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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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決着狗肉宗との因縁、道按地獄の罠に真人、命の危機…?

地獄から還ってきた男の胸の傷は、荒い縫い目で縫い合わされていた。大きな亀裂からは血や膿が滲み出し、痩せさらばえた身体に無惨過ぎる致命傷の面影がそのまま息づいていた。どよめく触手のような髪は一面、灰を被ったように生気を失った白になり、瞳の色は土砂で汚れたガラスのように濁ったままだ。

道按は死人だ。虎千代に完膚なきまでに斬殺されたはずだ。その死人が紛れもなく、今、僕たちの前で動いている。

「はっ、ははあ…おのれがお陰で、この世で地獄を見たぞう」

ごふっ、ごふっ、と壊れた下水管から汚水が漏れるような音を立てて、道按は不吉な咳を漏らした。

「はああ…っこの苦しみ…分かるか。分からねば教えてやろう。うぷっ…とっ…とっくり、お前らになあ」

道按の呂律はどこか怪しく、足は酔っ払いのようにたどたどしい。まるで熱病患者だ。虎千代は剣を抜くと、注意をこちらに惹きつけ、僕に声をかけた。

「真人、立てるかっ」

「う、うん。大丈夫…」

肩からはみるみる出血してきているが、傷はそれほど深くない。立ち上がった僕は安全な場所に離れた。

「ふっ、ふふふふっ…それで無事なつもりとは、さてもおめでたき小僧よなあ」

「どう言うことだ」

不気味な笑いを口に含み、道按は僕を刺した得物を見せつけた。虎千代がさっ、と顔色を変えたのは、その瞬間だった。

「まさかそれはっ…」

「そのまさかよ」

ぐにゃりと、邪悪な笑みで道按は顔中を歪めた。

「この剣はおれと一度葬られ、また蘇ったものなのや。腐った遺骸と血泥にまみれ汚物に漬けこまれたままの、汚染された剣やぞ。戦場往来しとれば分かるやろう。こいつで刺されたなら、少しの傷でも命に響くとなあ」

そこまで聞き、僕も真っ青になった。

訊いたことがある。戦場では感染症を誘発するために、井戸に汚物を投げ込んだり、わざと置き去りにした兵糧に毒や虫を飼ったりするのだと。

中でもその最悪の手段が、汚染された武器だ。忍者が暗殺に際してよく用いた方法とされる。これは恐るべきことに刀や槍の穂を、肥溜に一昼夜漬けこみ、そのまま使用するのである。そうしておいた武器は切れ味は落ちるし、身などぼろぼろに腐って駄目になるが、致命傷を与えなくとも破傷風(はしょうふう)などの感染症によって容易に目的を達することが出来るのだ。

破傷風菌は僕たちが生きている時代ほぼ撲滅されたが、汚染された土壌や錆びた金属によってつけられた怪我などから感染する可能性は、今なお棄て切れない。治療が遅れれば、死に至る。その際起こる筋の痙攣は、脊椎の骨折を引き起こすほど強烈だと言う。

破傷風は太平洋戦争の頃ですら、ガス壊疽(えそ)として兵士たちに恐れられた感染症だ。さすがの僕も恐怖に身体が強張った。

「真人…案ずるな。黒姫が焼酎を持っている。まずは、すぐにそれで傷口を洗え。あやつらがどうにかしてくれる」

僕を案ずる虎千代の前に、道按が立ちはだかる。

「おっと、お姫さまあ、おれが逃がすと思うかあ。それに、おのれの心配をせえや。今にこの小僧と同じ、病に苦しむ身になるのやからなあ」

道按が得意としたあの長い刺突刀は、人毛で作った手貫き緒も朽ち柄巻もほどけ、刀身もみるかげもなくくすんでしまったが、まさにこの男が体験した地獄そのものを象徴する凶器になった。

死に取り憑かれた幽鬼は、道連れを作る術を与えられ、断末魔の笑いに身をよじった。ひくっ、ひくっ、と痙攣するかのような病み尽くした笑い。それはまさしく狂死した男の禍々しい哄笑だった。

