表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
77/592

戦国時代で海水浴!国際都市堺で出会ったまさかの人物、ある頼みとは…?

それから一ヶ月ほどが平穏に過ぎ去った。

京都では相変わらず、三好家と細川家の争乱が続いていたが、もはやほとんど関係のないことだった。僕たちの間では、何事もなくただ、あっという間に時間が流れていった。この間のことは、特に描くべきこともないくらいだった。

あえて長尾家のことを書くとすれば、直江景綱と柿崎景家が京都に駐屯していた大部隊を率いて早々に越後に引き上げたことくらいだろう。

「ひっ、姫さま!なぜでござりましょうや!わしらあ、姫さまを連れ戻しに来たのでござるぞ」

虎千代が越後に戻らない、と言ったので景家などは顔が引き攣り気味だった。

「血震丸と黒田家のことも片付き、せっかく兄上、晴景公との誤解も解けましたではありませぬかっ」

「ああ、その件については本当に安堵した。お前たち両名の合力もあり、血震丸はじめ黒田家の残党及び、国内の不穏分子を打ち払いえたこと、至極祝着。兄上の治国もこれにて安泰であろう。であれば今、わたしが戻る必要もあるまい」

「そ、そんな姫さまっ、こたびのいくさぶりで、わしゃあ、姫さまが当主になるとばかりっ」

「当主にはならぬ。越後国主は、兄上じゃ。これは一貫して言うておることぞ」

虎千代が頑固に首を振ったので鬼瓦のような景家も、さすがに困り果てていた。

「でっ、ではせめてっ我らと越後にお戻りあれ!」

「それもならぬ。特にお前たちを率いて帰ることは、断じて出来ぬ」

「うっ、ううっ、我らを率い、あれだけの采配を見せながら!なぜにござりまするかっ」

「いくさの上手ばかりが、当主の器にあるまい。筋目に従うのが分別よ」

「分別では国は収まりませぬ」

景家は尖り髭を逆立てて、面に血を上らせた。

「たあっ、姫さまっ、この期に及んでなんと言う我がままをっ、おい大和っ、黙っておらんでお前も何か言わぬかっ」

「なるほど」

と、興奮する景家に対して、景綱は沈着冷静だ。

「姫さまが言うこと道理は通りまする。今、帰国なさらぬは景虎様が越後に帰らば、兄君の治国がいかがなされるか、それをご案じなされてのことですね?」

「ああ」

景綱の指摘に、虎千代はあごを引き、頷いた。

「どっ、どう言うことじゃ!大和説明せい!わしにゃあ、全然分からんっ」

「和泉殿、ようお考えあれ。こたび姫さまは京都にて我が長尾家に弓引く逆賊を打ち倒し、あまつさえ三好家の松永弾正から将軍義輝様を奪い返す大戦果を打ちたててござる。その姫さまが我らを率いて越後にお帰りあると言うことはそれがそのまま、凱旋軍になると言うこと」

「さすがは大和、我が意を得ておる。そもそもこの景虎は、家を捨て京に落ちた身。逐電した妹がお前たちを率いて意気揚揚と越後に戻ったとあれば、兄もいい顔はすまい。これこそ、新たな争いの火種とならめ」

