綾御前襲来!天下御免のワガママ姫様、謎の姉妹関係は…?
虎千代のお姉さん。
そこにいるのは虎千代のお姉さんなのだ。
「「「えええっ!?この人がお姉さんっ!?」」」
「そう見えぬかえ?」
本人に訊かれた。いや確かに、この二人、顔立ちそっくりだし、この人がお姉さんじゃなかったら、逆に誰がお姉さんなのだと言うくらい。よく見ると相手は虎千代より少し背が高く、綺麗なおでこを出して真ん中分けした髪を背で軽く結わえているのだが、それでも一見、大人になった虎千代がタイムスリップしてきたのかなあ、と疑うレベルだ。
「甲冑を着るなど何年ぶりかの。お虎、お前よう我慢しているね」
と、虎千代のお姉さんはいかにも気位高そうに髪を掻き上げる。全身から高純度のお姫さまオーラが暑苦しいほど放出されていた。
「綾姉様、こっ、これはいかなる仕儀にてござりまするか。姉様自ら、なぜかようなところにそのようなお姿で?」
虎千代も混乱している。珍しく、しどろもどろだ。
「ふん、おのれが胸に聞いてみるがいい」
あわてる妹に綾、と呼ばれたお姉さん(意外と普通の名前だ)は、ちらりと冷たい流し目をくれた。
「近々、上方へのぼる、と文を下したであろう。お虎、あれを見ておらぬ、などと言わせてなるものかっ」
「はあううっ!」
僕の隣で黒姫がびっくりするような悲鳴を上げたのは、そのときだった。
「どうした黒姫?」
黒姫はざざざっと虎千代の前に出ると、平伏した。
「も、も、もっ、申し訳ございませんですよ!黒姫確かに、綾御前様より、近々上洛の希望ありとのお手紙、頂戴しておりましたのです!」
「黒姫っ、なぜそれをわたしの耳に入れぬかっ」
さすがに柄に手をかけて虎千代は怒った。
「じっ、実は上洛の日取りが書いておりませなんだゆえ」
黒姫は重たいバッグの中からごそごそと、例の手紙を出した。虎千代は怪訝そうにそれを広げてみると、
「これは…」
と、なぜか苦い顔になった。不思議に思って、僕は聞いてしまった。
「どうしたの?」
「黒姫の言う通りだ。姉上、これでは意が通じませぬ。ただ単に都の暮らしが羨ましいとしか、書かれてはおらぬではありませぬか」
ぴくりと綾御前は眉をひそめた。
「甘いわ。この綾が羨ましいと申したならばそれは、綾も同じようにしたいと言うことではないかっ!いつも言うておろう、お虎の幸せは、綾の幸せ、綾の幸せは綾の幸せ。黒姫、お前ら家中はそれを叶えるのが、何よりのお役目ではないかえっ!その辺りは空気と言うか字面と言うか、とにかく、言わずと察せよ!」
ふんぞり返ってそのまま後ろに転倒しそうな綾を見て、僕たちはさすがに呆れた。
「またなんつー…」
「「「「ワガママな」」」」
そこにいる初対面の全員の印象が一致した。それ以外になんと、この綾御前の性格を言い表せばいいのだろう。身内の虎千代が可哀そうなくらい、肩身が狭そうだ。
「すまぬ。姉上は生まれながらの姫ゆえ、何くれとなく人に世話を焼かれて育ってきたもので、何と言うか、その…こう言うお方なのだ。このわたしに免じてみな、勘弁してくれ」
それにしても、程度があり過ぎる。我がままに育ちすぎだ。
「しかし姉上。お一人で参られたのですか。それはさすがに危険では」
「この綾が一人で来るわけがなかろう」
綾御前は馬を下りると、ばっと袖を翻す。するとわらわら、背後の藪からお付きのものが出るわ、出るわ。こんな大人数で何をするのかと思ったら、いそいそと綾御前から鎧を脱がせ、小袖を着せ、髪を整えたり化粧を直したりしている。
「直江柿崎両名から、お虎が京で楽しくやっておると聞き、綾もいつかは顔を出してやろうと思ったのじゃ。それなのに京の根城へ行かば、留守居の金津新兵衛が一人ばかり。お虎は姉を置いて、堺へ海水浴とやらに行ったと言うではないか。かわゆい妹を慕ってはるばる京へやって来た姉が、不憫と思わぬか」
「姉上、そのご芳情身に余りますが…事前に委細をお話頂かぬと、我らも困りまする。いつ来るのか行って頂ければ、家を上げて歓待致しましたものを」
