初夏の終戦、かささぎから受け継ぐ意思、虎千代が菊童丸へ伝えたものは…?
やがて桜の季節が終わった。
寒い日はほとんどなくなり京都の山々を覆うのは、青々とした葉桜の群れになった。戸障子を開けておくと梢を渡る風が、肌にひんやりと心地良くなってきた。
その頃、僕は床を離れることが出来た。長いようで短い療養期間だった。虎千代の応急処置のお陰か、あれから感染症の危険もなく、僕は無事に生き残ることが出来た。僕はあれからずっと、弾正屋敷近くの長尾家の根城で床に伏せていたのだが、その間には身辺も静かになって、動乱に揺れた京都も、再び平穏な気配が兆していた。
そんなある日、伏見の寓居へ戻ったかささぎから手紙がやってきた。身辺も落ち着き、色々と話をしたいことがあるので、僕たちにぜひ顔を見せて欲しいとのことだった。虎千代はすぐに返事を出し、明くる日の昼にめがけて僕と黒姫を伴って伏見へ遠出した。これも風の爽やかな、五月晴れの一日だった。
「まっ、真人、お前、馬などに乗って!傷はもう大丈夫なのか?」
虎千代はいつまでも、僕には心配顔だ。
「うん、もうちゃんと動けるし」
「し、しかしっ、刀傷と言うのは、あまり激しく動くと開くのだぞ。もしまたそこから、病を得たら…」
「大丈夫だって。それに虎千代だってしょっちゅう怪我してるじゃないか」
あっさりと僕は馬にまたがった。
「それはそうだが…ううっ、詰まらん、あ、いや、良かった。うう、良かったな」
そんなに僕の看病が楽しかったのか。どこか、虎千代が残念そうだ。
かささぎの寓居があるのは、巨椋池の島洲の中だ。一面竹林に囲まれた小さな島で、やっぱり何度行っても落ち着く場所だ。かささぎは今はここに、煉介さんのお姉さんの暮葉さんと二人で棲んでいる。
到着した僕たちを、歩いて出迎えてくれたのはなんと、かささぎ本人だった。
「よく、来てくれた」
これには虎千代もびっくりしていた。
「かささぎ、もう平気なのか」
「ああ」
「て言うか、もう独りで歩いているですかっ?」
と、同じく驚く黒姫によれば、山を降りたときはまだかささぎには、介添えが必要だったと言う。
「歩くのは一日に少しだけさ」
竹林が作る木漏れ陽の中で、かささぎは微笑した。
「暮葉殿に、無用の迷惑をかけたくないからな」
「どうやら相変わらず、のようだな」
自分のことは自分でする。久しぶりに接したいかにもかささぎらしい物言いに、虎千代も苦笑していた。
かささぎはあの藍の着流しに、草履ばき、赤樫の道中杖をついていた。歩き方はそれほど速くなくごくゆっくりだ。でもその動きにぎこちなさを感じることは、少なくなった。何度か危険な状態があったものの、見たところ今のかささぎにやつれた陰はない。
細長いが引き締まった身体は確かにひと周りは小さくなったが、杖さえあれば出歩くのに支障はなさそうなので順調に体力は戻っているのだろう。
「今の日課は日の出とともに起きてこの島洲をひと回り、出歩くことかな。それから寝室で縄をなったり、干しものや漬物を仕込んだり、部屋で出来る手仕事までする。調子のいい日には立ち仕事も出来るようになった。今でもたまに台所に立てるのだ」
と、かささぎは嬉しそうだ。
「まだ畑仕事は止められているのだが、いずれはまた、鍬を持てることがあるかも知れないな。何もかも、長尾殿のお陰よ」
僕から見る、かささぎの顔つきは本当に穏やかだ。剣を棄てなければならない。かささぎのその覚悟はかなり重大なものだったはずだが、虎千代の言うとおり、刀を持たない今の暮らしこそ、本来の彼女には相応しいのかも知れなかった。
「あ、燕」
僕たちが藁ぶき屋根のかささぎの一軒家に至ると、ぴいいいっ、と言う甲高い鳴き声を上げながら、黒い影が真っ直ぐに僕たちの頭上を通過していく。
「屋根に巣を作っているんだ。しばらく家を開けたが、今年も同じ場所に来てくれた」
かささぎはふんわりと笑みを浮かべて言う。平和がやってきて季節が巡った。どこもかしこも、戦乱の面影は微塵も見られなくなった。
「いらっしゃい。皆さん、お揃いで」
かつてのかささぎのように白い布巾を被り、梅色の小袖を着て暮葉さんが現れた。
相変わらず煉介さんを思わせる澄んだ眼差しを見せる人だ。僕は暮葉さんの姿に、あの煉介さんをついつい重ね合わせてほっとしてしまう。
「暮葉殿、首尾は上々か」