「地獄を見ても、外道は治らぬようだな」

不浄な武器を持ち立ちはだかる死人に、澄みきった刃を引っさげた虎千代は恐れげも見せない。

「時間がない。悪いが、すぐに極めさせてもらうぞ」

「ほざけええいっ」

道按は唾を飛ばすと武器を構えた。

「おれは斬られても死なんのや!おのれを病で侵すまではなあっ」

道按が身体を反らせたあの独特な構えから、軌道の読みにくい突きを放とうとしたそのときだった。ふわりとすり抜けた虎千代が剣を振るった。

刃は瞬く間に数か所を斬った。両肘の腱、そして両膝の関節だ。一瞬でこれらを割られ、不死身の道按もなす術もなく、うつ伏せに倒れこんだ。

「なっ、こっ、これは…?」

「言うたはずよ」

自分が今、どうなっているのか認識すら出来ない道按に、虎千代の声が降る。

「おのれらは化け物ではない。どこまでいっても我らと変わらぬ人間に過ぎぬとな。剣で命を奪うことは難くとも、手足の構造が同じならば、自由を奪うは容易いわ」

「くっ、くっ…なんだとお」

道按は傷ついた手足を使って動くが、立ち上がれない。化け物の動きは完全に封じられたのだ。

しかしなんて奴だ。今さらながら僕も、虎千代の戦場での合理的判断に舌を巻く。彼女は首なし武者も不死の道按の姿にも恐怖を感じずに、恐ろしいほど冷徹にその弱点を見極めていたのだ。

「くっ、くそおっ」

道按は肩を使って何とか四つん這いにまでなったが、気づいたときにはもう遅い。背後から乗り上げた虎千代はさらに、腰の辺りを真一文字に斬り割った。

「いくさ場では、ここを斬られるとまったく身動きが取れなくなる」

「ひっ、ひい」

虎千代の言うとおりだった。もがく道按は動かない四肢をじたばたさせたが、今度は腰を傷つけられたので、足を引きずって這っていくことも出来なくなっていたのだ。なんと、禍々しいこの男は虎千代によって一瞬で俎上の鯉に貶められたのだ。

「おっ、おのれえいっ、かようなことをしても無駄ぞっ!」

道按はうつぶせのまま、金切り声を上げた。

「こっ、こんなことしてどうする気やあっ…おのれになどどうああがいても、わしは殺せんわあっ…ぜっ、絶息丸の力は絶大なのやあっ、しばししたら、この程度の傷っ…なんでもないわ。おのれを殺すまで、わしはああっ、何度でも蘇ってくれるわあっ!」

しかし道按の言葉も、ただの強がりにしか過ぎないことが次の瞬間に分かった。虎千代は道按を無力化すると、さっさと納屋の中に入っていった。そこには言うまでもなく照明用の菜種油が保存してある。油の入った櫃を抱えて出てきた虎千代を見て、彼女が何をするのか察したのか、振りかえった道按の顔にみるみる恐怖が拡がった。

「まっ、待てっ…おのれ、まさか…やめろっやめろおおおおっ…」

虎千代は櫃を逆さにして、死骸のような道按の身体に油を残らずぶちまけたのだ。どろどろになった道按の身体から虎千代は紙で油をすくいとり、

「試させてもらおうぞ。おのれが化け物か、果たしてただの人間か」

「たっ、助けてくれえっ、わしが悪かったっ…やややめてくれっ、そっ、それだけはっ」

狼狽する道按に、虎千代は容赦なく火をつけた種を投げつけた。

「ギャアアアアアアアアアアッ」

物凄い絶叫とともに、道按の身体は一瞬で業火に包まれた。さすがの絶息丸も、生物を焼き尽くす炎の威力にはなす術もなかった。全身を嘗める炎がみるみる身体を焦がし、低くうめき声をあげた道按は恐ろしい苦痛に身じろぎも出来ずに、今度こそ焼死した。地獄から舞い戻った男は、再び還るべき冥府に旅立ったのだ。

虎千代は道按の声が絶えるまで、冷徹な視線でその様子を見守っていたが、やがて小刀を抜くとそれを慎重に残り火で焙った。

「真人、動けるか」

焼けた切っ先を抱え、虎千代は僕の元に駆け寄った。

「う、うん、何とか」

僕が不審そうにそれを見ていると、虎千代は切なそうに顔を歪め、

「時が惜しい。まずはこれで消毒をする。痛いが我慢出来るか」

僕は即座に頷けなかった。

傷口にさらに刃を入れるのだ。おっそろしく痛いに違いないが、破傷風の治療の第一は患部の処置である。現代でも外科手術で患部そのものを切り取るのが普通だ。しかし、ここは戦国時代だ。切開に麻酔を使えるわけじゃない。それでももし破傷風に感染してしまったら、それこそ手おくれになってしまうだろう。

