住吉浜を水着でデート!ラウラに迫る怪しい影、かと思ったのは虎千代の…?
少し縮れた黒い髪、庇の大きな栗色の眼差し、そしてくっきりと通った鼻筋に、アーモンド型に押し詰まったあご。手足が長くてすらりとしているが、ヨーロッパ人にしてはそれほど身長は高くない。
ラウラ・アリスタと名乗った少女は東欧系の顔立ち、と言うとまたざっくりとしているが、どちらかと言えばそれに近いのかも知れない。年齢は十六歳と言うから、絢奈と同い年だ。でもその整った顔立ちは僕たちよりもはるかに大人びて見える。
「長尾殿、お初にお目にかかりまする。長尾殿は齢十七にして押しも押されぬ北国の太守のお家柄、ワタシの身代りなった哀れな兄を救うため、厚かましいながらぜひ、お慈悲をたまわりとー存じまする」
宗易さんがこの対面のときに合わせて、口上を憶えこませたのだろう。少女の日本語はたどたどしい。しかしそれが逆に哀れを誘った。
「らうら殿…と申されたか。かように言葉も慣れぬ異国での受難、察してあまりある。宗易殿、それなら話は別儀じゃ。この長尾虎千代、出来る限りの手は尽くさせて頂く」
と、言うと虎千代はその場で同伴した黒姫とこのえに命を下した。
「このえ、至急、国元に手紙を出して照会してくれ。黒姫、軒猿衆に知らせ国中の人買い業者を虱潰しに当たらせろ。何かあればわたしが直接出向く」
「はいはいっ、お任せ下さいですよ!」
「ありがとーございまする。今日の出会いを皆様に感謝いたしまする。長尾殿と皆様に主の祝福のあらんことを」
ラウラは瞳を淡く涙でにじませると、首から下げたロザリオにキスをし、虎千代と僕たちに向かって十字を切ってみせる。仏法徒の虎千代はさすがに面喰らったようだったがそこは気にする素振りを見せず、
「では後で兄殿の風貌と特徴を、この黒姫とこのえにお話下されよ。二人が廻状に添付する似顔を描くゆえ」
「早速のお気遣い痛み入りまする。でもワタシ、言葉が不如意ため、お二人にはこれを、お預けます」
ラウラは立ち上がると、虎千代に小さな額縁に入った一枚の肖像画を渡した。それは木炭で描かれた写真と見まがう精巧なスケッチ画だ。
「これワタシ、描きました。話すよりこれ見たら、分かる思います」
「これをラウラ殿が描かれたか。なんと、まるで生きておるようではないか」
初めて西洋画に触れたのか、虎千代などは絶句しかけている。
「父は宣教師ですが、優れた画家でもありましたです」
ラウラはかすかな笑顔を見せた。
「ワタシの顔、兄と同じ顔。だから会えば兄妹、すぐ分かります」
「うむ、確かに」
僕も覗き込んだのだが、そう言えば、肖像画の少年も同じように微笑んでいる。双子ではないみたいなのだが、まるで同じ型に人間に男女別の生を与えた感じ、と言うか、非常によく似た風貌を持った兄妹だった。
「兄上の名は?」
虎千代が訊くとラウラは悲しげに答えた。
「ミケル・アリスタ。無事であれば当年十八歳になります」
ラウラの話によると、ミケルはイエズス会の神学校で学んでいたらしい。いわば神父の卵だ。遠く離れた日本の話を以前から知り、ずっとチャンスを待っていたのだと言う。
「父もまた、ゴアから安南を経て、博多と言う港に着きそこから布教を始めたと言うことでした」
父の来日はわたしたちより一年ほど早く来日してるはずです、とラウラは言った。
その話を聞いて僕は一瞬、首を傾げてしまった。なにせ今は、天文十六年なのだ。
イエズス会から来たフランシスコ・ザビエルが島津氏の許可を得て、キリスト教の布教を九州で始めたのが、天文十八年(一五四九年)のこととされている。歴史教科書ではこれをもって日本のキリスト教元年としているが、現在ではこれをもってキリスト教の布教を天文十八年と考えるのは早計と言う説が一般的だ。
布教が始まった、と言うのは事件や戦争ではない。ある特定の場所や時点では判断するのことの方がそもそも、不自然なのだ。ザビエルは天文九年にイエズス会の命を受けてインドのゴアに向かい、十年近い月日を経て来日しているが、その間にもキリスト教の布教を行うための宣教師たちは来日しているはずで。
これはちょうど天文十二年(一五四三年)に鉄砲が伝来したと言う説がそれ以前に、明人の海賊たちが倭寇との交流を通じて、海上の戦闘で使用する鳥銃と言う形ですでに鉄砲を伝えていた、と言う説が出てきた事情によく似ている。恐らくは同時多発的にキリスト教も鉄砲も様々な形で伝来が始まっていたのだ。
