決死の脱出、ラウラ語るビダルの悪夢、衝撃的なあの名前が…?
虎千代が、負ける。
そんなことが。目の前の光景が、信じられなかった。あれは、どう見ても完璧な不意打ちだった。しかしビダルは苦もなくそれに合わせたばかりか、強烈な返し技で虎千代を迎え撃ったのだ。
全身ばねのような筋肉であの巨体を撥ね上げ、渾身の力を込めたソバットだった。上半身と下半身を逆にひねりこみ、繰り出される一撃は、十分な遠心力が発揮されている。しかも鉄板を仕込んだブーツで蹴りこまれたら、虎千代の小さな身体ならば内臓に再起不能のダメージを負ってもおかしくはなかった。
それでも虎千代は、すぐに立ち上がっている。まさに紙一重だったに違いない。あの一瞬に、蹴りこまれるより速く、身体を打撃の方向へスリップさせたのだ。胴を守った小豆長光の刀身も、致命的なあの衝撃を逃がすのには一役買ったに違いない。驚異的な反射神経の賜物と言わざるを得ない。
「いい、反応だ。だが寝ていた方がいい。感触で分かる。肝臓を蹴り込んだ」
虎千代は咳きこんだ。えづき、こみ上げてきたのは血の塊だった。
「お姫さま、差し当たって私たちにはあなたには用事はない。そのまま寝ていれば、これ以上は何もない。だが、ラウラに加担して私たちの目的をまだ止める気でいるなら、大切な友人まで喪うことになる」
虎千代がしばらく動けないことを知っているのか、ビダルはナイフを手で弄びながら悠々と歩くと、ラウラの前にやってきた。
「ラウラ、これ以上やると取り返しのつかない犠牲を強いるかも知れない。君がそうだと言う、この国の貴重な友人のね」
ラウラが唇を噛んで構えたレイピアを突きつけられても、ビダルの目はごく微量な感動の色すら見せない。
「抵抗は自由だ。だが、よく考えろ。最悪の事態を想定するんだ。現実はそれよりも無慈悲だ。例えばここには十人ほどしか子供の数がいないようだが、私たちの部隊はきちんとそれも把握している」
ビダルはラウラをうかがうように見ると、静かな声で交渉を続けた。
「私は君に会いに来たんだ。恐らく、囮の方に君はいるだろうと思ってね。交渉のカードを切れるのは、君だけだ。もう一度言うぞ、よく考えるんだ。取り返しのつかない犠牲者を出して私たちに根こそぎ奪われるか、それとも、君が自ら子供たちを連れて私たちのところへ来るか。二つに一つだ」
「ラウラ、やめろ」
僕は即座に言った。ビダルがわざわざ日本語で交渉をしているのは、僕にもその内容を聞かせるために違いなかった。虎千代の身を案じれば、大人しくラウラと子供たちのことは諦めた方がいいと、目の前の男はその脅迫も兼ねているのだ。
「真人サン…でも」
「冷静に考えるんだ。この男を信用してもいいのか、どうか。君自身が、もう一度」
僕はビダルを一瞥してから言った。
「こいつは目先のことだけ、君に考えさせようとしている。相手に少ない犠牲だけを強いると見せかけて、ただ段階的に自分の望みを達しようとしているだけなんだ。従えば、君が恐れている最悪の選択にどの道たどりつくぞ。君がここで首を縦に振れば、こいつは違う形で要求を続ける。そのつもりなんだろ?」
いぜん動かないビダルの目から視線を離さずに僕は言った。彼女はただ、混乱させられている。僕にはすぐ分かった。これは巧妙な尋問術の応用なのだ。相手が一番、泣きどころにしている最悪の可能性をちらつかせつつも、それを使ってまずは、目先の危機だけを回避させるようにことを仕向ける。こうした相手は、最初から交渉に応じるつもりはないのだ。
「とにかく冷静になるんだ。君の犠牲はここで、なんの利益にもならない」
ラウラは、はっとして僕とビダルの顔を見直した。
「君は思ったよりは、頭がいいんだな。また救いようもなく、愚かだとも言えるが」
ビダルは僕に相対するときだけ片頬を、皮肉そうな笑みで歪めた。