覚悟を決めるしかない。虎千代を見ると、すでに額を脂汗で濡らしている。

僕は黙って覚悟を決め、頷いてみせた。

「舌を噛むかも知れぬ。何か布を噛んでくれ」

虎千代は手拭いを探してくると、それで僕に猿轡をした。自分の肩に僕を掴まらせると、

「ゆくぞ」

と言いざま、僕の身体に抱きつくようにして焼けた刃を滑り込ませた。


それから僕は気絶してしまったようだ。

黒姫が駆けつけてきて、すぐに手当をしてくれたのだが、しばらくは意識が朦朧(もうろう)としていて、何が何だか判らなかった。目眩がすると言うが、本当に吐きそうになるほどの激痛だった。気絶していたのは数分のようだが、目覚めると身体全体が重い綿にまとわりつかれているように鈍く、顔も熱い。

とても苦かったのだが、黒姫の気つけの薬を飲んでしばし、ようやくどうにか、目が冴えて来た。

「やってくれたものよ」

虎千代の目は、冷たい殺気を帯びている。

「にしても、慢心した。狠禎めの行方をもう少し気にしていれば、かような不覚は取らなかったものを」

と、虎千代は悔しがるが、いったい誰がこのような恐ろしい事態を想像できただろう。あの暮坪道按でさえもが蘇って襲って来たのだ。敵はどれだけいて、どんな奴が蘇ったのか想像もつかないのだ。まさに未知の恐怖が僕たちの間に充満しつつある。

「敵の数は確認したか」

「恐らく、二百名前後かと」

「何とかこの邸から、皆を逃す手だてはないか」

応えることなく、黒姫は表情を暗くした。

「そやつらを蘇らせた者を直接、叩くしかないようだな」

ざわめく邸内の空気を感じ、虎千代が唇を噛んだその時だった。

甲冑に身を固めた弾正が、同じく武装した長慶とともにやってきた。

「おい小僧が刺されたと訊いたぞ。無事なのかっ」

「…はい、何とか」

怪我は痛いよりも、熱いと言った感じだったが、僕はどうにか意識を保っていた。

「状況はどうだ?」

と、虎千代は弾正に問うた。

「ああ、ともかくこちらも火矢をしこたま仕込んで、相手に射掛けさせておる。しかし敵は首のない武者や。我らの中には恐れをなして取り乱すものも少なくなくてな」

狗肉宗はすでに邸内に入り込んでいる。その姿を目の当たりにしてパニックから逃げ惑った末に討ち取られたり、放心状態になってしまう兵が続発していると言う。無理もない。僕だって、絶息丸のことがなければ、今でも悪い夢を見ているような気分なのだ。

「あやつらの倒し方については、すでに把握している。援護をしてくれさえすれば、我らが討って出るゆえ、案ずるな。後は、三好殿のことだが」

と、虎千代は武装した長慶を見た。堂々とした体格の長慶はすでに藍色の胴具足をまとい、見事な大身槍を携えている。

「御心配は無用。長尾殿、私も武士の端くれぞ。たかだが落ち武者の化け物どもに退くつもりはありませぬ。邸内の三好勢、率先して長尾殿に馳走する所存」

「かたじけなし。我が手勢は二十名ほどゆえ、助かります」

虎千代は素直に頭を垂れた。

「虎さま、軒猿衆の一人がただ今、愛宕山の直江景綱殿に急報を持って出ておりますですよ」

この日も直江景綱は血震丸の砦解体に従事するため、近くに駐屯しているはずだ。黒姫によれば、少なくとも五百名の人数はそこにいるはずだと言う。

「そうか」

と、虎千代は頷くと、黒姫から長巻を受け取った。

「外からの援軍が来るまで、どうにか支えるしかあるまい」


ようやく反撃だ。

銀の針のような篠突く雨が叩きつける中、燃え盛る火矢が無数に放たれる。弾正が配置した二百の射手が放つ矢が隙なく、邸内に入り込もうとする死から蘇った男たちに降り注いだ。

一言の声も発せずじりじりと飛沫を上げて迫ってくる無言の男たちは火のついた矢を身体に浴び、オレンジ色の炎の毛皮をまとったハリネズミのようになった。死ぬことの出来ないその身体はじりじりと焦げくさい臭いを放っていたが、不気味な突進はそれでもなお、容易に止まることはない。