「それにしても、ばすく、とは口に慣れぬ国の名よな。唐天竺より遠いと言われてもぴんと来ぬが、南蛮とはみな同じ国ではないのか」
虎千代はラウラの風貌をしげしげと見ると、しきりに首を傾げていた。
「長尾様は地球儀を見たことがおありかな。ここが、バスクなのですわ」
宗易さんが地球儀を持ってきて僕たちにバスクの場所を教えてくれる。そこは虎千代の言う中国やインドも越えて、はるかヨーロッパ大陸だ。場所は今で言う、スペインとフランスの境目にある。
「こっ、こんなに遠くから来たのか?」
ラウラは微笑して頷く。現在、来日するのとは違う。危険な航海を数年がかり続けての命がけの道だ。
「にしても、頭が下がる。このような広い海を渡ってまで。南蛮人はなぜ、それほどまでして耶蘇教(キリスト教のことだ)をこの日ノ本に広めたきか」
と、山育ちで仏教徒の虎千代はそこに感心している。
「バスクの民にとって日本、憧れの土地です。ワタシたち、遠く訊きました。はるか東の果てにある日ノ本と言う国には、ワタシたちに似た言葉、同じ黒い髪に小さな身体の人たち、住んでいます、と」
バスク人が日本人にそっくりである、と言う説は一部で言われていることだ。ラウラの風貌は肌の白さといい、アーチ型のくっきりとした瞳といい、一見スペイン系の面影なのだが、それでもどこか何らかの親近感を僕たちみたいな日本人にも感じさせる雰囲気があった。ちなみにあのフランシスコ・ザビエルもバスク人なのだそうだ。
「バスクの諺あります。『山は山を求めないが、人は人を求める』と」
ラウラはあくまで屈託のない笑みだ。
「ほほう」
「ワタシたち、人を求めて世界中、船乗ってきます」
ヨーロッパの大航海時代を担ったのは、何と言ってもイスパニアだった。その未開の地への航路の乗組員であるコンキスタドールには、バスク人が多かったそうだ。こうした人たちがもしいなかったとしたら、例えば織田信長の抱く野望もそれほど壮大なものになりえなかったと考えると、実に頭が下がる。
それから僕たちは宗易さんの別邸で水着に着替えて、住吉の浜に出ることにした。宗易さんがラウラと二人で海岸を案内してくれる、と言うのだ。外国の人に案内してもらうと言うのも変な気分だが、考えてみれば現代からの異邦人代表の僕だ。むしろ何も不思議なところはない。
「おいっ、野郎は荷物持ちだ。小僧、さっさと手伝いやがれ」
さっさと純白の褌一本(潔過ぎる…)になった鬼小島は、完全に荷物係に徹している。海水浴に行ったことない癖に男は裏方、と言う、海辺の鉄則をすでに忠実に守っているところが何気にすごい。
「なんだよ、お前まで水着かよ」
別にありがたくもない僕の海パンをじろじろと眺めて、鬼小島はすでに愚痴モードだ。
「ったく、うちの娘まで水着だなんて言うから、こっちは大変だよ。水練なんてなあ、褌一本で十分なんだよ。男なら、水着なんていらねんだよ。黙って褌締めろ褌」
僕と鬼小島以外はみんな、女子なんですけど。て言うかこの人、それ虎千代の前でも言えるのだろうか。
「ちちうえーっ、真人しゃん!支度ばんたん整ってごじゃります!」
ぱたぱたと水着に着替えたこのえが駆けてくる。やっぱり、一番支度早いのはちっちゃい子だな。
「お二人ともいかがでごじゃりまするか。このえも水着でごじゃりまするぞ!」
生まれて初めての水着と海でよっぽどテンションが上がったのか、このえは鬼小島の前でくるくる回って見せる。真菜瀬さんが作ったのだろう。このえは蝶柄と紅いリボンにフリルがついた腿まで丈がある、水兵さんみたいな例の奴だ。末恐ろしいほどしっかりしているように見えて、やっぱりこのえも小さい女の子なので、子ども用の水着がぴったり似合っている。
「さてさて、皆様お待ちかねの海でごじゃりまする!」
ぱっ、と駆け出そうとするこのえを鬼小島が引きとめている。
「このえ、勝手に行くな!まだだろっ俺から離れんなっての。あー、ったくどうしてこんなことになっちまったんだよ」
普段そう言う感じがしないが、やっぱりこの二人親娘だ。ああ、何か、普通の海水浴風景って感じだ。ほのぼのしていると、