「そっ、それならそれでもいいではないかっ!わしはこたびのいくさで確信したのじゃぞ!やはり姫さまこそ、越後の精兵を率いていくべきお方ではないかっ」

「和泉、無茶を言うな。何度も言うが、当主は兄晴景じゃ。これも分別よ。お前もかようなことを国元で広言すると身を危うくするぞ。何事も了見ではないか」

「うぐっ…だが姫さま、わしらあんたを連れ戻しにはるばる来たのですぞ」

景家はじりじりとまだ納得できない様子だ。それを尻目に、

「この景綱、お話はよく分かりました。我らと帰国できぬこと、ともかくもこれで、表向きの理屈はつきましょう。まずは、表向きはでござりまするが」

「大和、そ、それはどう言う意味じゃ」

「それは、姫さまがよう存じておられましょう」

「なっ」

虎千代が不意を突かれて目を剥いたが、景綱は涼しい顔だ。

「言うた通りの意味ですよ。あなたには今、帰れぬ理由がある。それは家督の問題ばかりではないと言うことです。この大和の読み違いでありましょうや」

「う、うむ…それはその…間違っておらぬと言うかなんと言うか」

景綱が同席した僕を見て意味ありげな微笑を見せたので、どう答えていいか分からず虎千代はぴくぴく唇のあたりを引き攣らせた。

「ただしここは姫さまのご配慮もっとも至極ゆえ、我ら大人しく引き下がりましょう。だがこの件、凱旋軍として今はお戻りになるは得策ではない、と言うことで我ら了承したいと存じまする。その代わり折りを見て必ずのご帰国、お約束下されましょうな?」

「うっ、そっそそそれは」

すかさず言質を取る景綱は、さすがに抜け目がなかった。これには虎千代も目を白黒させていた。

「わっ、分かった。こちらのことが片付けばわたしは戻る。兄との件は越後の国衆たちにもはっきりとさせておかねばならぬしな」

「それでこそ、我が姫さまにござる」

ついに帰国すると言う、虎千代の言質を取ると景綱はにこりと笑った。

「我らが本意を汲んで頂き、嬉しゅうござりまする。長尾景虎様ご帰国の件、こたびの我と柿崎和泉守二人の武功の恩賞としてありがたく頂戴致しまする」

「やっ、大和めっ、ようもぬけぬけと」

この件については、景綱が一枚上だ。虎千代だって分かっているはずなのだ。今回のいくさで亡き長尾為景の薫陶を受けた百戦錬磨の越後勢を自在に率いることが出来るのは、自分をおいて他ないということを。

それに虎千代だって、越後のことをいつまでも放っておく気ではないだろう。史実がそうだからではなく、むしろ虎千代の性格としてあり得ないことだ。そうなると虎千代は、いつかは必ず越後に戻らなきゃいけないわけだが。

「だっ、だがすぐにとは参らぬぞ。わたしだけではない。真人や絢奈ばかりではなく、無尽講社やこたびのいくさに関わったものたちの行く末も考えねばならぬ」

「その点は重々承知」

景綱は鷹揚に退くが、されど、と念を押す。

「これだけは分かって頂かねばなりませぬ。赤心申せばこの景綱も、和泉とまったき同じ了見」

景綱はさらに膝を進め、顔を赤らめて必死に目を反らす虎千代の視線を追った。

「当主に相応しきは一も二もなく景虎様。我らが思いもお忘れあるな」

「あ、ああっ、分かった。お前たちの気持ちは受け取った」

「分かれば、それでよろしいのです」

虎千代にたっぷりと釘を刺すと、景綱は裾を糺して平伏して見せた。

「長尾家の悲願、越後一統がため景虎様がご帰国、何とぞお待ち申しておりまする」


こうして越後の精兵三千人余りを率いて、二人は旅立った。驚くことにあれだけの大部隊がある日一気にいなくなったのだが、京都に残る僕たちの安全を配慮してか、夜間、別の場所に集結してから去ったらしかった。その辺りもさすが長尾為景の薫陶を受けた越後勢たちだった。

