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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
83/591

黒い宣教師襲来!その邪悪な意思と目的は…?虎千代が敗ける!?

ラウラが、ついにはっきりと言った。

自分が実はスパイだったと。

僕の中では愕然とした気持ちと、以前それを受け入れ難い困惑と疑念が錯綜している。

ラウラがイスパニアの工作員だって。ちょっと待って何のために。虎千代はそれなりの身分の人間とは言え、日本と言う小さな島国の一領主の娘に過ぎない。それがなぜ、どんな因果を通って、海の果てにあるイスパニアと言う海洋国家から、名指しで狙われる羽目になると言うのか。

僕は反射的に訊ねていた。

「ラウラ、それどう言うことだよ…?」

だって納得がいくはずがない。今後のことを考えてみても、上杉謙信と南蛮人との間には、ほとんど接点など見られるはずもなかったからだ。

「事情は後で説明します。もう、ご存じかも知れませんが、この島は今、非常事態なのです」

「先客がいることは知っている。それも、かなり手練れたな」

僕と同様、虎千代は、ラウラを見つめる鋭い視線を外さない。

「急ぎでも、まずは手短に説明してもらおう。お前たちの本当の狙いを。わたしは、今の自分のどこを探っても、お前たちのような南蛮人に狙われる心当たりはないしな」

「それは…この場だけでは、説明しがたいお話です」

と、言ってから、ラウラは悲しげに表情を歪めた。

「わたしたちは事情あってこの島に隠れていましたが、あるものたちに居所を知られ、急ぎ退去の途中なのです。夜が明けないうちから、すでに沢山の仲間が殺されました」

「つまりは本当のことを知りたかったら、わたしたちにも、脱出の手伝いをしろと言うことか?」

「…いえ、そこまではお願いできません。虎千代サンたちを欺いておきながら、確かに(ムシ)のいいお話、と思います。しかしことは一刻(イッコク)を争うのです」

「急ぐのはお前たちの勝手だ。わたしはおのれが納得せぬうちはお前たちをここでむざむざと、逃がす気は毛頭ない」

虎千代の態度は、依然厳しい。一分の偽りもごまかしも見逃さない表情だ。ラウラは、虎千代の殺気を感じて表情を強張らせたが、やがてそれを拭い去るようにして首を振り、今度は懇願するように、喰い下がった。

「お願いです、虎千代サン。助けてとは言いません。ただ、ここは、何も言わず見逃してはくれませんか」

虎千代は答えない。ただ何かを見極めようとするように、ラウラの様子をうかがっていた。彼女に付き添っている、イスパニア人と思われる二人の少年のことも気にかかる。あるいは、虎千代には何らかの考えが確かにあったのかも知れない。

「ラウラ、いい加減にしろよ。そんなの勝手じゃないか」

しかし、僕は堪え切れずに口を挟んでいた。

「助けを求めておいて、勝手にいなくなって、今度は放っておいてくださいなんて!どこまで虎千代の気持ちを踏みにじれば気が済むんだよ。虎千代がどんな想いでラウラに会いにここまで来たのか、分かっててそれを言ってるのか!?」

僕が悪罵を浴びせても、ラウラは依然、悲しげな表情で押し黙るだけだ。

「答えろよ。ラウラ、このまま黙ってまたいなくなるなんて、そんなこと、僕だって許せないぞ。それとも、君は僕たちとはもうまともに話をする気もないのか!?」

僕はラウラに詰め寄りかけた。こんなことをしに、ラウラに会いに来たのではなかった。でも、虎千代のことを思うと、言ってしまわざるを得なかった。

「真人」

虎千代は刀を持った手で、僕を制した。ラウラに掴みかかろうとした僕を見て、刃物を持った少年たちが色めき立ったのを見かねたのだ。虎千代は僕とは違い、まったく冷徹な面持ちを崩さなかった。