「ふん、いつ来るか分かってしまっては、お虎めを驚かせられぬではないか」
綾の方はぷいっと顔を背ける。今、明らかに論理的矛盾があったが、恐らくそれは突っ込んではいけないことなんだろう。
「…色々と、面倒くさい性格のお姉さんなんだね」
絢奈が言ってはいけないことをぽそり、と虎千代に言う。虎千代は見たこともないくらい苦い顔で頷いていた。それはこう言う人に逆らうと、もっと面倒くさくなると言うことを身をもって知っている人間の顔だった。
「皆に迷惑をかけてすまない。…間が悪い上に傍若無人なのが、綾姉の持ち味でな」
まだ実際に接してみて五分ほどだが、それは痛いほど分かった。しかし間が悪い上に傍若無人とは。なんて厄介な組み合わせなんだろう。
「そこっ、何をこそこそと話しゃるかっ」
「いっ、いえっ、姉上。立ち話も窮屈ゆえ、そろそろ行きませぬと。とりあえず、いつぐらいまでご滞在でござりまするか」
「いつとは決めておらぬ。なんじゃお虎、遠路はるばる来た姉を、むざむざ追い返す気かえ?」
いや、出来ればそうしたいが。
「いやいや、滅相もなし。ただ、坂戸の伯父上様にはこのこと、お知らせあってこのことかどうか、と気にかかりまして」
恐る恐る虎千代は、様子をうかがう。それは婉曲に帰った方がいいんじゃないかなー、と仄めかしているのだった。
「人の旦那の心配なぞせずとも良いわ。政景殿は政景殿で、綾のことなど気にせず、晴景兄と好き勝手にやっておる。綾が坂戸の城からいなくなったところで、何ほどのことがあろうか」
ふんす、と鼻息荒く、顔を背ける綾御前。
まっ、政景?僕がその言葉に不吉な予感を抱いたとき、ついに絢奈が言ってはいけないことを本人に聞こえるように言ってしまった。
「ええーっ、虎っち、この人、(こんなでも)結婚してるんだ!?」
政景の名前で、ぴんと来てしまった。
虎千代のお姉さん。紛れもなく、のちの仙桃院だ。つまりこの人が産んだ喜平次と言う次男が、上杉謙信亡き後の上杉家をしょって立つこととなる江戸上杉家の藩祖・景勝と言うことになる。
確かこの天文十六年には、魚沼郡上田庄に広大な版図を構える長尾家の重臣、長尾政景と言う大名の城へ嫁いでいたはずだ。綾御前は大永四年(一五二四年)の生まれとされているから、二十三歳、虎千代より五つも上だ。
虎千代、いや上杉謙信は、生涯かけてこの姉を愛したそうな。謙信を扱った小説やドラマなどでも、綾御前は生涯を通じ陰で謙信を支え、そんな姉を謙信は終世敬ったと言う感じで描かれていたりする。そのため謙信は自分は後継ぎを作らず、お姉さんの息子を養子にしてまで、自ら教育してかわいがったとされる。そんな、心温まるエピソードが遺されているのだが。
実際目の前にある姉妹関係は、微妙だった。
「さあ、お虎よ、こっちへ来やれ。愛する姉との再会を存分に喜ぶがいい。泣いても良いのだぞ。遠慮は無用じゃ」
宗易さんの案内でしまへび屋に着くなり人目も気にせず、容赦なく虎千代に抱きつく綾御前。抱かれている虎千代は、本当に嫌そうな顔だ。
「ああ、お虎よ、お前、相変わらずちいこいのだねえ。綾はちいこいお前を抱くのが大好きじゃ。綾の胸の辺り、ここにほれ、お前のちいこい頭がおらぬと寂しゅうてかなわぬのだ。どうかこのまま大きくならぬがよいぞ。ああ、かわゆくてたまらぬ」
と、無茶苦茶な受け答えをする綾御前。そう言うお姉さんは結構長身なのに、虎千代が身長がいまいち伸びなかった理由が分かった。身内で、こうして嫌なお呪いをかけ続ける人がいたのだ。
「さて、皆の衆、大儀であった。この虎をよう守り立ててくれた。これよりは、姉妹水入らずの交わりじゃ。苦しゅうない、とっとと下がってよいぞ」
他人のうちに上がり込んでおいて、腰を落ち着けるなり、さっさとみんなを追っ払おうとする綾御前。傍若無人もここまで来ると、いっそ清々しい。
「姉上っ、いい加減になされ!仮にも名族上田長尾家に嫁した姫御前が、はしたのうござりまするぞ!」
ついに虎千代も怒った。
