真菜瀬さんが拉致!?怒りに我を失う真人たち、立ち返らせる一言とは…?
真菜瀬さんが、いなくなった。連れて行かれた。
ビダルに、無理やり。
「どうして…?」
虎千代をはじめ、僕たちはいつまでもその言葉をつぶやき続けた。まるで僕たちの元に真菜瀬さんがいなくなったことを、まだ確かめ切れていない、と言うかのように何度も何度も。
僕たちはなかなか、受け入れられ得なかったのだ。彼女がビダルの手に落ちたことを。そこにいる誰もが、本当は一瞬でその問いかけに対する唯一無二の解にたどり着いていたにも関わらず。
ビダルは知っていたのだ。
僕たちが何より、誰を大切に思っているかを。
真菜瀬さんは生駒山でラウラが連れてきた孤児たちを無尽講社に預ける手はずを整えると、その足で絢奈と堺に戻っていたらしい。
『しまへび屋』のオープン準備が終わっていなかったのだ。ラウラの件で頓挫した仕事が山とたまっていた。真菜瀬さんは僕たちを気遣ってずっと黙っていたみたいで絢奈も、
「真人くんたちに愚痴っちゃだめだからね。ラウラちゃんのことは、元々わたしが頼んだことなんだし」
と、固く口止めされていたようだった。
考えてみれば宗易さんも僕たちの案件に引きずられて、お店どころではなくなってしまったのだ。実質ノウハウを持っている真菜瀬さんの肩に負担が一気にのしかかるのは、自明の理だった。戻ってから真菜瀬さんはほとんど、眠る暇もない忙しさだったようだ。
その真菜瀬さんがさらわれたのは、僕たちが堺に戻ったちょうどお昼頃だったと言う。その朝、真菜瀬さんは絢奈にたまには外でご飯を食べようと、誘ったのだった。
「せっかく堺に遊びに来たのに、お手伝いばっかりさせてごめんね」
ちょうど無尽講社が経営する小さな料理屋が、住吉浜の近くにあったのだそうだ。そこでご飯を食べて、二人で住吉社へ買い物に出かけることにした。二人には久々の息抜きになったみたいだ。真菜瀬さんも仕事を忘れて、半日楽しんでいたと言う。
不審な男に、最初に気づいたのは絢奈だった。屋台で買った食べ物を持って、少し休める場所へ二人で入ったときだ。通りの外れに小さなお社があった。真菜瀬さんと絢奈は陽射しを避けて木蔭に腰を下ろし、ひと息ついていた。その男はそこに、音もなく現れたと言う。
「あ…外国の人?」
声をかけてきたのが外国人と知って、絢奈は怪訝そうに真菜瀬さんと顔を見合わせた。
堺の街中で確かに南蛮人の往来は珍しくはないのだが、それは港湾エリアかその付近にある繁華街で、神社の門前市などは中々近づかない。ごく自然発生的な棲み分けがなされているのだ。
男は黒髪に黒いマントを羽織り、丈夫そうな革のブーツを履いているほかは、どこからどうみても南蛮人の宣教師に見えた。その男が、
「白蛇の真菜瀬さんだね?無尽講社の」
と、はっきりとした日本語で話しかけてきたのだ。
ビダルの口調は淀みなく、ひどく滑らかなものだ。僕が聞いていてもネイディヴ同然で、アクセントにも違和感がない。そしてこの場合はそれが、すぐに常ならぬものと判る。
絢奈はビダルを初めてみたはずだ。にも拘わらず、僕たちが知っているビダルと寸分違わない印象を語ったのはそのちぐはぐさが、異様な感じを与えたためだろう。
「どちらさまでしょうか。失礼ですけど、あなたの顔に見覚えがないのですが」
真菜瀬さんの表情も警戒心で強張った。無尽講社はあくまで非公式の組織名だ。その名前がすんなりと出てくる時点で、相手が尋常な素性のものではないと真菜瀬さんは勘づいたのだった。
「あなたはないだろう。私も初めて会った。だが、無関係じゃない。特に無尽講社のこととは」
軽く肩をすくめるとあくまで物柔らかに、ビダルは言った。
「藤城医師のご夫妻には、随分お世話になりました」
「ああ、煉介の」
言われて、真菜瀬さんの警戒心が少し和らいだ。あまりに巧妙な近づき方だった。煉介さんのお父さんとお母さんは二人とも医者で、ボランティア活動で全国を渡り歩いていたのだ。