帰国に際して二人は僕にも挨拶してくれた。

「小僧っ、おのれとのいくさ楽しかったわ!越後に来たらまずは必ずわしの屋敷に寄るのじゃぞ!酒でも女でも、なんでも持って行け!家を上げて歓待してやるわ」

どん、と景家は僕の背中をどつく。雷鳴のような声量の加減もそうだが、この人のテンション、中間がないのだろうか。

「成瀬殿、姫さまがこと、よろしく頼みまする。なにしろ一途なお方ゆえ」

「はい」

「ああ、それはようお判りか。恐らく私や和泉などよりもっと」

「そ、それは…」

僕の顔にも血が上ってきた。

「越後で会えること、楽しみにしておりまする。酒よく米もよし、かの地も骨を埋めるには、よき場所にござりまするぞ。冬はちと寒うござりまするが」

景綱は虎千代に向けたのと同じ意味ありげな笑みを含んで僕をうかがうように見ると、

「成瀬殿さえ良ければ直江家はかの養子縁組の御約束、反古とは思いませぬゆえ」

「あのその件はっ」

「姫さまに寄り添われると、ご決心なされたのでしょう。金津殿とも、膝突き合わせてとっくりとご相談あれかし」

景綱は片目をつぶったが(この時代の人もウインクするのか)僕が思っている以上に、どうやらこの人、抜け目なさそうに見えて結構砕けた人らしい。

それにしても景綱はやっぱり、気づいていたんだろうか。あの日から僕たちの関係が、微妙に変わったことを。

あれから一ヶ月経ったが、表面的には僕と虎千代との関係はまったく変わりがない。僕たちは相変わらず同じ場所に寝泊まりして同じ食事をして行動をともにし、色んな人たちに混じって他愛のない話をする生活を続けていた。でも僕たちの関係は、あの日を境に目に見えない変化を遂げたはずなのだ。


うららかな初夏の西日射す土蔵の奥座敷で、僕は虎千代と、生まれて初めての口づけをした、わけだけど。

あの瞬間のことは無我夢中でほとんど憶えていない。

などとは口が裂けても、言えない。やっぱりあのときのごく断片的な風景ですら、それこそ刃物で傷をつけたように、しっかりと心と身体に刻みこまれているわけで。虎千代の身体にもっとも接近したあの瞬間こそ、今でも思い出すだけで、とくとくと心拍数が上がるのが自分でも分かる。

当たり前だけど、虎千代は女の子なのだ。

僕はふと逃げようとした身体にすがった手に、彼女の掌がそっと添えられたあの一瞬を何度も思い返す。いつもはひんやりと感じたはずのあの手指の感触が、僕の手の甲を握った瞬間、じんわりと力強い体温を鼓動とともに伝えてきた。

あの瞬間は何度思い返しても不思議だった。そのとき僕たちの間に言葉もなく、よく無意識に呼吸を合わせて動いたと思う。それも相手の様子をうかがうではなく、二人とも同じようにしたいことをしたいと望んでそれが、ぴったりと重なったのだ。

信じられないこと。でもちゃんと現実に起こったことだ。

もちろん、憶えていることはそれだけじゃない。

西日を弾く沢のように光沢を帯びて流れた髪の毛の質感や、かすかに伏せた瞳を囲う睫毛のつややかさ。胸が詰まるような甘い匂いを発して息づいている唇のあわいから感じる、虎千代の女の子の命そのものとしての実体。そして。

あああ口にするのも恥ずかしい。なので人には絶対に話せないし、こうして言葉にして自分で確認しているだけでどぎまぎしてしまうのだが、ついについに、僕たちはキスまでいったわけで。

もはや確認するまでもないけど僕がもともと生きていた世界で考えてみても、虎千代は普通に人目を引く美少女だ。中身が群を抜いて特殊なのは置いていくとしても、そんな子がまさか望んで僕と一緒にいたいと想ってくれているなんて、改めて考えてみても、我を疑ってしまう。

「かっ、景綱め。主筋をもてあそぶとは、怪しからぬ奴よ」

虎千代は景綱たちが去った後も、顔を赤らめて僕に愚痴ってくる。状況によってはポーカーフェイスも使える癖に、本当に分かりやすい奴だ。

「真人、お前も大和に妙なことを吹きこまれてはいまいな。あやつは、生真面目に見えて意外と人をからかうからな。くれぐれも、あやつの言うことを真に受けてはいかぬぞ」

「う、うん、まあ大丈夫だよ」

今考えれば直江家への養子縁組の件は新兵衛さんともよく話したし、景綱の冗談だったのだろうと思うけど、恐らく半ば以上は虎千代を越後に戻すために、あの二人は京都に軍勢を率いてまで駆けつけたのだと、僕は思った。

虎千代は近く、越後へ帰るだろう。それは結局、彼女が案じている兄、晴景を救うためになるはずだ。そのとき僕は当然、京都を離れることになるだろう。あれから結構経つのにまだ僕は絢奈に、深い事情を説明してはいなかった。いつかはきちんと、あいつと、話さなくてはならない。