「さあっ、でかぶつ、いつまでもぶつぶつ油売りしてないでさっさとみんなの荷物を持つですよ!むっふふう、でかぶつは荷物係の脇役なんて、あーっ、海ってなんて最高なのですよ!はいっ、これ、わたくしの分!」
ごそっ、と重そうな肩掛け式の大きな白いバッグを放り投げてくる黒姫。水着に着替えたのでたぶん、隠し武器が入っているのだろう。鬼小島がそれを軽く片手で受け止めたが、がしゃん、と不吉な金属音がしたのを僕は聞き逃さなかった。
「てめえっ、こんな物騒なもん海で持ち歩くなっ」
鬼小島のもっともな突っ込みを完全に無視して、水着姿の黒姫はずいずいとポーズを取りながら僕に近づいてくる。
「どうですかっ、真人さんっ、わたくしの魅惑の水着姿は。見るだけならば見て、惜しみない賞賛を浴びせてもよいのですよ!本来ならば虎さまに閨でお見せするためだけの珠のお肌ですが、今日だけは特別ですよっ。持ってけドロボウなのですよっ」
バナナの叩き売りか。
惜しみない賞賛するほどではないが、たとえ黒姫でも、久々の女の子の水着姿はまぶしかった。黒姫は黒地に白のボーダーが入った三角ビキニで、腰の赤い紐の片方には黒揚羽をあしらった凝ったデザインの水着だ。厄介すぎる中身はともかく、こいつもルックスだけは見れるので人目は惹きそうだ。
「ごめーん、二人ともお待たせ!」
真菜瀬さんの水着はやっぱり潔い白のビキニだ。いつも着ている白い小袖をアレンジしたものか、襟元を胸の前で結ぶデザインなのだがなんて言うか、カップからはちきれそうになっている。本人が完全無防備なので、僕としてはこの人が一番目のやり場に困る。
「お兄い、みんなの水着見た!?すっごいでしょ!あとで独りで物影に行っちゃ駄目だからね!?」
「下品な言い方するな!」
最近、危険な発言が多くて、ビーチでの挙動が心配な我が妹だ。
「絢奈のはどう?これねー、絢奈が作ったんだよ?萌える?妹萌えする?」
絢奈が選んだのは、お姫様のようなふりふりのフリルのついた薄いピンクだ。うんまあ、こいつと一番長くいる僕にとっては定番と言うか、絢奈の好みがよく分かる。ちなみに妹の水着姿を見て、妹萌え属性でもない僕は別にどうと言うことはないのだが、こいつ、僕をどう言う方向性に持っていきたいんだろう。
これでやっと女性陣揃ったか。そう思って見渡してみて、僕は肝腎のやつがいないことに気がついた。
「あれ、虎千代は?」
「そうだ、虎っち!」
僕が言うと、絢奈はすぐに気づいたようだ。
「まったく一番先に支度終わってたのに」
絢奈は口走ると、ぱたぱたと走っていく。ちょっとそんな予感がしたが、どうやら登場に手こずっているようだ。裏で何やらこそこそやってるのが漏れ聞こえてくる。
「絢奈っ…その、わたしは浴衣を着るゆえ。やっぱり水着は…恥ずかしいっ」
「ほらほらっ、もう着替えたんなら出た出た!虎っちの水着、お兄いが一番楽しみにしてたんだから」
僕をだしに使うな。いや、確かに楽しみにしてたのは本当だけど。
「ひいっ?ああっ、絢奈押すなっ」
やがて覚悟したのか、虎千代はおずおずと僕たちの前に出てくる。それを見て僕は、一瞬、気が遠くなりかけてしまった。
「うう…あのっ、みんな待たせたっ、とにかくさっさと海へ行こう」
虎千代が選んだのは、潔くアクアブルー一色のシンプルなデザインの三角ビキニだ。腰にパレオがついているが、それを留めるピンに薄いピンク色の姫ユリの造花があしらわれていて、それが見事なワンポイントになっている。でもそんなことが問題じゃない。要はそれを着る中身のことだ。
なんだかんだ言って普段は、身体や足の線が見えない着物姿なので、こうしてみると分かるが、虎千代は身長が低いだけでスタイルはすごくいいのだ。すらりと伸びた足にはほどよい膨らみとしなやかな筋肉がついているし、お腹まわりは当然、引き締まっている。
そして身体を鍛えている癖に、すごく綺麗なのは胸の形だ。ちょうど手のひらに収まるお椀形と言うか、くっきり形のいい美乳なのだ。グラビアモデルだってこんなに均整とれたスタイルは珍しいくらい。よくぞ脱いでくれたものだ。
はっ。意識が別の次元に飛んでいた。僕は何をしているのだ。あまりに幸せすぎて思わず上から下まで、全力で虎千代の水着姿を描写してしまった。
「なっ、何か変か?なにを黙ってみているかっ」
気がつくと涙目で唇を噛んでいる虎千代がすぐ近くで、僕を見上げていた。あ、これいつもの殴られるパターンじゃないか?