「まず一つ、答えろ。この島に来ているのはこの、南蛮人の宣教師の手の者であろう」

虎千代が懐からラウラが描いた例の男の似顔絵を見せると、彼女の顔色が変わった。

「どうして、それを…?」

「ミケルと信徒の拉致事件の真相は、この高来から聞いてあらましを知った。お前の兄は、この男に自らすすんでついていったそうだな」

ラウラはかすかに頷き、そして痛ましげに瞳をまたたかせた。それは僕たちが、今まで見たこともないような彼女の悲痛な表情に他ならなかった。

「何があのときあったかはわからねど、この男の手から、兄を取り戻したい、とお前が願うなれば、それは当初頼まれたことと変わらぬ。この長尾虎千代、合力するにやぶさかなし。ただ、わたしはお前に身を賭して証を立ててほしいだけだ。これからお前がわたしたちに話すことはもはや、何の嘘も偽りもない、と」

(アカシ)…?」

反芻して、ラウラは上目遣いに虎千代の目を覗き込んだ。

「わたしたちは、お前の助けに感じ、合力することを約した。だからこそ、お前に本当にあったことを、わたしたちは知りたいのだ。お前は今度こそ、それを包み隠さずわたしたちに話す覚悟はあるか?わたしは今、それをお前の身に問うている」

ようやく虎千代の意を察して、ラウラは、何かに気づいたようにはっと目を見開いた。そうだ。僕もやっと気づいた。虎千代はこれまでのラウラの様子から、彼女自身を見極めようとして、ずっと黙っていたのだ。自分を偽っていた彼女を許すか、許さないか、などと言うことなどを、虎千代はすでに考えてもいなかった。

「判りました」

と、ラウラは言った。

「お約束します。ここを出たら、わたしの知る、すべてをお話しすると」

「分かった」

その言葉を聞き届けると虎千代は、ラウラの方へ切っ先を差し出した。

「その剣を抜け」

「え…?」

ラウラは意図するところが分からず、首を傾げる。

「お前の剣と、我が剣の肌を合わせる。日本(ひのもと)では金打(きんちょう)と申して、武人同士が約を取り交わす時は、必ずこのようにするのだ」

騎士(カバジェロ)の、誓いのようなものですね?」

ラウラは顔を輝かせて頷くと、腰のレイピアを抜き、虎千代の小豆長光の刀身に向かって突き伸ばした。

「よし」

こうして、豊かな刃紋と反りを打った日本刀と、沖の陽にきらめく海魚のような銀色の細い刀身がからりと合わせられた。

はるかな東西の剣士たちが、まさに再び手を握った瞬間だった。

「ありがとう」

ラウラは、瞳を潤ませて僕たちに微笑んでみせた。僕はほっとした。あの屈託のない笑みが、ようやくそこに戻ってきていたからだ。

「真人もこれでよいか」

僕は頷いた。疑念があったにせよ、僕はラウラに決して悪い気持ちを抱いたりはしていない。

虎千代はそれを見てかすかに唇を綻ばせると、

「さて、どうしたものか。つつがなく脱出の手を打つには、黒姫たちにも仔細を話さねばならぬしな…」

黒姫はラウラが諜報活動を行っていたことに、かなり憤慨していた。まあ、虎千代の命令ならば素直に忘れる、と言うとは思うが。そんなことを考えていると、

「と、虎さまっ、お助けくださいですよおっー!」

なぜか黒姫の情けない悲鳴(?)が響いてきた。別口から上陸した二人がようやく合流出来たのだ。と、思ったら。

「どうなってるんだよ、この島。南蛮人のガキまみれじゃねえか」

愚痴る鬼小島の腕にも、足にも、わらわら子供が取りついている。鬼小島の巨体は今や子供まみれと言ってもいい。下は四、五歳から上は、中学一年生くらいまで。男の子も女の子もいる。三十人近くいただろうか。しかもみんな、南蛮人の子供たちのようだ。