「ええ、あともう少しで支度が整いますよ」
料理の最中に飛び出してきてくれたようで、土間の奥からは香ばしい湯気と甘い味噌の香りが漂ってくる。
「かささぎと女二人、不便はないか」
「全然そんなこと」
虎千代が心配そうに訊くと暮葉さんは屈託なくかぶりを振る。
「むしろ、毎朝、起きるたびに良かったと思ってる。あんなことがあったのに、かささぎさんと二人、とてもいいところに住まわせてもらって。今、虎千代さんたちには本当に感謝してる」
暮葉さんの言葉こそ、虎千代は嬉しかっただろう。煉介さんの償いにと、虎千代は暮葉さんに負傷したかささぎの世話を頼んだのだが、何より二人が上手くやっていることこそ、本当に望ましいことだからだ。
「長尾殿、楽しみにしていてくれ。暮葉殿の腕は確かだ。茶屋をやられていたので、やはりわたしのような素人料理とはひと味違うぞ」
「またそうやって、すぐ持ちあげる」
暮葉さんは照れ臭そうに言うと、目礼して厨の方へ戻る。まだ少し、料理には時間が掛かるようだ。かささぎは厨房の様子を目で追うと、虎千代に向かって言った。
「色々と積もる話もある。昼餉までしばし、話でもしていよう」
鶏を放し飼いにしているのか、開け放しにされた縁側からは、かすかな鳴き声が聞こえてくる。さーっ、と竹林を通して入ってくる風が本当に心地よかった。かささぎは麦焦がしを三つ、運んでくると僕たちにすすめてくれた。
「ここへ来たのは、まだ寒い頃だったな」
遠くで鳴いているのはうぐいすだろう。かささぎはその声に目を細め、空を見た。
「みづち屋、いや、くちなは屋の皆さんはお元気か?」
「ああ、新しい建物も無事落成したし、真菜瀬たちもようやく元の場所での商いに戻れたようだ。我らは今は上京近くの根城に居を構えている」
新しいくちなは屋の建物が完成したのは、確か、僕がまだ臥せっているときのことだった。真菜瀬さんも早くから資金繰りに動いていたし、無尽講社と虎千代の協力で工事は急ピッチで進められていたみたいだ。
「真菜瀬殿にもそうだが、絢奈殿にも大分世話になったな」
「そんな、あいつはただ遊んでただけですから」
こう言うと失礼に当たると思うけどやっぱり弟感覚と言うか、そう言えば絢奈はよく菊童丸を連れて狼の頼光と山に遊びに出たりしていた。なんと一緒にお風呂に入ったりもしていたようだ。将軍の息子で菊童丸がどんな人物なのか、ほとんど知らないとは言え、つくづく恐れを知らない我が妹だ。
「御曹司がよく、絢奈殿を懐かしがっている」
僕を見ると、かささぎはにこりと微笑んだ。
「わたしより年が近いせいか、よい姉上殿と思っておられるようだ」
「いや、そんな大袈裟な」
かささぎだって僕より年上とは言え、二十歳前後だ。菊童丸にとっては、母親代わりと言うよりは、年の離れたお姉さんと言った感じだ。
「朽木谷のご様子はその後、いかがですか?」
虎千代の横で黒姫が聞く。
「今のところ憂えるところもなく、御所様(義晴)も安泰になされている。だがもちろん、相変わらず中央政界の乱脈には心を痛めておいでだが」
十二代将軍義晴は、朽木谷に戻ってきた菊童丸に将軍の位を譲ったのだ。今、実質的に菊童丸は室町幕府十三代征夷大将軍である。でも、もちろんこれは義晴公が十一歳の菊童丸に自分の仕事を丸投げしたと言うわけではない。あくまで朽木谷の幕府が正統であると言う地位固めのための言わば形だけの譲位であり、引き続き政局は父親の義晴に委ねられている。
「鞍馬山いくさのことは、お耳に入れておいた。長尾殿の馳走、御所様からも心強く思うと特に伝えてくれと申されていた」
「礼は書状でも頂いた。されど、今の畿内情勢では焼け石に水と言わめ」
と、虎千代の顔色はそれほど明るいものではない。
「局地戦闘で弾正を打ち負かしたとて、戦局ではやはり、阿波から大軍を迎えた三好家の優勢は揺るがし難かろう。早晩、京都は長慶公のものになろう」
「そうなるとは、思う」
かささぎも表情を暗くした。
二人に話すわけにはいかないが、この後、三好家と将軍家の争いは果てしなく続く。菊童丸にとって終わりのない苦難の道は、むしろ始まったばかりなのだ。
「此度の和平の条約は、あくまで我と弾正の間で結ばれた暫定的なもの。それも、無事、朽木谷に御曹司が戻ることが出来れば実質上、失効する仕組みになっているのだ。一時の危機を脱したとは言え、このいくさで政局は振り出しに戻ったと言うところと考えてもらわねばなるまい」