「虎千代、あのさこの間の景綱さんの話だけど」

僕が慎重に訊こうとすると、虎千代はすぐその意を察した。

「うん?ああ、越後に帰ると言う話か。確かに近いうち帰らねばならんが、それほど騒がずともよかろう」

自分も京都に愛着があるのだ、と、虎千代は言った。

「お前たちと一年、ああして過ごした地ゆえな。年が巡るが、まだ少し、この日々を楽しんでもよいと思うのだ」

「そうだよね」

僕は少しほっとした。僕もまだ、こうやって何事もなく時間が経つのを楽しんでいたい。このときはそう言う気分だったのだ。


そうこうしているうちに梅雨が明け、京都は本格的に夏に入った。じりじりと鍋底で煎りつけられるような暑さは、さすがに盆地の京都だ。去年に負けず劣らず、この夏も厳しい暑さの日が続いた。

入道雲がどよどよとわだかまっている。その日僕は、黒姫が井戸で冷やした甘酒を引き上げる作業を手伝っていた。甘酸っぱい自家製の甘酒を井戸深くに沈めて冷やしておくと、暑気払いにもってこいの乳酸飲料になるのだ。これも去年伏見でかささぎにご馳走になったのが、どうしても忘れられなかったせいだった。

日よけの布を被った真菜瀬さんが、ふらふらと現れたのはその作業の真っ最中だった。

「海?」

に、してもまた真菜瀬さんの提案はいつもながら唐突だ。

「うん、虎ちゃんたち、暑いし海に行きたくないかなーって言うお誘いに来たんだ」

真菜瀬さんは袂を仰ぎながら、出来たばかりの冷やし甘酒を美味しそうに飲んだ。

「また唐突だな。海と言って、どこへ行こうと言うのだ」

(さかい)なんだけど」

真菜瀬さんが言うのは、なんと大坂湾だ。堺と言えば、上古を通じて日本の海の玄関口として機能した国際貿易港として有名だが、海水浴と言うイメージはもちろんない。

「あれ、知らない?住吉(すみよし)の浜ってあるんだよ。潮干狩りとかで有名なの」

「ふむ、住吉があったか」

山育ちのはずの虎千代は腕組みしながら、何だか知ってる風だ。

「虎千代、知ってるの?」

「話だけは。かの住吉大社(すみよしたいしゃ)は海神として名高いばかりでなく、和歌といくさの神であるそうな。住吉の浜の美しさは、万葉の昔より名高い歌枕の土地ぞ」

「ふーん、そうなんだ」

自分で振った割に、真菜瀬さんも何だか知識が心もとない。

「でね、今度、無尽講社で堺に姉妹店出すんだけど、現地に会わなくちゃいけない人が出来ちゃってさ」

「なんだ、仕事もあるのだな」

どうも、百パーセント行楽目的ではないみたいだ。

「まあ一応ね。その人の顔って言うか、共同出資でやらせてもらうから、まずは顔見せとか、現地視察とかしなくちゃいけないわけよ。それで相談役に話したらぜひ、虎ちゃんたちにも同行してもらえ、って言うからさ。護衛がてら」

「ぼ、僕たちも会うんですか?」

無尽講社のビジネスが懸った相手だ。ほとんど遊び目的みたいな僕たちが会って、失礼があったりしたら責任取れない。

「ああ、大丈夫。実はその人、住吉の海の近くに別荘作ったらしくて、とにかく一回遊びに来いってうるさいんだ」

「我らが会うのはよいが一体、どんな御仁なのだ?やはりソラゴトビトか」

「ううん、全然この時代の人。名前はね…えっと、田中さん」

田中さんて。僕たちは拍子抜けした。こう言っては失礼だけど全然、戦国時代っぽくない名前の人だ。

「仕事は魚屋さんだったかな。その関係で倉庫業もやってたり。(当時の倉庫業は大抵金融業も兼ねていた)お祖父さんの代で堺に越してきてお父さんの代でお店大きくしたって聞いたな。まだ若いんだよ」