「無体はおやめくだされっ!ここは我らが城でも所領でもありませぬ。皆の前で何たる図々しい物言いをなされるかっ、恥ずかしいっ」
「はえ?」
綾御前は目を丸くすると、不思議そうに首を傾げた。
「姉が離れ離れになった妹をかわいがって、何が悪いと言うのかえ?肉親の情に身分の別はないぞえ。皆の前とて照れずともよいのだぞ、お虎」
どんな精兵もたじろがせる虎千代の怒りも綾御前には、なんの効き目もないようだ。
「抱きつくのはもうおやめ下されっ、暑苦しい」
虎千代は無理やり綾御前を引き離すと、大人しく座らせた。
「もうこうなったら有体に申し上げますが、この虎も姉上の我がままばかりに付き合うていられる身体では、ありませぬ。堺行きも人に頼まれごとをされてのこと」
「海で遊んでいたではないか」
「それはっ…そのっ、それだけではありませぬ。それに今はうかうかと遊んでもいられない事態が出来致しましたのです。こちらのラウラと申す南蛮人の友が生き別れの兄を探していて、身柄を狙われましたのです。我らも力にならねばなりませぬ」
虎千代は言うと黒姫にぴらぴらと手で合図を送り、きょとんとしている綾御前に事情を語らせた。
「この一件、我らが越後も深く関わっておる様子。異国ではぐれた女子一人、助けを求めてきて見殺しになど出来ぬ虎のことはお判りでしょう。京大坂で遊びたければ、ことが片付いたのち、いくらでもご案内致しまする」
「ほほう」
綾御前は詰まらなそうに鼻を鳴らすと、ラウラを見て僕たちの顔を一通り見渡した。
「つまり、お前はこう言うのかえ。綾よりもその、南蛮娘の身柄の方が大事と」
「そっ、そうは申しておりませぬ。それに、姉上の用事は危急にはござりますまい」
「危急も危急じゃっ、お虎、お前もこの綾を放っておく所存か!」
虎千代も目を丸くして絶句した。僕たちもまさか、そこでそう来るとは思わなかった。またなんてワガママな。
「政景殿は晴景殿との政務が楽しゅうて、一向坂戸にお戻りにならぬ。あの退屈な山城でぽつんと一人、この綾に、鳶でも眺めていろと言うのか。お虎、お前もそうやって姉を放っておくのかえ?もはやお前以外に頼るよすがもない姉を、不憫と思わぬか。うっうっ…お虎、お前はいつからそんな薄情な女子になったのだえ?」
わざとらしくめそめそしながら袖で目元を隠す綾御前。言うまでもなくあれは、完っ全に嘘泣きだ。結構いい年の癖に。見なかったことにしてスルーしたいけど、したらしたでもっと面倒くさいことになるに違いない。虎千代もそれは分かっているようだ。ここはしょうがない。怒り出したいのを呑み込み、虎千代は泣く泣く折れた。
「…分かりました。即刻、姉上の希望に添うよう、計らいます。それでご満足か」
「そうそう、分かればよいのじゃ」
綾御前はからっと晴れやかな表情になって言った。さっきの嘘泣きすら、なかったことにしそうな満面の笑顔だ。
「さすがはお虎はよき妹よ。まずは人払いせい。久方ぶりの姉妹の再会じゃ。ぜひとも旧交を温めようぞ」
まだ仮設のしまへび屋に一室を取り、綾御前の近習が脇息を置いたり、屏風を立てたりしてせっせとお姫さま仕様の部屋を作らせている間、虎千代は僕たちを別室に連れて行ってこれからのことを示しあわせていた。
「姉はどうにか我が喰い止める。本当に申し訳ないのだが、皆はラウラ殿のこれからのことを考えてやってくれ。いずれ必ず、追いつくゆえ」
そう言う虎千代は毛虫でも丸ごと飲み込んだような何とも言えない表情で、ため息をついた。
「ラウラ殿、本当に申し訳ない。力になるどころか、身内のことで醜態の極み」
「いえ、ワタシ、そのようなことは」
良くも悪くもインパクトの強い綾御前に、ラウラも面喰らったようだ。
「しかし、こうなっては仕方ありませんですよ。綾御前様を止められるのは、虎さまをおいて他ありません。こちらはどうぞわたくしたちにお任せ下さいですよ」
