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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
82/592

丹右衛門島の錯綜!ミケル拉致の真相、ラウラ衝撃的な告白の真意は…?

波に揉まれて揺れる視界に、虎千代は丹右衛門島を捉えている。

出撃は暁闇(ぎょうあん)の頃だ。日の出前に僕たちは港に集合した。それから丹右衛門島まで片道おおよそ一刻(二時間)ほどの航行だと言う。そこからすでに半刻ほど経っての朝焼けの中に僕たちはいた。

黒雲を孕んで真っ赤に焼け始めた空で、紀州灘の波は色濃いぶどう色にくすんでいる。

潮騒の音に包まれ、まるで海そのものに呑みこまれているかのようだ。上下に揉まれる波は大きいときでは僕の身長ほどにも見え、思うさま舟を蹂躙してくる。正直何度も、転覆するんじゃないかと言う瞬間があった。山育ちの虎千代にこれはかなり過酷だったに違いない。文字通り、命がけの決死行だった。

宗易さんが手配してくれた小舟に、鬼小島、黒姫の手勢が乗り分けている。水夫たちはすべて宗易さんの家のものだ。彼らが熊野水軍の水先案内の誘導を受けながら、荒れる波間を進んでいく。僕たちの舟の前も後も、濁流に揉まれる落ち葉のように、舟が揺らいでいる。しかし不思議だ。決まった道があるわけでもないのに、どうして彼らはばらばらにならないのだろうか。

「うぷっ…」

そして僕は、咽喉を締めあげられるような強烈なえづきと戦っていた。壮絶な船酔いで絶え間なく気分が悪いのだが、何度目かに一回、大きな波が来る。もはや吐くものは吐き尽くした感があるのに、これが止まらないのだ。陸に着いたら二度と、まっすぐ歩けなくなるんじゃないか。

虎千代はよく平気だと思うが、さっきから一度も口を利いてくれないのは、やっぱり気持ち悪いからだと思う。舳先が特に酔うと言われたのであいつは船の尻の辺りに行き、刀を抱えてうずくまっているのだが、空を見上げながらずっと青白い顔をしていた。

本当は、余裕があったらもっと虎千代と話したかったのだ。ラウラのことで、平静を装ってはいたが、一番ショックを受けているのは、誰より虎千代だったはずだから。

そのラウラは。

宣教師が殺害されたことも知っているし、高来が深くそれに関わっていたことも、知っていた。そして僕たちを調べたことも、黙っていた。

結局、現時点で僕たちが判断するにラウラはほとんど、僕たちに本当のことを言っていなかったことになる。綾御前の言うように、ラウラが僕たちをスパイするとして、そのことが誰に何の利益をもたらすのか、現時点ではまったく想像もつかない。でも、彼女が隠していたことが僕たちの間に分かち難い溝を作ったことは確かだった。


「ううーっ、どこまでかっこ悪いですか!まさかわたくしが謀られるとは!」

綾御前の話を聞き、頭をかきむしっていたのは黒姫だった。

「綾姫様の言う通りではありませんか!誰に仕込まれたか知りませんが考えてみればあの素描の異能、忍び働きをするのにはうってつけですよ。この黒姫ともあろう者がなぜもっと早く気づかなかったですか!やってくれましたですねえ、あの南蛮娘。我ら軒猿衆を手玉にとるとは。何を隠してるのか知りませんが、謝って済む問題じゃないですよ。こいつはめちゃ許せんですよねえ!ともかく見つけたら、この黒姫が腕によりをかけて、洗いざらい泥を吐かせてやろうじゃあないですかッ!」

歯ぎしりしながら暴走する黒姫を止めずに、珍しく虎千代も押し黙っていた。

「お嬢、どうします。綾姫様の言うことも一理ありましたぜ。やっぱりここは丹右衛門島とやらに行ってみるしかねえでしょう」

鬼小島が水を向けても、虎千代はため息をついて腕を組むばかりだ。

「でかぶつ、何をぐずぐず言ってるですか。どうもこうもありませんですよ。虎さま、早速その丹右衛門島とやらに乗り込みましょうですよ!黒姫、これからありったけの火薬を掻き集めてきますですよ!問答無用で吹っ飛ばしてやりますですよ」

