刃を交える兄妹、追われる僕たちの前に現れたのは意外すぎる助っ人?
ミケルに、一体何を嗅がされたのか。
ノアザミはぐったりと膝を崩してしまった。目を開けているから、気絶しているわけではないのだが、完全に足が萎えて言うことを利かなくなってしまっている。顔から表情が消し去られ、上の空と言うか、茫然自失の感じだ。僕は何度も呼びかけたのだが、そのたびに顔を小刻みに揺らすばかりで返事がない。声の方向に反応したりはするのだが、よく見ると、瞳孔が開いている。
「そいつに言うことを訊かせようとしても無駄だ。今は、何を言っても聞こえないさ」
必死でノアザミの身体を揺する僕に、ミケルが皮肉を浴びせる。
「兄さん、なんてこと…あの子に何をしたの!?」
ラウラが憎悪をこめた目で、そのミケルを叱咤する。
「これも、神のご意志に添うためさ。安心しろ、もう、元に戻らないなんてことはないから」
ミケルは嘘は言っていないだろうと、僕も思った。この状態では拉致したって、必要な情報を得られるはずもない。だが、これはいったいどう言う状態なんだ。
「許さない」
激昂したラウラは歯噛みするほどの勢いで、実の兄を睨みつける。対照的にミケルはだったらどうする、と言うように冷笑し、肩をそびやかしてみせる。
「どうだ、今度はちゃんとおれを憎めたか?」
応える代わりにラウラは踏み込んで、胴を突いた。狙いはミケルの心臓だ。ふわりと上体のさばきだけでこれをいなしたミケルは、避けながら横殴りの突きを見舞う。的確な不意打ちだ。左目を狙った一撃を辛くもラウラはヘッドスリップで回避したが避けきれず、こめかみに奔った傷から血の珠が弾け飛ぶ。
ミケルはさっきつけられた傷のお返しだと言うように、自分の頬のあたりをトントン、と指で突いてみせる。ラウラはそのさまを見てますます激昂して殺意を剥き出しにした。
もはや誰にも止められそうにない。
武器を取って殺し合うのは憎悪で再び結び付けられ、同じ信仰を伝えにこの国に来たはずの、実の兄妹だ。
そこから凄まじい応酬が再開した。初めはラウラの手数が多かった。ミケルはこれを猛牛をいなすようにして、じっくりと見極めていく。不幸なことに僕のような素人にも、どちらが危険なのか、すぐに判ってしまった。
実はそれほど手数は見せないのだがミケルが優勢だ。ミケルは動体視力と当て勘のいいボクサーのようにノーガードで誘い込みつつ、フットワークとフェイントを駆使してラウラを徐々に消耗させていこうとしている。まるで熟練したカウンターボクサーだ。対するラウラは挑発に乗り、動きが走り過ぎていた。これでは無駄な消耗をするばかりだ。
怒りは攻撃の燃料にはなり得るが、コンビネーションのパターンとリズムを容易に単調なものに変えてしまう。頭が冷めている相手からすれば、これほど容易な相手はいない。
例えばどんなに激昂しても、虎千代が人を斬る際はどこか正体のない表情に戻るのは、身体から十分に力を抜いて、視野を広げるためなのだ。
「どうした?」
ラウラの攻撃の手が弱まると、ミケルはしきりに挑発をする。あれだけ激しい動きをして、まだ息も切れていなかった。
ミケルはラウラより少し背が高い程度で一見、男性としては華奢に見えるのだが、しなやかな身体つきは柔軟なばかりでなく、白人特有の強靭さを秘めている。類稀なジャンプ力の秘密は例えば、揺れる船上でもバランスを喪わない粘り強い足腰にあるのだ。これは船乗りが、自然と体幹を鍛えられる生活環境にあることと決して矛盾しない。
彼が構えたエスパーダは、レイピアの原型とも言える刺突専用の剣だ。両者の祖先はこれより一昔前にフランスで生まれたエペ・ラピエレ(『刺突剣』を意味する)と言う貴族たちの決闘用の剣だったがこれは儀礼用でほとんど役に立たなかったと言われている。しかしこうした細身の剣はパイクやバスターソードと言った重装武器とは別の有効性を見出され、ヨーロッパ各国に広がっていった。そしてより実戦的な形に進化を遂げていったのだ。