「君の言う通りだよ。私たちには本来、君たちと交渉する必要はない。まるで狩猟の収穫をするように、抵抗する犠牲者の肉をえぐって、ただ望みのものを無慈悲に、奪えばいい。ラウラと話す気になったのは、それをするのが骨だっただけさ」
ぎらり、と輝くナイフを僕の咽喉に突きつける真似をすると、ビダルは、言った。
「やるなら、構わないぞ。君が来るか。だが君はどう見ても立派な侍には見えないな?」
ビダルが持っているのは、現代で言う広い片刃のボウイナイフの一種に見えた。
ボウイナイフは開拓時代のアメリカで流行ったものだが、この種のナイフの起原はヨーロッパで家畜の屠殺用に使われたブッチャーナイフと言われている。狩猟を行った際に獲物をその場で解体するのに使えるナイフで、その重量と刃の頑丈さは大型の獣の肉を骨ごと断つ。レイピアとは対照的にひどく武骨な殺し道具だ。
ビダルの膂力なら、叩きつけるだけであっという間に僕の息の根を止められただろう。僕はまるで断崖絶壁の際に足が張り付いたようなめまいがして、思わず唾を飲み下した。
「まっ、真人サン、だめっ」
ラウラが僕の袖を引っ張る。気が遠くなってきていながらも、僕はそれで何とか、目の前の絶望的な現実に立ちはだかるだけの気力を取り戻した。
「ラウラは、渡さない」
僕は震える声音を押し殺すと、腹から声を出した。
「そうか。君の意見は訊き届けた。侍でもないのに、なかなか勇気のある男だ」
「あんたもな。とても見えない」
僕はえづきそうになりながら、その言葉をどうにか言った。
「この時代の宣教師には」
この男の言動を見ていて、どうしても訊いてやりたかったことだった。すると楽しそうにナイフを試すすがめつしていたビダルの笑みが、案の定、ぴくりと凍りついた。
「どこでそれを」
僕はそれに応える必要はないと言うように、首を振ってみせた。するとだ。冷静なはずの男の表情に、青い血管と一緒にようやく人間らしい怒りがにじんだのだ。
「死ね」
はるかな頭上から、僕の頭蓋を狙ってナイフが振り下ろされた。ラウラが僕を庇い、身体を割りいれようとしたのが見えた。そのままいたなら恐らくは、僕たちは二人とも刻み殺されていたに違いない。
背後から殺到した虎千代の剣が、ビダルの背を再び襲わなかったのならば。
僕に出来るのは、時間を稼ぐことだけだった。
虎千代の回復を信じて。
あいつはこの程度の傷で、戦うのを諦める奴じゃない。
ともに戦場を過ごした経験あってこそ、信頼出来ることだった。
虎千代の刀は、ビダルを止めた。すんでの差で振り返ったビダルが虎千代の体重の乗った抜刀術の一撃を真っ向から受けたのだ。
日本刀の刃は薄く鍛えられていて、刃を立てて斬りつけると滑り込む。刃はナイフを滑ってビダルの額を傷つけ、この悪魔のような男になんと出血を強いた。目に入った血で動く反応が遅れた。ビダルは次の虎千代の動きを捉えきれなかった。
身体ごと乗り込んで斬りつけた虎千代は斜めに身体を半回転させたまま、ビダルの胴に左の後ろ足を蹴り込んだのだ。
見事なソバット返しが決まった。
「ううっ」
のけぞりかけたビダルだが、後ずさりしながらどうにか踏みとどまる。だが虎千代とかなりの体格差のある巨体とは言え、全体重と遠心力が相乗したソバットは、強烈だったはずだ。
ビダルに蹴り込んだ、虎千代は。
どうにか立った。ビダルの腹に左足を叩きこんだ後、膝を屈したが、砂地に突き刺した刃に身体を預け、どうにか立っている。さすがに肩で息をしていた。
「真人っ、早く!ラウラを連れて逃げぬかっ!」
「くそっ、ガキどもっ」
唇を噛んだビダルは血を吐くと、虎千代に負けない怒声で叫んだ。
「ミケル、ガキどもを逃がすな!逃げようとする奴は殺せっ」
僕はラウラを促したが、遅かった。すでに逃げようとする子供たちの行く手に、ミケルが立ちはだかっている。
「どいて、兄さん」
「どくと思うか」
剣を閃かせて、兄妹が睨み合う。姿形はほとんど一緒なのに、二人の表情に浮かぶものも、内面もまるですれ違ってしまっている。
「ラウラ、いい加減目を覚ますんだ。お前だって現実を知れば、必ず考え直す」