虎千代はそのためにありったけの水桶に油を汲ませた。それを大杓(おおびしゃく)から、または桶ごと、火矢を受けたまま迫りくる首なし武者にぶっかけさせたのだ。不死に思えるこの男たちの弱点は、暮坪道按のときで実証済みだ。全身を包む業火に身体を包まれて、ぶすぶすと異様な臭いのする煙を発した狗肉宗の不死兵はそれでようやく自立を喪うのだ。

「火矢を持たぬ者は、長柄で突き転ばせっ」

虎千代の下知は的確でいて、容赦がない。

「行動不能にした上で油をかけて燃やすのだ。恐れるな、こやつらは、不死の武者にあらずっ」

虎千代は自ら手本を見せる。備前無銘の長巻を携えて屋敷内を駆け廻り、濡れ縁では三人の首なし武者と斬り合う。狗肉宗のあの武骨な刃では、万全の状態の虎千代の身体を捉えることは出来ない。

その刃にかかり、手足の関節を斬り割られた化け物たちは、一瞬で行動不能になった。後を引き取った黒姫たちがまだ蠢く遺体を庭に放り出すと油をぶっかけ、容赦なく火をつけて廻り、今度は完全にその息の根を止める。

それにしても虎千代は見事だ。長巻一本で見事に鎧の隙間を斬り割り、襲ってきた敵はすべて行動不能に貶めている。全身に火矢を受けてもなお突進してくる化け物たちだが、頭がないために思いのほか、バランスが悪いのだ。あくまで虎千代は倒すべき敵を自分と同じ人間として見ている。あんな化け物に出会ったら、その前にパニックになってしまうと思うのだが。虎千代に怖いものはないのだろうか。

大広間の板戸に差しかかった虎千代の小さな身体めがけて、狗肉宗の放った刃が容赦なく突きぬけてくる。どん、と扉ごと突き破ってきた一撃を、虎千代は濡れ縁にいて、気配だけですべてかわしている。

相手はそのまま板戸を押し倒して、虎千代を押し込めてしまう腹積もりだったらしい。一瞬早く、そこを飛び抜けた虎千代は、板戸に張りついた男たちの上へ乗りかかり四肢の腱を断ち、素早く行動を封じる。

虎千代はそこで小さく、息をついた。

その瞬間、背後に、腰だめに剣を構えた首なしの狗肉宗がそっ、と肉薄しようとする。

虎千代はまだその気配に気づいていない。

刺される。

すると、廊下に居た誰かが急に気づき、槍の柄で狗肉宗を突き転ばし、一瞬で腰を田楽刺しにする。これも流れるような見事な動作だった。

藍色の胴具足を着ているのは、三好長慶だ。

「長尾殿、こうか?」

太い眉をたわめ、長慶は微笑する。危ないところを救われ、虎千代も思わず苦笑した。

「ええ、助かりました」

「見事だな」

屈託なく、長慶は言う。

「さすがは、弾正を打ち負かしたいくさ女神よ。先の琵琶といい、越後勢の采配ぶりといい、実に見事なお方だ。女性(にょしょう)なるが勿体なし」

虎千代を言うが、長慶もさすがに阿波の大軍を束ねる名家の棟梁だ。この異様な敵勢をものともせず槍を振るって駆け込み、虎千代の背後を守り、瞬く間に乗り込んできた首なし武者を芋刺しにした。

「ここは、我らが阿波兵も見習わなければなりませぬな」

押し返せっ、と長慶は自分の手勢を叱咤した。これも、虎千代に勝るとも劣らない雷声だ。大将の度量の一つは声の大きさ、と言う。戦場では万の軍勢を進退する声なのだ。

言うまでもなく今、そこにいるのは、関東勢十万人を率いた上杉謙信と、畿内を阿波の大軍で席捲した三好長慶だ。まさに万雷に響く声は、物言わぬ敵勢をも圧倒する。

「援軍はもう少しぞっ、恐れるな、前に出よっ!押し返すのだっ」

長慶の声に、兵たちは少しずつ前に出始める。

「首なし武者恐るるに足らず!越後勢に遅るなっ、我に続けやっ!」


戦況が変化する。

首なし武者を恐れ押され気味だった兵たちが虎千代と長慶によって寄せ手を押し返し、態勢を立て直しかけてきた。一時はどうなることかと思ったが、これで何とか持ち堪えられそうだ。