「敵が隠れてるのかと思ったら、どこもかしこもガキばっかじゃねえか。この俺様がこんなチビどもと戦えるかっつんだよ。おいっ、こいつらどうにかしやがれ、小僧」

いや、僕に言われても。

「ひっ、そこっ、引っ張らないで下さいですよ。…武器がっ、危ないですってば!」

まるで保育園の保母さんのようになった全身凶器の黒姫は、子供に取りすがられたり、服を引っ張られたりして悲鳴を上げている。

「だっ、だから子供は苦手なのですよ!わっ、わたくしが可愛がるのは、虎さまとわたくしの赤ちゃんだけなのですからねえっ、他人様の子供は大嫌いなのですよっ」

これには虎千代も当惑したようだった。

「もしかしてこれが、急ぐ理由か?」

ラウラは小さく頷いた。

「不意を打たれて、逃げる手段も考えていません。でも何とか彼らを奴らの手から、逃がさねば」

「でもなぜこんな子供たちを狙って…?」

僕の疑問に、ラウラは表情を強張らせた。

「あの男は、悪魔のような男なのです。あの、ビダル・イェネーヅクと言う男は」


「似顔絵の男の名か?」

虎千代の問いに、ラウラは無言で頷いて見せた。

ラウラがついに、あの不吉な男の名を口にした。

ビダル・イェネーヅク。

それが同胞のはずの宣教師を殺し、自分たちの信徒のはずの日本人たちを売り払った、黒い宣教師の名だった。僕は再びその男の面影を思い出し、背中に冷たい戦慄が走ったことを思い出していた。思わず夏の暑さも忘れる。地下に眠る岩の牢獄か、墓石のような冷たさを感じさせる、まさに悪魔のような男だった。

「ビダルはワタシたちの組織を割り、裏切りを重ね、自分の組織を持つにいたりました。でもそれ以上に多くの人間を犠牲にし、目的のためにはどんなことも顧みない恐ろしい男です」

「確かに腕は立つようだな」

虎千代は上陸するとき、ほとんど抵抗らしい抵抗もせずに殺害されたラウラの組織の人間たちを発見したことを話した。それを聞くとラウラはいたましげに眉をひそめた。

「ビダルのお陰で、ワタシたちの組織はもうこの国で活動を続けることは出来なくなるかも知れません」

「兄上はなぜ、かような男に着いていったのか?」

「悪魔は魅力的な誘惑、します。あの、ビダルと言う男に、兄は神の奇蹟を誤解させられたのです」

察するにミケルは、あの黒い宣教師から、何らかの交渉を持ち掛けられたのだろう。それがどんなものかは判らないが、ラウラはそれを拒否し、ミケルはそれに乗った。兄妹の間に、そのとき一体、何があったと言うのだろうか。ラウラの表現はまだ抽象的だったが、僕はその神の奇蹟と言う言葉が、ずっと引っ掛かっていた。