中でもエスパーダは、船上での戦闘に特化した剣だとされる。この当時、日本に現れたイスパニアのコンキスタドールたちは一様にこの剣を帯びていたようだ。
上下左右に足場を振られる甲板上で戦うことの多い彼の戦闘では、戦闘に夢中になるあまり不測の事態に気づかない可能性があり、常に片手が自由である必要に迫られる。
極端に軽量化された細身の刀身も、それに一役買っている。海の上では重たい鎧をつけた騎士はおらず、彼らを鎧ごと殴打するような巨大で丈夫な刃は必要ない。重い武器や防具で身を固めた格好は絶好の標的になり、少し手慣れた海賊ならそうした動きの鈍い敵を、てっとり早く海へ突き落そうと狙ってくる。
ミケルの身のこなしならば、甲板を自由自在に駆け回り、敵を見る間に翻弄して標的とした人物をたちどころに刺殺することが出来るだろう。本気になったミケルを捉えるのは、ジャングルで野生動物を追うに等しい。
「黒姫っ、ラウラと真人の方へ回れるかっ」
遠くにいて虎千代もすぐに、形勢の不利を察したらしい。その彼女も怪我が治りきっておらず目の前の敵を振り切って、僕たちのところへ駆けつけられないようだ。しかし黒姫も黒姫で戦いながらも、弾正方をはじめ負傷者の救援にあたっていて容易に手が空きそうにない。
「すっ、すみませんですっ!こちらも怪我人が多くて、手が一杯なのですよ!でかぶつ、あーた、遊んでないで何とかするですよ!」
「るせえ腹黒っ、こっちも中々思い通りに走れねんだよ!」
鬼小島は敵の狙撃手に釘付けにされてしまっている。狙っているのは当時ヨーロッパで最新鋭の歯輪式だ。複雑なメカニックで故障も多かったが、火縄銃に比べて装填が速い。数丁を対角線上に配備して、つるべ撃ちにされてはさすがの鬼小島もうかつには飛び出せないのだった。
事態は刻々と危険度を増していく。
こうしている間にもラウラの体力は、みるみる底をついてくる。ミスが目立つようになり、ミケルの反撃をもらい始めた。ついには受け手に回り、防御だけで精いっぱいだ。チャンスを見極めたミケルは一気に攻撃の手を増やした。
「どうした?もう走れないのか」
「くっ」
こうなると、ラウラはミケルのスピードについていくのがやっとだ。しかもラウラのレイピアは防御に向いていない。宮廷用だったエペ・ラピエレの姿をもっとも継承しているのはレイピアの方なのだ。刺突に特化した細すぎる刀身では相手の剣をいなすことは出来ても、真っ向受け止めることはかなわない。
キイン、とひと際張りつめた鋭い衝撃音が、響き渡ったのはそのときだ。ミケルのエスパーダに叩きつけられて、レイピアの切っ先が折れたのだ。華奢な切っ先は吹っ飛んで、壊れた時計の針のようにくるくると回りながら、どこかへ消えてしまった。ミケルが勝ち誇ったように肩をすくめた。
「終わりだな」
すかさずミケルに剣を突きつけられ、ラウラの動きもぴたりと停まった。ミケルが一歩、身体を伸ばして踏み込めば、ラウラの小さな心臓は声を上げる間もなく一突きにされただろう。
「明人を渡せ。あの男に命じてここへ連れて来させろ。そうすればおれに挑んできた勇気に免じて、ここでおしまいにしてやる」
きっと、ラウラはミケルを睨んだ。しかし、ぴたりと心臓を突き上げるように剣先をつけられ、次の瞬間には思わず息を呑む。
「拒めばお前を殺したあと、あの男も殺していく。どうせあそこのお姫さまには、それまで何も出来はしないんだ」
ミケルはいまだ苦戦する虎千代に向かってあごをしゃくった。あいつはここへ来れそうにはない。
どうする。僕は生ける屍のようになってしまったノアザミを抱え、途方に暮れた。何かこの場を切り抜ける知恵があればいいのだが。
「五秒やる。よく考えろ。この世で過ごせる最期の時間にする気か?」
ミケルはラウラから視線を外さずに言った。
「快く引き渡すか、二人死んで奪われるか。賢く考えろ。五、四、三…」
ミケルのカウントがその次までいかないうちだ。