いや問答無用でいいのか黒姫。数秒前に言ったこととの明らかな矛盾を誰も突っ込まないまま、黒姫は勢い余って火薬を調達に飛び出してしまった。長尾家的にはあれほど危険な獣を野に放っても大丈夫なのだろうか。

しかし綾御前も綾御前だ。さんざん各所に火を放って虎千代たちを焚きつけておいて、

「ふああああっ…さて言いたいことを言ってすっきりした。綾はこれから昼寝じゃ。起こすな」

とか小あくびをしながら、自分はさっさと去ってしまうのだから。

あとに残された虎千代の気持ちも僕には分かった。僕だってそうだが、まだ、現実を受け入れ難いのだ。

もちろん虎千代は宗易さんから情報をもらい、即座に丹右衛門島へ乗り込み、ラウラにことの次第を直接問いただすことを決めはしたが、それだって、ただそう決めたと言うだけでまだ何の方針も決まっていない。ラウラが一体、何者だったのか。僕たちはいぜん、彼女に対する態度を決めかねている。虎千代の表情に立ちこめる暗雲はまさにそれを象徴していた。

僕も思うが、ことをだまされたから敵、と言った単純な善悪の二元論で決める問題じゃない。ラウラは本当のことを言っていなかったことに対して僕たちに呵責めいたものすら感じさせていたのだ。確かに黒姫の言うとおり、だからと言って謝って済むと言うことではないと思うが。

ラウラはラウラなりのやむを得ない事情を、胸に秘めていたのだ。

「しかしだ。これだけの絵をなぜ、わざわざ遺していったか」

虎千代はしきりに眉をひそめている。もしラウラがスパイだと言うならば、絵として記憶した情報はいち早く第三者に渡して、手元に置かないのが自然と言える。それに僕たちといる間にそれを描くことだって大胆過ぎる作業だ。

しかし僕はその理由を知っていた。彼女には、そうせざるを得ない事情があったからだ。それは彼女の絵の描き方から、僕が気づいたことだった。


「サヴァン症候群…って言っても分からないと思うけど」

えづきが少し収まったので、僕たちは会話することにした。気力を振り絞ってでも、しゃべっていた方が何とか気分転換になるんじゃないかと思ったからだ。

「さば…なんと言った?」

虎千代は目を細めた。

「ラウラの絵のことなんだ。虎千代、なんでラウラがあんなに自分が疑われそうな絵ばかり遺したんだろう、って言ってたろ?」

「ああ、そのようなこと…言うたか…」

虎千代は掠れた声で言うと首をひねった。ちょっと目がうつろだ。はたしてこれで上陸してちゃんと、動けるのだろうか。

「それがどうかしたか」

「こんなこと言っても今さらかも知れないけど、あれは恐らくラウラが残さざるを得なくなって残したものだと思うよ」

僕は虎千代にサヴァン症候群のことを、かいつまんで説明した。

サヴァンとは簡単に言えば、脳の精密な機能に起こる障害の一つで記憶力の障害とされている。記憶力と言うと単純に僕たちは、今まで持っていた記憶が損なわれてしまう、いわゆる記憶喪失を思い浮かべるが、サヴァンの場合はその逆、憶えたものを忘れられなくなってしまう障害だ。

人間には通常、注意の選択性と言うフィルターがついているのだが、記憶にも当然その機能が働いている。そのために確かに経験したことでも、あるところはよく憶えているが、他の細かいところは忘れてしまった、と言うことがよくある。サヴァンはこの機能が何らかの理由で、十分に働かないと考えられている。

そのためサヴァンとされた記憶力の人が利用できる情報量は、半端なものじゃないらしい。何を記憶できるかはその人によるのだが、何千ページもある本の一字一句や紙の汚れやしわに至るまで一切暗記してしまう人もいれば、オーケストラの複雑なパートを全部暗唱できる人もいる。ラウラの能力なども、同じ事例がちゃんと報告されている。