今回の戦い、虎千代は確かに弾正との戦闘に勝った。弾正側もそれを認めての講和だ。しかし、それは三好長慶の周旋を期待しての、いわば六分ほどの勝利であり、その結果もごく限定的なものに過ぎないのだ。
長慶としては、これ以上、京都で虎千代と弾正との混乱が続くことを望んでいないと言うだけで、虎千代が幕府の威を駆って強く出れば、阿波の大軍を動かして報復せざるを得ない。虎千代もそこを見極めたからこそ、講和の条件を先に述べたように非常に限定的なものにしたのだ。
政治的には、虎千代がしたことは、幕府の主権争いを振り出しに戻したと言う成果に過ぎない。
「それは、御曹司にも肝に銘じて頂こうと思う。御所様が後見につかれているとは言え、今の幕府の指導者は紛れもなく御曹司のもとに移ったのだから」
「険しい道のりになるな」
菊童丸の前途を思ってか、二人の表情はいつしか厳しいものになっていた。僕が歴史を紐解かずとも、二人の方が痛いほど分かっているだろう。
室町幕府末期のこの辺りは、恐ろしく難しい政局だ。この頃の将軍の生きる道と言えば、京都に雑居する両細川家や三好家はじめ、有力な諸勢力の間でバランスを取りつつ、あらゆる手立てを尽くして彼らの力を殺いでいくことしかないのだ。面従腹背の彼らとの綱渡り外交に失敗したなら、将軍自身の命も危うくなる薄氷を踏む生業だ。
今回小さな菊童丸は、辛くも虎千代に命を救われた。けど、これから待っているのは、まるで目隠しをして爆弾を解体させられるような至難の人生なのだ。何度も言うが、まだ菊童丸は僕たちで言えば、小学校を卒業するくらいの年だ。運命の残酷さを思わざるを得ない。
「ところで御曹司は朽木谷へ戻ったのだろう。その後、息災にされているのか?」
「ああ、もちろんだ」
かささぎはちらりとまた庭に目を向けると、
「その後のことは、ご本人から直接うかがった方がよかろう」
「ご本人?」
と、言ったときだ。
「おおっ、もう来たか。これは足労大儀」
と、相変わらず偉そうな菊童丸が口調で歩いてくる。藍色の刺子縫いの稽古着に汗を掻いて、肩に背負っているのは木刀だ。そしてなんと砧さんも一緒だった。
「御曹司、なぜここに」
虎千代もさすがに目を丸くしていた。
「驚いたであろう。長尾殿が来ると聞いてな、この砧が朽木谷から連れ出してくれたのだ。あそこは山ばかりで退屈でかなわぬ」
菊童丸は木刀を肩にかけ、せわしなく動きながら言った。
まさか、将軍になった癖に脱走して来たのか。さすがにまずいと思ったのか、かささぎがとりなすように言う。
「あ、いや、御所様にはきちんと断りを入れてある。砧殿と一緒なれば、問題はないだろうとの仰せだったゆえ」
「そうか、それなら安心したが」
「しかし、長尾殿、剣は歩卒の技などと蔑むべきではないな!まさか、これほど楽しいとは思わなかったぞ!」
菊童丸は子供らしい大声を出し、ぶんぶん、と、木刀を振ってみせる。
「わしも貴殿のように、長じては、戦場では剣を持って陣頭に立つ御大将に必ずなるからな。そのために一手、後で教えてくれ!」
「う、そのなんと言ったらいいか」
面と向かってそのことを言われて、さすがに恥ずかしかったのだろう、虎千代は真っ赤になった。
「御曹司、あまりはしゃぎすぎると怪我をなさいますぞ。長尾殿も、迷惑しておられる」
「迷惑はしておらぬ。だが御曹司、その…むやみとわたしの真似をされては困る、と言うか…」
戦場で剣を持って陣頭に立つ。その危険性を、虎千代は承知の上でやっているのだが、これは本来の兵法ではありえないことなのだ。
「かささぎ、あまりその…わたしの悪影響を与えぬ方がよいと思うのだが」
かささぎはにこやかに笑った。
「もう遅いかも知れぬ。此度の大いくさ、長尾殿の活躍を余さず話したので、御曹司はすっかり感化されてしまっていてな」
「ほっ、本当か」
愕然とする虎千代。いや、冗談だって。
「でもさ虎千代、自分で身を守れるように、剣を習うのは悪くないことだと思うよ。それにさ、砧さんがお師匠さんで、きちんと教えてくれれば危ないことはしないと思うし」
僕は、砧さんを見た。菊童丸は体格も良くなりそうだし、大きくなったら煉介さんみたいに大太刀を難なく振るえる腕になるに違いない。