「一緒にご活動を?」
「ええ、九州から北国までかなり長くね。ご夫妻にはこの国のこと、色々と教えて頂いたのです。お陰で私も手早くこの国に馴染むこと、出来ました」
ビダルは言うと、ごく自然な動作で二人に近づいた。
「堺には、昨日着いたばかりです。出来れば無尽講社の責任者の方にお会いしたかったので、色々と伝手を探しました。もしその方に会って直接お話をする機会を作ってもらうなら、あなたが適任だと」
ほぼ反射的に、真菜瀬さんは反応してしまった。
「責任者…元締めにですか?」
ええその方です、とビダルは訳知り顔で頷いたと言う。
「私は北国で藤城夫妻の最期に立ち合いました。残念なことですが、お話しできることがあったら、と思いまして。お調べになっていた方がいたと聞きました」
「ええ、うちにそのようなものはおります。情報が少ない中、お話してくれる方は本当にありがたいです。それで、ご都合の方はいかがですか?」
「出来ればすぐがいいのです。私も任期を終えて、インドのゴアに戻る予定でしてね。一度この港を出たらこの国には二度と帰ってこないかも知れません。堺で残った仕事を片付けますので、まず一ヶ月半はこの街に滞在するでしょう」
「では十分ですね。うちからご連絡差し上げます。何か行方が判るものを頂けますか?」
ビダルは懐に手を入れた。真菜瀬さんからは、まだ少し遠い位置に立っている。当然、真菜瀬さんは相手を気遣って立ち上がる姿勢になった。
「これです」
「だめっ」
絢奈が声を上げた瞬間だった。
真菜瀬さんもビダルの懐から出てきたものを見て、はっと息を呑んだ。だがすでに時は遅すぎたのだ。ビダルが手にしていたのはもちろん、メモなどではない。薬品を染み込ませたガーゼのようなものだ。ビダルは真菜瀬さんを抱きかかえるようにその長身で包みこむと、それで瞬く間に真菜瀬さんの鼻と口を覆った。
「ううっ」
使ったのは間違いなく、ミケルがノアザミに嗅がせたものと同じものだろう。真菜瀬さんは小さく呻いただけで、何の抵抗も出来なかった。見る間にその顔から一気に表情が消え、足が萎える。ビダルは酔いつぶれた客を介抱するホテルマンのように、正体を失くしてしまった真菜瀬さんの身体を手慣れた様子で抱きかかえると作業を完遂した。
「やめて…」
ぽつりと、つぶやくような声しか、絢奈は出すことが出来なかった。あまりのことに、完全に動転してしまったのだ。ビダルが真菜瀬さんに薬品を嗅がせて拉致することを何とも思っていないと言うように、ごく淡々としているせいだ。
「君は運が良かった。そう思うことだ。どの道、私が必要なのは、どっちか一人だけだけだったんだ。どうぞみんなにこのことを、話すといい」
「止まって」
去っていこうと踵を返すビダルを、絢奈は呼びとめた。
「真菜瀬さんを連れてくなんてさせない…」
今なにを言ったのだろうと言うように、ビダルは首を傾げてみせる。
「絢奈、大声出すよ!それでもいいの?」
こみあげてくるえづきを堪えながら、絢奈は声を励まして言い放った。なんて無謀なやつだ。でも僕がこの場にいても、そうしたかも知れない。
「やめておけ」
ビダルは真菜瀬さんを抱きかかえたまま、動転する様子もなく言った。
「ここは、知らない街だろう?どうせ誰も来ないさ」
「あっ、絢奈、声、大きいもん。やってみなくちゃ分かんないでしょ」
「ならこれでどうだ」
と言うと、ビダルは指の間から小さな何かを取り出した。それは小指ほどのナイフの刃先だった。許せないことにビダルは、それを絢奈の咽喉にぴたりと突きつけたのだ。
「騒げばその瞬間、これで咽喉を突く。声など上げられないぞ?後には、身元不明の死体だけが残ると言うわけだ。私はそれでもいいんだ。もしかしたら死体の方が、こちらの意志が伝わりやすいかも知れないしな」
はっ、と絢奈は思わず息を詰まらせた。
「あっ、あなた…虎っちとお兄いの…敵?」
ビダルは笑って応えなかった。その苦笑が、答えだと言いたげだった。