辛くも危機は脱したと言うところだ。

気が抜けたか、ふいに僕は自分の足元がふわりと浮きあがるような感覚に襲われた。肩の傷はじんじんと痛んだのだが、それよりも何より、全身を包む熱っぽい靄のようなものが、急に重たくのしかかってくるような感じがした。重傷だとは思っていたけど、身体が言うことを利かなくなるほどの傷は初めてだった。

目の前が、霞む。

そして何度も、意識が遠のきそうになる。もしかして、これ、すごくやばいのだろうか。頭の中でどたりと大きな音がしたとき、僕は自分が倒れたことも認識していなかった。このまま、まさか死んでしまうとか、そう言うことも考えられなくなっていた。

次に目覚めたとき、僕は自分が仰向けになっているのが判った。立っているのが辛いので床柱につかまって休んでいたのは憶えているのだが、そのまま前のめりに倒れたのかも知れない、などとぼんやり思ったりした。しかし、違った。誰かがうつ伏せに寝たはずの僕を抱き起こして肩を揺すぶっているのだ。

それは僕の異変に真っ先に気づいてくれた弾正の声だった。

「…っい小僧っ…しっかりせい!はよ…戸板をっ!中…中へ、運びこむのやっ!」

ほの暗い板張りの天井が見える。弾正の屋敷のそれは随分はるか遠くにあるように、僕には感じた。

雨や風の音がする。嵐はさらに強まり、雷の気配がし、青い雷光が何度か僕の顔を照らしかけた。

断続的に引き戻される意識の中で、僕が見たのは、そうしたいくつかの断片的な映像だった。

すぐ端で虎千代が僕を、声を励まして呼びかけている。彼女は僕の手を握り、口を閉じているときは今まで見たことがないような頼りなげな表情をしていた。僕の名前を大きな声で呼び続けながら、虎千代は瞳から大粒の涙を流していた。

その虎千代が激情に駆られ僕の身体を強く揺すぶろうとするので、黒姫が必死にそれを止めていた。

弾正の怒鳴り声が先頭で聞こえる。

「のけえいっ!何をしておるのや!怪我人やあっ、道開けい!」

僕は戸板ごと、どこか天井の低い板の間に運び込まれた。そこで黒姫が僕の腕に巻いた包帯を取り換えたのだろう。剥がすとき肩がべっとりと、まだ乾き切らない冷たい血で濡れているのを感じた。それを再び焼酎で洗い、薬効を溶いた卵の白身で処置するのだが、何度も血を拭きとられた。まだ、血が止まっていないのだ。

傷口だけじゃない。身体全体が熱を持っている。びいん、と芯に響く痺れが、指の先まで侵している。口を利こうとすると、自分のものじゃないのではないかと思うほど、あごが重たい。

身体がまるで動く気がしない。吐く息にも熱を感じながら、まるで身体が冷え固まったみたいに筋肉が強張っているのだ。

まさか僕はここで、死ぬことになるのだろうか。

ふと、思い出したのは学校を辞めた朝のことだった。そう言えば少し風が冷たい曇り混じりの日だった。僕は学校を辞めることにした。でも、いつも通りの時間の電車に乗って学校へ着くまでは、僕はその日学校を本当に辞めるのか、辞めてこれからどうするのか、何も決めていなかった気がする。

学校を辞めたのはただの勢いだったし、そこから電車に乗ってどこへ行くのかも、何も決めていなかった。明日から、ほとんど行かなかった学校のことを考えなくなるだけだと漠然と考えていた。ぼんやりと、同じ毎日が続くだけだと思っていた。どこにもたどり着かない、誰とも出会わない空っぽの日常がずーっと果てしもなく。

もしかして、僕は虎千代と出会うことになるかなんて、当然だけどまったく考えもしなかったのだ。

今から、五百年も前。この戦国時代で僕が出会ったのは、僕が棲んでいた時代には、絶対にいない、不思議な女の子。

意地っ張りで強面で、憎たらしいくらい精神力があって、おまけに戦国最強の軍神だったりするけど、本当は泣き虫で寂しがりでびっくりするほど素直な女の子。

結局、僕は彼女に何をしてあげられたのだろう。

嫌だ。そのまま、消えてしまうのは。嫌だ。

空っぽだった僕をもう一度、蘇らせてくれた女の子に、何もしてあげられないまま死んでしまうなんて。それこそ僕は、なんのためにこんな時代にまで流れてきたのだろう。なんのためにこれまで生きてきたのだろう。