真菜瀬さんの話だと、田中さんは七年ほど前に若干十九歳で家業を引き継いだのだと言う。二十六歳でばりばりの若手経営者だ。そんなすごい人に会うなんて、余計緊張する。

「そんな緊張しなくてもいいって。いつ仕事してるのかなー、って感じの人だから。それにほら。ただ、会うだけだし」

「我らが役に立つとは思えぬが、海は心惹かれるな」

虎千代と僕は頷き合った。水辺と言えば、川しかない京都街区は毎日暑い。ちょうど、気分転換をしたいところでもあった。

「いつ行くのだ」

「早いうちがいいな。て言うか準備が出来次第、すぐ連絡欲しいんだけど」

どうやら田中さんは今頃ならいつでも都合が空いている、と言ったらしい。よっぽど真菜瀬さんを堺に案内したいようだ。本当に、いつ仕事してる人なんだろ。

「我らは別にいつでもよいぞ。すぐにやらねばならぬことがあるわけでもなし」

「ほんと?じゃあ、決まりだね」

虎千代の即答に、真菜瀬さんは嬉しそうに笑った。

「虎ちゃん、真人くんと絢奈ちゃん、黒姫ちゃんにこのえちゃん、鬼小島さん、わたしでしょ。七人だね。まあ、何人でも連れて来いって言ってたから、何の問題もないんだけど。すぐに連絡取るね」

虎千代と海水浴か。

ここへ来て、まさかの海辺にお泊りだ。人知れず自然とテンションが上がってくる。

「海辺用に、浴衣を新調せねばならぬな。黒姫に頼もう」

虎千代も心なしか顔がうきうきしている。

「そんなことより、水着だよ虎ちゃん。ふっふっふー、実はね、今日は虎ちゃんに水着を選んでもらおうと思ってたんだよ」

「みっ、水着だとっ!?」

ごそごそと何か大きな包みを持ってくる真菜瀬さん。そうだった。そう言えばこの人は、虎千代に色々と着替えさせて楽しむ人だったのだ。

「さあー、ひと足早くこれに着替えよう!真人くんにも選んでもらいなよ!」

「ううっ、ここで着替えろと言うのか?」

「今選ばないでどうするの!ほら、まずこれ!」

「ううっ、恥ずかしい…」

それから先は大変だった。真菜瀬さんによって、虎千代は何着も水着を着せられたからだ。いや、僕は役得だった。生きててよかった。この時代に来て、水着姿の女の子が見れるとは思わなかった。しかも、モデルは虎千代だ。海に行く前に、こんなにテンション上げていいのだろうか。

わいわい騒いでいるのを聞きつけてか、絢奈もやってくる。

「わーっ、頼んでた水着出来たんだ!絢奈にも、後で選ばせてよ。虎っち、すごいでしょ。これねー、絢奈と真菜瀬さんで作ったんだよ」

おおっ。そのせいか、真菜瀬さん作製の水着はほとんどがセパレートだ。近代まで水着は、水兵服みたいに露出が少ないものが当たり前だったので、虎千代にとってはほとんど裸みたいに見えるに違いない。ああ、すでにここは楽園なのだろうか。

「ううっ、布が少ない。こんな恥知らずな格好で出歩けるわけがなかろうっ、真人もいるのにっ…皆でじろじろ見るなっ」

「さっきの水着のが良かったかなあ。ねえ虎っち、今度はこれ着てみてよ」

「そうかなー、わたしは虎ちゃんにはこっちのがいいと思うけど」

さらに薄い布の水着を持って、二人がじりじり迫ってくる。久々ながら本当に二人は楽しそうだ。ようやく身の危険を察したのか、虎千代は水着の胸をかばってじりじり後ずさりしてくる。

「たっ、たまによい話を持ってきたと思ったらこれが目的だったのかっ…まっ、真人見てないで助けてくれっ、ひいっ、引っ張るなっ!わたしは泳がないから、水着は要らないってばっ!普通に浴衣が着たいのだっ」