「全然変じゃないよ!お兄いも言ってあげなよ、虎っちかわいいでしょ?」
「あ、うん…」
なんて答えるべきなのか。結局、武士を馬鹿にするなって殴られる気がするが、ちょっと今、普通の精神状態じゃないので。
「ごめん、コメント出来ない。幸せすぎて別次元に意識がぶっ飛んでた」
二人は目を丸くしていた。
「…お兄いに聞いた絢奈が馬鹿だったよ」
「ううっ、真人はあてにならぬ!さてはお前っ何か別のことを考えておったなあー!」
がくがくと虎千代に肩を揺すぶられたが、僕はいつまでもへらへら笑っていた。
いやー、水着審査ってやっぱ外せないですよね。
次に気がつくと僕は、住吉の浜に腰まで浸っていた。まさか、時間を吹っ飛ばして、そこに結果だけが残ると言う伝説の紅王症候群まで発現するとは。水着の破壊力は恐るべきものだった。対岸は尼崎だと宗易さんが言っていたが、さすがは遠浅の海。見渡す限り一面、何もない。これなら、はるか遠くまで見渡せそうだ。
「お兄い、こっちまで大丈夫だよ!足着くよ!」
かなり遠くで、絢奈が手を振っているのが見える。ちなみにあいつ、運動神経はいいのだが、泳げないのだ。それでもきゃっきゃいいながら絢奈は、真菜瀬さんと水を掛け合っている。
「おーいっ、虎ちゃん連れてこっちきなよ!ちゃんと足着くよー」
真菜瀬さんもやけにテンション高いな。
「真人しゃまー、このえとも遊んでくだしゃりませ!」
このえも鬼小島の肩車で見たことないほどはしゃいでいる。なんてのどかな風景だ。
あれ、それにしても虎千代はどこだろ。
「まっ、真人、わたしたちも行こう」
「わっ」
すぐ傍で声が立ったので、びっくりした。驚くほど近くに例の水着姿の虎千代が立っていたのだ。
「ぼーっとしていて、何を話しかけてもうわの空だったのだぞ。本当はどこか調子が悪いのではあるまいな?」
虎千代は本当に心配そうに尋ねてくる。
「ああ、いや大丈夫」
だめ人間になりかけているのは体調ではなく、主に、僕の感性の方だ。
「行くぞ。どうやらあそこなら、足が着くようだし危険はあるまい」
そうか、虎千代も泳げないのか。なにしろ山育ちだもんな。
「水着…恥ずかしくなくなった?」
「言うなっ」
ばしゃっと飛沫を上げて、胸元を隠す虎千代。
「なんでそんなに。みんな同じ格好だし、恥ずかしがらなくてもいいじゃないか」
「うう、みなでじろじろ見るからだ。あんな明るいところで見られたら、困る。分かってしまうだろ。わたしの身体。その…あちこち、戦場傷があるゆえ」
虎千代は不安そうに、自分の身体を見下ろした。僕にもひと目で分かった。無垢な虎千代の肌に、いくつかの戦場傷があるのを。一部はみみず腫れのような赤い痕になっていたり、細かな刀傷などは微細に見ないと分からないが、目立つ傷もある。特に大きいのは、鞍馬山の戦闘で贄姫に槍で刺された太ももの傷だ。
「馬鹿だな。そんなこと気にすることないのに」
僕は思わず微笑した。やけに恥ずかしがると思ったら、やっぱりそう言う理由があったのか。
「そっ、そう言う問題ではない。お前に、まじまじ見られるのが嫌だった。だって気になるであろう。醜い刃物傷じゃ」
「僕は気にしないよ。虎千代がどうして怪我したのか、僕は分かってるし。それに何より、それは僕たちを守ってくれた傷だろ」
うつむく虎千代の方に自分の腕を差し伸べて僕は言った。
「行こうよ。水着、似合ってるじゃないか。かわいいよ、虎千代」
みるみるうちに、虎千代の顔に日向がさした。
「うれしい…ありがとう、真人」
虎千代はジャンプすると力いっぱい僕にしがみついてきた。ばしゃっ、と潮くさい波しぶきをかぶって二人、倒れそうになる。
「うわっ、危ないって」
「はははははっ」
きらきらと光輝く水珠が容赦なく顔にかかるのも構わず、まぶしいほどの無邪気な笑みだ。まったく分かりやすいんだか、複雑なんだか。
「よしっ、じゃあっその勢いで早速、世継でも作ろうではないか。お前さえ構わなければ、今すぐにここでもわたしは全然構わんぞっ」
「構うよ!て言うか、水着を脱ぐな!炎天下で、そこまで露出していいとは誰も言ってないっ」
「そ、そうか…くうっ、流れでいけると思ったが早まったかっ」
いや、うんと言うと思ったのか。しかしまた、恥ずかしげもなくお約束を振ってくるな。大体、水着は恥ずかしいのに、脱ぐのは全然平気なのか。どう言う精神構造してるのか、謎すぎる。
「じゅるり。露出大歓迎ですよ、虎さま」
そして虎千代の背中にぴたりと貼りつく十八禁背後霊。まさかこいつの悪影響じゃないだろうな。
「黒姫…お前なぜ、わたしの真後ろにいる?」
