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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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いざ凱陣(がいじん)!待ち受ける血震丸に虎千代、大名としての務めとは…?

こうして虎千代は、血震丸以下、十五名の身柄を生きたまま無事確保することに成功した。彼らは黒田家を転覆させ虎千代の長尾家を狙ったのみならず、菊童丸誘拐に積極的に加担した天下の大罪人たちだ。松永弾正を無事に撤退せしめたことといい、今回の戦果は実に申し分なかった。ついに、虎千代たち長尾家の軍勢が完全な勝利を手中にする日がやってきたのだ。

虎千代はその夜の作業を済ませると、寺の焼け跡に陣を敷き、この日は残りの酒樽をすべて開けさせ、軍勢を労った。

「皆の者、長く苦労をかけた。今晩だけは野営で耐えてくれ。ここではまず戦勝を祝い、明朝、気を見て改めて凱陣の勝ち鬨を上げようぞ」

弾正が戻ってくる。その可能性をみて虎千代は慎重に言ったのだが、勝ち鬨を求める声は、虎千代が話をしてもまだ鎮まらない。

「お嬢、そりゃあねえや。弾正を追っ払っただけでなく、血震丸も捕まえたなんて大戦果ですぜ!ここはおれらで祝杯を挙げる前にぱあっ、と景気づけだけでも」

「せめて乾杯の音頭を」「て言うかお嬢も一杯」「おれらが酌しますのでぜひ!」

と鬼小島に、ごっつい力士衆たちがぞくぞくと虎千代の前に詰めかける。

「むむむむむ…おのれら、贄姫の一件で懲りておらぬな。まだ、はしゃぎ過ぎるなと言うにっ」

とは言いつつも仕方なく、虎千代は盃を受け、何度も乾杯の音頭を取らされていた。

「困った連中よ」

虎千代はため息をついていたが、将軍暗殺からここまで長く苦しい道のりだったのだ。

「いいじゃないか、虎千代、今日は」

長尾家にとってもあの黒滝城いくさから続くしこりが取れた日でもあるのだ。

「僕たちも乾杯しようよ」

「ううっ…真人、お前まで…」

と、虎千代は言うが、自分だって少し息抜きが必要なはずだ。

「ほら、飲み物なくなってる。注いであげるから。ほら」

僕が無理やり飲み物の入った瓶を差し出すと、虎千代は苦笑して盃を受けた。


翌朝、直江景綱率いる別動隊が下山し、疲労しきった僕たちは後事を託した。戦場の後始末や片づけ、捕虜の収容などはすべてこの直江隊がやってくれることになっていたのだ。

こうして僕たちは傷ついた身体を引きずっての凱陣(がいじん)である。

鞍馬山のみづち屋に着いたのは、昼過ぎだ。みづち屋では真菜瀬さんたちが総出で、手造りのおにぎりを山盛りにして出迎えてくれる。

「虎ちゃんっ、真人くんっ、本当にお疲れ様ぁっ!」

湧きおこる歓声とともに女の子たちの黄色い声が飛び、信じられないようなうららかな日を浴びて僕たちは早めの昼餉を取りながら行軍した。その中でも、そんな真菜瀬さんからお疲れ様の声を聞いた時には、何だか一気にほっとしたような気がしたものだ。

「やったあっ、お兄いっ生きてたっ」

と、虎千代の馬を曳く僕に飛びついて来たのは、絢奈だ。

「すっごいねえお兄いどうやって生きてたの虎っちお兄い役に立ったのお兄いも突撃とかしたのそれでどうして死なないで済んだのっ?」

落ちつけ妹よ、お前、一気に質問しすぎだ。

「絢奈、この真人こそは第一武功ぞ。こやつこそ単身、命を賭けてあの松永弾正と渡り合い、こたびの撤兵を勝ち取った戦勝随一の功労者。お前の兄がおらなんだら、我は無論、皆ここへは生きて還れなかった。こやつこそは、足利将軍家、ひいては我が長尾家救いの主ぞ」