「砧殿、御曹司の筋はいかがだろうか?ものになりましょうや」
と、かささぎは心配そうに訊く。
「うん、この分では相当な腕になりそうだね。さすが、末は剣豪将軍と言うところかな」
砧さんは冗談めかして片目をつぶって見せたが、それは別段お世辞でも何でもなくきちんとした事実だと言うことを僕は、後で知ることになる。
「皆さん、お昼の用意が出来ましたよ」
話が続きそうなところへ、暮葉さんが御櫃を持って昼餉の支度が終わったことを告げに居間へ現れた。
「おおっ、暮葉の飯じゃ。これこそ、楽しみにしておったところよ」
と、菊童丸が無邪気にはしゃぐ。
「御曹司、そこの水桶できちんとおみ足と御手を洗って頂かねば、食膳についてはなりませぬぞ。ほら、わたしが介添え致しますゆえ綺麗になさいませ」
「分かっておるっ。ああっ、かささぎ、お前は立つな。それくらい自分で出来るっ」
かささぎはまるでお母さんみたいに、菊童丸をたしなめていた。
「はいはいっ、それでは、虎さまのお世話や配膳などはこの黒姫がお手伝い仕りますですよ!」
いそいそと黒姫が手伝いに立ち上がる。
「さて、ではお昼にいたしましょうか」
と、かささぎは僕たちに向かって微笑んだ。
さすがに暮葉さんはプロだ。かささぎの料理もさすがだったが、本当に手際よく美味しい料理を作る。どれもこの山家と広大な湖で獲れた食材の豊富さを活かし切ったものだ。
まず大皿に盛られた朝掘りの筍が出たのだが、それがさっと煮つけられて、山椒の葉でさりげなく彩りが添えられている。これが噛むとほろりと自然な甘さがにじみ出てくるのだが、砂糖を使わない紛れもなく筍本来の甘さなのだ。
涼感たっぷりな若瓜の漬物も獲れたての鯉の洗いも仕事をしながら、決して手を加え過ぎた料理ではない。
しかも僕にとって嬉しかったのは、暮葉さんが僕たちの生きた時代の食事をよく知っていることだった。大皿に盛った料理を、手製の卓袱台で皆で囲んで食べる。そんな愉しみもこの時代に来てすっかり忘れていたことなのだ。
「なんと、お前たちはこのようにして皆で食べるのか」
虎千代は目を丸くして卓袱台についての生まれて初めての食事に臨んだが、戦国時代の、しかもお姫さまにとってはこれは驚きの体験だっただろう。武家には身分の別があるから、一人一人御膳を持って食事をするのが当然で、皆でわいわい食卓を囲むことなど初めての経験だったはずだ。
「うむ、これは賑やかでいい。わたしは好きだ」
早速箸を取った虎千代は、わくわくした声で言った。
「いくさなかりし世なれば、食事もかように楽しげになるとはな」
旬の空豆で炊いた特製の豆茶飯を虎千代は、即座にお代わりしていた。虎千代はその後に出た野趣たっぷりの泥鰌のから揚げで豆茶飯を食べるのが何より気に入ったみたいだった。
「これは美味い。泥鰌をこのようにして食べたことはない。一度と言わず、何度でも口にしたきものよ」
「あっ、あのっ、暮葉さん、このお料理、後でぜひぜひ黒姫にご伝授下さいですよ!この黒姫にお任せ下さいですっ、すぐに虎さまの食膳にこれを上げますですよ!」
黒姫は食事中も喧しい。
油で揚げる料理が登場するのは、安土桃山以降だ。徳川家康の晩年、京都で魚の天ぷらが流行ったとされているが、これは実際にはごま油で揚げたフライのようなものだったと考えられている。
「もっ、もう朽木谷には帰らんぞ!ずっとここにおるっ」
菊童丸も夢中だ。身分で言えばこの中で一番偉い征夷大将軍の癖に、まるで部活帰りの運動部みたいに豆茶飯を掻きこんでいる。
「御曹司、御大将たるもの、過ぎた我がままを言うてはなりませぬ。公方様となられた暁には、なすべきことがありましょう。このかささぎをあまり困らせ遊ばすな」
「しかし、かささぎ、お前ばかりずるいぞ。だめならすぐに暮葉を、朽木谷に寄越してくりゃれ。わしは毎日、かような馳走が食べたいぞ!」
そこに血なまぐさい戦乱の時代の影は、一点も見えない。皆が、笑顔だった。それにしても、なんて平穏な団欒の昼下がりなんだろう。こんなに楽しい食事をしたのは初めてだったと、虎千代は後で何度も僕に言った。
「お前たちの時代は、本当に羨ましいな。毎日このように皆で楽しい食事をすれば、生きているのもさぞ楽しくなろう」