「なにをおっしゃる。虎さまあるところ、黒姫あり!っていっつも言ってるではないですか☆それよりわたくしのことは気にせず、どーぞお脱ぎ下さいな。この砂かぶり、いやいや潮かぶりの席だけはどうにも譲れんのですよっ」
しかしこいつも懲りんな。
「あっ、なんならわたくしも脱ぎましょうか。みんなの前でわたくしたちの愛を見せつけてやりましょうです。ぜひぜひ汗と潮にまみれて、愛欲に火照った肌と肌をこすり合わせましょうですよおっ」
飛びかかろうとした黒姫に、容赦なく虎千代の肘鉄が突き刺さった。
「いい加減にしろっ」
「いたわばっ!?」
まあ、これもお約束っちゃお約束。
と、本人たちのキャラには多少の難はあるものの、美少女率高い上に見慣れない水着と言う僕たち一行は、住吉の浜でもそれなりに目立ったようだ。磯釣りや海岸を歩いていた連中が、楽しそうにしている僕たちに惹かれるようにわらわら集まってきた。この時代の人も、暑い日は水辺、と言う鉄則は変わらないのだ。みるみるうちに遠浅の浜は水浴びの人で混み、こうなると、僕たちもうかつに動いたりしにくくなってくる。
「皆さん、そろそろ移動しませんか」
宗易さんとラウラが、僕たちに水辺を上がるように声を掛けたのはちょうど、そのときだった。
「どうです見事な西瓜でっしゃろ。暑い日は、やっぱり水菓子(果物のこと)に限りますわ」
と、この当時はまだ珍しい、大玉の西瓜を僕たちのために冷やしてくれていた宗易さん。彼もまた、よく日焼けしたマッチョな身体に、僕と同じ海パンを履いて風通しのいい麻製の上着を羽織っている。ぱっと見にはほとんど、サーファーにしか見えない。あれも、真菜瀬さん作なのだろうか。
「お忙しい中、気を使って頂いてすみません」
僕と虎千代が恐縮してお礼を言うと、
「忙しい?ご冗談でっしゃろ」
と、宗易さんに真顔で返されたのには参った。
「ご存じないか真人はん、私の号は抛筅斎言いますのや」
抛とは投げ打つ、筅とは魚を入れる魚籠を指すのだと宗易さんは言う。
「うちは魚屋ですねん。せやから、家業の商売道具を投げ打つ、と書いて抛筅斎」
僕と虎千代は目を丸くした。
「ああっ、もったいない。今のは突っ込むか、笑うかするとこでっせ?」
「す、すみません」
「頼んまっせ、次はほんまに」
いやそれは義務なのか。
しかし、こんなところにも生きているのか、関西人DNA。
宗易さんには、僕はさすがに恐れいった。この人、筋金入りの道楽者だ。僕も絶賛高校中退にして現代の道楽ニートを自認してきたが、これは勝ち目がない。じゃなきゃ豊臣秀吉にまで逆らって茶の湯を究められないのかも知れない。
「住吉浜には、まだ面白いところ一杯あります。皆さん食べ終わったらワタシ、案内しますね?」
と、言うラウラも、水着姿に草履ばきだ。腰高のラウラはさすがは西洋人だ。濃いブラウンの大胆なセパレートのビキニがすんなりと手足の長い身体つきに似合っている。
「むうっ、お前、らうら殿のどこを見ているのだ」
「いたたたたっ」
ぎゅうっと僕の腰をつねる虎千代。一瞬で妄想を読むとは、達人だけに勘が良すぎる。
「まったくお前はっ、水着の女子であれば誰でもよいのかっ」
そんな僕たちを尻目にラウラはまったく邪気のない笑顔だ。
「せっかくいらしてくれたのです。浜辺を歩いて、これから住吉大社まで歩きましょう。まだ海にも面白いもの、沢山あります」
白砂青松と言えば、住吉浜の中心部出見浜から大鳥居までの海岸線の通りだ。江戸期の『摂津名所図会』によれば、浪速八景の一つと言う景勝地。その長さは五丁、いわゆる五四五メートル、波に咲く花とも喩えられた見事な松林が立ち並んでいたと言う。
街道の整備されていない戦国期にあっても、その眺めは変わらない。なにしろ住吉大社は『古事記』『日本書紀』にも記載があり、上古の大和朝廷とも関わりの深い古社なのだ。井戸で冷やした絶品の西瓜でたっぷりと渇きを癒した僕たちは出見浜を通り、住吉大社方面へ向かう。
ソフトクリームのような入道雲がわだかまる色素の薄い夏の青空に、からっとした太陽が照りつけ、いっそ気持ちいいくらいの海日和だ。この暑い日和で少なからず人出も出て来ている。
「まずはあれを見てもらわな」
さんざめく蝉と人いきれの中、宗易さんが声を上げる。そこで僕たちは思わず息を呑んだ。海沿いになんと、この時代らしからぬ高層建築が佇んでいるのだ。
「あれこそ住吉浜名物、高灯籠ですわ」
現在で言う灯台である。高さ五丈三尺(約十六メートル)あったと言うから、僕たちの時代で言う四階建ての建物くらいの高さを想像してもらえればいい。がらんとした浜にあるから本当に天を見上げるほどだ。