気の毒だなーと思ったが、僕的にも水着は譲れないのできっぱりと言った。

「でもさ虎千代、海行ったら泳がなくても水着必要じゃないか。みんなも着るんだし、ちゃんと水着、選びなよ」

「裏切ったな!信じてたのに…」

全然、裏切ってない。僕は自分の欲望に忠実に生きる決意をしただけだ。

何があろうと海イベントには水着。現代人として、ここは絶対に譲れないところだ。

それにしても、女の子ばっかりだと喧しい。これに黒姫が加わったら、余計にうるさくなりそうだが、

「虎さまっ、冷やし甘酒のお加減はいかがですかあ?!て言うか、真菜瀬さんとなんのご相談なのですかっ…って、ええええええええええええええええええっ!?と、虎さまっ、なんと恥知らずにして大胆なお姿をっ。こっ、ここは現世(うつしよ)ですかっ!?…気がっ、気が遠くなりそうっ。だけど気絶したらもったいない。はあうっ、また鼻血出そうですよっ」

「はっ、入るなっ!黒姫っお前は来るなっ」

虎千代の悲鳴が上がる中、身悶えする黒姫を、絢奈は無理くり連れてくる。

「黒姫さんも後で絢奈と水着選ぼうよ。あ、虎っちにはどれがいいかな?」

「なんとぉ!わっ、わたくしが選んでもよいのですかっ!?でっ、ででではっ、ぜひぜひっこれをっ!」

黒姫が、虎柄の派手で露出度抜群の水着を手に取った瞬間だ。ぷしっ、とくじらのように鼻血を吹いて黒姫はあえなく昇天した。

とまあ、お約束の流血沙汰はあったが、楽しい海イベントは始まったばかりだった。


真面目な歴史の話もしよう。僕たちが行く堺のことだ。

その名の示すとおり、この都市は古代から海外とこの国とを隔てる境界線的意味合いを持っていた。古記録にはそもそも堺ではなく『(さかい)』と記したのも、それが所以のようだ。

中世、この街が栄えたのはまずは室町幕府による日明貿易の莫大な利権によるもので、それが畿内の有力大名たちの争いの大きな火種になったことは以前ちょっとだけ書いたと思う。しかしこの国際都市がもっとも華やかだったのは、織田信長が占領する以前の商人による自治都市としての堺だろう。

その流通ルートは瀬戸内海を通って当時の琉球王国(沖縄)、そこから中国ばかりでなく、フィリピンやベトナムなど東南アジア諸国にまで広く及んだと言う。文化も人材も、流出入が甚だしく、まさに文化のるつぼだ。

その堺を運営するのは、こうした海運貿易業で財を成した人たちだ。彼らは会合衆(えごうしゅう)と言われる組合組織を作り上げ、戦国大名たちの干渉を受けることなく、国境を越えて自由に広大な商業圏を維持する商業都市を運営した。僕たちが行ったのは、ちょうどその最盛期の頃だったに違いない。


京都から離れてほどなく、町木戸をくぐるとそこは、あらゆる人種の人たちが往来する別世界だ。

往来を占領する見世棚には、ペルシャ絨毯(じゅうたん)に、精緻なガラスの瓶、銀製品などから中国製の白磁器、金属器などの見慣れない品々。

日本語に混じって喧しく飛び交う言葉にも、中国語はじめスペイン語らしきものも、実に喧しい。

中国人とみえる通詞(つうじ)(通訳のこと)を連れて道を横切るのは、インド人の召使に日避けのパラソルを開かせた、カピタンと言われる南蛮商人だ。絢奈はアメリカ人だ、と見当外れなことを言ったがあれは恐らくイスパニア人だろう。

ここへ来て久しぶりにカルチャーショックだ。

いきなり異文化に正面衝突してしまった気分だ。

「これが噂に聞く、堺か」

さすがの虎千代も目を丸くする。

その混沌とした賑わいを見ると、京都の市もどこかひなびてすら見える。京都が東アジアの市の賑わいならば、ここは中東のバザールのようだ。そこはかとなくたたずむ路地ですら、今まで僕が体験してきた戦国時代の日本とも、まるで別世界にすら感じる。

「いやーっ、すっごい人だねえ!」

としか感想を持たない真菜瀬さんの適応力は、やっぱり半端ない。人混みに揉まれながら歩いたのだが、人種のるつぼだけに歩いていても、人いきれに異国のさまざまな香りが混じっている。むっとするほど色濃く漂う香水や香辛料の匂いに、虎千代もうんざりしていた。