虎千代は言ったが、僕だってこんなに皆で楽しくご飯を食べたのは、物凄く久し振りのことだ。まだ父親が家にいた頃。絢奈だってまだちっちゃかった。最後に家族みんなで食卓を囲んだのは、僕が何歳の頃だっただろうと思ってしまう。遠く、薄い、ただの記憶の断片だ。
お蔭で僕も食べすぎてしまった。豆茶飯も皆が争うようにお代わりしたので、大きな御櫃があっという間に空にしてしまったほどだ。
「不覚をとった。ううっ…大皿に盛られた料理が美味すぎて、ついつい食べ過ぎてしまった。真人の前で女子としてなんと、はしたない…」
いや、もう遅いだろ。それだけ動くせいもあるが、虎千代は小柄な癖にかなりの健啖家なのだ。
後片づけが済んだのを見計らい、かささぎが虎千代に声をかけたのはそのときだ。
「長尾殿、腹がこなれたら、折り入って頼みたいことがあるのだがよろしいか」
「なんだ、改まって。安請け合いをする気はないが、お前の頼みなら否やは言わぬ」
虎千代は快く言った。
「ありがとう」
かささぎは微笑むと、
「ではまずは一つ、見てもらいたいものがあるのだ」
と、立ち上がってどこかへ行ってしまった。なんだろう、何か意味ありげだった。
しばらくして、かささぎは僕たちの前に、袱紗の包みに包まれた何か細長いものを持ち出してきた。少し反ったその形で刀かと、僕はぴんと来たのだが、やや寸が中途半端だ。
僕が今まで目にしてきた刀のうちでは脇差にしては少し長く、太刀にしてはかなり短いのだ。かささぎが紐を解くと、やはりそれは刀だった。緑茶色の柄巻糸に、金梨地で仕上げた豪華な拵え。鍔がないのと、その微妙な長さにかすかに違和感がしたが、かささぎにとって何か特別なものなのだと言うことは、その手つきで分かった。
「どうぞ、遠慮なく」
虎千代は一礼し、鞘を払った。
「どうも小太刀のようだが」
虎千代はすぐに言った。僕も思い出した。刀剣の分類上確かに、小太刀と言う中くらいの寸法の刀があった。しかしかささぎは微笑したまま、それに応えない。何か思惑があるのだろう。虎千代は柄に顔を寄せ、鍔元から切っ先まで丹念に刀身を検めていたがすぐに、
「なるほど」
と納得し、ぱちんと鞘に納めた。僕にはもちろん分からなかったが、一見して虎千代には、かささぎの意図するところが読めたのだ。
「これは磨り上げものだな?」
「ご明答。いや、さすがは長尾殿だな」
かささぎは満足げに頷いた。
磨り上げもの。
と言うのは確か、長い刀を使い勝手や用途に合わせて長さを変えることのはずだが、
「真人、これはあの三条宗近よ。憶えているだろう。この反り、見忘れもせぬ」
と、虎千代は僕の袖をしきりにつつく。そうか。って、そんなこと一見して僕に判るはずはないのだが、そう言われてみれば確かに見覚えがある気がするから不思議だ。
これはかささぎが愛用していた三条宗近だったのだ。確かあれは煉介さんとの果し合いで無惨にも叩き折られてしまったはずだった。しかし思えばあの刀があったからこそ、かささぎは即死を免れたのだ。
「武門にとって刀は最後の守りだ。ご存じの通り、わたしも、師がくれたこの刀あってこそ、辛くも命を拾うことが出来た。師から受け継いだばかりか、大恩ある一剣、わたしの手元で死なせたままにしておくのは、あまりにも惜しい」
「なるほど。それゆえ寸をつづめてこれを、御曹司にか」
「えっ」
虎千代が即座にそう読んだので、僕もかささぎも二度びっくりした。
「これは小太刀ではあるまい。長さも重心も、使い勝手をきちんと調整して長さを決めてある。ちょうど今の、御曹司が使ってほど良きほどにな」
「こと刀剣については、長尾殿に隠しだては出来ぬな」
かささぎは苦笑した。
「御曹司はすぐに身体が大きくなるご年齢ゆえ、間もなく使うこともなくなるだろうと思うが。刀に慣れるならば、大人の使う長刀でなくこの辺りから馴らしておいた方がよいのではないかと思ってな」
「よい考えだ。長刀として不要となっても、これは大脇差として殿中で身を守るのにもほど良いだろうしな」
「ああ、わたしが剣を棄てた今、亡き師もそうするのが良いと仰せになっただろう」
かささぎは虎千代から剣を受け取ると、庭で稽古を再開した菊童丸の方を見た。
「で、わたしに頼みとは?」
かささぎはそこで表情を曇らせると、声をひそめた。
「実は…申し訳ないが長尾殿には一つ、その腕を貸して頂きたいのだ」