どっしりとした石垣の土台の上は天辺の見晴らし台に向かって大胆にオーバーハングした黒い板張りの壁が貼られていて、ちょうどメトロノームのような形状をしている。あの見晴らし台で火を灯して、沖の船に合図するのだ。
この高灯籠、鎌倉時代の末に地元漁師たちが作り、それが平成の世にも現存していると言うから驚かされる。
現在のような航海法や夜間の照明器具がないこの時代、こうした灯台の明かりは、暗いうちからの航行を余儀なくされる漁師たちにとっては、まさに命綱だった。お城ぐらいしか高い建物が必要ないと思えるこの時代に大仰な建築に見えるが高灯籠は紛れもなく、古くからの漁師たちの安全への思いの詰まった高層建築なのだ。
僕たちは宗易さんに連れられて見晴らし台に上ったのだが、その眺めこそ言葉を喪った。海がどこまでも、拓けている。水平線も対岸の山も淡く霞んで、蜃気楼すら立ちそうにまばゆかった。
「どうです。こう言う晴れた日には淡路の島まで見渡せますのや」
「うわーっ、すごいねえ!」
さっきから絢奈は興奮しっぱなしだ。
「さっき、地球儀を見ましたね。長尾殿、こうしてみると分かるでしょう。ワタシたち、住んでいる大地は丸いのです」
ラウラが、さっき地球儀を不思議そうに眺めていた虎千代に話しかける。
「う、うむ。気づかなかったが、地平は丸いのであるな。だがすると、海の果てはどうなっているのだ?」
虎千代も無邪気に目を輝かせている。考えるより、感じるのが先だ。そこには、高層ビルもアスファルトもない。見渡す限りの自然のパノラマだ。
「海は果てなく、いつまでも続きます。一年も航海すれば、ゴアの港につき、バスクにも届くでしょう。もしよければ皆さん、ワタシいつかバスクに連れていきたいです」
ヨーロッパから大西洋を通り、インド、中国。そして瀬戸内海を通じてこの堺に至った。そんなラウラだからこその説得力だ。
世界はどこまでもリンクしていく。
そんな果てないことを、さりげなく言うラウラなのだった。
高灯籠に上った後は、もうお昼ご飯だ。ここの名物は誰がなんと言おうと(これは宗易さんが力説した)、蛤なのだと言う。蛤は二月中旬からが旬で八月の中盤まで食べられるありがたい海の幸だ。
高灯籠にほど近い茶屋で出た御膳は、なんと蛤づくし。海水の滋味をたっぷり蓄えた潮汁に焼き蛤、さらには蛤のだし汁をたっぷりと吸った炊き込みご飯と一切の手抜きなしだ。
ぷりぷり張りつめた肉厚の蛤はもう、どう料理しても美味しいに決まっている。噛むとじゅわっと出る海のエキスは、複雑玄妙なのに身体の中がすっと綺麗になる気がする、絶妙な塩味だ。
僕たちはしばらく物も言わず貪ってしまった。炊き込みご飯が見る間になくなり、お代わりの空茶碗が一斉に突きだされたくらいだ。
「はっ、恥ずかしい。また食べ過ぎてしまった…」
いや、今さら後悔しても遅いし。虎千代は焼き蛤までお代わりしている。
すっかりお腹いっぱいになった後は、住吉大社まで散策だ。ちょうど月市の頃で、出見世や行商などの屋台も出ている。
「ほら、肩を貸せ。一緒に歩こう」
「あ、ああ」
虎千代は僕と手をつなぎ、中を歩いた。よそいきに上着をかけてはいるが、水着のままだ。海辺のデートと言えば言えるのかも知れない。
「虎ちゃんたち、抜群の安定感だよねー。もうすっかり板についた感じ?」
その様子を見て真菜瀬さんがさりげなく、ひやかしてくる。いや、普通に手はつないだけども。
「ああ、やっぱり。つまりお二人は、許嫁と言うものですか?」
ラウラも無邪気に聞いてくる。
「そ、そこまではいってないけど」
「何を言うか。すでに肌身を許し合う(予定、と虎千代が、小さい声で言ったのを僕は確かに聞いた)中ではないかっ」
虎千代が顔を真っ赤にして抗議する。
「えええっ、虎っちとお兄いってそこまでいってるの!?」
「いや、違うって。虎千代、誤解を招くような発言はやめろって」
「そっそそそうですよお!虎さまの純潔もわたくしの純潔も、わたくしと虎さま以外のものなんて有り得ないのですからねえ!あることないことで騒いで誤解するのはやめてほしいのですよお」
ばたばたと両手を拡げて抗議する黒姫。しかしこいつも、揺るがないな。
「う、嘘ではないぞ!一緒に風呂だって入ったし、一つの布団で寝たこともあるし、この前はその、きっ、きっ、キスだって…」
「うわああああっ!?待て待て!それは言わない約束だったろ!?」
黒姫が怖すぎる。しかし、虎千代は止まらない。
「ううっ、言って何が悪い。わたしはすでに真人の、許嫁のつもりでいるのだぞ!」