「ああ、彼の妹か。じゃあ、彼に伝言がある。君は鋭すぎる。私の事情に立ち入るのはやめておいた方がいい。焦らなくても、いつか私が必ず消しに来ると、それだけ伝えておいてくれないか」
「お兄いを…殺す気なの?」
「敵だからな。さっき言ったろ。私を止めるなら覚悟がいると」
目の前でナイフが閃いた。ひっ、と絢奈は目をつむって身を潜めたが、どこも切れていない。まるで手品のように、小さなナイフはビダルの掌の中に消えていた。
「君は幸運だった。それは、忘れない方がいい」
絢奈は、その時点で腰を抜かしたらしい。足を八の字にしてその場にへたりこんでしまったのだ。絢奈がもはや何も出来ないことを確認すると、ビダルは満足げに微笑んだ。
「長尾のお嬢さんにもよろしく」
それからビダルは意識が混濁している真菜瀬さんを抱え直しながら、悠々と去って行った。
「なにやってるんだよ絢奈…お前、自分がやったことが分かってるのかっ!?」
僕は、思わず声を荒げたので絢奈はまた泣きそうになった。
「ごめん…お兄い、脅されても、絢奈が誰かを呼べばよかったんだよ。真菜瀬さんさらわれたの、絢奈のせいだよ…」
「馬鹿、そんなことを言ってるんじゃない。あの男がどれだけ危険か、絢奈、お前に判ってるのか?」
僕の真意が分かって、絢奈は息を呑んで赤く泣き腫らした顔を上げた。
「危ない真似するなよ。そんなことしたって、誰も喜ばない。僕たちだって、真菜瀬さんだって」
虎千代も黒姫も、頷いてみせた。今の状況下でこんな言い方は適当じゃないかも知れないが、皮肉にもビダルが言ったように、絢奈はただ幸運だったのだ。そして、ただそれだけだった。ビダルは、僕の妹と分かってもいず、それでもナイフを突きつけたのだ。あの男はそう言う男だ。もしそんな男がそのとき、ふとした気まぐれを起こしていたら…?僕たちは真菜瀬さんをさらわれるばかりでなく、絢奈まで殺されるところだったのだ。
「刃物を突きつけられただけか?他に怪我は?」
虎千代は言うとすぐに、絢奈の身体を確かめてくれた。
「うん、大丈夫。絢奈は大丈夫だよ。心配してくれてありがと、虎っち」
絢奈は何度も首を振ったが、自分の妹がかつて見たことないほど動揺しているのは、顔を見ただけで判った。
これが、大丈夫なものか。
僕の顔から、さっと血の気が引いたのが自分でも分かった。全身の皮膚が粟粒だっている。それは恐怖や警戒心からではない。胸のうちにわだかまった怒りからだ。僕は虎千代じゃない。だからビダルと真っ向から戦ったらどうなるか、その身の程は十分に知っている。だけどだ。この瞬間ほど、ビダルをこの手で殺したい、と思ったことはない。
出来るなら僕自身の手であいつの心臓を握りつぶして、その息の根を永遠にとめてやりたかった。それによって自分の身体がばらばらに破壊されてもだ。たとえ僕の身体が崩壊して腕一本だけになったって、僕はあいつの心臓を握りつぶす掌を解くことはないだろう。
あいつを殺してやる。
僕はこれほど暴力的で自己破壊的な怒りで、自分を塗りつぶされたことは、かつてなかった。
「真人、落ち着け」
言われてはっとした。僕の怒りと衝撃はそれだけ大きかったのだ。同じ怒りに震えているはずの虎千代が、色を失ったほど。
「しかし恐ろしい奴ですよ。まさか、ビダルの本当の狙いが、真菜瀬さんだったとは」
黒姫も顔色を喪い、大きく息をついた。
「だが考えてみれば、合理的と言わざるを得ない。絶息丸の秘密を知る人間に目星がつかなければ、その人間を拉致しようと労力を払うよりも、確実にそれを知る我らを脅迫した方が話は早いわけだからな」
虎千代も苦い顔で腕を組んだ。
「ビダルがあの現場にいなかった時点で、すぐに察するべきであった」
まさしく忸怩たる表情で虎千代は吐き捨てたが、あの現場で気づいたところで僕たちにはどうしようもなかった。
ビダルが考えたことは、要は可能性の取捨だ。