なあ、と言うように、虎千代は背後を振り返る。そこにいた鬼小島やら黒姫やら柿崎景家やらが口々に声を張り上げた。

「お嬢の言う通りだっ。こいつがいなかったら、おれらいくさ場で立ち往生よ。小僧、てめえ貧弱の癖にやるじゃねえか」

「そうなのですよっ、絢奈さん!真人さんがいなかったら、さすがのわたくしも今度は、やばかったのですよ!あ、もちろんわたくしも絶賛大活躍しましたですけど!」

「はっははあっ、この小僧めがっ、まんまとわしを出し抜き第一武功を上げおったわっ。こやつ、このまま柿崎隊に欲しいくらいよっ!」

「と、言うことよ」

虎千代は誇らしげに胸を張ると、馬上、僕の肩を叩いて絢奈の方へ押した。

「わっ」

「口惜しいが、一旦兄者を返す。真人、まずは絢奈にこそ帰陣の挨拶をせねば」

「挨拶って…」

と言いかけて、僕は絢奈の顔を初めてまともに見た。びっくりした。えっ。さっきまで明るい声を出していたように見えた妹が、大粒の涙を流して泣いていたからだ。

「わぷっ、お、おい…絢奈…」

「もう帰ってこれないと思ったじゃんかっ本当に馬鹿お兄いっ!」

本当の泣き声だった。それはいきなり飛びつかれて、ぎゅうっと物凄い力で抱きしめられたとき、絞り出されるようにして出された声だった。

「絢奈を心配させないでよお…もお…うっ…ううー…」

抱きしめられた絢奈の涙が袖を熱く濡らしたのが分かったとき、僕は改めて実感した。ここまで。本当に際どい生への道を、僕は親しい人のもとまでたどり着いてきたんだと。

「ごめんな」

絢奈はしばらく僕を離さなかった。

「ううう…いつも言ってるじゃんか。絢奈の前から勝手にいなくならないで、って」

だから、悪かったってば。

「絢奈、心配をさせた。このわたしからも、謝る」

切なげに顔をゆがめ虎千代も、馬を下りて泣きはらした絢奈の背を擦ってくれた。

「虎っちはいいんだよ…でもお兄いは、戦ったり出来ないじゃんか!煉介さんたちと初めて戦場に出たときだって、虎っちの背中にずっとつかまってただけでしょ」

そんなこともあったっけ。あれも大分怖かった。

「あれ…お兄い、背大きくなった?何か前より、大きくなった感じするよ?」

ふと僕に抱きついていた絢奈が急に妙なことを言い出した。

そんなはずはない。僕も、高校二年生だ。高校入学時の一六八センチで僕の成長期はあえなく終わりを告げている。

「ほら。前は絢奈と変わらないくらいだったのに」

「嘘つけ」

お前、一五三センチだろ。虎千代とそんなに変わらない癖に。

「何かお兄いじゃないみたいだよ。もしかして別人さん!?」

「ま、まさか…」

虎千代たちがさっ、と顔色を変えそうになる。

「いや、違うから」

みんな、一瞬ぎょっとしたじゃないか。人聞きの悪いこと言うな。実は別人て大体、前回そう言う展開があったばかりだ。

「はい、虎っち、お兄い返す!」

絢奈は突然、僕をくるりと振り向かせると虎千代に向けて背中を押しだした。わっ、僕は物か。

「もういいのか?」

「うん、もう大丈夫だよ。虎っち、お兄いはへたれさんだけど、たまに無茶するから気をつけてね。こんなでも絢奈には一応、替えが利かないお兄いだからさ」

「肝に銘じておく」

唇を綻ばせて虎千代は頷くと、僕の背中を押した。

「さて、真人、では行こうか」

「どこへ?」

と尋ねる僕に、虎千代は言った。

「皆が揃ったところで凱陣の儀式をせねばならぬ」


いくさが終結を迎え、大将が戦陣を引き払っていくさを収拾することを凱陣(がいじん)と言う。耳慣れない言葉だが、これもいくさを終えるときには、非常に大切な儀式なのだそうだ。

当時の武士たちは、出陣と凱陣を儀式で区切ることによって意図的に『日常』と『戦場』を切り離す作業を行っていたのだ。実はこれがないと、戦場での緊張感や殺伐とした気分のまま日常を送り、精神的に深い負担を残すことになるのだ。

こうした儀式の心理的作用は、ただの迷信などと決して馬鹿には出来ないものだ。例えば現代でもベトナム戦争において戦時後遺症を抱えた兵士たちが大勢帰還して社会に適応できず大きな問題になってしまったのも、こうした戦場と日常の区別を出来る環境を兵士たちに与えなかったのが大きな原因とされていたりするのだ。