端から見るとそれらの超人的な能力は確かに、特殊な才能のように見えるのだが、サヴァン症候群の人にとってはそれほど素晴らしいものでもない。本来生きていくのには少しでいい脳の情報処理機能をフルに使ってしまうので、他の部分に障害が出る人も多いのだ。

例えばそれは、記憶の風化に現れる。普通の人はどんなに辛い記憶でも時間とともに細部を忘れてしまうので少しずつそれが風化していくのだが、サヴァンの人は過去の悲しい出来事をついさっき起こったことのように再現出来るので、いつまでも辛い気分が癒えないそうなのだ。

辛い記憶がいつまでも残って描かないと忘れられない。そんなラウラはまさに、サヴァン症候群の人の典型的なハンデを背負っているはずなのだ。

「よく判らぬがつまり、あの異能が生まれつきの病だと言うのか」

虎千代は僕の話をじっと聞いていたが、やがて難しい顔をして首を傾げた。

「あの絵はラウラがやむを得ず描かざるを得なかったもの。つまりは間者働きの結果のものとは言えぬとお前は考えているのだな」

僕は頷いた。

「うん、もちろんそれだけで、ラウラが僕たちに隠しごとをしていたことが全く悪いことじゃない、とは言えないと思う。そもそも、虎千代のお姉さんには悪いけど、この辺りの地形を踏査したような絵が出てきたからと言って、それが即、ラウラが僕たちに害をなすために近づいてきたとは言えないんじゃないかな?」

「ううむ。そうか」

虎千代は眉をひそめた。まだ、素直に頷けないと言う感じだ。

僕にもそれがある意味では、虫のいい解釈だと言うことは分かっている。黒姫のように、手放しでラウラが嘘をついていたことを責めたい気持ちもないとは、言えない。しかしだ。それ以上に僕は、虎千代にラウラを憎んでほしくなかったのだ。

どんな形であれ、僕たちに変わらぬ友情を誓った彼女を。

あのときのラウラの声音、不安に眉根をひそめた表情。それらがまったくの嘘だとは思えないし、僕が同じように気持ちを伝えたときに、ほっと息をついたラウラの姿を。忘れられようはずがない。

「お取り込み中すんまへん」

宗易さんのその声に、僕は虎千代との会話を打ち切られた。

「もう間もなくですわ」


眼前に立ちはだかる巨大な島の影に、僕たちは目を見張らざるを得なかった。

これではまるで海に浮かぶ要塞と言っても、決して大袈裟ではない。

宗易さんの話では、丹右衛門島は周囲二キロほどの小島に過ぎないと言うが、ぐるりを覆う、四階建ての建物ほどもある穴だらけの岸壁に築かれた無数の洞窟や横道が、島の地理を複雑すぎる高層迷宮建築にしているのだ。

ここから見ても真っ暗に沈んだ岩壁の合間のそこここに人が潜めそうな小部屋や、見晴らし台に利用できそうな無数にあるが、波間に揺れるこの小さな舟からは、どれだけ目を凝らそうとそこに潜む人影の姿は見通すことは出来ない。

夜が明けてほどなく、丹右衛門島の孤影は不気味なほどに静まり返っていた。辺りに響くのは、僕たちの船ごと呑み込んでしまいそうな底響きするほどの潮騒の音ばかりである。ここで宗易さんは合図を送り、大きく二手に分かれて上陸作戦を敢行した。

僕と虎千代は北の入江からの進入路だ。反対側にあるより大きな口からは、黒姫と鬼小島が軍勢を率いて一気に制圧する。出来る限り大きな騒ぎを一方で起こしておいて、反対側から本拠へ肉薄する、いわば陽動作戦をとることにした。