もともとミケルには贄姫の墓から僕たちを尾行させ、絶息丸の秘密を守るために目標の人物を保護しに行くかどうかを見守らせていたのだろう。しかし拉致が失敗したときに、それはそれでいいように、ビダルは保険を打っていたのだ。いや、むしろミケルが成功するか否かは賭けで、こちらが本命だったのかも知れない。
僕たちの目はビダルの狙い通りに、ミケルに向けられたのだ。そのためにビダルは僕たちの警戒の外で、自由に狩りの獲物を探すことが出来たのだから。まさに僕たちは、ビダルの掌の上で踊らされていたと言うわけだ。
知っていたはずだ。僕たちは、ビダルがどれほど恐ろしい人間かを。
あいつは捕食動物のように冷徹に、僕たちの確実な弱点を衝いてきている。
それにしても、この件ではなんの関係もない真菜瀬さんをさらうなんて。しかも、あんな非道な薬を使って一人の人間を自由にしようなんて、そんなこと、許されるのか。
「くそおっ」
僕は堪え切れなくなって、素拳で壁を殴った。拳の皮が切れ、血で滲んだ肉が食み出したが、怒りで痛みを感じなかった。はっとして皆が顔を上げたのも、気づかなかったくらいだ。ミケルに薬を嗅がされたノアザミを僕は、目の当たりにしているのだ。今、真菜瀬さんがそう言う目に遭っていると思うと、遣り切れなかった。結局は僕たちの認識不足が招いた結果じゃないか。
「くそっ」
もう一度壁を殴ろうと、振り上げかけた手を、僕は虎千代に止められた。強い力ではなく、やんわりと制しただけだった。
「無駄に熱くなるな」
虎千代は静かな声で言うと、僕の前でかぶりを振ってみせた。彼女は僕のように激昂しなかった。だが目は底冷えするほど冴えて、僕を牽制していた。
「さもなくば、ビダルには勝てぬ。このままでは到底、あやつの手札は読み切れない。このようなことは、血震丸めが相手のときに、お前が教えてくれたことではないか?」
何から何まで、虎千代の言うとおりだった。ビダルはあえて僕たちの神経を逆撫でさせ、消耗させることで闘牛を料理するようにあくまで合理的に仕留めにかかろうとしているのだ。
物言わぬ壁を意味なく殴るのと、同じだ。ビダルはそうして、僕たちが勝手に血を流して傷つくのを待っているのだ。
「ともかく一度、状況を整理する。黒姫、お前は無尽講社にこのことを急報することだ。こうなったら砧殿にも動いてもらう」
黒姫は無言で頷いた。虎千代は消沈しかけている僕とラウラを見渡して言った。
「ここが底ぞ。後は上がるだけと思え。これ以上、誰も傷つけさせはせぬ」
無尽講社に事件を知らせると、虎千代は一気に真菜瀬さんの捜索に動いた。これは、時間との勝負になる。虎千代は持てるすべての力を惜しげもなく、そこに注いだ。まずは黒姫たち軒猿衆だけではなく、宗易さんたち町衆をも巻き込んであらゆる情報を集めた。宗易さんは絢奈から急報を受けていち早く動いてくれていたので、町中の情報は続々と集まってきた。
蝋燭明かりの中、堺の俯瞰図を拡げ、虎千代は宗易さんが集めてきた目撃証言などの情報を吟味しながらビダルの逃走経路を割り出そうとする。
「拉致からまだ一日も経っておらぬ。ビダルはあの風体ゆえ、必ずどこかで見た者がいたはずだ。根気よく情報を探すのだ」
虎千代はビダルの潜伏先を堺の街中にあると見た。当時の堺は他国の武士の侵略から独立を勝ち取った自治都市だ。至るところに町木戸が設けられ、関所の審議も厳しい。明らかに外国人のビダルが、日本人の真菜瀬さんを連れてそうした場所へ出れば、必ずどこかで引っかかるはずだと言うのだ。
「何より懸念すべきは、船で沖に出られることだが」
これも宗易さんがすぐに手を打って、主要な船着き場はすべて抑えさせている。だが僕はそれも確実とは言えないのではないか、と虎千代に言った。あらかじめ堀に小舟でも停泊させておきそれで移動すれば、下手をすると誰にも見咎められずに堺を出ることが出来るかも知れない。
「いや、監禁は短期間ではない。長期間、それも確実に行うことを想定しているはず。あらかじめ用意していた場所に連れていくにせよ、町中から離れた場所では便が悪かろう」