「いけません」

何かを感じたのか、ラウラの顔色がふいに変わった。また誰かが接近して来ているのだ。虎千代もそれと察したらしく、屈んで地面に耳をつけながら、黒姫に言う。

「この子らを連れて今すぐ逃げられるか?」

「それが、虎さまのご命令とあらば」

黒姫は地図を取り出して、ラウラに説明した。舟は複数の岸に停泊している。手分けしてこれらの舟に子供たちを分散して乗せるのが、得策と思われた。

「囮がいるな」

「それは、ワタシが」

ラウラが進んで名乗り出た。虎千代は彼女と目で頷き合うと、

「弥太郎、お前が多い荷を任せてよいか」

鬼小島は眉をひそめると、肩をそびやかした。

「ガキのお守ですか?気は進まねえですが、うちにも、こいつらと同じチビがいますしね」

虎千代は手早く、人数を分けた。

「宗易殿、弥太郎たちを御頼み申す。我とラウラ、黒姫の三人でここは喰い止める」

虎千代は僕を見ると、言った。

「真人も我らについてくれ。こちらも少ないながら、子供がいるのでな」


僕たちは二手に分かれ、迅速に行動を開始した。僕たちが目指すのは、移動距離が長い、北の船着き場だ。

「さあて、やっとわたくしの見せ場が来ましたですよっと」

黒姫は爆弾を取り出して、着火の準備をする。どうやら囮らしく派手にいくようだ。黒姫の戦闘は、子供には見せられそうにもない。

そして僕には、十人近くの子供たちがくっついて回った。

「みんな、真人サンの言うことをきちんと聞くのですよ」

ラウラは子供たちに言い聞かせている。そう言えば、と僕は気づいたのだが、日本語だ。驚くことに子供たちもちゃんと、はーい、と返事をしている。

「びっくりしましたか?」

目を丸くしている僕に、ラウラは悪戯っぽく微笑みかける。

「この子たちは、この国で生まれ育った子たちです。大丈夫、日ノ本(ヒノモト)の言葉、みんな分かります」

いわゆる二世と言うやつか。びっくりはしたが、考えてみれば、いても不思議はないのだ。

「それなら、ひと安心だな」

虎千代は僕に向かって微笑みかける。

「いざと言うときは、真人は彼らを誘導して走ってくれ。一人の遅れもないようにな」


ぎらぎらと真夏の太陽が中天に輝いている。険しい道を、僕たちは息を潜めて走った。その間、確かに敵は追ってきている。黒姫は単独で道を戻り、何度も挑発を続けていた。時折、黒姫の使う火薬の爆発する音が僕たちにも聞こえ、そのたびに子供たちが声を上げる。陽動作戦は成功だ。僕たちは発見され、明らかに追われているのだ。

それにしても相手は、どれくらいの部隊規模で攻撃して来ているのか。突然の襲撃にラウラも人数をおぼろげながらにしか把握していないと言う。

「ビダルの組織は、ワタシたちに比べてすでに強大です。もしかしたら、かなりの人数が入り込んで来ているかも知れません」

「いや、ここは狭い。いたとして、それほどの人数はおるまい」

虎千代は即座にそれを見破っていた。

「それに多人数であれば、こそこそせず、一気に島を包囲すればそれで済むことよ。だが、精鋭が集まっている。ここはまず、まともにぶつからぬが得策よ」

来た道を戻るだけなので、行きよりは速い。しかし、複雑な道のりだ。子供たちも連れているし、どう急いでも、小一時間ほどはかかりそうだ。走っていると、時間ばかりが無駄に過ぎていく感じがする。

「そろそろだ」

と、虎千代が船着き場が見えてきたことを告げる。

ここから坂を下りれば、船まで一直線だ。僕は子供たちを励まし、一気に駆け出そうとした。足場の悪さもこうなれば気にならなかった。

切り立った崖が両端にそびえる道に、僕たちが差しかかったときだ。走る僕の視界に上空からふわりと、黒い布のようなものが落ちてくるのがかすかに見えた。ラウラの叫びがそれに被さるのが、ほぼ同時だった。

「だめっ、真人サンッ」

僕が振り返ると、ラウラが飛び出し、腰の剣を抜きこっちに向かってくるところだった。黒い布きれは、断崖からはためくように落ちてきたようにみえた。しかしそれは、布ではなかった。黒い外套を羽織り、ブーツを履いた若い男だったのだ。

顔には異様な彩色が施されたマスクをつけていた。腰に吊った武器は、そう、ラウラと同じ短剣だ。男は手慣れた仕草でそれを引き抜いた。

僕を突き飛ばしながら、ラウラはその男にもう片方の手で仕掛けた。鋭い不意打ちの一撃だったはずだが、すでに攻撃態勢に入っていた相手には、苦もなくかわされてしまった。逆に相手の剣が、ラウラの左肩を突いた。ラウラは顔をしかめて身を退いたが、傷からは見る見るうちにおびただしい血が流れてくる。