「何を考えなおそうと、子供たちの命を犠牲にしていいと思うはずがない」
肩の出血は止血が必要だった。だが、ラウラは剣を下げず決然と言い放つ。
「目を覚ますのは、アナタの方だ」
「いいだろう。邪魔するなら、容赦はしない」
ミケルは平然と怪我をした妹に刃を向ける。傷ついた実の妹を殺すのに、なんの躊躇もないようだ。ラウラもその霞かけた瞳に、敵意の色をぎらつかせている。
「ラウラ、やめろ。無理だ」
「止めないで」
僕は止めたが、ラウラは剣を退くことをやめなかった。
「早く、真人サンは、虎千代サンと子供たちを連れて逃げて」
ラウラも虎千代も。二人とも怪我をしている。ここで逃げれば、二人とも殺されるかも知れない。どうにかしなきゃ。まごつく子供たちを抱え僕は頭を働かせたが、これ以上何も思いつきそうにない。
「ミケル、お前は自分の妹をどうにかしろ。私はこのお姫さまの首をへし折る」
僕をけん制する意味合いか、ビダルは日本語で叫んだ。ビダルは虎千代に不意打ちを喰らったとは言え、ダメージはほとんどないと言っていい。それに対し虎千代は、無理に動いたせいか、ここから見ても消耗が甚だしいようだ。
「さっきの衝撃が身体に響くだろう。大人しくしていないからだ。私の蹴りは効いたはずだ。どこかの骨に入ったヒビが痛んでいるんだ」
医師がそうするようにビダルは、丹念に虎千代のダメージを確認する。さっきは感情を露わにしたが激昂しているように見せて、それは見せかけのポーズに過ぎないのだ。湖面のように静まり返った表情の方に、僕はより恐怖を覚えた。
この男はひどくもの慣れた手口で、自分の感情をコントロールし、他人の感情を操ろうとする。まさに氷の自制心の持ち主なのだ。
「真人、何度も言わせるな、逃げろ」
荒い息の下で、虎千代は言葉短く言った。
「くれぐれも、子供たちを頼む」
虎千代はこのまま、刺し違える気なのだ。こちらを振り向いたその眼差しで分かった。刃を抱いてビダルの息の根を止めようと飛びかかろうとしている。ビダルはそれを的確に判断し、気だるそうに首を傾げるとゆっくりと身体を正面に開いた。
誘っているのだ。そこに、虎千代が飛び込んでくるのを。
「殺してやる」
ビダルは僕に向かって言った。
「そこで見てろ、お姫さまが縊れて死ぬのを」
虎千代が死ぬ。
万が一、彼女がビダルを仕留められたにしても。この男は工業機械のような精確さで、虎千代の首を抱え、へし折るだろう。そんなことは、堪えられない。何か。何か、手はないのか。僕は必死に考えた。しかし、身体ががくがくと震えるばかりで何も出来なかった。虎千代が死んでしまう。なのに、子供たちを連れて走ることすら出来ない自分が情けなかった。
「やめろっ、虎千代っ」
僕が叫んだそのときだった。
不意に巻き起こった爆音が、一瞬ですべてを塗りつぶした。
虎千代とビダルの間に引かれた明確な致死のラインを、黄土色の爆風が覆い尽くす。
「虎さまっ、お待たせしましたですよっ!今のうちに、みんな逃げて下さいですよっ」
黒姫の声がした。囮になった黒姫が戻ってきたのだ。
石のように固まっていた僕の足が、たがを外されたように動いた。虎千代がいたはずの場所に駆け寄り、彼女の小さな身体を見つけ出す。僕にぶつかると、虎千代は、はっと身構えて身体を強張らせた。
「逃げよう」
僕は言った。虎千代が顔を上げてさっと瞳を潤ませたのが分かった。虎千代は、もはや限界だったのだ。ビダルと戦っていたなら、無惨に殺されたに違いなかった。僕はきちんと温かみのある虎千代の身体を確かめるように強く抱きとめた。虎千代はぎゅっと力をこめて僕にしがみついてきた。
そして僕たちは走った。大声で子供たちに方向を指示しながら。
「どこのどいつだっ!ミケル、聞こえるかっ、ガキどもを刺し殺すんだ!」
「子供たちとラウラさんは大丈夫ですっ、虎さまっ、真人さんっ、とにかく前へ走って下さいですよっ!」