まさかそれを五百年前の日本の武士たちが実践していたとは驚きだが、これも長年の戦乱の歴史で培われた生活の知恵と生存本能の賜物と考えていいだろう。

儀式は出陣のときと同じように三献の儀をもって行われる。兜を被り、床几に腰かけた大将の前に酒と三種の肴が供される。勝ち栗、打ち(あわび)(干した鮑を細かく削ったもの)、そして昆布だ。大将は今述べた順番に肴を口にし、最後に杯の酒を干すのだが、これは「勝って打ち喜ぶ」の意味をかけたものとされる。

虎千代も兜の緒を締め、再び鎧装束を直した状態で皆の前に現れ、三方繕を前に箸をとる。それから土器(かわらけ)の盃を取り上げ、虎千代は僕に向かって言う。

「真人、おのれが第一功労よ。盃を注いでくれぬか」

「えっ」

大将が第一功労者を傍らに呼んで戦勝を寿ぐのも、ならわしの一つだ。僕はさすがに照れ臭かったが、

「ほれ、いいからとっと行け、小僧」

と、鬼小島に尻を叩かれ、酒の入った土瓶を持たされ虎千代の前へ出る。

「頼む」

虎千代は微笑し、僕のところへ盃を突き出した。僕は重たい土瓶の中の白く濁った液体をそれに注いだ。

「真人に勝利の酒を注いでもらえるとはな。…我は、果報よ」

そのとき虎千代は僕をちらりと見て、しみじみと言った。

「辛かったが、意義あるいくさであった。まさか逃れた京洛でこれほどの大いくさを、しかも勝って、締め括りをお前と迎えることが出来るとは思いもせなんだ」

虎千代の言う通りだ。本当に色々あったし、過ぎてみると、かけがえのない時間だったように思う。体力の限界まで走り急場をしのぎ、命を張って、戦ったのだ。それで僕は虎千代とだけじゃなく、長尾家の人たちとも強く結び付きを感じるようになった。

「ありがとう」

にこりと笑みを見せた虎千代は一気にそれを干すと僕に盃を渡し、

「返杯だ。真人、受けてくれるか?」

これも儀式だ。僕は頷き、おずおずと虎千代の注ぐ酒を受け取った。僕はそれに口をつけたが、飲んでも問題のないものだ。乳酸菌飲料のような酸味と甘みと、日本酒に特有なメロンに似たほのかな吟醸香(ぎんじょうこう)がするものの、強いアルコールは感じられるものではなかったのだ。

「案ずるな、甘酒程度のものよ。大将が酔うては、次が出来ぬゆえ」

本当に強い酒を飲む人もいるだろうが、ごく形式的なものらしい。

「次って?」

僕が訊くと、虎千代は瞳を輝かせて頷いた。

「勝鬨よ。これをせぬ凱陣は、凱陣とは呼べぬ」

「勝鬨って…あの」

エイエイオウとかするやつか。あれって戦場でやるものばかりと思っていた。

「よく見ておれ」

太鼓の合図とともに、長尾勢が立ち上がり虎千代の号令を待つ。その虎千代は左手に弓を持ち、右手に扇子を掲げると、

「えいえい、と我が申さば、皆の者、オウと(なが)く言うべし」

と、僕にも目くばせする。いわゆるロックバンドとかがコンサートでよくやるコール・アンド・レスポンスみたいなものだ。

「よいか、者どもっ」

青天の空に、扇子を掲げた虎千代のぴん、と張りのある声が響き渡る。

「エーイッ、エイッ」

オオオオオオ・・・・・・

呼応する声はほとんど地鳴りだ。あの騒がしいいくさでは気にならなかったが、あの長尾勢が腹から声を出すと、こう言うことになるのか。

「真人、声が出ておらぬなっ」

挑発するように言い、虎千代はさらに大きな鬨の声を上げる。

「エーイッ、エーイッ」

オオオオオオ・・・・・・

僕も思いっきり叫んだが、声はすっかり力強い地鳴りに吸い込まれてしまう。まるで、自分が声を出しているような感じがしない。濁流なだれ打つ瀑布(ばくふ)を目前にしたようだ。