かささぎが言うにはこの三条宗近を譲り渡すのに際して、早崎一刀流ではしなくてはいけないことがあるのだと言う。それはこの三条宗近を扱うにあたって、剣士としてもっとも注意しなければならないことを身体に覚えこませるためらしい。
「我が流派では、これを燕の餌飼いと称する」
要は自分が使う真剣の間合いとそれを扱う危険性を、刃を向けられることで自覚させると言うものらしい。それには師が振るう真剣での試技を、弟子は無防備のままもっとも間近で受けることのようだが、
「もしこのとき微動だにすれば、命はない。まさに寸毫の差で太刀行きを止めているのだからな」
訊くだけでとんでもない試練だが、剣術の諸流派ではそうしたことは珍しいことでもないらしい。だがもちろん、間合いと恐怖を覚えこませるのは木刀で真剣を使う流派は珍しい。かささぎはこの試技を物心ついたときから何度か、受けさせられて来たらしい。
「それをまさか、御曹司にわたしがか」
さすがに虎千代の顔も緊張していた。
「わたしが出来るなら、やるべきなのだがもはやこの身体では、早崎一刀流の仕掛けは無理だ。このことを頼めるのはもはや、煉介殿と試合うべく、命を賭けてともに剣を学んだ長尾殿しかいないのだ。これが武士として恥ずべきこととは、痛く感じている。だが無理を承知で、曲げてお願いしたい」
かささぎは三条宗近を差し出し、虎千代に深く頭を下げる。その必死の姿からは、恥を忍んでも御曹司にこの剣を受け継ぐことをし遂げたいと言う悲痛な覚悟があった。
「…話は分かった。お前に頭を下げられては、嫌とは言えぬ。だがこれからその仕掛けとやらをいちから学んでも、今日明日にはおいそれと出来ぬことは承知の上なのだろうな」
虎千代が言うと、かささぎは苦笑しながら首を振った。
「いや、心配はご無用だ。なにしろその試技は、すでに長尾殿が我がものにされているものなのだからな」
しかし、とんでもないことを虎千代は、引き受けたものだ。それからかささぎに試技のあらましを聞いたのだがこれはもし、失敗したなら菊童丸は確実に死ぬ。そうなったら誰にも取り返しがつかないし、何より今までの虎千代の苦労がすべて水の泡になるのだ。
「かささぎの気持ちも判らなくもない」
と、虎千代は僕に言った。
「武家の棟梁こそ、多くの命と犠牲の上に立つ生業だ。その男が軽々しく刃を振るい、人を傷つける心の持ち主としておい育ったものでは、傅役として死んでも死にきれまい。かささぎはああなっても、それを身を以て教えておくことだけはしておきたいのだ。菊童丸様に期待をかけるからこそのかささぎの、精一杯の親心なのであろうよ」
かささぎの言う試技はただの一太刀だ。だからこそ、虎千代は即座に承知したのだが、それが恐ろしく際どい。虎千代がかささぎから習い覚えたあの天掃く抜刀術を、菊童丸に浴びせようと言うのだ。
しかも術者が斬るのは、相手の額に乗せたただ一点の米粒と言うのが決まりらしい。斬られる方の覚悟は無論のこと、斬る方も極限の技量と精神力を強いられるまさに絶技だ。時代劇画の主人公ならともかくまさかそんなこと、本気でやろうと言う人間がいるとは思わなかった。
かささぎは日数を設けて準備してくれて構わないと言ってくれたが、虎千代は集中力を途切れさせないためになんとその日のうちに成し遂げて見せると、宣言した。
「半刻待て」
それだけ言い残すと虎千代は三条宗近を手に、近くの竹林に消えた。たったの一時間だ。しかし虎千代はその間に休みなく剣を振り続け、かささぎの生まれ変わった愛刀の間合いや刃筋の癖、重心の具合まで自分の身体に覚えこませたのだ。僕はこっそり見に行ったのだが、凄まじい刃鳴りの音や気配だけでもこっちの身体がぶるぶると震えてくるくらいの、迫力が伝わってきた。
僕が知るだけで虎千代はもう、恐ろしいほどの強敵を何人も斃している。その替え難い命がけの経験が虎千代に、たったの一時間で絶技に挑むだけの技量と精神力を呼びこませたに違いない。
きっかり半刻後に、虎千代は戻ってきた。竹林に入る前に虎千代は触れれば斬れるような殺気を宿らせていたが今はまるで、凪の海に似た穏やかさすら感じさせる表情だった。
「やろう」
虎千代はそれだけ言った。
ちなみに菊童丸は虎千代がいない間にかささぎから話を聞いて、試練を受ける決意をしている。こんなとんでもない試練、仕掛けの代役を引き受けるのもすごいが、受けると言う方も受ける方だ。