姿なき黒姫が、暗躍している。煙幕と爆音によるかく乱は、一定の法則を見せて巻き起こっている。それは見事なまでに負傷した僕たちを港へ導いてくれているのだ。
「逃がすかっ、貴様らっ、生きてここを出さんぞ!」
ビダルの怒号が背に降る。その声から遠ざかるように、僕たちは逃げた。この不吉な悪魔から一刻も早く遠ざかるために。
舟がある岸までの十数メートルが、恐ろしく遠く感じられた。足元の坂がなだらかになり、海の気配がしてくる。走る僕たちの周りに子供たちが寄り添いはじめ、負傷したラウラが加わった。
「こっちですよっ、皆さんっ早く」
いつの間に僕たちを追い越したのか、すでに黒姫が船を仕立てて待っている。合流した軒猿衆の水夫たちが、子供たちを分け手早く舟に乗せた。
「ううっ」
虎千代が膝を突く。さすがに力尽きたのだ。黒姫が駆け寄って、僕の反対側から虎千代を引き上げる。力を失った彼女の身体を押し込むようにして舟に乗せると、僕もそこに飛び乗った。
「出してっ」
黒姫は舟を繋ぎとめている縄を、小刀を投げつけて切り離した。
やっと逃げられた。
揺れる波に吸い込まれて、舟はみるみる沖を目指して進む。ビダルたちが波止場へたどり着いたときには、舟は岸を離れ、青色の深い沖の波に揉まれているところだった。
「手こずりましたですよ、本当に申し訳ありませんです」
黒姫は虎千代に、気付薬を手渡しながら言った。僕は見た。黒姫の袖に、焼け焦げた銃痕がついていたのだ。
「弥太たちは無事、逃げきれたのか」
虎千代が言うと、黒姫は遥かに沖を指した。そこに宗易さんたちの船が浮かんでいるのが見える。僕たちは、ほっと息をついた。
「真人、苦労をかけた。あれは、本当に助かった」
虎千代は大きく息をついて言った。修羅場に慣れ切っている彼女ですら、さっきの局面は読み切れないほど危険だったのだ。
「あのビダルと言う男、出来れば二度と会いたくない相手よ。使う技の手並みもそうだが、駆け引きの手腕も並みではなかった」
虎千代は、ひどく浮かない顔でつぶやいた。
「…あの男とは、いずれ雌雄を決さねばならぬな」
いつの間にか僕はふと、逃げてきた岸の方を見ていた。あの、不吉な男の姿は二度とは見たくなかった。しかしそこから目を離せない、何かが僕を魅入られるように惹きつけていたのだ。
僕は思わず、目を見張った。
ビダルが銃を構えている。あの黒いステッキのような銃が、もう手の届くはずのない僕たちを狙っているのだ。初めは、無駄なあがきだと思ったが、すぐに嫌な予感が胸を刺した。あの男は無駄なことはしない。最悪の事態が起こり得る可能性は十分にあった。
次の瞬間の僕の判断は、直感と言う他ない。
「臥せろっ」
銃声。
晴れ渡った南紀の海に、乾いた音が鳴り響いた。
舟べりにもたれていた虎千代を、僕は押し倒していた。弾丸が僕のすぐ上を掠めていった。縁に、弾痕がついていた。当ててきた。信じられないことに、ビダルはこの距離で着弾を狙って引き金を絞ったのだ。相手は揺れる船上、距離は百五十メートルほどだが、持っているのは日本の火縄銃とそれほど精度の違わない歯輪式の小銃で、もちろんスコープはない。
舟はどんどん遠ざかっていく。ビダルは撃ち損じたのを確認したのか、だらりと狙撃の構えを解くと、詰まらなそうに銃を海に放り棄てた。ビダルはたたずんでいる。しかしもはや、なすすべもないことを悔やんでいる様子はなく、ただ目をつけた獲物を改めて確認しているだけのように思えた。
あそこにいるのは人間じゃない。
あれは、まさしく悪魔の黒い影だ。
波間に消えるまで僕はそこから目を離すことが出来なかった。
弾丸は確実に負傷した虎千代を狙って飛んできた。
船板に開けられたその弾痕を後で見て、僕は改めて慄然とした。
信じられないことだった。
なんとあの男は、この短い時間の間に二度、虎千代を殺したのだった。