僕たちが選んだ北の入江は、両端を切り立った岸壁が塞ぐ本当に小さな入江だった。

かすかな白浜を暁闇の朱に焼けた海水が、容赦なく寄せてはぶつかっている。

「ゆくぞ」

まだ足元定かではない道を夜目に慣れた虎千代が、宗易さんと、彼が雇った水先案内の先導を受けて進んでいく。さっきまで船酔いに苦しんでいたとは思えない機敏さだ。虎千代は事前に説明を受けた鳥瞰図と実際の地勢を照らし合わせて、みるみるうちに島の地理的構造を把握する。この辺りはやはり、城攻めも神がかっていたとされる上杉謙信の面目を躍如したと言うところだ。

僕は僕で、吐き気を堪えながら暗い道を虎千代についてがむしゃらに上がると、そこに岸壁に囲まれた広場がある。

恐らくここからなら、僕たちが侵入した入江から、島へ漕ぎつけようとする舟が一望できそうだ。

がしゃっ、と虎千代が足で何かを蹴倒した。それは丸い鳥籠に似た携帯用の照明器具だ。中ががらんどうになっている鉄製の籠に蝋燭を入れて合図する形の照明器具は、吹き上げる海風の中で沖にいる舟を安全な船着き場へ誘導するいわば携帯用の灯台だった。

「見よ」

と、虎千代が僕に言う。

なんと、中にある蝋燭が溶けて、垂れこぼれているのだ。直接手を当てるまでもなく、これは最近使用されたばかりだと分かった。誰かがこれを使って、僕たちより前に沖から船を誘導したのだ。夜中のうちに?

何かがおかしい、と言うことを、虎千代は瞬時に察知した。何しろ僕たちが上がってきた浜には、不審な舟は繋ぎとめられてはいなかったはずなのだ。

「用意周到な先客がおるやも知れぬ」

虎千代は息を呑んで表情を引き攣らせた。

そのことを裏付けるかのようにやがて、彼方で狼煙が上がった。紛れもなくこれは黒姫からだ。黒姫と鬼小島率いる別動隊は正面から乗り込んで、派手に暴れまわる予定だったのだ。黒姫が得意の炸裂弾を爆発させずに、合図の狼煙を上げることを配下の軒猿衆に命じたのには、向こうにもひと目で分かる何かの変事があったに違いない。

「どうします」

宗易さんが不安げに訊いたが、虎千代は、

「知れたこと」

と言う風に頷くだけだった。

「ことの次第は、我らで突きとめねばなるまい」


まず言うまでもないことながら、把握すべき情報はこの島にはやはり、日本人ではない誰かが確かに潜んでいたことだ。

小さな入江の見晴らし台で照明器具を見つけてほどなく、僕たちは惨殺された声なき死体を発見した。

ボタンのついた綿のシャツを着た遺体は紛れもなく西洋人の男のもので、ラウラと同じ、縮れた黒髪をしていた。

男は革の寝袋の中で死んでいた。くしゃくしゃに丸めたぼろ布を口いっぱいに突っ込まれ、そのまま心臓を一突きにされたらしい。声を上げる間もなかったはずだ。

「重要なことは二つ。まず我らが対処すべき相手は、二つ方に分かれていることだ」

虎千代はあの照明器具と同様、遺体がまだ温かみを帯びているのを確認してから、全員を集め、入念に状況を確認させた。

「その上で二つ、確かめるべきことがある。まず一つ、この島にはやはり、南蛮人の一味が潜んでいたことだ。ラウラは彼らに属していよう。この島は彼らによって、入念に守られていた。しかし残念ながら二つ目は、これを破って侵入してきた誰かがいたことだ」

虎千代が推測するに、ラウラたちの警戒を破って侵入してきたのは恐ろしく周到でいて手際がいい誰かだろう。僕たちが目の当たりにしたことだけでも、ここから先に侵入した人間は、用意周到に上陸し、巧みにその痕跡を消しているのが分かる。

ラウラたちを脅かしているものがすでに侵入している。僕はその事実を知って、心からぞっとした。それは、恐らくはラウラが描きのこしたミケルたちキリスト教徒拉致事件に関わった男たちではないだろうか。