「どけ」

動きが停まったラウラを仕留めようと、ステップを踏んだ相手との間に素早く虎千代が斬り込む。細身のレイピアでは、日本刀の斬撃を受け止めることは不可能だ。

剣で受ける不利を悟ったか、しかしなんと相手は、それを空いている片手で受け止めようとした。苦し紛れの反応なら無謀すぎる。小豆長光の威力なら、手首を苦もなく両断しただろう。

しかし、刃は男の手の甲で止まった。

ガン、と言う分厚い金属音と火花が、その男が手の甲に何を仕込んでいたのかを、雄弁に物語る。男は反対側の手に、鋼鉄製のナックルガードをつけていたのだ。

まるで体重を感じさせない身軽さで、男はふわりと飛び上がると、虎千代の身体をそのまま爪先で蹴り上げようとした。

「くっ」

虎千代は超反応をみせた。内臓かあごを蹴り上げられる局面で絶妙に上体をかわし、非常識な男の蹴りを背後に避けたのだ。蹴りを空振った男はそれでもバランスを崩すことはなく、綺麗な弧を描いて反転すると、僕たちの行く手を塞ぐ位置にふわりと降り立った。

「ビダルの手のものか。名ぐらい名乗ったらどうだ」

虎千代は誰何したが、男はもちろん応えない。見る限り、ほっそりとした細身の男だ。かなり若い。たぶん、僕たちと同じか少し上かだろう。まるで曲芸師のような動きだ。

「虎千代サン、名を聞く必要はありません」

虎千代の声に、ラウラがなぜか厳しい口調で切り返した。僕が見ると、あの温厚なラウラが目を吊り上げ、怒りに満ちた目で、仮面の男を見つめている。

「仮面をとらずとも、(ワザ)で判ります。この男はミケル・アリスタ、ワタシの兄です」

ラウラの衝撃的な告白に、虎千代は目を見開いた。

「なんだと」

まさか、この男が。僕たちは愕然として仮面の男を見直した。男は肩をすくめて、小さくため息をついた。いぜん、応えるつもりはないと言うように。ラウラは傷ついた身体で再び短剣の切っ先を向けると、ミケルだと言う男に向かって殺到した。

男の軽やかな身のこなしは、ラウラのものともまた違って正体がない。なんと身体のばねだけで、この男は自分の身長分くらいの高さを難なく飛べるのだ。しかし技を知っていると言うラウラは、空中でその顔面を捉えた。

銀色の刃先に、壊れた仮面だけが引っ掛かっている。そのはるか背後に、仮面を剥ぎ取られた男が立っていた。

やはりだ。

ラウラの言うとおり、ミケルは彼女に瓜二つだ。そこに立っていたのは、ラウラに生き写しと言ってもいい、ミケル・アリスタだった。

「乱暴だな」

ミケルもまた、肩をそばめて日本語で皮肉を言う。

「この国で新しく出来た友人(ユージン)をおれに、紹介してくれるんじゃなかったのか?」

白皙(はくせき)の頬に、ラウラのつけた傷痕がついている。端正な顔を皮肉げに歪めたミケルの表情には、自分を追ってきた妹への、信じられないほど明らかな侮蔑と敵意の色が浮かんでいた。