「御無理なればそう、仰ってくださっても一向に構いませぬ。もしそうでなくとも、この三条宗近、亡師の想いとともに御曹司に託しまするゆえ」
「馬鹿を言うな、お前の想いを受け取らずにこれを受け取ってわしの何になるか」
あの煉介さんですら感服するわけだ。菊童丸はこんな年なのに、堂々としていた。
「長尾殿は達人だ。何も案ずることはない。それに、このようなことで死ぬなればわしもその程度の器だったと言うこと。後顧の憂いはない」
「万が一のことあらば、わたしが長尾殿に代わって御供仕ります」
かささぎは虎千代が失敗すれば死ぬ気だった。まさに虎千代の一撃に、二人、命を託したのと変わりはない。
早崎一刀流秘伝の燕の居合いは、密着した距離からの縦一閃、垂直方向の斬撃と言う他に類のない居合術だ。全身のばねだけで跳躍し、その勢いで浴びせる斬撃は、首筋の急所をピンポイントで斬り去ることができると言う精妙を極めた剣だ。
虎千代はこれで贄姫を斬り倒している。あのときは贄姫の見切りも際どかったため狙いが外れたが、それでも腕一本斬り離すと言う恐ろしい威力を秘めている。
菊童丸は腕を伸ばし、ほぼ直立の姿勢で虎千代の前に立ち、心持ち空を見上げさせられた。その額に一点。狙う米粒には麦飴でとろみをつけ、額に貼りつくように工夫してはあるが、成功と失敗の道は限りなくか細い。
「準備はよいか」
菊童丸は目で頷いて見せた。
「いざ」
虎千代は鞘ぐるみ三条宗近を取った。これは何度も入念に目釘を確かめ、刀身がずれ込んだりしないよう万が一のトラブルにも備えている。ごく微妙な狂いが、言葉の綾ではなく直接命に関わる。
(本当にやるのか)
現実を受け入れる覚悟がまだ出来ていないのは、その場で僕だけだ。
もう二人の距離は、わずかに二メートル弱。
真剣を胸に抱え、虎千代は早崎一刀流の抜刀の構えだ。見ていると、剣を構えた上体が少しもぶれず、呼吸をしているのかと思うほどにか細く息をしている。無駄な筋肉の動きは鎮まって、まるで水のような気配になっていた。
真剣を抱えた虎千代を目の当たりにして、菊童丸もやはり呼吸が荒れたが、この年齢にしてすごいと思う。なんとその目は、必死に見開いたままなのだ。
虎千代の剣の速さは僕が知っている。万が一のことがあれば菊童丸は次の呼吸をする間もなく斬殺されてしまうだろう。脂汗を額にびっしりと浮かべながら、菊童丸は目を剥くほど目蓋を上げてその瞬間を一つも見逃さないように、と、見極める魂胆のようだった。
虎千代は剣を抱えたまま静物のように身じろぎもしなかった。ここでは、言葉を発することはおろか、誰も息すら吐けない。張りつめきった静寂が、いつ終わるとも知れず僕たちの間を流れた。やがて虎千代が、
「さすがは、御曹司」
と、なぜか突然、息を吐くように言った。
「ここで目を瞑らぬだけでも天性がある」
眠るような安らかな声だった。ごくり、と息を呑んで菊童丸は頷いた。
「又とない、機会であるからな。世にすでに軍神と話に訊く、長尾殿の太刀をまさかこの肌で感じられるとは、思わなかった、からな」
菊童丸はかなり時間をかけてやっとそれだけを応えたが、虎千代がまたなにも言わなくなったので緊張はいや増した。しかもそれでまずいことに菊童丸の呼吸は肩が上下するほどに、波打ってしまったのだ。
「い、息はあまりせぬ方がよいか」
ひきつけのような息を必死に抑えながら菊童丸は言った。自分で自分をコントロールできないのだ。これ以上この緊張が続けば、それどころか窒息してしまうだろう。僕の中でもみるみる最悪の想像だけが逞しくなる。これでやって本当に、大丈夫なのか。
「いえ」
ぽつり、と、虎千代が口を開いた。またあの眠たい口調だった。
「息をする者に浴びせるための太刀なれば、息を止めることは無用」
虎千代がそう言った瞬間だった。ぱっ、と間合いを詰めて虎千代が一気に菊童丸を飛び越えた。
菊童丸から見れば、ふいに虎千代が身体ごと消えたように見えただろう。
竹林をさーっ、と騒がして、燕が発った。
虎千代の小さな身体は、菊童丸の遥か後方にある。
虎千代の剣はものの見事に、菊童丸の額の米粒を両断していた。
「なっ、長尾殿っ!」
興奮しきった菊童丸の歓声が、轟く。思わず駆け寄る、その菊童丸の幼い身体のどこにも太刀傷は見られなかった。