まだ僕は、死ぬわけにはいかない。


はっ、と意識が立ち戻ったのはそのときだ。まるで停電が復旧したかのように、突然視界に外の情報が飛び込んでくる。胸の中が激しく動いて、僕は思わず咳きこんだ。その様子を、あっけに取られたように皆が見つめている。

「きっ、気がついたか…」

今、一番、僕の顔に近い。放心したように、虎千代が言った。

「虎千代…?」

「うう…このまま目を覚まさぬかと思ったではないか」

僕が気がついたのを悟ったか、真っ赤な顔をして虎千代は怒鳴った。

「ばっ、馬鹿!死ぬなら…わたしに、死ぬと、言ってから死なぬか!」

そんな無茶な。

突っ込む間もなく、抱き締められていた。危なかった。虎千代の泣き腫らした顔の熱い気配とこぼれ落ちた涙の感触に、僕はどうにか生きている事実を再確認した。

「いやはや、マジで逝ったかと思いましたですよお!悲しみに暮れる虎さまを慰めるのはもちろんわたくしですし、それはそれで美味しいのですけど、ようく考えてみたら真人さんが亡くなったら、わたくしたち長尾家が大変困りますですしねえ」

なんだかんだ言って、黒姫も心配してくれていたらしい。ふーっと大息をつきながら、冷たい布巾で僕の額の汗を拭ってくれた。

「お前、傷持ちが虎姫ちゃんの後追うてうろうろするからやで。傷口開いたら、せっかく留めた血が出るやないかい」

弾正が、どん、と僕の肩を小突く。そうだ、あのとき僕を見つけてくれたのは、松永弾正だったのだ。

虎千代は弾正に向きなおって、頭を下げた。

「弾正、ありがとう。心から長尾家一同感謝する」

「だっ、なに礼を言うとんのや。お前、逆に恥ずかしいやないかい」

弾正は大きく裂けた目を剥くと、あわてて虎千代から顔を背ける。

「それにな虎姫ちゃん、あんたのためやないからな。おれはな、この小僧に借りがあんのや。そこ、勘違いすんな」

「分かった。かたじけない」

「だから、礼を言うなやっ」

僕には分かっている。弾正は自分のことをあんな人間だと自嘲していたが、それは本当はそうでもないと言うことを。ただ、自分の思いを表に出すことが苦手なだけなのだ。そしてそれは特別なことでもない。誰しもが少なからずそうなのだ。

「とっ、とにかくやっ、敵の気配も退けたようや。おのれらはとっとと、怪我人運びだしてここを去なんかい。援軍が向かっとんのやろ」

「ええ、しかし、ここは大丈夫ですか?」

黒姫が不審そうに訊く。

「おれとご当主がおる。大丈夫や。あやつらの対処も判ったことやしな」

弾正はそれから虎千代たちを連れて、残敵の確認に出た。そこになぜか、僕と長慶が残されることになったのだ。いいタイミングだったので、僕は少し話すことにした。弾正が僕に話した未来への不安を、そして半生を傾けた当主長慶への思いを。もちろん、悲しいい未来に至る話だけは努めて避けた。

「そうか。私は久四郎に、それほど思い詰めさせていたか」

薄々は思い当たることがあると言いながらも、長慶はそう言って嘆息していた。

「ときどき、私も分からなくなる。私はどうすればいいか」

迷う長慶に僕は、言った。

これからどんなことがあっても、弾正を信じてあげてほしい、と。

虎千代に負けず劣らず、この二人は巨大すぎる運命の渦中にいる。そう思うことが、大勢に影響するかどうかは、分からない。まるで大河の奔流をせき止めるために、河原の小石を無造作に投げ込んだようなものだ。ただ、

「分かった」

信じてほしい。そんな漠然とした言葉なのに。

長慶はなんの躊躇(ためら)いもなく、そう頷いてくれた。

この二人には、史書が伝えていないはずの、二人の間でしか分からない何かがある。

弾正と長慶、目に見えないが確かにある絆だ。

二人と直接話して僕は、それを信じることが出来た。


僕は夜半のうちに、京都にある長尾家の根城に担ぎこまれた。

そこは僕と虎千代が最初に黒姫に連れて来られた、弾正屋敷のすぐ近くにある大きな造り酒屋を模した砦だ。煉介さんとのことがあってのち、ここは退き払われていたが、ほとぼりが冷めたのを見計らって黒姫が拠点として再建していたらしい。