虎千代は上陸するとすぐに、無尽講社に急報した。保護した子供たちを人目につかない場所に預かってもらうためだ。虎千代の怪我は、思いのほか深かったのだ。ビダルたちの追撃は、万難を排して避ける必要がある。僕たち自身も真菜瀬さんたちに事情を話し、とりあえず、堺を出た。
目指すは生駒山だ。虎千代は子供たちの引き渡しの手筈を打ち合わせ、大和街道を経由して京都に至るより山深い迂廻路を選んだ。途中、無尽講社の所有する山家の茶屋に身を潜めることにしたのだ。
峠にぽつりと居を構える山亭は孔舎衙坂の中腹にある。この坂は、古事記にも記述のある、もっとも古い往還路とされている。振り返れば、摂河泉(兵庫、大阪辺り)の海浜地帯が一望できる名勝の地だ。
虎千代はあれから休みなくここまでやってきて、宿に着くと、馬から転がり落ちるようにして倒れた。今、その広大な海浜が一望できる座敷で安静にしている。黒姫の話では、肋骨が一、二本折れているのではないかと言う。よくここまで来れたものだと思う。
ラウラとはここに来るまでの間、僕はほとんど言葉を交わさなかった。
彼女はずっと血の気を失った顔をして、黙りこんでいた。兄のミケルに刺されたラウラの傷は、出血ほどには深くはなかったのが幸いだったが、やはりショックが大きかったに違いない。ここは口を開く気になるまでは、そっとしておく方がいいと僕は思った。
本当に辛くも命を拾ったものだ。相手は想像以上に恐ろしい連中だったのだ。
夕暮れの陽の色が大坂湾に満ちている。表でヒグラシが鳴いていた。
「まだ蒸すな。潮風になぶられたせいか、身体が火照る」
虎千代は半刻まどろんだ後、僕たちの前に現れた。
「皆さん…どうやって、ワタシ言ったらいいか。本当に、ごめんなさい」
ラウラは思い詰めた表情ではっと顔を上げ、そこで初めて口を開いた。
「つまらぬことは言うな。わたしたちは好きで首を突っ込んでいる。ただ、それだけのことだ」
虎千代は、柔らかく笑んでラウラに言うとその意思を確かめるように僕と黒姫を見た。
「…だな、黒姫」
「ううっ、はいっですよお。わたくしともあろうものがまさか騙されるなんて屈辱ですが、虎さまがそう言われるのです。だからその…わたくしはもう、何とも思ってねーですからねえっ」
黒姫はぷいっと顔を背けたが、もちろん言うほど根には持っていない。ただ忍者の自分がラウラの正体を見抜けなかったと言うのが、悔しいだけだろう。
「僕も、もう何とも思ってないよ。だから気にしないで」
僕はラウラの様子が落ち着くのを待ってから、ゆっくりと話しかけた。
「それよりもラウラ、今度は本当のことを話してほしいんだ。君たちはまず、何者なんだ?イスパニアの工作員って言ったけど、それは王室の…?」
ラウラは目を閉じて、かぶりを振った。
「いえ、ワタシたちは、イエズス会の下部組織の一つに過ぎません。あくまで宣教師の活動を支援することを目的とした現地機関です。いや、そうだったと言うのが正しいかも知れませんが」
そこまでを話すと、ラウラは痛ましげに眉をひそめた。
「それはあのビダルに組織の主導権を握られた、と言うことか?」
「…それもありますが、ワタシたちは初期の目的を見失いつつあります。あの悪魔の使い、ビダル・イェネーヅクと言う男のせいで」
ラウラは言うと僕たちの方を振り向き、髪をたくし上げてみせた。ずっと気づかなかったのだが、うなじの髪の生え際に人差し指ほどの小さな刺青が入っているのだった。僕は目を細めてアルファベットの字列を追った。Redemptio…そこにはそう書かれているように見えた。
「レディムプティオ、ワタシたちは原罪の救いを意味する扶助機関なのです。設立の目的は日ノ本で布教する宣教師たちを支え、救いとなること」
「つまりは耶蘇教の侍者殿の集まりのようなものだな」
こくり、とラウラは頷いた。
「はい、ワタシたちのほとんどは同じ年齢ほどの侍者なのです」
虎千代の言う侍者とは禅宗で言う雑用夫の意味だが、キリスト教では司祭についてミサの手助けをする少年少女たちを、侍者と呼ぶ。カトリックではこれをアコライトと言い、式典での役割ごとに名前があるのだ。