「ううっ、肌が白くて目の青い南蛮人と肌の黒い南蛮人がいるのはなぜなのだっ、同じところから来たはずではないのかっ」

この当時、アジアの商業圏に入り込んでいたのは無敵艦隊(アマルダ)を率いて抜群の海軍力を持っていたイスパニアだ。コンキスタドール(探検家)を称した彼らは、旺盛な探究心で遠洋航海に乗り出し、インドを経由して東南アジア、中国、遠く日本に現れるばかりでなく、十六世紀の中盤には南アメリカのインカ帝国なども侵していたのだから、実に驚かされる。

真菜瀬さんはまごつく僕たちを尻目にさっさと人種のるつぼを掻き分けて入り、案内図を確かめながらやがて繁華街の一角で足を停めた。そこにはすでに木造の大きな建物が建てられていて、改装準備らしき作業が進められているところだった。僕たちがなんとか追いつくと真菜瀬さんは、お店の人らしき二人の若い男女と立ち話していた。

「真人くんたち、紹介するね。こっち、島蛇(しまくちなわ)のいるるさん、今度ここに出す『しまへび屋』の差配をしてくれます」

「こんにちはー、へーえ、あなたたちが真菜瀬が話してた子たちかー」

へび(つな)がりでやっぱり出た、真菜瀬さんの同僚だ。奄美大島とかその辺りの人のような、彫り深い顔つきだ。まっ黒に日焼けしてショートカットのいるるさんは、さしずめ堺担当のエリアマネージャーと言うところか。心なしか、かすかに沖縄弁だ。

「この『しまへび屋』は、琉球から出稼ぎに来た子たちのお店なんよ。島のお酒や料理も出す予定なんさ」

「なんか楽しみだねえ。絢奈、好きだよ沖縄の料理!」

いや、お前はどう見てもお客になれないだろ。

「田中さんも本当に良くしてくれるし、この分だと順調に行きそうだよ」

「なんだ、じゃあ、わたしたち来るまでもなかったかなー」

「いえいえ、ご用事あってわざわざ呼び出しさせて頂いたは、私ですから」

男の人の方が口を挟む。こちらもまっ黒に日焼けしたが、がっちりとした胸板の大柄な人だった。商家の旦那風の縞模様の着物をさらりと着こなし、潮風を浴びて頭巾を被っているが、海運業の人だと言うのは一目で分かる。年齢は三十前後、現代にいればヨットとかパラセールとかやってそうな感じの爽やかな若い男の人だった。

「あっ、ごめんなさい!本当は先にご紹介するべきだったんだった。この方が、田中さんね。今回『しまへび屋』を始めるのに、色々手助けしてもらったの」

「田中です。よろしく」

当然のことながら関西弁だ。しかも年齢の割にゆっくりとしゃべる。話の流れからこの人が田中さんだと言うのは薄々気づいてはいたのだが、真菜瀬さんは小さく舌を出して謝ると、僕たちを紹介した。

「あなたが噂に聞く、長尾景虎様ご一行ですな。かのいくさの噂は聞き及んでおりまする。これぞまさにと、神がかった御采配であったとか」

「いや、その…御存じでありましたか」

いつもそうだが虎千代は褒められるのが、苦手なのだ。

「三好方には、私の兄弟子がおりますのや。それでまあ、いち早く。信じられない話ですが、まさかこんなにかわいいお嬢さんとは。ああ、いやいや浮ついたことを言うて、こちらが逆にお恥ずかしい」