紀州海賊くずれの高来を使っていたことで明らかだが、ビダルは堺で違法行為に加担する唐物商人と広くつながっていると思われる。と、なると彼らやイスパニア商船の船員たちが出入りする港や繁華街に拠点を構えていると考えるのが自然だろう。
「木を隠すなら森とは言ったものよ。南蛮木は南蛮の森に。これは迂闊には我らの手には負えぬが」
「それはワタシたちに任せて下さい」
ラウラは間をおかず応えた。
「在地のイスパニア人社会ならば必ず伝手があります。ワタシたち、レディムプティオのメンバーならどこでもいけます」
それと、とラウラは、ビダルと真菜瀬さんの人相書きを一気に百枚以上も描いて、虎千代に手渡した。こう言うときこそ、ラウラの異能がもっとも発揮されるのだ。
「町中にばらまく前に、皆にこれを確認させろ。二人の顔を知らぬ者がいぬようにな。どこにいてもこの二人を、見逃してはならぬ」
虎千代はわざわざ打ち合わせの時間を設けて全員に、人相の確認をさせた。ラウラが描いてきたスケッチはそれほど精確だったことは言うまでもない。ビダルの人相風体、真菜瀬さんの失踪時の様子、それらが捜索を行うメンバーの頭の中にはっきりと叩きこまれた。
お蔭で、夜が明ける頃には、ビダルの目撃証言は続々と集まってきた。虎千代は朱筆でビダルらしき人間を目撃した場所を記録していったのだが、それは案の定、堺から圏外よりは町中に集中し、僕たちはさらに捜索範囲を狭めることが出来たのだ。
「逃してなるものか」
虎千代と僕は何度も言い合って、気合いを入れ直した。もう二度と、あんな気持ちは味わいたくない。
これ以上、ビダルの好きなようにさせてたまるか。
無我夢中のまま、一睡も出来ない徹夜が続いた。
夏の陽がすっかり上って辺りが明るくなっても、僕たちは真夜中とまったく変わらず動き続けている。いつまでも頭の中でしんしんと蝉が鳴き続けている感じが、僕たちを休みなく突き動かしていた。こんなことは、鞍馬山の戦いで血震丸と戦って野営したとき以来だ。
あのときですら、真菜瀬さんはみづち屋で絢奈と、僕たちのことを待っていてくれたじゃないか。そう思うといつまでも、冷めない熱が僕を休ませなかった。
確かに僕の人生は虎千代に会って、もう一度蘇生した。
でもそのきっかけを作ってくれたのは、何より煉介さんと真菜瀬さんだ。二人はいつも一見何気ない顔をして、僕をきちんと見守ってくれていた。煉介さんが連れてきた僕を真菜瀬さんが受け入れてくれなければ、僕は恐らく今、こんな風にここにいなかったはずなのだ。
僕はごく少ない真菜瀬さんの私物をとりまとめておこうとして不意に、大きな喪失感に襲われてその場に突っ伏してしまいそうになったのを、思い出していた。今でもそうだ。いつもなら朝陽が昇る前に真菜瀬さんが起き出して、家事をする音が聞こえてくるはずなのに。虎千代にも冷静になれ、と言われたのに、そうして悪戯に苛んでしまう自分が情けない。
絢奈が朝ごはんの膳を黒姫と運んできたのは、会議に使っている板の間にほとんど誰もいないときだった。虎千代は宗易さんと港に出、そこには僕と、ラウラしかいなかった。
「さあ、さっさと食べるですよ、真人さん!ぐずぐずしてる暇はないのですからねえ」
黒姫がずいずいと食べ物を勧めてくる。徹夜明けでこっちは、食欲とか言う段階の状態じゃないのに。しかしこいつ、虎千代がいないと配膳が乱暴なのが何より困る。ごつい飯茶わんに麦ごはんがテラ盛りなのだ。バイト先でやったら、首になるほどに。しかも黒姫はそれにたっぷりととろろを盛ったので、それを見ただけで僕の胸に酸っぱく何かがこみ上げてくるのが分かった。
「さあ、馬のように食うですよ!食って走れ働け!」
うっぷ。いつもながら黒姫自体もこってり目だが、今はこれ、新手の拷問でしかない。
「いいよ。僕は、虎千代が帰ってきてからで」
と、思わず顔を背けた僕の鼻先に、ふわっと潮の香りが混じった。あれ、これなんだろ。