「まだまだっ」

コンダクターのように扇子を振り、虎千代はさらに鬨を作る。

それにしても虎千代の大声だ。マイクもPAもないのに雷が轟くようにその声は、どよめきを引き裂いて、雲霞のような軍勢にあまねく響き渡る。

「これで締めようぞっ、真人、声を張れえいっ」

堂々と声を張り上げ、虎千代が鬨を作る。

「エーイッ、エイッ」

オオオオオオオオオオ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鬨の声は最後にどこまでも長く、地の底までひっくり返すように響く。

咽喉が破れるほど、僕も絶叫した。

勝った。

いや、誰かを倒したなんて、そんなこと以上に。

生きている。

そのこと自体が。

僕を叫び続けさせた。

(僕たちは生き残ったんだ)

言葉にならないその喜びが身体中に漲ってあふれてくるかのようだ。

気持ち良すぎる。

(すごい)

騒ぎが、どよめきが、気持の波になっていつまでも身体から去って行かない。なんだか居ても立っても居られないとはこのことだ。ぞくぞくと身体を奔る熱狂を身体に封じ込めるようとするかのように、僕は自分の身体を自分の両腕で包みこんだが、全身を覆う心地よい震えは、いつまでも続き、一生かけても消えてなくなりそうになかった。

後の人生でも僕はずっとこの一日を忘れたりはしないだろう。

「皆の者、大儀」

潮のようにまだどよめきが残る中、凱陣をしめくくる虎千代の声が響く。

「論功行賞と首実検は明日、然るべき場所で執り行う。夜は酒宴を張るぞ。今宵はまた無礼講じゃ。ようく遊び、ようく休め」


凱陣を終えみづち屋の母屋に帰ると、敷居の上に刃側に立てた包丁が添えられていた。

僕と虎千代は、その上をまたいで中へ入ることになる。敷居の刃物は『太刀』すなわち『断ち』を示し、戦場の(けが)れや不吉なものを帰宅前に断つ、意味合いがあると言う。

実は、これがいくさ帰りの儀式の最後の締めくくりなのだ。

「じゃあ虎千代、足合わせようか」

傍らで虎千代がうむ、と嬉しそうに頷いた。贄姫の槍で腿を負傷した彼女は、僕の肩を借りてここまで来たのだ。

「せーの」

二人で足を踏み出し、刃の立てられた敷居を越える。すると不思議なものだ。そうして家の中へ入ったことで、ふっと身体から何か重たいものが降りた気がした。

胸の中に最後にわだかまったものを吐き尽くすと、僕は大きく息をついた。

「終わったね」

「ああ、そうだな」

頷くと、虎千代は薄く目を閉じた。身体を落ち着けたいのだろう、僕は彼女をあがりかまちのところに掛けさせてやった。もっとも長く、もっとも前線に立ったいくさ女神の、これが唯一の完全な休息の瞬間だった。目を閉じたまま、軽く寝息すら漏らした彼女に肩を貸したまま僕も、同じようにして身体を休ませる。

このまま意識を喪いそうだ。

「あーっ、二人ともこんなところでへばっちゃだめじゃんか!」

そこに真菜瀬さんと絢奈が、ぱたぱたと駆け寄って出てくる。

「虎ちゃんも、真人もちゃんとしたところで休んだ方がいいよ。今、お風呂も空いてるから!」

「真菜瀬さん、ちょっと僕ら…無理みたいです」

とてつもなく長い、いくさの日々が終わった。そう思うと、身体から力が抜けて一気に重たくなった。目蓋も重い。僕が肩を貸している虎千代もまるで根が生えたように、そこから動けなさそうだ。