「天下の往来で暴走するな!」
「うわああっ、虎っちとお兄いキスしたんだー!?」
女の子って恐ろしい。
既成事実と言うものはこうやって、積み上げられていくのだ。
「やっ、やっと解放された…」
キスと虎千代の暴走でさんざん黄色い声で騒がれた僕は、すっかり疲労し尽くしていた。
住吉社本殿を前に女性陣の多くは、一斉にトイレに行ったのだ。さっさと用を足して待っているのは鬼小島と僕、そしてトイレに行かなかったラウラだ。宗易さんは用事があるのか、先に行ってしまった。
「ったく、思ったよりお嬢と上手くやってるみてえじゃねえかよ、小僧」
男同士になると、鬼小島ですらにやりとして、僕の足を爪先で蹴ってくる。
「お嬢がべたぼれする男なんてこの世にいねえと思ってたよ。まあ、お前はへたれだけど、いざって時は決めるしな」
「勘弁して下さい、もうその話題は」
「勘弁出来ねえな。つか、話したのかよ、金津の旦那には」
いや、それは話したりはしてない。また直江景綱の養子縁組に奔走されたりしたら、とんでもないことになるからだ。
「柿崎の親父から聞いたよ。お嬢は遅かれ早かれ、越後に戻らなきゃなんねえ。したらお前の立場を決めとかねえと困るぞ、色々」
「た、立場ですか…」
と言ってまた、あんな騒動になっても困る。
「金津の旦那は旦那なりに考えてたんだよ。分かるだろ。長尾の本家ってのは、そう一筋縄じゃいかねえのさ。戦国大名の一族だ、よそものがずかずか入っていって洒落にならねえことになるくらい、分かってるだろ?」
鬼小島は含みのある言葉を漏らしつつ、こつこつ僕を蹴ってくる。
「諦めろってことじゃねえぞ。柿崎の親父も、直江の小父貴も、お前のことは買ってんだ。俺だってお前に骨があるってのは分かってるよ。お前を認めてんのは、お嬢だけじゃねえんだからな」
虎千代と越後に。僕がやすやすと長尾家に入れないことは分かる。鬼小島が何を言おうとしているかは、僕にも何となく分かった。でも、なぜ今。その話をしたのか。
「あーっ、すっきりしたですよ!でかぶつ、わたくしのお財布どこですか?虎さまに皆さんの分のお賽銭、頼まれたですよ」
トイレが終わった黒姫が、ぱたぱたと駆けてくる。
「知るか!その辺にあんだろ、適当に捜せよ」
「なっないです。どこかへ入れたはずなんですが。うーん、最近忘れっぽくっていけませんですねえ。…そう言えば、他にもなーんか忘れてる気がするんですが、でかぶつ、あんた心当たりありませんか?」
黒姫が急に意味深なことを言い出す。
「忘れてること?」
「そうなんですよお。さっきまで虎さまと海水浴が楽しすぎて、すうっかり忘れてましたが、何かやらなくちゃいけないことあった気がして」
「うるせえな、今小僧と大事な話してたんだよ。勝手に入ってくんな」
しっ、しっと、鬼小島が追い払う仕草をする。
鬼小島が言わんとすること、そして黒姫の懸念。
僕はそのとき判らなかったがそれをその日のうちに知ることになる。
「やっ、やめてくださいっ!」
ラウラのものと思われる悲鳴が上がったのはそのときだった。ラウラの姿がいなくなったことにしばらく気づかず、僕たちは会話を続けていたのだ。
哀れなバスク人の少女を、三人の日本人の男が取り囲んでいる。
「たっ、助けて下さい誰かっ」
「つべこべ言わずさっさとこっちへ来んかい!もうお前はおれのものなんや!」
塩辛声で怒鳴っている片目の男が、首謀者と思われる。着乱れた麻服に、粗末な野太刀を腰にぶちこんだいかにも海賊風の日焼けした男だ。
いかにも凶悪そうな連中だが、ふっと小さなため息をついた虎千代は丸腰のまますたすたと、その輪の中へ入って行った。
「もし、その娘は我らの連れだ。用事なら、我を通してもらおう」
「ああん?おのれ、はしたない格好しおってからに何者や」
露骨に小娘が、と言う嘲り顔をその男はした。確かに見た目はただの水着の女の子だ。しかし、中身は阿波三好の精兵すらも黙らせる軍神と言うことを、この男は知らない。
「怪我せんうちに失せんかい。この南蛮人のガキはな、わしらが銭で買うたんや。身曳き証文もあるで」
「ほう、さればそこで出してもらおうか」
虎千代が研ぎ澄まされた刃物そのものの声で言ったが、相手は気づかない。
「馬鹿言えっ、なんでお前みたいな小便くさい小娘に」
その男がうるさげに取りついてくる虎千代を振り払おうとした、その瞬間だった。
まるで魔術だ。風車を回すようにその男の足が天を掃いて、腕を中心にぐるりと回転した。重心の移動と遠心力を使った投げ技だ。馬に乗った大鎧の男を投げ飛ばす虎千代にはこの程度、造作もない。しかし片目の男には、一瞬で天地がひっくり返ったように見えたに違いない。