いつもは虎千代に肩入れする黒姫も、そこはかとなく素っ気ない。鬼小島もこのえを連れてさっさと別室に逃げていってしまったし、長尾家の家来の人は、実はみんなあの人が苦手なんじゃないだろうか。
「虎っち頑張ってね。絢奈も、さっきのでお腹いっぱいだよ!」
おい。正直過ぎる絢奈の脇腹を、僕は肘でついた。
「強烈なお姉さんだったね…」
客商売が長いはずの真菜瀬さんも、端で見ているだけで疲れ切った顔をしている。
「本当にすまない。本人は悪気がない…のが、余計性質が悪いのだが、ああ見えて決して心持の悪いお方ではないのだ」
虎千代は心苦しそうに、姉をフォローする。恐らく前にもこう言うことが、結構あったのだろう。
「とにかくさ、僕たち虎千代が戻ってくるの待ってるから。なんだかんだ言ってお姉さんとはやっぱり、虎千代と二人水入らずで話した方がいいだろうし」
「だよねー、虎ちゃん。お姉さんは大切にしないと」
「さーて、わたくしたちはラウラさんとこれからのことを話しあいましょうですよ」
「じゃ、そう言うわけだから。虎千代、またね」
僕はそそくさと話題を収めて、ぞろぞろと皆と座を去ろうとした。すると、
「待てっ」
はっしと、腕を掴まれた。えっ、なぜ僕だけ?
「真人、お前はこっちじゃ。わたしと姉だけでは息苦しいゆえ、ぜひとも同席してくれ」
「そ、そんなあ。なんでだよ。だって、虎千代のお姉さんだろ?」
「わっ、わたしを見棄てるのか?」
うっ、そんな目をうるうるさせながら上目遣いするのは反則だ。無視できず、僕は気がつけばはたと動きを停められていた。
「だっ、だだだってっ、話すことないよ!?」
「いてくれれば、それでいいのだ。頼む、言わずと察してくれ」
虎千代は手を合わせて拝み倒してくる。冷たいとは思うけど、それは無茶だ。僕だって妹がいるから分かるけど血を分けた身内同士の間のことは、他人がいきなり無遠慮に入って口を出せる余地など、そもそもないものなのだ。
「お、お姉さんに絶対怒られるって。姉妹水入らずの席に、なんでお前ここにいるんだって言われるよ?」
精一杯の抵抗を試みたが、虎千代は頑として僕を離してくれない。
「いずれは身内になるのだから、紹介しようとは思っていたのだ。いい機会だから、わたしたちの関係をきちんと綾姉にもお話しよう。なっ、どうじゃ、これで同席の名分は立つであろう?」
「そ、そんなの無茶苦茶だ」
それはもうちょっと心の準備が出来てからにしてほしい。なにしろさっきの感じだと、背丈の発育に悩む妹を偏愛するちょっと歪んだお姉さんだけに、そんなこと話したらえらいことになるんじゃないか。
「頼むから居てくれ。お前にも、話しておきたいことがあるのだ。絶対に難儀の目には遭わせぬ。だから、後生じゃっ」
「いや、ちょっと待ってって。あのさ、みんなは…」
どう思う?そう訊こうとして僕は、周りに人っ子一人いないことに気がついた。なんて薄情な連中なんだ。うう、こうなったら仕方ない。非常に気が進まなかったが、かわいそうな虎千代のために、僕は自ら生贄になる道を選ぶことにした。
「お虎よ、人払いは済みしか?」
中からは、いきなり綾御前の余人を嫌う声だ。虎千代に背を押され、僕が恐る恐る顔を出すと案の定、綾御前はぴくりと眉をひそめた。
「人払いと言うたはず。なぜお前がここにいる」
「あのっ、すみません。虎千代がどうしても同席してくれって言うので…」
僕はしどろもどろになりながら事情を説明し、あとはどうにでもなれ、と言う感じで相手の様子をうかがった。案の定、綾御前は僕を見て苦い表情になり、厳しい声で虎千代を叱咤してきた。
「お虎よ、綾に分かるよう事情を説明しやっ」
「真人の話なれば、直江・柿崎両名からお聞きのはず。…姉上がどう受け取ったかは、わたしには分からねど」
しかし次の瞬間から、不思議なことが起こった。虎千代は辺りをうかがいつつなぜか木戸に突っかえ棒をすると、さっきとは打って変わってごく冷静な口調で綾御前に話しかけたのだ。そしてさらに変なのは、綾御前だ。さっきまでのノリなら当然、自分の要求が達せられなかったことに腹を立てるはずが、