「遠地での布教は根気のいる仕事です。想像を絶するほどの苦労と苦痛の中、派遣された宣教師たちは神の教えを広めねばなりません」
それはいかに理想に燃えて日本にやってきた選り抜きの宣教師たちでも、ときには堪えがたいことだと言う。その話は僕も聞いていた。
例えばルイス・フロイスが著した『日本史』には、孤立無援で派遣された宣教師たちの言語に絶する布教活動の苦労が延々とつづられている。来日した北九州から、布教の公認を得るために瀬戸内海を渡った京都までの旅を見ても、各地の仏教徒の絶え間ない迫害や暗殺の恐怖に耐えるばかりでなくまさに命がけの旅立ったことが分かる。
宿泊している宿を放火されたり、船で移動しようと思ったら乗船拒否されたり。キリスト教徒は血を飲み人の肉を食べる、と言う噂を仏教徒が広めたため、彼らは一般民からもいわれのない迫害を受けたのだ。
ラウラの所属するレディムプティオは、そんな宣教師たちを陰日向に支える非公式の現地機関であり、孤立しがちな宣教師たちの横のつながりを保つ連絡機関としての機能も果たしていた。これには武術や医術など特殊な技能がある侍者が選ばれ、それぞれが必要に応じ宣教師の赴任先に派遣されたのだと言う。
「父が日本での布教を許されたとき、ワタシたち兄妹もレディムプティオに所属する許可を与えられました。ワタシたちはこれでようやく父の役に立てる、と思い、希望に燃えていたのです」
しかしラウラの待望の日本での活動は、やっと降り立った九州の地で疑念に満ちたものに変わったと言う。それは言うまでもなく、あのビダル・イェーネヅクと言う男が原因だった。
正体を明かすと肩の荷が降りたのか、そこから、ラウラは一気に語り出した。
「父は赴任先から、ワタシたちに手紙で不安を漏らしていました。赴任前には気づかなかった、あるおぞましい違和感を」
ラウラの父が発見したのは、赴任先での宣教師たちの救いようのない腐敗であったと言う。海賊たちの略奪行為に加担し、捕虜や信徒たちの人身売買に加担する。武器を横流し、布教を装い、現地で諜報活動まがいの工作活動を行う。
彼が突きとめたところによると、それらの活動網の中心にいたのが、そのビダルと言う男だったと言う。
「ビダル・イェーネヅクと言う男が、いつ、どこからやってきてワタシたちの組織に関わったのかは、誰も知りません。しかし気がつくと、ワタシたちは彼が作り上げた組織の網の中に呑みこまれていました」
気がつくと、すでに多くの宣教師がビダルの言いなりになっていたと言う。
「父はワタシたちが九州に着いたときにはすでに、行方が判らなくなっていました」
ラウラは悲しげに言うと、言葉を切った。
「つまり、お父上は、ビダルの手に落ちたと?」
「それは、判りません」
ラウラは不安げに瞳を閉じると、かぶりを振った。
「兄はそのように、信じていると思います。あの男は、あのとき、船の上でワタシたちに言ったのです」
お父上は、私の理想を理解してくれている。
ビダルはそう、吹きこんだ、と言う。
「ミケルはそれを信じたのか?」
「はい」
ラウラは苦しげに頷いた。
「確かに兄も父も、苦しんでいました。九州の地で、すでに目の当たりにしたからです。異教の地で神の教えを信じながら、なすすべなく身体を自由にされたり、病を得たり、殺されたりして命を喪ってしまうことを。それでも神にその身を委ね、何があっても信じ続けることを、ワタシたちは教えなければいけないのですが」
「…そのことについては、わたしは何とも言えぬ」
虎千代は苦い顔で言った。それは仏教徒であること以前に、神に祈ればこの世の来る新がなんとかなるものではない、と言う現実を痛いほど知っている彼女が戦国大名であることに起因している。
「だが、ミケルとお前は考えを別にし、道を違えたのだな?」
「あの男は恐ろしい男です」
ラウラは言った。それは理屈と言うよりは、彼女が本能的に感じたことだ。