ラウラはミケルに向かって、唾を吐いてみせたのだ。それは決定的な拒否だった。顔に降りかかった唾を見てミケルはさすがに表情を引き攣らせ、目を剥いた。
「プライドを選ぶか。身勝手な妹だ。なら、ここで死ね。御供を一人、つけてやる」
ミケルが一歩踏み出し、ラウラは反射的に身を退こうとした。しかし蛇が鼠を仕留めるように、突きだされた刃はラウラの心臓を的確に噛み取るだろう。ミケルの刃が閃いたその瞬間だった。
「ううっ」
そのくぐもった悲鳴が上がったとき、僕は思わず顔を歪め目を閉じていた。まるでそこにピンで留めた虫の標本のように、ラウラが刺殺される瞬間に直面するかと思ったのだ。しかし、悲鳴はラウラのものではなかった。
手傷を負ったのは、ミケルだ。
エスパーダを突き出した手の甲に、小さな笄が突き刺さっている。
虎千代だ。あいつが最悪の一瞬を見極めて、刀につけられている笄を投げつけたのだ。それは狙いあやまたずミケルの凶器を持った手に突き刺さった。
「走れっ」
虎千代の叱咤で、僕の全身の筋肉がばね仕掛けのように起動する。いつもこの堪えがたい緊張を解くのは、あいつの心強い声だ。僕はラウラを促し、走った。ぼんやりとしているノアザミの小さな身体を抱きかかえて。
「追えっ、逃がすなっ」
苦痛に顔をしかめたミケルの声がそこに追いすがったが、もうなりふりなど、構っていられなかった。ラウラもすかさず、僕の後ろに着いて来ている。なおも飛びかかろうとしたミケルに、ラウラは折れた剣の柄をそのまま投げつけたのだ。
ノアザミを絶対に渡さない。走りながら僕は、その思いを何度も確かめた。ノアザミは明から連れて来られてようやく、安住の地を見つけたのだ。それが一人の人間をどうにかしてしまう薬を平然と使うような連中に拉致されてたまるものか。僕は、自分が隠れた方がいいか、と言ったときのノアザミの消沈した顔を思い出した。その彼女の人生は、まさしく虎千代が救ったものなのだ。
「どこへ逃げます?」
僕たちは気がつくと、積み荷の列の中にいた。船から下ろされたばかりの木箱が、うず高く積み上げられている場所だ。視界が方々から遮られ、ノアザミを連れている僕たちにはちょうど良かった。
とにかくまずは足音から遠ざかって、姿を晦ますしかない。まともに走ってあの超人的な身体能力を持つミケルの追跡を振り切れるとは思えなかった。
「殺してやるっ、絶対逃がすか」
ミケルの声が間近に突き刺さる。姿は見えないが、他にも声があちこちから聞こえる。中でもあいつが一番近い気がしてきた。
「いいか、殺してやるぞっ、二人ともだ」
僕は思わず天井を見上げた。積み上げられた木箱の上から、今にもミケルが降りたってきそうな気がしたのだ。
「真人サン、待って」
と、ラウラが押し殺した声で言うので、僕は愕然とした。
「この子、もうダメです。歩けないみたい」
ノアザミがへたってしまっているのだ。完全に膝が砕けている。
「しっかりしろよ、ノアザミ…このままだと捕まるぞっ、ほらっがんばれよっ」
「うう…あうーっ…」
それでも僕は八の字に足を開いて座り込んでしまった彼女の腕を引いたのだが、もはや脱力してしまって手応えがない。さっきまでもあまり強く引っ張ると足がもつれてしまうので気を使っていたのだが、今度こそ本当にだめらしい。そもそも意識がもうろうとしたまま、走れるわけがないのだ。
僕は今度こそ、途方に暮れてしまった。
もう、これではノアザミを連れて逃げられない。虎千代たちが何とか追いついてきたとしても、あの素早いミケルにはとても追いつかないだろう。
「二人で隠れて。ワタシ、囮になります」
と、ラウラは言ったが、今さらそんなことをしても無駄だ。僕は首を振った。ラウラは丸腰だ。それこそ、犬死と言うものだろう。
すると、いきなりじゃりっと砂を踏みしめる音がした。ついに誰かが来たのだ。隠れる間もなく僕たちは、びくっと身体を震わせた。
(見つかった…!?)