「ほう、つまりお前はそう考えていると言うことじゃな。この者は長尾家のためにならぬことはせぬ、と」
こくり、と、虎千代は綾御前に向かって頷いて見せた。
「はい。そも、こたび血震丸たちとのことを無事始末出来たるもこの真人のお陰。わたしはこの者に全幅の信頼を寄せております」
「そうか」
綾御前はもう一度僕を見上げると、小さくため息をついた。
「良かろう。列席を許す。しかしこの席上でのこと、他言無用じゃ。漏れた場合は、この者の命で贖うてもらおうぞ」
命。この時代で結構軽々しくやり取りされている感のあるその言葉が、綾御前の口からもすんなりと出た。虎千代も平然と言い返す。
「真人が死ねば、わたしも腹を切りまする。姉上、それでよろしきか」
ふん、と綾御前は鼻を鳴らしたが、さっきのように激昂したりはしなかった。
ど、どう言うことなのだろう?僕は事態が把握できず、ワケが分からないまま、二人のよく似た顔立ちの姉妹を交互に眺めるばかりだった。虎千代が僕の隣に腰を下ろすと、綾御前は突然、女座りしていた足を延ばすと、いかにも面倒くさそうに髪を掻き上げた。
「ふん、いつもながらうつけの姫の芝居も疲れるわ」
「しっ、芝居!?」
今、愕くべき言葉が綾御前の口から飛び出した。説明を求めて僕が虎千代を見ると、
「騙して済まなかった真人、この方との間柄は表向きは、さっきのようにしてあるのだ」
「家中にも家の外にもいずくに目がありや、それも知れぬしな」
綾御前も言う。それから二人は気心知れたように、目線を交わし頷き合う。え?ええっ。僕はまだことの仕組みが呑み込めず、その二人の間に視線を右往左往させるだけだった。ちょっと待って二人とも、僕を置いていかないでくれ。
「え…つ、つまり、さっきまでのやり取りは、全部芝居!?」
とんでもない真相が目の前で白日の下に晒された。なんとさっきの綾御前の我がままっぷりも虎千代の狼狽も、すべて表向きの芝居だったと言うのだ。
「父の遺訓でな。二人の間でいつでも忌憚なく話が出来るよう、このようにすることになっているのだ。人払いがいかにも不自然に思われぬよう」
「ふふふ。お虎めはああ言うが、綾は芝居をしておるつもりはないぞ。お陰で、好きに動かせてもろうておるしな。人目気にせず、このちいこい頭を存分に可愛がれるも、姉が愉しみでな」
と、言うと、綾御前は本当に遠慮なく、虎千代を抱き寄せようとする。あ、そこは別に芝居じゃないんですね。
「ひいっ、ご無体はおやめをっ」
「良いではないか。我らこの世に二人きりの姉妹ではないか。幼き頃のごと、綾が可愛がってやるゆえ、綾の膝に乗れ」
「子供扱いしないで頂きたいっ」
「何を笑止な。姉にとってはいつまでもちいこくて可愛い妹ぞ」
どうやら本気らしい。やっぱり面倒くさい性格なのだ。
「い、いや姉上。だからそれはご勘弁を。そろそろ今少し、人目を気にして下され」
さすがに虎千代も嫌なのか、そこは引き攣った顔で綾御前の手を避けていた。
しかしやはり、と言うか、意外にも、と言うか。
上杉謙信と仙桃院。堅い絆で結ばれた戦国の姉妹の関係は、きちんと実在していたわけだ。厄介な姉と敬遠する妹。黒姫や鬼小島と言った股肱の家来にも表向き、そのような芝居を打つなどはいかにも、手が込み過ぎた防諜システムとも思えるが、何しろ複雑に緒家が重なり合う大名家だ。お父さんの為景公が離れ離れになっても肉親の絆を保つために、苦労した賜物だったのかも知れない。
ただ僕の目から見ると、やっぱりくせ者はお姉さんだ。
「そも、綾が嫁ぎし上田の長尾家は、かっては我ら守護代長尾家と同格の家柄でな。父、為景の代に起きし争乱を収束させんがため綾を嫁がせたものだが、遺恨なお消えぬ。げんに晴景兄に取り入る夫・政景殿こそ、片時も油断は出来ぬて」
自分の旦那さんなのに、端から信用していないと、綾御前は言い切るのだ。