香ばしく焦げた匂いは、金目鯛の粕漬けが焼けた甘い匂いだが、それに混じってするかすかな磯の泥臭さからひどく懐かしい匂いがした。それが麻痺しかけた僕の感覚を、ふんわり包みこんで覚まそうとしてくれていたのだ。お味噌汁だ。たっぷりと蜆が入っていた。まったく食欲がないはずなのに、信じられないことに僕は気づくとそれに口をつけていた。
顔を上げると、絢奈が嬉しそうに言った。
「美味しいでしょ。真菜瀬さんが買ってきて、砂を吐かせておいてくれたんだよ。虎っちとお兄いが帰ってきたら、絶対ご馳走してあげようねって言ってたんだから」
真菜瀬さんが。
僕は言葉にならなかった。こんなことがあってもあの人はずっと、僕たちを迎える準備をしてくれていたのだ。僕はまた、ここにいないあの人に救われたのだ。そう思うとひと際、お味噌汁の優しい力強さが身に沁みた。
「さあっ、ラウラさんも食うですよ。今日は港ばかりでなく、街中のだいうす寺も潰していきますですからねえ」
捜索の手は刻々と拡がっている。虎千代は在地の宣教師社会の中にも、ビダルを匿っている可能性がある教会がないか徹底して調べる気だったのだ。その件は松永弾正が、三好家を通じて全面的に協力してくれることになっている。ラウラたち、レディムプティオとの共同作戦だ。絢奈と黒姫は、僕だけじゃなくラウラも励まそうと、朝ごはんを用意してくれたのだろう。
しかし絢奈が配した御膳に、ラウラは手をつける気配がない。
「ラウラちゃん、外人さんだから和食は苦手?」
と、絢奈は静かにラウラに訊ねた。
「そんなことはありません。ただ、申し訳なくて」
ラウラは言うと、本当に傷ましそうに表情を歪め、ひとりかぶりを振った。
「こんな酷いことになってしまったのも、ワタシたちがあのような恐ろしい薬に興味を持ったため。それが真人サンたちの大切な方まで傷つけてしまうことになって…ワタシ、皆さんにどう償ったらいいか、そんなことばかり…考えてしまって」
それには僕たちも、かける言葉がなかった。まったくそうではない、と言いきれるものでもないし、何より逆に、ラウラに責任を追及したから言って真菜瀬さんが帰ってくるわけでもないのだ。気まずい沈黙が、僕たちの間に流れたときだった。
「なんじゃ、綾には何もないのか!」
空腹の綾御前が野獣の咆哮を上げて入り込んできた。相変わらず間が悪い人だ。しかし、怪我した虎千代の分まで協力を買って出てくれているので、下手な文句は言えない。
「ひっ、ひいっ、綾姫さまっ、すみません!たっ、ただ今ご用意を」
黒姫が真っ青になって駆け出そうとしたが、綾御前はそれを朝から騒ぐなっ、と叱りつける。今日も問答無用で傍若無人だ。
「これ真人、それは綾の分であろう。お前、さては横取りしたな?」
テラ盛の麦とろ御飯を見て、綾御前は躊躇なくそう判断したらしい。ずかずかと上がり込んでくると、僕の御膳から麦とろ御飯の椀をひったくってそのまま掻きこんだ。お姫さまの癖に、仁王立ちしてご飯を食べる姿は、まるで織田信長だ。
「綾もここで頂くぞ。時が惜しいわ。やっと慮外者どもが尻尾、この手に掴んだと言うにここで足踏みする法やはある。ええいっ、者どもさっさと食わぬか、ぐずぐずしている暇はないぞえ!ふふふふっ、篤と仕上げを御覧じろ、政景殿。綾を野放しにしたこと、必ず後悔させてくれるわえ」
誰でもいいからこの人には、鉄の鎖をつけて監禁しておいてほしい。食べながら大声で話すし。しかも下手に腕っ節が立つと言う厄介な設定まで、判ってしまったのでさらに誰も文句を言えない。
「南蛮娘っ、何をしておるさっさと食え!伴天連どもを締めあげるに、我らおのれが必要なのじゃ!飯を食うたら急ぎ、お虎めのところへ行くぞ」
ラウラは、はっとして顔を上げた。口元にご飯粒のついた綾御前が、虎千代と同じ、厳しい目で睨んでいる。
「騙しておいて、今さら侘びを乞うか。聞こえておったぞ。それを下衆の振る舞いと言うのよ。見苦しいにもほどがあるわ」