「何と言う方だ」
かささぎも自分で虎千代に頼んでおいて、興奮冷めやらないようだった。
「まさかたった半刻でこれをなしてしまうとは、夢にも思わなかった」
虎千代がなしたのは、本当に神業級の絶技だった。でも僕はそれを成し遂げた虎千代の手が、終わってから途端に、震えを帯びてきているのをさりげなく隠しているのをちゃんと知っていた。ちょうど似たようなことが僕たちの間には何度もあったからだ。
命を扱う生業だと、虎千代は武士のことを言った。それは武器で無暗に人の命を傷つけ奪うことではない。そうした危険にさらされる命を丸ごと引き受けることにあるのだ。僕はそれを、この時代に来て知ることが出来た。言葉以外の感覚として、経験として。僕の想像以上の途方もないものをその身に背負ったこの小さな女の子は、自分の身体を張って何度もそれを知らしめてくれたのだ。
そして今、それを幼い菊童丸にも肌で伝えた。
「今日のことは、生涯忘れぬぞ。二度と得難き最高の贈り物であった」
かささぎの三条宗近を改めて受け取り、菊童丸は虎千代に感謝の言葉を伝えた。かささぎも虎千代に向かってもう一度、頭を下げた。
「何から何まで感謝する。こたびの御曹司は剣と命の尊さのみならず、乱世を生きる公方の心構えとして、長尾殿の教えありがたく頂いたと思う。わたしが教えることのかなわぬことまで教えて頂いた気がする」
「いや、わたしはただ、御曹司に自分の出来ることをしたまで」
虎千代は菊童丸を見直すと、餞に言葉を贈った。
「しかと幕府の手綱を曳いて下され。わたしもおのれの役を全うし、いつか御曹司を御助けにあがりまするゆえ。いや、もはや御曹司ではありませぬな」
「ああ、そうじゃ!長尾殿。まだ名乗っておらなんだな。もう菊童丸ではないぞ。今の、我が名は」
室町幕府十三代将軍。
菊童丸が背負ったこの名前は、室町幕府の中では最期の光芒を放った将軍の名になる。三好家と互角に渡り合い、あの織田信長を京都へ呼び寄せる橋渡しとして全国の諸大名に天下の号令をかけ、戦国時代の終焉に先鞭をつける剛腕を振るう。
虎千代や砧さんに教わった剣術では、まさに達人の腕になる。剣聖塚原卜伝や上泉伊勢守信綱に教えを乞い、お世辞の『義理許し』ではなく、実力で免許皆伝を受けるほどの腕前になる。
ついた綽名が、剣豪将軍。
足利義輝。
それがこの菊童丸の後の姿だ。
陽が暮れる前に僕たちは、かささぎの寓居を去った。本当にうららかな初夏の一日だった。もちろんただ一点、あのことを除いてだが。かささぎの元を去っても僕は、違和感が拭えなかった。いくら虎千代を信じているからと言って、あれは無謀な、そして無理なお願いだっただろう。かささぎのような人に頼ることを嫌う人が、あんな大事なことを虎千代に強いてお願いをするはずがない。
「そう浮かぬ顔をするな。あれは、仕方のないことなのだ」
僕の戸惑った表情に気づいて、虎千代が言った。やっぱり彼女は何かに気づいていたのだ。続く言葉が僕の疑問を氷解すると同時に衝撃を与えた。
「かささぎはもう、永くはあるまい。今日一日ともに過ごして確信した」
かささぎは無理をして元気そうにしていたが、身のこなしや顔の色つやから見て、虎千代は彼女の内臓に決定的な損傷が残ってしまっていることにすぐに気づいたと言う。思えば彼女は煉介さんのあの大太刀で真っ向から斬られたのだ。一命を取り留めたとは言え、身体の中に刃が入ったのだ。やはり無事でいられるはずがない。
「今は何とかああして我らをだませるが、三年、いやこの一年のうちには、目に見えて影響が出てくるだろう。そのときまでに、思い遺すことのないようにしたいはずよ」
だからこそ、虎千代はかささぎの願いに全力で応えることにしたのだ。
虎千代の顔は暗かった。僕たちはそれから言葉なく、あの突然のくちなは屋跡での出会いから、かささぎとともに過ごした、あまりにも短い時間のことを思うしかなかった。
薄闇に沈む山の端の、かささぎを残してきた住居の方角を見つめながら、僕は虎千代がさっき絶技を見せた手を抑えきれず震わせていることを思い出していた。あの手が握った剣には、半分に他人の命、もう半分に自分自身の命が担われていたのだ。
武士が扱う剣こそ、命を生業う武士そのものを表していたのかも知れない。