虎千代の家、守護代長尾家は主に為景の時代に大きくなったと言う話は何度かここに書いていると思う。そのために同じ長尾の一族でも、それを快く思わない家が沢山いる事実はなお否めない。要はその筆頭が、綾御前が嫁いだ上田長尾家だったと言うわけだ。
綾御前の時代でこそ、長尾政景は虎千代の一族衆では中核に近い有力豪族として取り上げられているが、その父房長の代には反乱分子を扇動して、虎千代のお父さんに抗っている。天文二年、上条の乱がそれだ。綾御前の婚礼は、いわば上田長尾家との手打ちの意味合いで行われたことと言われている。
「この綾めはいざとなりしは、夫・政景と刺し違える所存で上田庄に入った。このお虎とは、その頃より両輪で守護代長尾家を支える仲。いずれは長尾家を我らが姉妹で牛耳ろうと幼心に誓い合ったものよ」
綾御前は野望に満ちた瞳を白く潤ませる。つまり綾御前の言う、姉妹の関係を端的に表すとこうだ。
姉の綾御前は政略、妹の虎千代は武略において為景亡き後の長尾家を率いていこうとしている。男性の武士などものともしていない。さすが虎千代の、凄まじいお姉さんだ。
「父、為景が死に長尾家は身内も信用出来ぬ有様よ。せめても我ら姉妹こそ、結束して家を守らねばならぬ」
「いかなときも何より実姉を信じ、助け合い生き抜け。それが幼き我にも諭した、父、為景公のご遺訓なのだ」
例えば、と虎千代は言うと、懐から何か取り出して見せた。僕が覗き込むとそれは、黒姫が渡し忘れていたと言う、なんだか内容の判りにくい綾御前からの手紙だ。何をするのかと思っていると、虎千代は僕の前でポニーテールを結わえている紐を解き、その中から丹念に折り畳んだ一枚の油紙を取り出した。
「黒姫が訝るのも当然よ。この書状は暗号になっているのだ。いざと言うときの符牒は、我らの間でのみ、通じるよう打ち合わせてある」
虎千代に促され僕は目を凝らしてみたのだが、細かい油紙にびっしりと書かれているのは、目を凝らさないと読み切れないような複雑な表だった。苦労して僕は字面を追った。書かれている内容からしてこれはどうも、ある言葉にある言葉を対応させて内容の漏えいを防ぐ、一種の暗号の対照表とも言うべきもののようだ。
「例えばこの書状で言えば、『遠地』を意味する言葉は、綾姉の足下で『謀反』が起きていることを示している。これに『恋し』『出る』などの言葉を組み合わせて、今の状況を報告する仕組みになっているのだ」
ほれ、と虎千代は手紙の語句と対照表を丹念に照らし合わせて見せる。
あっ、と僕は声を上げそうになった。僕はそこでやっと、あのとき虎千代が黒姫から渡された書状を一見して苦い顔をした本当の意図に気づいたのだ。あれは綾御前の書状が判り難かったからああ言う顔をしたのではなかった。すでにこの書状の内容の真の重要性を虎千代が一見して、把握していたからだったのだ。
「この書状ではすでに、『謀反』の『計画』が進んでいることが暗に示されている。政景殿は確かに、我ら守護代長尾家には腹に含むものがあるお方。だがそれを懐柔するが、晴景兄のお役目であったと心得ておりましたが」
虎千代の言葉に、綾御前は腹立たしげに息をついてみせる。
「お虎、お前は相変わらず甘いな。国元の状況は、刻々と変化しておる。今や国中には、晴景兄の失政を憎む声が煮えたぎっておるのだ。そして裏腹に勢威ますます上がるは、不在の妹、景虎の名。これでことが起きぬはずがあるまい」
ことの発端はやはり、虎千代とともに鞍馬山で戦った直江・柿崎両軍の帰還だったと言う。そう言えば二人が軍勢を率いて京都を離れる際、虎千代は決して京都でのいくさを華々しく喧伝することのないよう、釘を差していた。そのため二人はなるべく凱旋軍としての帰国の形を取るのは避けたのだが、実際虎千代の采配で戦闘に参加した兵士たちの口を、ことごとく塞ぐことまでは考えが回らなかったのだ。
しかし考えてみれば、これを話すなと言う方が無理か。
ところは華の京都、虎千代が大戦果を上げたのは天下に名を轟かす、松永弾正が率いる三好の精兵に対してだったのだ。とかく武勇譚が好まれる武家で、土産話にこれをするな、と言う方が難しかっただろう。