しかし、暗がりから現れたのは、もっとも意外な顔だった。
それは背の高い女性の姿だった。とてもよく知っている顔だったのだが、いつもと違う格好なので一瞬、判らなかった。彼女は長い髪を虎千代みたいに後ろで束ね、まるでズボンのような緑紺の革袴を履き、淡い薄桃色の帷子に身を包んでいたのだ。いつも見ている丸出しになったおでこと、見慣れた誰かにそっくりな顔がなければ、僕はすぐには気づかなかっただろう。
「おっ、お姉さんっ?」
綾御前だった。あの、虎千代のお姉さんの。僕は混乱が収まらず、しばし状況が理解できなかった。一番、いないはずの人がそこにいるのだ。しかも何だか忍者みたいな格好で。綾御前の方も、僕たちのことが判ったようだ。僕たちを目を丸くして凝視した後、綺麗に整えた眉をひそめる、
「お前は真人…お虎の下僕の真人ではないか。それに貴様は、お虎めを謀った南蛮の草の者じゃな。二人揃って礼儀も知らぬ下賤者めら。何をしておる、とっとと平伏せぬか」
命令してきた。やっぱり偽物じゃないようだ。
さて埃っぽい荷置き場に、もっとも場違いな人物が現れた。この高慢を通り越して、滑稽なほどの気位の高い物言い。間が悪いことでは、もはや鉄板の綾御前だ。
「頭が高いと言うておろうが。早うせい!」
僕たちは急いでいるのに、訳もなく土下座させられた。なんでこんなことを、と思う間もない。しかも綾御前は、やらせておいて面倒くさそうに鼻を鳴らすのだ。
「ふん、もうよいわ、お虎のかわゆい頭と違うておのれらの頭を見ても、ちっとも興味が湧かぬわえ。それより答えよ。なぜここにいるか」
「そ、それが」
僕たちは大きな徒労を感じながらも、綾御前に事情を説明した。興味ない癖に。まったく降ってわいた災難だ。本当になんでこんなところにこの人がいるのだ。と、思っていると綾御前は意味ありげな笑みを浮かべ、僕たちの話を聞いている。
「そうか。ふふふ、そうかそうか、お虎め。この姉とは、違う道からここへたどり着いたわけか」
「違う道?」
僕たちは訝しげに顔をしかめた。話が、見えようはずがない。
だが、ここで綾御前と出くわしたのは言うまでもなく何かを探ってのことだと言うことは分かった。黒姫たちには秘密にしていたが、このお姫さまはそもそも、虎千代を暗殺しようとする夫の政景の陰謀を追い、この堺まで来たのだ。
「で?お虎めもどこかで戦っておるのだな。で、お前たちはそこな明人の薬師を匿って、敵に追われていると。これは面白くなってきたな」
ひとりほくそ笑んだ綾御前が手を振ると、お付きの方たちがどこからかばらばら出てきてノアザミを介抱してくれた。どうやら、助けてくれる気はあるみたいだ。
「お姉さん、早く虎千代たちと合流したいんです。虎千代も、何とか僕たちの跡を追ってくれています。でも今の状況じゃ…」
ばたばたと足音がして、僕たちは表情を強張らせた。見る間に、武器を持った男たちが僕たちを取り囲んだのだ。
相手は十人近くいる。いずれも、短剣や戦斧で武装したイスパニア人の荒くれ者どもだ。
「諦めろよ」
いきなりミケルの声が降った。男たちの中から、無惨な笑みで顔を歪めて出てきた。
「それともラウラ、その女が今度はどうにかしてくれるのか?」
男たちの嘲笑が響き渡った。しかしだ。
「また無礼者か」
綾御前は取り囲まれても、平然としている。さすがにこの人でも、空気を読まなきゃいけない状況のはずだ。ミケルは当然、土下座もせず綾御前に向かって言い放った。
「あんた、さっきのお姫さまに、顔が似てるな。頭はもう少し良ければ助かるが」
こくり、と綾御前は顔をしかめて小首を傾げた。
「日ノ本の言葉を話せるか。蛮族にしては、見上げたものじゃ。だが、貴人に対する礼法を知らぬと見える」
「やれ。みせしめだ。高貴な日本の女だ。なんなら好きにして構わん」
ミケルはあごをしゃくると、男たちに襲わせた。