「なんとか血も留まりましたし、差しあたって命に別条はないと思いますですよ」

感染症の懸念を残しながらも、黒姫はそこで傷がそれほど深刻でないことを僕に説明してくれた。

「破傷風の発症期間は長く見積もって三週間以内ほどですよ。それまではわたくしや虎さまの言うことをきちんと聞いて、安静にしてることですよ」

三週間以内か。この間に症状が現れなかったら大丈夫ってことだが。

「心配しなくても大丈夫ですよ。この黒姫、いくさ傷や病のお世話は慣れておりますですからねえ。もし破傷風になったとしても飛騨軒猿衆秘伝の治療法で完治させますですよ」

「だ、そうだ。安心しろ。その間は付きっきりで、わたしが世話をするからな」

「なっ、なななっ、何を仰いますですか虎さまっ!そんな羨ましい、いや、もったいないことを!だったらむしろわたくしがして欲しいくらいですっ!わたくしなど、毎晩眠れないのですよ、虎さまの寝姿を思うと身体が火照って熱くて」

それは別の病だ黒姫。

「うっ、うるさい。…わっ、わたしが看ると言ったら、看るのだ。真人、お前も否やは言うまいな!」

「う、うん」

わっ、びっくりした。何だか無理やり、承知させられてしまった。

黒姫を無理やり追い出したあと虎千代が包帯を自ら替えてくれ、傷を消毒してもらった。そのとき、虎千代が何だかうきうきしているのでちょっと気持ち悪かった。

「ふふふ」

「なっ、なんだよ、気持悪いな。なんで笑ってるんだよ?」

「いや、よくぞ、これほど怪我したと思うてな」

「何言ってるんだよ。この前、肩を鉄砲で撃たれたろ」

「あれは肩の肉を抉られた程度であろう。ここまで怪我してくれねば」

さっきまで泣いてた癖に。虎千代は足や手などにある自分の身体の傷を指した。

「わたしなど、怪我を負ってはお前に何度助けてもらったことか。いつかはこうして世話を焼き返してやろうと思ってたのだ。その腕では何も出来まい。食事から風呂の世話までするぞ。良ければ下の方も」

「よっ、良くないっ」

それが狙いか。

でもそう言う風に思ってたのか。相変わらず変な奴だ。僕こそ、こいつに世話になりっぱなしだって言うのに。

「もちろん、それだけではないぞ」

と、言うと虎千代は僕の肩にその小さな頭を乗せた。

「これで誰にも気兼ねなく、二人でいられるからな」


ある日、学校を辞めてみた。

そんな僕が五百年前の京都で出会ったのは、戦国最強の軍神になる女の子だった。おっそろしく強くて、男前で、とにかく強情でかわいげなくて。でもこんなに真っ直ぐに僕の心の大事な場所に飛び込んできてしまった。そんな女の子だ。

あの時じゃなくたって、どんな時でも、それを感じる。僕は彼女が好きなのだ。好きだ、などと、それだけの月並みな言葉で表現しきれないくらいに、力強く、限りなく。

黒く流れて輝く髪も美しく澄んだ瞳も、意志強く結ばれた唇も、ほの明かりも弾いて白く輝く肌も、小さな身体も。そしてそれらがそっと奥に閉じ込めているはずの彼女そのものも。

認めざるを得ない。

僕は。

彼女に出会うために、この世界に来たのだ。


かたり、と、どこかで戸板がずれる音がしたのは、しばらくしてからのことだった。虎千代も僕も、他愛のない話をするうち、眠ってしまった。それからやがて黒姫たちも寝入り、屋敷に動くものの気配がしなくなった頃だ。

雨はすでに止んでいる。濡れた空が晴れて、雲が去った。月明かりがかすかに、戸の隙間から漏れていた。燈明皿の火が消え、部屋の中は月明かりが薄めた鈍い闇の中に沈んでいる。虎千代は僕の布団に入って(ほとんど無理やりだったが)そのまま寝てしまった。今もすうすうと、小さな寝息を立てている。