「悪魔に魂を売った兄さんと、かわす言葉などありはしません」

ラウラもまた、血が上った顔に明確な敵意を浮かべて実兄をにらみ返す。

「兄さんが悔い改めない限りは、ワタシはあなたの命を止めに来ているのです」

「進歩しないな。神がいて、悪魔がいる。相変わらず、そんな世界に生きているのか?」

自分は違う、と言うようにミケルは不気味な笑みを浮かべる。しかし、僕からみればそのミケルこそが、どことなく狂信的な観念に支配されているように感じられた。

長尾虎千代殿(ナガオトラチヨドノ)、あんたの名前も知ってる。とりあえずは今、妹を預かってくれて感謝している。手を貸してくれて、とは言ってないがな」

「北国にいたそうだな」

虎千代は鋭く切り返す。虎千代が今の一瞬で判断したのは、自分の名前を知っていると言うことは、ミケルがラウラの言うとおり、やはり北国にいたかも知れないと言うことだ。だが、恐らくそれはラウラの言うとおりの経緯で連れて来られてのことではないだろうと言うことを確かめるために、虎千代は敢えてかまをかけたのだ。

「ラウラから聞いたのか。ああ、そうだ。おれは確かに北陸(ホクリク)にいた。越後(エチゴ)加賀(カガ)能登(ノト)越前(エチゼン)、どこにでも行った。この国のことなら、今は大抵のことは分かる」

歌うようにうそぶくと、ミケルは口笛を吹く。

「あんたのこともちゃんと知ってる。そして、知ってるのは名前だけじゃない。例えばあんたは狙われている。殺せば金になる。越後の国主がおれたちに敬意を払ってくれる」

ミケルは剣先を、ラウラから虎千代に向けた。かすかに虎千代が腰を落とした。するとミケルは小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、あっさりと剣線を落とした。

「よせよ。確かにそうだが、今のおれたちの目的じゃない。退いてくれれば何もしない。おれと、ラウラの問題だからな」

「詭弁だな。もはや、これはお前とラウラだけの問題ではない。そして、わたしたちとお前だけのものでもない。違うか?」

「違わないさ。今、話しているのはおれとあんたたちのことだけだ」

「これまではな。だからこれから、それ以外のことも、話してもらう。ビダルと言う男のことも」

虎千代がビダルの名を口にしたとき、ミケルの表情から笑みが掻き消えた。

「駆け引きはやめろ。時間を稼ぐつもりなら、そのレイピアとやらでわたしを止めることを考えることだ。わたしに斬り捨てられる前にな」

虎千代は刀を納めると、ゆっくりと居合の構えをとった。身のこなしの軽いミケルを、一刀で斬り捨てる備えだ。

「なんだよ、それ。おれを斬ろうって言うのか」

必殺の空気を悟ったミケルは、瞳を輝かせ、

「誤解があるみたいだが、おれは時間を稼いだつもりはない。あんたとも話したかった。それに、一つ言っておく」

と、言い、自分も虎千代の顔を刺し貫く構えをみせた。

「こいつはレイピアなんかじゃない。エスパーダだ」

「…虎千代サン、兄の技はワタシのものとは違います」

ラウラが心配そうに虎千代に言ったが、虎千代は斬り合いをやめるつもりはないようだった。

「そのようだ。だが、ここで退くわけにはいくまい」

と、虎千代はラウラを僕の方へ下がらせた。そしてそのとき、小さな声でラウラに言った。

「こやつと我が斬り合いを始めたら、真人と舟まで走れ」

ミケルを斬る。

虎千代は、即座にその覚悟をしたのだろう。ラウラもその逡巡を虎千代に告げなかった。ラウラも子供たちを救うために、虎千代の決断の方を採ったのだろう。ビダルについていった彼の身に何があったのかは分からないが、それほどに危険な目をしていた。僕から見ても、このミケル・アリスタと言う男は普通じゃない。

そのミケルと虎千代が切り結ぶ。

次の瞬間には、船着き場まであと、二十五メートルほど。僕は負傷したラウラを抱えてとにかく走らなければならなかった。

かちり、と虎千代が刀の鯉口を切った。そのときだった。

パーンと乾いた衝撃音が炸裂した。

耳を(ろう)するこの音は、紛れもなく銃声だ。反射的に僕は負傷したラウラを庇うように身をこごめた。

銃声は坂の上からする。しかし見たところ、誰を狙ったものでもなかった。射手はこちらに注意を引く意味合いで上空に向けて銃を撃ったのだ。

坂の向こうに一人、ひどく背の高い男が立っていた。漆黒に近い髪を短く刈り上げ、同じ色の宣教師のマントを羽織っていた。空に掲げた右手が、煙を吐いた小銃を握っている。黒いステッキ状にカーブのついたそれは、イスパニアの商人たちが使う銃だった。