「おっ、お姉さんっ!?」
卑猥な声を上げた男たちが武器を手に向かってくる。女性だからと言って容赦はなさそうだ。しかし綾御前は憎らしいくらい余裕だ。まったく丸腰の癖に。
いやもしや、挑発するだけして逃げる気じゃないだろうな。この人だったらありえた。
しかし次の瞬間、目の前に現れたのは信じがたい光景だ。
まず綾御前に斧で殴りかかった男が、突っ込んだ勢いのまま半回転して地面に墜落した。綾御前は軽く身をかわし、軽く腕を振ったように見えただけだ。後頭部をしたたかに打った男の咽喉を綾御前は容赦なく踵で踏みつけた。
次に背後から短剣を振りかざしてきた男の腕をそのまま引きこむと、あごにすかさず掌底を食らわし、勢いそのままに腕を膝を添えてあらぬ方向にへし折る。その身体にのしかかった勢いで反対側から迫ってきた男の喉笛を真っ向から蹴りつけた。さらには振り返って腕をへし折った男の両耳を銅鑼を叩くように両の掌底で強打し、鼓膜を破裂させている。
「口ほどにもなし」
三人があっという間に破壊されて地面に転がった。
これは紛れもなく、拳法だ。
現代で言えば、合気道の力学を取り入れた中国拳法の亜種とも言える。重力や梃子の力を使い、最小限の力と動きで一気に人間を無力化してしまう驚異の技術だ。
(すごい…)
綾御前は口だけじゃなかったのだ。文字に書くと長いが、綾御前は三人の屈強な男をほぼ数秒で叩き伏せて見せた。
僕はこの人を正直見くびっていた。でもただのお姫さまのわけがない。考えてみればあの、虎千代のお姉さんなのだ。
「下郎ども、まだ綾と遊ぶか」
綾御前はあごをしゃくった。あれだけ動いて息も乱してない。
僕が今見た光景は何かの間違いでも、ただの偶然でも決してなかった。綾御前はさらに、殺到してきた四人の男も同じように地面に転がしてしまったのだ。
「もう終わりか。南蛮人は禽獣の膂力に似ると言うが、鍛練不足よな」
「下がってろ」
ついにミケルが、エスパーダを引っさげて綾御前の前に立ちはだかった。これは、さすがに綾御前でも今までのようにはいかないはずだ。いかに綾御前が拳法の達人とは言え、素手では無理だ。あっという間にハチの巣にされてしまうに違いない。
それに綾御前に叩きのめされた男たちも、傷を負ってもまだ立ちあがってきている。さすがに素手では限界がある。やっぱり一人では無理だ。
「死ねっ」
ミケルが刃を綾御前に向かって突き出したときだ。どこからか細長いものが、綾御前に向かって飛んでくる。お付きの誰かだと思うが、彼女に何か武器を投げたのだ。心臓を貫くはずのエスパーダの刃は、その武器によって止められている。
互いの武器が衝突した瞬間、コーン、と言う重たく澄んだ音が聞こえた。僕は、はっ、と息を呑んだ。
あれは杖、と言われる細長い棍棒だ。硬い樫で出来ている。綾御前らしくそれは紅殼塗りに蝶の金象嵌を入れた優美なデザインをしていた。ミケルの刃を防いだのは、その両端に磨き上げられた銀色の石突がはめ込まれているせいだ。
エスパーダを絡め取った綾御前の杖はそのまま、ミケルの胸板を突いた。避けきれず杖の一撃をもらったミケルは、顔をしかめ後退する。何とか打撃の芯は外したものの、ミケルは後ずさってみて、気づいただろう。
目の前に自分よりも遥かに大きな、綾御前の間合いがあることを。
綾御前の杖とミケルの短剣では比べ物にならない。
たとえ一歩でも踏み込めば、綾御前の杖は、遠慮なしにミケルの身体を突きまわすだろう。杖は綾御前に操られると重さもないようにすら見える。
綾御前はかすかに足を開いて腰を落とすと、長い杖を両手で振り回した。ゆっくりとした半円形が彼女の身体に間合いの結界を作り出す。それは徐々に速くなり、やがては、ぴたりと綾御前の身体につけられた。
「今度はこれで遊んでやる」
それにしてもあの杖をあれだけ振り回すのには、相当の膂力も技もいるはずだ。虎千代と同じく綾御前の技も鋭く練れ、武術好きの姫の余技程度の技とは一線を画している。