「考えられる可能性があるとすれば、それだな」

虎千代も僕の意見を否定しない。

「あの絵の男ならば、それくらいやり兼ねないかも知れぬ」

僕はラウラのスケッチの中にあったその男の風貌を、ほとんど一瞬ではっきりと思い出すことが出来る。

高来と結託して、同胞の宣教師を殺害し、本来ならその身を保護するべき人質たちをものでも扱うようにさらっていった不気味なあの男だ。

悪魔と言う存在を、僕は認識したことがなかったが、もしそれを具体的な形容で表現するとしたら、あの男のイメージがもっとも近いように思う。

会ったこともないのに、僕はそんな男の顔を知ってしまっている。この男が、もしかしたらラウラたちを狙い、すでに入り込んでいるのかも知れないのだと思うと、胸が詰まった。

虎千代の表情も心なしか、その不吉な予感が兆している。

「ともかく先を急ごう」

僕たちはそれ以上言葉をかわすことをやめた。最悪の不安を打ち消して、先に進むしかなかったからだ。


そこから先はあらゆる道筋を通ることになった。

丹右衛門島は迷宮のような構造をしている、と言うのは外から見て分かっていたが、まさかこれほど入り組んだ作りになっているとは思わなかったのだ。この島では人が立ち入れる場所はほとんどが岸壁であり、草木の生えた場所や平地は極端に少ない。僕たちは何度も深いトンネルや入り組んだ岩の下を通り抜ける羽目になった。

しかし迷わず、よく進めたと思う。虎千代のお陰だ。深山に居を構える春日山城に生まれ、子供の頃から自然の秘境に親しんできた虎千代の道をたどる嗅覚はほとんど動物的だった。まるで山狩りになれた狼だ。

「い、犬と一緒にするな。五感を研ぎ澄ませばこれくらい、なんと言うこともない」

本人は不満そうだったが、ちょっとそれっぽい。よく見ていると、たまに鼻をひくつかせたり、地面に顔をつけたりしてるし。

「それに自然のものと、人が手を加えた形跡くらい見て分かる。罠を張ろうと、道を惑わそうと、ここには普段、人が住んでいるのだからな」

普通、そんなこと判るわけない。これには宗易さんも、ほとんど呆れていた。やっぱりちょっと、人間離れしている。

それにしても途中、遺体を見たのは、四、五人ではきかなかった。いずれも死体は、シャツにベルトのズボンを身につけた船員服の男たちだ。彼らはほとんど寝ているところや油断しているところを襲われていた。あるものは心臓を刺され、またはあるものは背後から頸をへし折られたりして、抵抗らしい抵抗も出来ずに殺されていた。

殺風景だがその合理的なやり方は実に無駄なく、現代で言えばまるで特殊部隊のようなプロの手際を感じさせる。

「やるな」

これには虎千代もうならざるを得なかった。上陸した舟の隠し方もさることながら、一連の殺人の見事さを見ても分かる通り僕たちの先に入り込んだ連中は、まさに実体のない死神のように音もなく入り込み、ここを制圧したのだ。

陽が昇りかけて、辺りはすっかり明るくなっているが、それにしてもこれまで誰ひとりとして生きているものを見ない。こうなるともしかしたらもう、すでに手遅れなのではないかと思ってしまう。これだけ悲惨な事態を立て続けに見せられると、絶望感の方が強くなってくる。虎千代もそれを感じつつあるのか、地図を検めながら無言で先を急いでいる。

島の中枢に到着したのは、上陸から二時間ほどが経過した頃だ。

「ここが…」

岩肌に囲まれたわずかな密林の中に、かすかに陽の当たる広場がある。その奥に洞窟に寄り添うようにして、平屋建ての木造建築が建てられていた。かつて海賊がここに潜んでいたとしたら、恐らくはここが居館だったのだろう。廃墟となってから壊されたようだが、逆茂木や門柱を立てたらしき場所も見ることが出来る。そして、端の小さな小屋に掲げられたかがり火受けに、まだ炎がくすぶっていた。どうやら、ようやく人の気がありそうだ。

