、この時代、この国に来て驚いた。すでに同じような獣人、この国に住んでいタ。彼らはワタシの仲間、種で繋がった同志(ドウシ)

「ははあっ、あんたが絶息丸にこだわった理由が判りましたですよ。あんたは、あの狗肉宗の宗徒たちを自分の仲間だと思ってる。つまりはわたくしたちを狙ったのはその復讐もかねてのことですかっ?」

黒姫の糾弾を不当なものだと言うように、ゲゼルは首を振った。

「半分はそうですガ、ワタシには個人的な恨みはあなたたちにはナイ。ただ、知りたいだけでス。あなたたちに殺された彼らが何をこの時代に残そうとしたのかを。そのためには黒姫サン、あなたには何があっても来てもらいまス」

「行ってたまりますかですよっ!て言うか、あんたと行くなんてなお更真っ平ごめんですよっ」

「なにがなんでも連れて行くと言ったでショウ。多少の怪我なら、ワタシが見てあげること出来マス。もう時間がない。これから最後に残された道から船を出してここを脱出します。黒姫サンには、ぜひともワタシたちについていってもらわねばなりません」

「状況みろよっ、二対一だぜ」

「そっ、そそそうですよっ!こっちはでかぶつが居るんですからねえ!」

「お前、戦う気…あるんだろうな?」

鬼小島はすっごく不安な気持ちになったが、とりあえず黒姫をゲゼルに渡さないために武器を構えたと言う。

「いくさだ。こっちは二人がかりでも文句はねえはずだぜ」

「二人?」

そのときだ。ゲゼルがなぜか首を傾げて見せたのだ。

「ならばちょうどいいはずでス。こちらも二人ですカラ」

その意外な言動に、二人は怪訝そうに眉をひそめた。

「なんだと?」

その瞬間だ。

なんの前触れもなく、一発の銃声が鳴り響いた。

灼熱色に焼けた鉄棒を腹に突きこまれたような熱い衝撃の後に、鬼小島は自分の胴に銃弾による穴が開けられていることに気づいた。

「あ…う…?」

弾は背後から抜けて、目の前に倒れこんだ丸太の幹に炸裂して木片を撒き散らしている。撃たれたのだ。声らしい声を、鬼小島が声を上げる間もなく。

背後から忍び寄ったビダルが鉄のブーツで、鬼小島の左の腿を踏み砕いた。膝関節を攻撃して即座に相手の機動力を奪う軍隊格闘特有のローキックだ。

がくりと膝を落としたその巨体をビダルはそのまま裏拳で背後に打ち倒すと、今度は突然過ぎる事態に愕然としている黒姫の背後を取ったと言う。

「これは戦争。確か、そうだったよな?」

手刀を頸に叩きこまれ、黒姫は声もなくビダルの腕の中に落ちた。

「てっ、てめっ…」

ダメージで朦朧とした鬼小島が最後に訊いたのは、ビダルの棄て台詞だったと言う。

「こっちは一人で十分だったな」


なんて奴だ。

改めて僕はこの悪魔の恐ろしさに、驚愕した。まさかだ。怪我をしていたし、ふいを狙ったとは言え、ビダルは鬼小島を難なく崩し、黒姫まで倒すとは。あまりに凄まじいビダルの技に、虎千代も綾御前もラウラも、継ぐ言葉を喪って唖然としている。

「ゲゼルは…最後に残された道から逃げる、と言ったのだな」

虎千代はようやく、ひび割れた声を出した。

「姉上、心当たりは?」

「うむ…そうじゃな。まあその…一つ、心当たりはなくもないが」

「どこですか」

綾御前が地図を出して指し示したのは、島の最深部である。あの恐怖の収容所の真下へ続く穴だ。

「ここだけは、我らの手が回らなんだ。ゆえに外に抜け道があるとは保証できぬし、ここからやつらが逃げると断言もできぬのだが…」

綾御前は言い渋ったが、虎千代は迷わなかった。

「では、そこまで案内を頼みます。今度こそ、絶対にあやつらを逃がすわけにはいかぬのです」

すがるような声で、虎千代が言ったのを僕も悲痛な思いで聞いていた。

必ず戻ります。

「黒姫」

ここへ来る直前、黒姫が自分の身代りだと言って手渡した形代を、虎千代は、その名前をつぶやきながら、いつまでもじっと握りしめていた。


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