やはりオブラートと言う概念を生まれつき知らないのか、綾御前の無修正の暴言だ。僕たちですら、ラウラがかわいそうになって、さっと顔が蒼褪めた。
「阿呆め、お虎めはとっくに許しておると言うておるのだ。かようなことになるも、覚悟の上での合力じゃ。あやつはそう言う女よ。ではなかったか?」
じろり、と綾御前は僕たちに視線を巡らす。僕は、はっと息を呑んだ。まったくその通りだった。
「真人、黒姫、この南蛮娘が苛むは、お前らのせいじゃ。なぜそれを南蛮娘に言うてやらぬか。それはお前たちが、心の底ではこの南蛮娘にわだかまりを持っておるせいぞ。さにあらずや?」
僕たちはこれに返す言葉もなかった。
悔しいが、綾御前はさすがに虎千代のお姉さんだ。他人のことなど屁とも思っていないように見えて、きっちりと僕たちの間のことを見極めていたのだ。
「ふん、揃いも揃って肝の小さき腰ぬけどもめ。我もお虎も一家を預かる身よ、これくらいのことが見抜けぬわけがあるか。お前たちが浮足立てば、いざと言うときに困るのはお虎なのだぞ。何より、お前たちがしっかりしてくれねば困る」
綾御前は長い前髪を掻き上げると、満座を睥睨つけて言った。
「もう一度言うぞ南蛮娘、かような事態になったはお前のせいじゃ。だが、お前らもそれを覚悟して首を突っ込んだのだ。ことを棄ておけぬその想いが同じなら、今こそ心までしっかと合力せぬでどうするか」
それは遠慮会釈のない叱責だった。だけど何から何まで正鵠だ。
誰かの問題に肩入れすると言うことは、本来そう言うことなのだ。そこに火の粉が降りかかれば、それを一緒に降りかかるほどの覚悟が出来ない人間には無理だ。それは薄甘い共感や薄っぺらい正義感にしかならず、誰の問題も解決し得ない。
虎千代がラウラに問うたその覚悟と言うのは、他人の火の粉を浴びる覚悟を己自身にも問い糾すものだったのだ。しかもあいつは何度裏切られようと、折れずに同じことをする。上杉謙信の生涯と言うものはそうだった。そしてそんなあいつにこそ、僕たちは力を貸そうと思ったんじゃないか。
絢奈が立ちあがって、もう一度汁椀に味噌汁を注いできた。話しているうちに冷めてしまったのだ。絢奈はそれをラウラの前に差し出すと、
「ラウラちゃん、食べて」
と、もう一度、言った。
「さっきはごめんなさい。どうして何の関係もない絢奈や真菜瀬さんが…なんて、そんな言い方なかったと思う。絢奈たちだって覚悟しなきゃだったんだ。虎っちもお兄いも、黒姫さんもそうやって、ラウラちゃんに力を貸そうとしてるんだもん。絢奈だって、ラウラちゃんの力になりたいと思って、ここに残ったんだから」
ラウラの手に、絢奈は汁椀を手渡すと言った。
「絢奈、戦えないけどお料理で力になるよ。真菜瀬さんが用意しといてくれた蜆で絢奈が作ったから飲んでみて」
ラウラは無言で頷くと、ふんわりと柔らかい温気を含んだ汁を口に含んだ。
「美味しい」
ラウラは掠れた声で、絢奈に感動を伝えた。その瞳が涙で潤み、何かに安堵したようなため息がこぼれ出た。
「よし」
絢奈はそれを見届けると、わざと声を励ますように言った。
「さあ、じゃあ皆も食べちゃって!お替わりいっぱいあるから」
僕たちの間には、確かに目に見えないわだかまりがあったのだ。それは言葉に出来ない齟齬であり、目に見えない瑕疵に過ぎなかった。しかし、小さなエラーが積み重なれば重要な一歩を踏み外すことがある。その危険性を何より熟知しているのは綾御前であり、また虎千代だったのだ。一手を預かる大将にとっては、城の白壁のひび一本から落城を察知する、独特の勘こそが生存術の要なのだろう。
無駄な疑心暗鬼で、仲間同士気持ちを腐らせてはいけない。
僕は虎千代がなぜ、徹夜の突貫作業で休みなく、徹底した捜索活動を敢行したのか、その裏の理由を奇しくも知ることになったのだ。
「頭は冷えたようだな」