「皆は入口で待っていてくれ。変事があれば、すぐに報せる」

虎千代は柄に手をかけたまま、自ら小屋へ乗り込む。小屋の入口は戸が壊されているらしく、今は(むしろ)一枚が目隠しに吊ってあるだけだ。下は床板もなく、土間だ。下手をすると貯蔵庫のような建物だったのかも知れない。

僕も虎千代について恐る恐る中をのぞきかけたまさにそのときだ。

「宗易殿っ」

中へ入った虎千代は大声で呼ばわった。緊迫した声だ。やはり何かがあったのだ。僕は勢い込んでそこをのぞいて、絶句した。

そこにあったのは、土間を濡れそぼらせた血まみれの肉体だったからだ。

虎千代は無言でその身体を調べている。なんとそれは椅子に座らされ後ろ手に縛りつけられていたのだ。服装や体格からして、高来であることは間違いない。間違いない、と僕が言ったのは、その頭に無造作に頭陀袋のようなものが掛けられていたからだ。まるで死刑囚だ。

「案ずるな、まだ息はある」

虎千代は頭の袋をとった。するとそこに、脂汗と血にまみれて憔悴しきった高来の顔が現れる。ひどい拷問を受けたに違いない。活かされてはいるが、その身体は血を喪いすぎて冷えかけていた。

「まだ助かる。しかしここでは、傷口がよく見えぬ。外に持ち出して処置しよう」

虎千代は瞬時に判断を下すと、宗易さんに命じて、高来の身体を椅子ごと外へ運び出させた。こうして明るいところで傷口を検めると、刺し傷のようなものはいくつかあるものの、その傷自体はそれほど大きいものではなさそうだ。虎千代は焼酎でそれらを洗うと、卵の白身を混ぜ合わせた止血用の薬草で処置を行った。

血を喪って朦朧(もうろう)としていたのだろう、虎千代が気付けに焼酎を飲ませると高来はどうにか会話が出来る状態にはなった。

「非道な目にあったものだな。だが、自業自得と言わめ」

高来の身体を椅子に縛りつけたまま、虎千代は皮肉を投げつける。

「おっ、おのれらっ…なんでこんなところにっ」

自分を助けた人間が誰かを知って、高来は青白い顔を引き攣らせた。

「このままここへ置いて行かれるのが嫌なら、話してもらうぞ。ラウラは何の目的あって、お前をさらったか」

「なん…やと…」

虎千代が言った意味がよく分からなかったのか、高来はひどく怪訝そうな顔をした。そしてそれから、唇の片辺を釣り上げると、気丈に鼻を鳴らし、

「へッ、おのれもだまされたクチやろうが、偉そうに吹くな。下手しとったら、おのれがわしがようなザマに、なっとるところやないかい」

「そうだな。ここまでは運が良かった。わたしたちも、お前もな」

虎千代は挑発には乗らない。ゆっくりと相手の様子をうかがいながら不気味な意味を含んだ返答をして、人が見たら凍りつくような目つきで高来をしげしげと見つめるだけだ。そこにいるのはただの女武士ではないことを、高来は知っている。高来は咽喉を鳴らして息を呑んだ。

「言うとくぞ」

肩で息をしながら、高来はやけ気味に言った。

「お前も何を吹きこまれたか知らんが、あんな南蛮人の女なんぞ信用するとえらい目に遭うで」

「ほう。それはどう言うことだ。話を続けろ」

「あいつだけやない、南蛮人の連中は国盗人(くにぬすっと)や」

ぺっ、と高来は顔を背けて唾を吐いた。その表情に怒りが滲んでいる。

「おれは博多で何人も南蛮人と付き合うとったから分かる。あいつら耶蘇教だか知らんが、でうすの前では人は上下の別なし、だとか調子のええこと吹いとるが、ほんまに欲しいのはこの国なのや。家畜のごとこきつかえる日の本の民とな。あの女は、その手先やぞ。南蛮の草働き(スパイのこと)や。そんな女のためにこんなところまで首突っ込んできよって、気がついたら、おのれらが売り飛ばされてしもうても知らんで。どこのお大名の娘か知らんが、いちびり(調子に乗ること)よってからに。後悔するがええわ。今のわしの姿ようみておくんやな」