「くそっ」
ミケルは毒づくと、剣を構えなおす。しかし達人の綾御前の広い間合いは、ほとんど槍を相手にしているのと同じだ。しかも重たい刃がない分、小回りが利く。さすがのミケルもうかつには入り込めはしない。
「くそとは余計な言葉を憶えたものよな」
綾御前は皮肉をぶつけると、風を切って杖を振り回し、高腰に構えた。
「無礼者めっ、所詮は獣かのう。まだきつい仕置きがいるようじゃ」
「殺せっ」
胸を抑えてミケルは、叫んだ。
綾御前の拳法で叩きのめされて、傷を負った男たちが悲鳴のような声を上げて群がってくる。しかし、結果はさっきよりも無残だった。綾御前は一本の杖で数人の人間をまるで糸のついた操り人形のように翻弄してみせたのだ。
息も継げぬ間に。
綾御前の杖で武器をはねとばされた男は、反動で跳ね返ってきた石突で内臓を突きぬかれ、その場に反吐を吐いてうずくまった。遠心力のついた杖に叩き伏せられ、顔から地面に落ちたものは、盛大に歯を撒き散らして動かなくなった。脛をへし折られた上に咽喉を突かれ、二度と立ち上がれなくなったものもいる。気づけば綾御前の周囲は再起不能の怪我人の山と化している。
「ただの棒と侮ると、取り返しのつかないことになるぞえ」
綾御前はミケルをも、間合いの中へ近づけない。入ればエスパーダを折り飛ばされると言う恐怖がミケルの動きを鈍らせていた。綾御前の杖は、重みでダメージを与える鈍器と軽さと小回りで相手を翻弄する長柄の特性を兼ね備えた、まさに絶妙な武器なのだ。
「刃を扱うは苦手でな。あれは所詮、刃筋を立てねば切れぬであろう?」
綾御前は、ミケルたちの得物を揶揄するように言う。
「これならどこかに当たれば、骨は折れる仕掛けよ。話は簡単じゃ」
なるほど、綾御前の言うことは筋が通っている。これは例えば、巌流島の戦いで長大な刃物を持った佐々木小次郎に、船を漕ぐ櫓で挑んだ宮本武蔵の論理に通じるものだ。
実は生きた人間を日本刀で斬るのは意外に難しいらしい。砥いだ刃が威力を発揮するためには刃の部分が正しく物体を通り抜ける必要があってこれを刃筋を立てる、と言う。この加減は微妙で例えば相手が木綿の綿入れ一枚着こんでいただけでも、一刀両断は難しくなるのだ。また、刃物は薄く鋭く鍛えてある。斬り損じれば容易に傷つき、その機能を失いかねない。
その点、棍棒などの鈍器なら気にせず振り回すことが出来る。さらには刃物と違って打ち損じても威力を喪うことはない。細身の剣なら苦もなく叩き折るだろう。ミケルにとってはまさに天敵、エスパーダ殺しの綾御前の杖なのだ。ミケルにとって綾御前はもっとも折悪しく出現した難敵だったに違いない。
間が悪いと言うことが、最大の幸運を引き寄せることもあるのだ。
気がつけば綾御前の前には、まともに戦えるのはミケルしかいなくなっていた。
「…くっ」
「後はお前だけじゃな」
怪我人の山の中で綾御前は、悠々と杖を構えなおす。どこから見てもそれには隙がなく、ミケルが躍りかかったところで蠅のように撃ち落とされることは目に見えていた。
「くそっ、ふざけ…やがってっ」
「ふざけているのは、お前らの方じゃ。礼儀を弁えぬから、かような目に遭うのだ」
そのとき、ばたばたと物音がした。
「お虎めであろう。早くどうするか決めろ。綾はどちらでもよいのだ」
綾御前は追い詰められたミケルの心中を見透かすように、わざと首を傾げてみせる。ミケルは苦々しげに顔をしかめ、完全に進退に窮した。
追い詰められたのは、いつの間にかミケルの方になっていた。まさか綾御前がこれほどに頼りになるとは、誰も予想がつかなかったことだ。
「まっことさーんっ、ラウラさーん、ノアザミ、みんな生きてるですか!黒姫がいきますですよ!」
足音は複数だ。ミケルたちはぐずぐずしていれば、袋の鼠になるだろう。