ただでさえ虎千代のいくさぶりは、人を熱狂させるほどのドラマチックな要素を帯びている。はるかに時代が下がって景勝の代になってですら、上杉謙信の采配でいくさを経験してしまえば、他のいくさは子供の遊びにすら見える、とうそぶかせるほどのものだ。酒宴の自慢話にうってつけとする者もいれば、それをすすんでさせようと煽る者も多くいたに違いない。中では戦地での興奮をそのままに、
「我らが虎姫様はほんきに、軍神摩利支天か飯縄権現の生まれ変わりだっちゃ。かのいくさ女神さえお戻りあれば、たかだか晴景公など何ほどにやあらんっ」
などと、酔って無用の放言をする輩も後を絶たないと言う。現体制に携わるものとしては、捨てておけない事態になりつつあるのだ。言うまでもなく綾御前の夫・政景はその政権の中核を担っている。いわば現体制維持が一貫した姿勢だ。国内で育つ景虎(虎千代)待望論こそ、執政の癌に他なるまい。
「夫とすれば、晴景兄牛耳る今は我が世の春よ。兄は病弱で政務も任せきりゆえ、政景殿が差配が幅を利かせる場面も多くなっておる。妻としては夫の出世を喜ぶが世の常かも知れねど、弱腰の兄、晴景の名で下知に従わぬ越後の国人衆が不満を煮えたぎらせているのも、また捨ておけぬ事実。晴景兄にそれをまとめる力など初手からなし。放っておけば越後は早晩、獣欲蔓延る問答無用の無法の地にまで落ち果てるであろう。お虎、お前はこの窮状をよもや、捨て殺しには出来まい?」
ぎろりと、綾御前は虎千代を睨みつけた。
「えっ、ええ。姉上、それは常々憂慮致したることに存じまするが」
しかし当の虎千代はつとに表情を曇らせる。確かにもう理屈は、痛いほどに分かっている。史記録が指し示す事実ですら、虎千代が越後国主として望まれ、それが何より相応しいことは分かり切っている。だけどだ。
僕はまた、見てしまっている。虎千代が実のお兄さんを差し置いて、自分が守護代長尾家当主に治まってしまうことをどれほどに、悩み抜いたのか。血震丸の陰謀で自分を除こうとする兄の陰謀に狙われると言う疑惑にさらされつつも最後まで否定したのも、血を分けた兄への理解と愛があってこそのことだったのだ。
その兄を除く。
虎千代がそれをどれほど心苦しく思っていたか。史書ですら如実には伝えない。
「憂慮だと。ふん、音に聞くいくさぶりはあれほどに見事なりしに、平静は相変わらず春の日向のごとき生ぬるさよの」
綾御前はそんな虎千代の迷いを吐き捨てるかのように、容赦ない叱咤を浴びせる。
「もはや夫は本気で、お前を除く気じゃぞ。なおも遠地に留まるお前に、すでに手は打ってある様子。姉が来たは、この期に及んで生ぬるき妹を一心に憂慮してのことぞ」
コントロールを失いつつある兄の政権を倒す。来るべき時が、来てしまったのかも知れない。決然たる覚悟を促す綾御前を、僕は理屈の上では理解しながらも、一抹の心もとなさが虎千代に深く根を下ろしていることに、目を背けることが出来なかった。
それをただの責任回避のための優柔不断さと非難するのであれば、僕はこいつが越後一国に思いやる気持ちの一途さの表れだと、抗弁してやりたい。今さらかも知れないが虎千代は自分を殺そうと考えるかも知れない政景はじめ現体制の擁護者ですら、案じようとしていたのだから。
虎千代を狙い、すでに長尾政景はそれなりの手段を講じていると言う。
「今その実態を探ってはいるが、どこに依頼の筋を持ち込んだのやら」
繰り返すが虎千代は、遠隔地にいる。いかに虎千代を殺そうと考える国人衆に気脈を通じたとしても、越後を越えてまで依頼を遂行するのには、中々受け手がいないはずだと言う。それでもなお計画が綾御前が坂戸城を脱出して虎千代に急を告げるぐらいにまで段階に入っていると言うことは、計画は確かに存在しかつ具体的であり、実行部隊も含め、かなり大がかりな機関が関わっていると見るべきだろう。
「お虎、お前は殺させぬぞ。必ずや、お前を晴景兄にとって代わらせて見せる」