くっ、くっ、と胸を詰まらせて高来は苦しげに笑う。ラウラはスパイだ。くしくも高来の口から同じ疑惑が出た。まさか本当にラウラは綾御前が言ったように、何か目的を持ってこの国に遣わされた工作員だったのだろうか。

「あの船の上で何があった?お前はそもそも誰に頼まれて、逃亡した切支丹たちを売り飛ばそうと画策したのだ」

虎千代は言うと、ラウラの描いた例のスケッチ画を取り出した。そこに描かれているのは、あの悪魔のような南蛮人の宣教師だ。

「この男は誰だ」

「知らん。おれは、その男の名は知らされておらん」

「名前も知らぬ男と取引か。それはまた、随分と虫のいい話だな」

虎千代は手を伸ばすと、処置したばかりの高来の傷口に触れる。そこを容赦なく握りつぶした。虎千代の指が傷から滲んだ血で濡れ、高来はくぐもったうめき声を上げたが、話すとは言わなかった。

「うっああああっ…しっ、知らんと言うとるやろ。無体はやめえ。わしかて、人を介して積み荷の横領を頼まれただけや。あの男とは一度も顔を合わせたことはない。送られてきた割符で取引する約束やったんやあっ!」

ぜいぜい言いながら高来は、一気にこれだけのことをしゃべった。その必死な表情からしても、さすがに嘘は言っていなさそうだった。虎千代はやむなく言った。

「質問を変えよう。ラウラはこの絵の男と顔見知りだったか?」

「あっ、ああっ…そのようやった。仲が、いいとはお世辞にも言えんようやったが」

これは高来の話だ。

ラウラはその男の顔は知っていたが、取引のことは知ってはいなかったようだと言う。

「こいつが現れてからや。あの女が、抵抗した。物影から飛び出してきよった。あの細長い剣を抜いて、わしを人質にとって小舟で逃げたんや」

「もう一人南蛮人の若い男がいたはずだ。それは、ラウラの兄だ」

「そのガキか。そのガキは、この宣教師について行ったで」

ここからが奇妙な話だ。

高来たちの目論見を知ってから、ラウラは声を限りに二人をののしったと言う。しかし、ミケルは違った。ラウラと異なり、彼はその宣教師と何事か言葉をかわしあった。そして何かの同意があったものか、その男の側にミケルは立った。ラウラはそのとき、必死にミケルを止めた。

「どう言うことだ」

「分からん。わしに、あいつらの言葉が分かると思うか」

確かにそれも、もっともな話だ。

やはり、奇妙な疑問だけが残った。

なんとミケルはすすんで、拉致事件の首謀者と思われる人物について行ったのだと言う。ラウラはそれを阻止しようとしたが、かなわなかった。やむなく、高来を連れて、その場をあとにした。これが真相のようだ。

「状況は大分整理出来た。だが、話が読めぬ」

虎千代は浮かない顔で首を傾げていた。

「こやつはどうします?」

宗易さんが要領を得ない表情のまま訊く。

「このまま棄ててはおけまい。連れていこう。まずは黒姫たちに合流せねばだが」

虎千代は興を失った顔で高来を椅子から下ろして縛り上げるよう命じると、空を仰いだ。まだラウラの行方を知る手がかりが見つかったわけではない。袋を被せられていたので肝腎のラウラの行方も、この男は知らないようだし、見通しはまだまだ不鮮明だ。