「真人、無事かっ」
ついにすぐ近くで、虎千代の声がした。
「お虎よ。綾はここじゃ。はようせねば、賊が逃げるぞえ」
綾御前が高声を張り上げたときだ。
ミケルが全身のばねを使って大きく飛び上がった。綾御前は飛びかかってくるはずのミケルの身体を空中で射とめようとしたが、ミケルはそもそも綾御前の方へは飛んでいない。気づくとはるか頭上の積み荷の上にいる。ミケルはノアザミの奪還を諦めたのだ。
「独りで逃げる気かえ?」
綾御前が呑気に話しかけるのを、ミケルはぎらついた殺気を帯びた目で睨みつける。
「あんたに必ず借りは返す」
それから、僕の方を向いてこう吐き捨てた。
「大切に預かってろ。どっちにしろ、そいつはおれたちがもらい受ける」
「どっちにしろ?」
「そう言う運命だ」
どう言うことだ。僕は問いかけるようにミケルを見たが、悪魔に魅入られた男は、謎めいた嘲笑を口元に含んで僕とノアザミを見渡すだけだ。
「兄さん」
その声に、ミケルはラウラを興ざめた顔で見下ろした。
「ワタシは必ずアナタを止める。どんなことをしても」
「悪魔に魂を売ってもか?」
さっ、とラウラは顔色を変えた。
二人の間にあの悪魔のように恐ろしい男の影が残像のようによぎったからだろう。
お前には無理だ、と言うように肩をすくめると、ミケルは一瞬で姿を消した。
「逃げられたか。だが、よかった。みんな無事で」
まだ癒えない傷に響いたのか、虎千代は苦痛に顔をしかめていた。
「遅い。せっかく綾が惹きつけたに、みすみす取り逃がしてしまったではないかっ」
綾御前はそんな虎千代を容赦なく叱りつける。しかしこの人はなんで、どんな場合も無駄に態度が大きいのだろう。
「あっ、姉上…助かりました。でも、どうしてこのようなところに?」
虎千代もびっくりするやら、ぎょっとするやら大変だ。
「ふん、今さら何を言うか。かわゆい妹のためではないか」
綾御前は鼻を鳴らすと、傲然とふんぞり返った。
「わ、わたしのため…ですか?」
虎千代は珍しくおろおろしている。
「忘れたか。綾がなんのために堺に来たか」
綾御前はそもそも、自分の夫の政景が虎千代の命を狙う陰謀を画策しているので、それを防ぐためにやって来たのだ。僕だって忘れていた。あれから急展開があったせいでこの人のことはほったらかしになっていたが、いつ見ても堺で遊んでいるようにしか見えなかったからすっかりどうでもいい存在になっていた。
「綾がいつまでもただ遊んでおると思ったら、大間違いじゃぞ。ちゃんと国元にいるときから目星をつけてきたのだ」
「目星ですと?」
「ああ、夫の元に出入りしている明人の薬師のことよ」
綾御前が言うには、近頃しきりに坂戸城下に出入りする薬師が政景と昵懇だと言う。
「その男は見立て(診察)も達者でな。夫を通じて、春日山城の晴景兄のところにも出入りすることもあるようなのだ。兄は生まれながらに病弱じゃ。夫、政景はそこに付け入ったと言うわけよ。晴景兄はその薬師に勧められるままに、どうやらこの港から薬種を仕入れて強壮剤など処方してもらっているらしくてな」
確かに、虎千代の実兄の長尾晴景は蒲柳の質の人だった。どうやらその薬師と言うのは、医療の力を使ってしきりに政景、晴景の二人に取り入ろうとしているらしい。
「この三人は、密室で話すことも多い。どうもきな臭い話にも、矛先が向くらしい」
綾御前によれば、政景は虎千代を始末しようとしている。当然、晴景にけしかけるようなことも吹き込むだろう。そんなときにその薬師は、しきりにこう言うのだと言う。
「いざご入り用の際は、色のない手兵を当方でいくらでも都合出来まする」
と。
「薬師が派兵の手配を?」
突拍子もない話だ。しかし、
「その男、お前たちが追っている切支丹の人買いどもに伝手を持っている」
そこには僕たちが捕らえた高来の名前も浮上していた、と言う。綾御前は高来を尋問し、その本拠を調べにやってきた、と言うわけだ。