「初めて見たときから、思っていました。この男はまるで悪魔のように黒い知恵を隠し、ワタシたちを都合のいいように操ろうとしている、と」
「まずは現実を見つめることだ。それがなくては何も始まらない」
そう、ビダルはミケルを誘ったと言う。
例のあの寝静まった森のような、平板な口調だ。
「君の父上は理解してくれたよ。だから、君たちにもきちんと判るはずだ。この世界は呆れるほど広いのに、神の奇蹟とやらはあまりにも稀少だ。そしてそれを信じ続けろ、と言うにはこの国の民は、現実に醒め過ぎている」
神の教えをものともしないビダルの姿勢に、ミケルとラウラはこの男の正邪を判断する以前に、茫然としたと言う。二人は感覚で理解した。そこにいるのは何かとてつもない存在だった。それがそこに存在することが、いいか悪いかは別として、その異様さは二人の理解できる範囲を超えていた。
「父はあんたの悪行を、ゴアの宣教師会に報告しろ、と言った」
それでもミケルは動揺を隠しながら、硬い声で抗弁した。こうなってはそれがミケルが今出来る精一杯の未知の恐怖への抵抗だった。
しかしビダルは薄く笑うだけだ。
「それは撤回された。理解されたからだ。じっくりと話をすれば、分かることだ。信仰の本質を理解しろ。これは、いずれ時代が過ぎれば誰でも理解できることだ」
「ビダルはこの時代の人間ではない?」
僕がビダルにかまをかけたことを話すと、虎千代たちは愕然とした。
「不思議はないだろ。無尽講社は色んな時代から色んな人間がタイムスリップしていることを確認してるんだ」
つぼを心得た人心操作術、ボウイナイフに鉄板入りのブーツ、そして類まれなスナイプの腕。どれをとってもあの男はこの時代の人間離れしていた。だとしたらひどく恐ろしいことだが、ビダルは特殊な訓練を受けた軍人か、またはそれに類する情報機関にいた人間だったのかも知れない。
「効果的な教化を行うためには、私たちがまず現実に醒める必要がある」
と、ビダルは言ったらしい。
「まずは神を否定しろ。そして奇蹟を創るんだ」
それからのことだ。
興味深いものを見せてやる、と、ビダルは指を鳴らした。
戸惑う二人の前に一個の木箱が置かれた。
「例えばこの国の民には、こんなことを知っている連中もいる」
それは、ちょうどひと抱え出来る小さな正方形の木箱だった。ミケルはそれを持ち上げてみたが、中身がしっかり入っているらしく、ごろりと大きかった。
「開けてみろ」
と言われ、ミケルは奮える手でそれを開けた。
背後からのぞいたラウラは、思わず悲鳴を呑み込んだと言う。
木箱には泥に濡れた髪の振り乱した、若い女の首が入っていた。驚いたのはそれだけではない。箱の蓋を開けると光が射しこんだのが分かったのか、箱にぴたりと収められている、女の目が開き、動きだしたのだ。
「生きてる」
ビダルはブーツで木箱を蹴り転がした。なんの仕掛けもない証拠に確かに切り取られた、女の首が転がり出たと言う。
女の首は、甲板の上でぎょろりとその目を剥いた。
それは切り取られてなお、気管だけで呼吸していたのだ。
確かにそれは生きていた。
青ざめているはずの皮膚は赤みが差し、まだ鮮やかに色づいていたし、唇のあわいは、わななきながらも言葉はなく、かすかな上下を繰り返した。その首が呼吸しているのか、ひゅうひゅうと異様な空気が出入りする収縮音が、かすかに聞こえてきていた。
「あれは、悪夢でした。もう二度と、思い出したくない」
ラウラは頭を抱えたが、生きている生首と聞いて僕たちの胸には嫌な予感が走ったのだ。つい数ヶ月前に僕たちはその異様な現象に直面したばかりだ。僕たちは緊張した顔を見合わせた。
「首が、生きているだと?」
「まさか、ラウラ、その首って…」
僕がほのめかしたその不吉な予感の正体に、ラウラは衝撃的な名前をもって応えた。
「ビダルはその首を日本の武士から手に入れた、と言っていました。黒田血震丸と言う武士から」