あの男がビダルだ。

ひと目で僕にも分かった。

たった一人だった。ビダルは、全員の注目が自分に集まったことを確認すると、大袈裟に両手を上げて見せ、やれやれと言う風に肩を竦めると、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。大胆にも空になった小銃を、放り棄ててだ。目の前のミケルを忘れ、虎千代が思わず身構えたのが、僕にも分かった。この男はそれだけの存在感を持っていた。

間近に来て、僕は思わず息を呑んだ。

ラウラが描いたイメージが、実物と、寸分違わなかったからだ。しかもそれ以上に、この男の不吉な印象は、目の当たりにして初めて分かる毒物のようなものだった。そこにあるビダルの目は、渇いていた。まるで真冬の月のように冷たく、平板で形だけが厳しく冴えていた。そんな瞳が生きてこちらを見つめているのだ。

僕はぞっとした。本当にこの男、何を見て生きて来たのなら、こう言う目をすることが出来るようになるのだろう。

「ミケル」

ビダルは何事かを、イスパニア語で言った。足止めを成功させたことを労ったように思えた。それから、虎千代の方を見ると、

「お初にお目にかかる。あなたが長尾(ナガオ)鬼姫(オニヒメ)様か」

それはぞっとするほどに流暢な日本語だった。ビダルの発音は滑らかで、その声は、子守をするように穏やかだった。

「なるほど、聞きしに勝る腕だ。(サムライ)…私たちの国にはなかった文化だ。私がこの目で見た中では、やはりあなたは、王侯(オウコウ)の列にして、もっともそれに値する響きを持つ剣士なのかも知れない」

それは奇妙な挨拶だった。口ではそう言っている。しかし、心からそれを思っていないことはすぐに分かるものだ。通り一遍の賛辞で油断させようとも考えていないその言葉は、ある意味ではそれは、ビダルの明確な挑発ともとれた。この男は本心では一体、何を考えているのだろう。ただその凍りつくような眼から分かる意志は、自分の目的のためなら、他人のことなどどうでもいいとはっきりと言っていた。そのことは、まさに手に取るように分かった。

「世辞で煙に巻くつもりなら、状況と相手を選ぶことだ」

虎千代は構えを解かぬまま、鋭く言い返す。

「同じ言葉を口にするなら、ラウラから兄を奪った理由を、話してもらおうか」

虎千代が発した殺気を、ビダルはこともなげに受け止める。

「奪う?人聞きが悪いな。彼はすすんで私に協力してくれている」

「馬鹿を言うな。ラウラはこのミケルはお前に、だまされていると言っている」

「だまされている、か。そうかそうか、物は言いようだ」

意外そうに目を剥いて虎千代を見ると黒い宣教師は、くくくっ、と、不吉な笑いをもらした。

「お姫さま、こう考えたりは出来ないのか?ラウラは、あなたをだましていたんだ。もしかしたら、今度もそうかも知れない、と」

「虎千代サン!」

悲痛なラウラの訴えを、虎千代は背で呑みこんだ。

「ラウラが嘘をついていたのは、兄のためだ。信用しない理由はない。少なくとも、お前の言うことよりは」

「まだ彼女が、言わずに隠していることがあるとしても?」

虎千代の言葉が停まると、ビダルは、高い身長を折り曲げ、その動揺を試すように覗き込む仕草を見せた。

「ラウラは、イスパニアの宣教師会から独立した組織の工作員だ。個人的にはミケルを探しにここへ来たとしても、それだけでは勝手な行動は許可されない。意味は、分かるだろ?」