「なっ、なにしやがるのや、こ、ここの小娘っ」
「ラウラ殿、歩けるな。真人たちのところへ行け」
「かっ、勝手な真似を」
「た、ただで済むと思うな」
両側の男が色めき立ったが虎千代は一顧だにしない。
「さて、後は身曳き証文だったな」
「くっ、くそ…どごまでも馬鹿にしよって…」
その背後で投げ飛ばされた片目の男が屈辱に顔色を変えながら、刃物を抜いて立ち上がったのはそのときだった。虎千代はまるで振り返りはしなかった。その背を狙って、男が斬りかかる。しかし、勝負は再びあっけないほどに寸毫で突いた。
「ぐううっ!?」
次の一瞬だ。刃物を掻い潜った虎千代の指拳が、男の咽喉肉にねじこまれていた。この呼吸器官はいかに体格に自信があろうと鍛えようがない。虎千代はそれを、戦場渡りの指拳で握り潰したのだ。
男はのめりこむように倒れ、もう立つことは出来ない。泡を吹いて気絶していた。まさかこんな女の子に。凶悪な男たちはまるで街区で山の猛獣に出会ったかのように、恐れおののいた。
「死んではいまい」
ぞっとするような冷たい声で言うと虎千代は、がくがくと腰が抜けそうになっている残りの二人を睨みつけた。
「さっさとその身曳き証文とやらを出せ」
「ありがとうございます。ごめんなさい、せっかく楽しかったのに皆様にご迷惑をおかけしてしまいました」
助けられたラウラに怪我はなかったようだが、僕たちを気遣い表情を暗くしていた。
「気にすることはない。ラウラ殿も狙われて当然と思わず、雑踏に連れ出した我が迂闊であった」
虎千代はあの二人から巻き上げたラウラのものだと言う身曳き証文を黒姫に手渡し、苦い顔をした。
「あやつらはこれを銭を出して買うたと言っていた。他にも、出回っているかも知れぬ。早急にこれを出した者の素性を突き止めるべし」
急いで僕たちは宗易さんの別邸へ戻ることにした。すでに日も暮れかけの頃だ。
薄暗い松林を歩く僕たちは襲撃を予感していた。さっきの連中は、住吉の地に巣食う人買い商の港湾関係者に違いない。
「近くに必ず仲間がいるはずよ」
真菜瀬さんの提案もあって虎千代はほとぼりが冷めたら、繁華街の『しまへび屋』にラウラの身を潜めさせようとしていた。
「来たぞ」
待ち伏せに備え、虎千代たちは武器を携えていた。
白い砂地の景勝地には、木苺のそれのように濃厚な赤い夕陽が垂れこぼれて影を作っている。潮騒の中、がさがさと、誰かが移動する音がする。虎千代が身を潜め、辺りをうかがっていると、暗がりから、ぱっと馬に乗った誰かが出てきて弓をつがえた。
ひょうっ、と放たれた矢をものともせず、虎千代は馬上の相手に斬りつける。
それは意外にも小柄な影だった。夕陽の中で僕はなぜか、その相手がどこかで見慣れた装束をしていることを奇異に思った。かちゃかちゃと金属の小札がこすれる音。その相手と言うのはなぜか、しっかりと鎧を着こんでいたのだ。
「甲冑武者か。かなりの腕だが」
剣を構えなおして、虎千代は相手に呼び掛けた。
「殺すは惜しい。金ずくなれば倍額出すゆえ、怪我せぬうちに失せるがいい。次は容赦なく斬る」
ぱっ、と馬を駆って相手が飛び出したのは次の一瞬だった。今度は腰刀を抜いて虎千代に斬りつけようとする。その刹那をあやまたず、虎千代は飛びあがって剣を振った。縦一文字、かささぎの燕の抜刀術だ。
けたたましい金属音とともに相手の剣は折れ、地面に突き刺さった。そのとき、
「ぶっ、無礼者っ!何と言うことをしやるかっ」
「は!?」
若い女の人の声だ。信じられない。なんと刀を折られた相手が、虎千代を罵倒し出したのだった。あまりに意外な展開に虎千代もさすがに声が引き攣った。
「な、何者だっ!」
「少し待て!今、兜をとるわえ」
いそいそと女性と思えるその騎馬武者が兜をとってみせたとき、僕たちまで驚いた。
兜の下でふさりと長い髪を波打たせたのは。僕もよく知っている人間に、そっくりだったからだ。
「と、虎千代っ!?」
虎千代が二人いる。しかしよく見ると確かに違う。向こうはちょっと、大人っぽい。そっくりだけど何かが違う。どう言うことだ?僕がその人の顔と虎千代の顔を見比べていると、虎千代が上ずった声で驚くべきことを言った。
「あっ、姉上!?なっ、ななっなぜここに!?」
「なぜなどと愚問を言うではないわっ」
ほとんど同じ声と強情さで相手は言い返した。この人、まさかとは思ったけど本当に虎千代のお姉さんなのか。
「お虎、お前はこの姉との約束をすっぽかす所存か!?」