一旦高来の縄を解こうと、僕たちがその身体を持ち上げたときだ。

「臥せろっ」

突然激しい虎千代の叱咤が降った。

虎千代は高来を椅子ごと蹴り、その反動で僕の方へ倒れた。気を抜いていた僕はさすがに事態がすぐには把握できず、虎千代の身体の下でまごつくばかりだったが、高来が座っていた椅子に刺さっていたナイフを見て、嫌でも状況を察した。

ナイフを投げつけると同時に、二つの小さな影がこちらへ走り寄って来たのだ。

ナイフが狙った位置関係から見て、縛られたままの高来を仕留めようとしていたようだが、二人の狙いは紛れもなく虎千代だった。

二人ともラウラが持っていたような短剣を構えている。

僕の上に伏せた不利な態勢から、虎千代は膝を起こし、とっさに鞘についている小柄を投げつけた。人差し指ほどの小さな刀は、殺傷能力はないが一人の顔を狙ってまっすぐ飛んで来たので、そちらが身体を避けた分、かすかな時間差が出来たのだ。

その隙に刀を抜いた虎千代は僕から離れ、突っ込んできた一人をいなすと、遅れてきたもう一人に左の指拳を叩きこんだ。狙いは肝臓である。のめりこむように膝をついた相手から飛び下がって、虎千代は悠々と構え直す。

僕たちはようやく奇襲攻撃をかけてきた二人の人体を認識できた。二人はなんと少年だ。顔立ちの幼さから見ても、十二、三歳くらいの二人だった。片方はラウラのような長い黒髪だったが、もう一人は巻き毛のブロンドを波打たせ、ともに年齢相応の長い手足としなやかな体格で構え、細身のレイピアの切っ先を虎千代に向けていた。

「いい度胸だ。この島のものか」

二人は何も応えないが、使う技が雄弁に語っている。ふわりと上下にふれる体さばきも精確性を旨とするレイピアでの攻撃も、あの船上でのラウラそのものだ。

「みな、手を出すな」

言うと、虎千代は右半身に開き、それを下段の構えのまま受け流す。下段は(けん)の構えだ。一見、顔をはじめとした急所ががら空きになるように見えるが、変幻自在のレイピアに対抗するのには、下手に上体を固めて柔軟性を殺すのを避ける必要がある。

二本のレイピアが地蜂の群れのように襲ったが、さすがは虎千代だ。あれだけ近距離から攻撃を受けながら、細かな傷一つ負わない。小刻みな斬撃のフェイントで相手を惑わしながら、絶妙な体さばきで相手の攻撃をかわし切る。

二人の少年は、実体のない悪魔に踊らされているような気分だっただろう。ごく最小限の動きでレイピアの切っ先をかわしながら、虎千代は的確な攻撃を織り込んで相手を無力化していく。ひとりを軽くはたき込んで転がし、その隙に後続してきたもう一人の鼻面に指拳を撃ち込んで、血をしぶかせる。

「まだやるか」

いつしか二人はへとへとに消耗させられていた。鼻血は呼吸の自由を奪い、肝臓への打撃は行動力を奪うのだ。あれだけ動いて呼吸(いき)ひとつ乱していない虎千代を、二人の少年は化け物を見るような眼で仰ぎ見た。

それでも二人は諦めなかった。おびえた目で思わず後ずさったブロンドの少年を、長い黒髪の少年が短い言葉で叱咤し、二人は肩で息をしながら再び剣を振り上げた。

そのときだ。

「やめなさい」

そこに、訊きなれた少女の声が降った。紛れもなくそれはラウラだった。バスク人の少女は、ベルトで腰にレイピアを携え、髪を後ろでひっ詰めてまとめている。その緊迫した表情からは、かつて僕たちの前で世界の広さを語った、屈託のない笑みは、その面影すらなかった。

「ラウラ!」

僕は叫んだ。ラウラはちらりと僕を一瞥した。それから虎千代の方へ油断なく視線を戻すと、

「真人サン、虎千代サン、ごめんなさい」

と、はっきりとした声で言った。僕は愕然とした思いで次の言葉を聞いた。

「わたしはイスパニアの工作員です。ある命令を受け、あなたたちを探っていたのです」


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