この男はやはり悪魔だ。言葉一つで、人の心を思う様弄ぶ。

「ミケルが言ったはずだが、まだこの問題は私たちだけの問題だ。足抜けするなら、今かも知れないぞ?」

虎千代の明らかな足踏みを見てとったのか、ビダルは満足げに含み笑いを漏らした。

「助けて下さい…!」

ラウラは僕にしがみついて、訴えた。その表情の悲痛さに嘘はない。

「虎千代サン、真人サン、お願いです…あとで、何もかもお話します。だから、信じて下さい…」

「虎千代、ラウラは…」

「分かっている。大丈夫だ。それより、お前は何を置いてもラウラと子供たちを連れてここを逃げることを考えろ」

虎千代はさすがに揺るがない。しかし、敵が二人に増えた。いくら虎千代とは言え、ミケルとビダル、二人を相手に戦えるのか。

「この女に肩入れするのか?やめておけ。どうせこの女の目的も、私たちと同じだ」

虎千代は柄に手をかけたまま、断固として言った。

「だとしても、お前に子供たちを拉致されるよりはましだ。同胞の宣教師を殺害し、信とたちを問答無用で拉致した、お前たちよりはな」

「あきれるほど強情だな」

ビダルは言うと、ごく自然な動作で腰から一本ナイフを抜いた。片刃のブレード式になっているそれは、ナイフと言うよりは、やや小型の剣と言ってもいい代物だった。

「最初に言っておく。あなたは後悔するだろう。本当なら、こっちはどっちでも良かったんだ。君たちが私たちの同胞の子を、奪わなければ」

ビダルは虎千代の注意を惹きつけると、背後のミケルに油断なくこう告げた。

「妹とガキどもから、目を離すな。こいつらが走り出したら遠慮なくガキどもを、刺せ。分かってるな?」

「ああ」

ミケルが頷くのを、ビダルが確認した。ほんの一瞬、この男の目が虎千代から離れた。僕はそのとき見ていた。虎千代が柄の握りを逆手に持ち替えたのを。そして同時に、その小さな身体が翔ぶようにビダルに向かって走り出していたのを。

ずっと、狙っていたのだ。

滑空する鳥のように、横一直線に。(つばくろ)の居合いだ。今の一瞬で、虎千代はビダルの頸の血脈をそのまま、掻き切り、その後ろのミケルすら攻撃しようとしていた。

山犬だたらの足運びを体得した虎千代の身のこなしは、目にも止まらない。並みの腕の人間なら、虎千代の姿を目で追うことも出来ないうちに、頸動脈を斬り飛ばされていただろう。

しかし、ビダルはあわてたりはしない。一瞬で最高速近くまで達した、虎千代の身のこなしにもまごつかず、むしろそれに合わせて高く垂直に飛んだ。

そして。

身体をひねり、振り向きざま、突き刺さるような後ろ蹴りを喰らわしたのだ。

長身から繰り出される、強烈なソバットだ。

まともに蹴りこまれたならば、内臓が破裂してもおかしくない。

辛くも虎千代はそれを剣で受けた。ブーツには、やはり鉄板が仕込まれていたのだ。まるで自動車の正面衝突のような、壮絶な衝撃音がした。身体ごと吹っ飛ばされた虎千代は、バランスを崩して地面に落下した。何とか受け身をとったが、顔をしかめたまま、立ち上がれない。もしかしたら、内臓にダメージがあったのではないか。

「気分はどうだ」

ひざまずく虎千代を、ビダルは見下ろして言った。彼女はまだ声を上げられなかった。それでも、あの冷たい目は何の感情も見せず平板なままだ。

「同じことを二度、言うぞ」

勝ち誇るではなくビダルは肩をすくめると、物憂げに吐き捨てた。

「こっちはどっちでも良かったんだ」


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