その日、僕を見た瞬間、虎千代はだしぬけにそう言った。それも、ちょっと意地悪い笑みを含んで。さすがに、僕もそれはバツが悪かった。こいつ、僕が本当の意味で気持ちを立て直すのを黙って待っていたのだ。
「人が悪いよな、虎千代も」
つい、僕が愚痴を言うと、
「ふふふ、かような時は有無を言わさず我攻めに持ち込むが良策なのだ。だてに一万から手兵を率いてはおらぬわ。がむしゃらに走れば、気持ちも紛れよう。しかし、姉上がよい留めを刺してくれた」
戦場の人間学だ。そう言えば次代の景勝が渡河を渋る兵を無理やり追い立てて、そのままの勢いで敵陣を攻め落としてしまったと言う逸話があった。この姉妹の間で育てられれば、その辺りの機微を察するのは、それこそ朝飯前になりそう。
「これでようやく、お前をまた頼りに出来る」
その日、僕たちは砧さんの訪問を受けた。真菜瀬さん拉致の急報を聞いてから数日の再会なのでびっくりしたが、無尽講社はビダルの組織が縄張りにしている堺から北国までフル稼働で情報を集めてくれていたらしい。中でも驚いたのは、ビダルの過去についての情報が、すでに無尽講社にあったことだ。
「真人くんはビダルは、現代人だと言ったね。それですぐにぴんと来たんだが」
無尽講社では、現代から彷徨い込んできた人たちの情報を収集し、管理している。それによると何年か前に豊後(大分県)の南蛮寺で現代から迷い込んできたと思われる不思議な男が保護されたと言う。その男は、なんと北欧系のヨーロッパ人だった。
「当然ながら彼は、イスパニア語が話せなかったらしいんだ。英語は何とか通じたみたいなんだが」
戦国時代、初めに現れた外国人はイスパニア人であり、次はポルトガル人、そしてオランダ人だった。英語圏の人間が現れるのは、イスパニアを破って勢力を伸ばしたイギリスが現れる慶長期辺りまで待たねばならない。僕たちから見れば、みな同じ外国人なのだが、彼らだって違う言語を持つ外国人同士なのだ。
「運良くそこに藤城夫妻がいてね。彼らは英語が出来た。保護した宣教師は事情を察して、治療に当たった藤城夫妻に彼の世話を頼んだようだ」
藤城夫妻の当時の治療記録によるとその男は頭に軽い裂傷がある他は健康体だったが、全身にかなり以前のものと思われる銃創がいくつも見られたと言う。男はそれをアサルトライフルの弾が貫通した傷なのだと、説明したのだそうだ。
「アサルトライフルが登場するのは、第一次世界大戦以降だ。言うまでもなくこの男は、現代から来たんだろう」
それも過酷な戦場が日常にあるような国から、と砧さんは、こともなげに言う。もちろん、太平洋戦争以降の日本にはそんな状況がなかっただけで、世界的に見ればその種の内戦地帯や紛争地域は、世界中のあらゆる地方に点在する。
「なるほど、煉介めの親御とはそこで知り合うたわけか」
「そのようだ。…その療養生活で言葉を学んだ彼は、それ以前に元々敬虔なクリスチャンだったと言うことを告白し出してね」
傷が癒えたら、布教を通じて支援活動をしたい。
そのたっての願いで、藤城夫妻とともにやがて北国に渡ったと言う。
彼は戦国時代で藤城夫妻に救われ、心から感謝していた様子だったらしい。
「そこからの消息は判らなかった。まだ調査中だが手がかりがないんだ。藤城夫妻の最期も、その男の行方についてもね」
僕は思った。
たとえそれがビダルだったとしたら。彼は藤城夫妻によって本当に救われたのか。それとも初めから、別の狙いをもって藤城夫妻に寄り添ったのか。
「実は今日この話をしに来たのは、堺で続報を得たからだ。そのヨーロッパ人を保護した宣教師が堺にいる。一年ほど前に、九州から渡ってきて南蛮寺を営んでいるようだ」
「ビダルを匿う可能性はあるな」
「それは、判らない。その方は、本当に敬虔な宣教師だからね」
砧さんは慎重な態度をとったが、その宣教師がビダルを保護したことに確信を持ってはいるようだった。
「だが、あの邪悪な男なら誰でもおのれの意のままに出来よう」
虎千代は僕に言った。
「行ってみるしかあるまい」