「その薬師、また妙なことを言っていたらしいのだ。病弱の兄上に、ちょうどよい強壮の薬があると」
「まさか」
僕たちは愕然として顔を見合わせた。その薬師がビダルの命令で、晴景に絶息丸を試そうとしているのだとすれば。
「ビダルめの狙いは晴景兄か」
虎千代は重たい息をついて、腕を組んだ。
「絶息丸が完成すれば、兄の命が危うい」
「ふん、その絶息丸と言うものは、かほどに恐ろしき薬なのか」
僕たちは綾御前にもすべてを説明した。絶息丸と言うものが、血震丸と狗肉宗によって作られた空前絶後の劇薬であることを。綾御前もさすがに顔色を変えていた。
「そのような薬が出回れば、長尾家それ自体が危ういな」
虎千代は、緊張した面持ちの面々を見渡して言った。
「兄のためにも、ビダルの野望は必ず阻止せねばならぬ」
ノアザミはやはり幻覚剤のようなものを嗅がされたらしい。症状からして、黒姫が見破ったのは、忍者が人を狂わせて情報を聞き出すのに使う薬種のようだ。つまりは、自白剤の一種だと言うことだ。
「とりあえず、眠らせておきました。恐らく症状は時間とともに薄れていくはずですよ」
黒姫はその場でノアザミに処置を施したが、しばらくは目が離せないと言う。薬効がまだあれば目を覚ますとせん妄状態に陥るために、どこへ彷徨いだして行ってしまうか判らないのだ。
「卑劣な。問答無用でこのような薬を使うとは」
虎千代の怒りは深かった。つくづく、ビダルは悪魔の化身のような男だ。
「だが、ひと安心だな。まずはこのノアザミの身柄は守れた」
と、虎千代は言ったが、僕は手放しで安心できなかった。
ミケルが去り際に言った言葉が頭から離れなかったからだ。
そいつはどっちにしろ、おれたちがもらい受ける。
どっちにしろ。その言葉が、僕に言い知れぬ不安を残していた。それは直感的な危機感のようなものだったのだろう。言葉には出来ないが、僕たちはまだ、あの男の恐ろしい手の内を完全に把握していない、何だかそんな気がしたのだ。
結局ノアザミ拉致の現場に現れたのは、ミケルだけだった。ビダルは姿を現していない。絶息丸を完成させるために、ノアザミは絶対必要だったのだ。あの悪魔のような男が、ミケルにそれを任せて姿を晦ましてしまっているのは、どう言うことなのだ。
僕は不吉な予感を、上手く言葉にすることが出来なかった。それを言えば、まだ万全でない虎千代に無用の負荷を与えてしまう気がしたのだ。
しかし僕たちは甘かった。ビダルと言う男の、本当の恐ろしさを知るのは、これからだったのだ。
「お兄い、助けて!」
堺の根城に帰ると、あの絢奈がすっかり泣きはらした顔で出てきた。
「ど、どうしたんだよ、絢奈っ!?」
「ううっ…大変なのっ!お願い、助けて!大変なの…」
絢奈はすっかり動顛していた。何かを訴えようとしているのだが、何もかもが言葉になっていなかった。僕にしがみつくと、悲鳴のような声でまくしたてた。
「おっ、落ち着けって!何があったんだよ。ゆっくり、最初から話すんだ。何があったんだ?」
「真菜瀬さんがっ…連れて行かれちゃった」
その絢奈の言葉に、今度は僕たちが愕然とする番だった。
「なんだと」
虎千代ですら、あまりの出来事に顔色を喪った。
「…さらったのは何者だ?そして、どうして真菜瀬が?」
絢奈は何度もかぶりを振った。
「判らないよ。絢奈だって、教えてほしいよ。絢奈たち、何もしてないのに…なんで?どうしてなの…?」
虎千代に抱きとめられた絢奈の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「虎っち…お兄いっ、お願い、どうにかして…真菜瀬さんがっ…真菜瀬さんがっ、殺されちゃうよ…」
「ビダルの仕業だ」
僕はつぶやいた。
ビダルの狙いは、初めからそれだったのだ。