田中さんは照れ笑いした。気鋭の実業家と聞いていたからぴりぴり鋭い人なのかと思ったが、何とも言えない人間味のある人らしい。

「立ち話もなんです、粗茶を差し上げましょう。これでも、武野紹鴎(たけのじょうおう)と言う先生について、茶の湯を習うとりますのや」

「三好に兄弟子がいると聞きましたが、茶の湯をされておられるのですか」

そこまで聞いて僕はぴんと来た。堺商人で魚屋、苗字は田中、そして茶の湯を習っている。ああっ、この人はまさか。

「もっ、もしかして千宗易(せんのそうえき)さんっ?」

田中さんはびっくりした顔をして僕を見たが、気分を害した風もみせずにすぐににこりと笑って返してくれた。

「あれ、ご存じでしたか。千は父方の姓ですわ。いかにも名は千宗易」


初対面の人にとんでもない粗相をしてしまった。

でもびっくりした。戦国時代の人と聞いていたがまさか、こんなところに僕も知っている方がいらっしゃったとは。

千宗易。転じて、現代茶道の原型を作った大茶人、千利休(せんのりきゅう)だ。

織田信長に茶頭として仕え、豊臣秀吉を天下統一に導いたとされる海運商人の顔でも、歴史に名を残している。

僕たちにはおじいさんのイメージしかないが、それは信長秀吉の時代に活躍したと考えられているからであって、この天文十六年にはもちろん、駆け出しの茶人にして、すでに堺の有力商人の一人だ。

しかしまさかだ。堺に来て千利休にお茶をご馳走になるとは、夢にも思わない。

「いやあ、京都よりはるばるよう来てくださった」

宗易さんは僕たちを、話に名高い住吉の浜に設けた別邸に案内してくれた。

「どうです。ここはよう海が見えるでしょう。住吉の浜は遠浅で時期によっては潮が引いたら、対岸の尼崎まで歩いていけるほどになりますのや」

障子を開け放つと、五百年前の大坂湾だ。潮干狩りが出来るのは、旧暦三月だと言う。はるかな水平線が松林の白浜の向こうに、どこまでも続いていた。潮騒の響きと言い、爽やかな海風と言い、ここは本当に海が近いのだ。

「うわーっ、広いねえ!こんなところに泊まっていいのっ?」

「はははっ、皆さんさえよければ好きなだけお泊りになればよろしい」

僕に引き続いて絢奈の不躾が止まらない。

「佳き茶の香りに、潮風。着いて早々、何よりの馳走、痛み入ります」

さすがに作法を心得ている虎千代は礼儀正しい。

「して、先ほどちらりと聞いたが、頼みとは?相談役の話では、あなたが用事があって我らを呼び出したとは、聞いておりませなんだゆえ」

「ええ多少、事情が込み入っておりまするゆえ、来てお話しされた方がよいかと思いまして」

宗易は改まると、話を切り出した。

「実は虎千代さんに、北国で探し人を頼みたいのです」


虎千代の国元で、人探しを頼みたい。宗易の頼みは、唐突なものだった。

「人探し、と」

「ええ、実はある切支丹(きりしたん)兄妹(きょうだい)がこの堺で生き別れましてな、私はその妹君の方をお預かりしているのです」

その二人は布教のため、宣教師について博多から堺に渡ったのだが、瀬戸内海のある港で海賊に襲われ、兄の方の身柄はその際に攫われたのだと言う。

「幼い妹の身代りになったと、聞いています。船板の底に隠して、なんとか脱出させたのだとか」

宗易の調べでは兄は堺で人買い商人に買われ、琵琶湖を北上して一路東北を目指して転売されていったそうなのだが、最近になって逃亡し、越後に渡ったらしい。

「その商人がはるばる身曳き証文持って越後中の人買い商人をあたっている、と聞きましたのや。恐らくは誰か彼を見たものか、その後の売買に関わったものがいるとみるのが妥当ですやろ」

「妹を助け、兄が身代りにか…それを聞いては聞き捨てには出来ませぬな」

似たような過去がある虎千代は、腕組みをし、大きく息をつく。

「だが北国と言っても広い。人違いもありえようし、目につく特徴がない限り、中々捜しようがありますまい」

「目につく特徴言うたらこれが、ひと目で分かりますのや」

宗易は手を打って、木戸の向こうに合図をした。

控えて話を聞いていたのだろう、生き別れた妹だと言う少女が姿を現す。確かに僕たちはその風貌を見てすぐに納得した。赤い小袖を着ていたが、この子はヨーロッパ人だ。黒い髪に、大きな目、中東の血が混じっているのかやや浅黒いが、それでもひと目で外国人だと言うことは分かる。

少女は緊張した面持ちで僕たちを見つめると、片言の言葉で挨拶をした。

「わたし…は、ラウラ・アリスタいいます。バスク、から来ました」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