虎千代を守ろうとする綾御前の眼差しは、必死だった。
国元から命を狙われる。
何度も言うが、ついに来たと言う感じだ。綾御前のもとを去った後も、虎千代は腰の柄に右手の甲を置いたまま、長い時間考えごとをしていた。それから僕にも、何も話さなかったところをみるとまだ、心に決めかねていることが多いのだろう。
綾御前は虎千代が堺に留まることには、反対はしなかった。古い室町文化が息づく京都にいるよりも、人種も文化も混とんとした堺に紛れていた方が虎千代の消息は、まだ紛れやすいと考えたのかも知れない。
目下ラウラの問題も抱えこんでいる虎千代にとっては、ひとまず安心と言ったところでもあった。
次の日の朝、ラウラの話をとりまとめた黒姫の報告が、虎千代に早速もたらされた。
「虎さま、ラウラさんからお話聞きましたですよ。ラウラさんの身曳き証文、偽造しそうな相手がこの堺にいそうだとのことですよ」
ラウラ・アリスタが兄ミケルと生き別れた瀬戸内の海域の拉致現場でもう一人、消息が分からないものがいると言う。
「水先案内を買って出た通詞が、そのときに行方知れずだそうです。その男をラウラさんは、この堺の荷降ろしの港で目撃したそうなのです」
通詞とは、通訳のことだ。その男は元々倭寇と取引があり、漢語混じりのイスパニア語を解したと言う。
「どうやらその男、瀬戸内海賊ともつながりがあるそうで。ラウラさんの話では、途中航路の一切をこの男が決定していたらしく、申し合わせたように海賊の襲撃を受けたのは恐らくこの男の手引きがあってのことかと」
「漢語混じりのいすぱにあ語を解するか。その男、明人か何かか?」
「いえ、どうやら、日本人であるそうですよ。名を高来。場合によっては、高来と明人読みの名も使い分けていたらしく」
ラウラの話ではこの男が、豊後港でキリスト教徒の人身売買に関わっていた疑いがあると言う。例えば布教を糸口に南蛮人の宣教師に渡りをつけてやると言って、親に信教を反対されている恋人同士などを問答無用で人身売買の船に乗せてしまう手口があり、高来はそれを海外への人身売買で当時悪名高かった三会や島原の市で売り渡して大儲けしたと豪語していたらしい。
「イスパニア人、明人、日本人。天主の教え、悪用して大儲けしている人沢山います。悲しいことですが」
ラウラさんの聞いた噂では、キリスト教布教を騙った人身売買ルートはやはり、九州から北国にまで及んでおり、中には大がかりな広域組織犯罪になりつつあるものもあるのではないかと言うのだ。
「我が越後にまで取引の手が及んでいるとなればこれは、考えねばなるまい」
虎千代も眉をひそめて強く嘆く。
ラウラの手によって描かれた高来のデッサン画が、僕たちに即座に廻ってきた。
高来は一七〇センチ前後、年齢は、三十代後半のよく日焼けしたいかにも頑丈な海の男と言ったイメージだ。受け口のあごががっしりとした大味な骨格をしている。僕もその顔を見たが漁師の素朴さの代わりにこの男にしっかりと刻みつけられた、人を小馬鹿にしたような口元と小さく切れ上がった油断ならない特徴的な目は、忘れようにも忘れ難い。
さらにはこの男は悪辣な海賊行為が祟って、幾度となく倭寇の拷問を受けたらしく、禿げあがった額の右に星型の打撲傷がある他、左手親指を根元からサメに食い千切られていると言う。
「それは一度見たら、さすがに忘れぬな」
虎千代も苦笑していた。
「それにこの絵だ。かえすがえす、目を疑う出来栄えぞ。これを見ているだけで、この男が目の前を歩くさまが目に浮かぶようじゃ」
それにしてもラウラの絵は、まるで写真のようだ。西洋画が常識の範疇にある僕ですら、その精密さには驚く他ない。見ていると鳥肌が立つほどだ。ただの絵と言うよりは、魔法でも使って、そこにある事実そのものを、そのまま写し取ったかのような。
しかしまだ、僕たちは気づかなかった。実物そのもののように描かれたラウラの絵には隠された、真の意図があることを。僕たちはそれを、間もなく思い知ることになるのだった。