そいつがやってきたのは、そんな時が止まったような時刻だった。目が覚めた僕は、最初、鼠だと思った。ぼてり、と音を立ててそれが天井板の隙間から僕たちの足もとにまで落ちてきたのだ。僕はそれを追い払おうと、布団をまくり上げたときだ。

「動くでない」

と、押し殺した声がしたのはそのときだ。

薄闇の中に、そいつがいる。立っているのだが、背丈は大きな猫ほどもない。全身を覆う黒い毛がざわざわと逆立った。

「久しいな、ソラゴトビトの小僧よ。とりあえず大人しくしておいてもらおうか」

ごぼごぼと水の中を漂うような揺れる声だ。首をひねってそいつを睨みつけながら、僕は布団の中で身を硬くした。

「どうじゃ、お前もおれに見覚えはあるはずだ」

知切狠禎(ちぎりがんてい)。…まさか、そんなところに隠れていたとは思わなかったよ」

僕は努めて、声の震えを抑えて答えた。

「今さら何をしにきた?お前が率いた、首なし兵たちは焼き払った。暮坪道按も、虎千代に始末された」

「ああ、よくぞやってくれたわ。邪教徒め、恨んでも恨み切れぬ」

狠禎は歯噛みをすると、首だけの身体を動かした。心なしかその影が盛り上がり、力を溜めこむようにまた沈みこんだのだ。首から上だけなのに、こいつはまだ動けるのか。

「長尾虎千代、そして成瀬真人、邪教徒を率いたお前らだけはここで道連れにしてくれる。なあに、お前らの喉笛を喰いちぎるくらいは造作もない。そこの女ともども、仲良く寝床で喰い殺してくれようぞっ!」

獲物を狙う猫のように、狠禎が首だけで飛びついてこようとしたそのときだ。

布団をまくって起き上がった虎千代が、懐に仕込んでいた何かを投げつけた。

どうやら何かの小瓶のようだった。薄い陶製の瓶だ。それは狙いあやまたず狠禎の額に命中し、中に入っていた液体が満遍なく降りかかった。

「かっ…ぐうううっ…あああっ、これは…っ!」

狠禎の苦しげな絶叫が響いたのはそのときだった。

虎千代は立ち上がり、転がった狠禎の首が苦悶に歪んだまま、動けなくなるのを見すました。素早く戸障子を開け放ち、月明かりを取り入れる。うめき声を放つ狠禎の姿を確認して僕は驚愕した。

薄闇の中に、狠禎の首が焼けただれていたからだ。

「熱い…熱い、顔が焼けるっ…溶けるっ…このっ鬼姫がっおれにっ…なっ…何をしおったのだっ!…お、お、おのれえ…」

「それは酸だ」

「さっ、酸だと…」

虎千代はみるみる生命力を喪っていく狠禎の首を見下ろして話を続けた。

「黒姫が調合した、絶息丸で蘇生したものたちを葬る秘薬よ。それに酸が含まれている。酸で焼けば、お前らは蘇ることはなく、絶息丸の効果も二度と発動しないと言う」

「ぐ、ぐう…」

狠禎の声はすでに弱々しい。

何と言うことだ。酸が弱点とは。あの不死身の秘薬だと言われた絶息丸だが、意外なところに盲点があったのだ。

「狗肉宗が山の民を憎むは、一つにはこの酸こそがおのれら絶息丸を使うものの弱点と伝わっているからに他なし。古来より、鉄に携わる山師や製鉄民は酸を使うゆえな。お前らが特に目の敵とするわけよ」

「おっ、おのれらのような邪教徒に…ひみっ…我が狗肉の民の秘伝を…」

狠禎は目を見開くと今度はうなだれた。図星だったのだろう。しかし黒姫が用意した酸は狗肉宗にとって、よほど恐ろしい薬だったのか。しゅうしゅうと白い煙が音を立てて上がり狠禎の首は溶け残りのろうそくのように、なんと跡形もなく溶けていこうとしている。

「お前ら狗肉宗の秘薬には悩まされた。だが黒姫がすべて見破ったぞ。観念するがいい」

「くっ、くそおっ…ごぼっ」

もはや狠禎はほとんど元の形を留めていなかった。

虎千代は狠禎のその最期にまで、冷徹な目を向けた。まるでそれを見届けることが自分の責務だとでも言うように。

「人界の理を超えたものよ、跡形もなく消え去るがいい」

これでようやく、すべてのいくさが終わったのだ。


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