「…眠い」

生あくびが温かい。このまま、ばったり寝てしまいそうだ。二人の声を聞きながら、うつらうつらまどろんでいると、このえや新兵衛さんまで心配して出てくる。

「ひっ、姫しゃま!真人しゃま!お立ちくだしゃりませ。ここで寝てはお身体を悪くしましゅよ」

「ああ、うん…」

虎千代が重い瞼を開けて、首を巡らせたのはその時だった。

「そ、そうであった。う、うむ…そう言えばまだ、終わりではなかったな。気を緩めてはいかぬ…だが、眠いのはかなわぬな」

ぽつりと、意味ありげな言葉を虎千代は漏らすと、眠たい目を擦って立ち上がった。

「このえ、新兵衛、寝所へ戻る。具足を脱がすのを手伝ってくれぬか」

「お任せくだしゃいです!」

「真人、あとで」

壁に掴まりながらふらふらと傷ついた足を引きずり、虎千代は廊下を歩いていく。その後をこのえと新兵衛さんが介添えして追いすがっていくのが分かった。

「ほらほら、真人くんも!鎧、脱がせてあげるから」

わらわらと、僕の身体にも真菜瀬さんや絢奈の手が群がる。

「あ、はい…す、すみません」

と、僕の記憶はここまで。気がつくとすっかり熟睡していた。


目を開けると、もう辺りは薄暗くなっている。

どこかで遠く、ドーン、ドーン、と太鼓の音が響いてきていた。目覚めたとき、僕はここがどこで自分が何をしていたのか、まったく記憶がなくなるほど爆睡していたのだが。まだ日付が変わっていないようだ。

気がつくと布団の中。真菜瀬さんが敷いておいてくれたのか。

服は誰が着替えさせてくれたのか、自分で着替えたのか。いつの間にか、着ているものもみづち屋の浴衣姿になっている。よっぽど熟睡したのか寝乱れて、紐がほどけかけていたが身体がえびのように縮こまって、しばらく身体中の筋肉が頑として僕の命令を聞かなそうに思えた。

「…起きたか」

ふいに、虎千代の声がし、僕はがばっと身体を起こした。あいつ、僕より先にもう起きていたのだ。見ると戸口に、同じように浴衣を着た虎千代の小さな影が立っている。

「よく眠れたか」

「ううん、何とか」

足が悪い癖に、虎千代は両手で膳部を持っていた。そこには味噌をまぶした御握りが四つに、山盛りになった蕪の糠漬けの深鉢が乗っていた。わざわざ僕のために持ってきてくれたのか。

「一緒に食べてよいか」

「ありがとう。ちょうどお腹減ってたところだったんだ」

僕は頷くと、虎千代の手から膳部を受け取った。それを窓際の戸障子の近くに置き、槍傷で足を痛めた彼女の腕を取ってあげた。虎千代は敷かれた布団の上まで来ると、そのまま体重を投げ出し、

「わぷっ」

僕もろとも、乱れた布団の中に倒れこんだ。ふふ、とほくそ笑む虎千代の顔を見ると、いつもに似ない、コドモっぽいと言うか、悪戯っぽい表情だ。

「なっ、なにすんだよ」

「先に起きて待っていたのに。遅いではないか。よほど、この寝どころが心地よいと見える」

こいつ、ふざけているのだ。僕が虎千代に手をひかれてもがくと、くっ、くっ、と笑いながら、しばらく布団の海で揉み合ってじゃれてきた。

「外が明るいであろう。弥太どもめ、あやつら夜通し騒いでおるのよ。一度顔を出したが、さすがに付き合いきれん。お前の様子を見に行くと言って、抜けだしてきて正解だったな」

確かに外が夜にしては異様に明るい。みづち屋がありったけのお酒や食べ物を担ぎ出し、下はほとんどお祭りのような騒ぎだと言う。鬼小島たち、化け物だ。あれから休みなくずっと酒宴を張っていたのだ。はるか遠く、太鼓に笛を吹く音まで聞こえてきたが、これでは本当のお祭りだ。

「下には屋台も出ているのだぞ。こうしていると、祇園の宵祭りを思い出さぬか」

「うん」

言われてみればそうだ。京都中が明るかったあの夏の夜、僕たちはこっそりと根城を抜け出してライトアップされた京都の街をデートした。それから、小さな宮のある広場で線香花火をしたのだ。そのとき僕は、今まで見たことがなかった虎千代の表情に初めて気がついた。

「あ、そうだ。外見ながら食べようか」

僕は這っていくと、窓の障子を引き開けた。わっ、思った以上だ。外は大きくかがり火が焚かれ、提灯がつらなり、踊りさざめく様々な衣装の女たちが酒宴を愉しむ長尾家の武士たちと戯れていた。しかし無礼講とは言え、よく虎千代が咎めないなと思ったが、

「今日くらいはよいのだ」

虎千代は柔らかい声で言うと、僕の手から御握りを受け取った。それから外の景色と、僕の顔を交互に眺めるようにすると、

「わたしも今日だけは、誰にも気兼ねせず好きなようにしているわけだからな」

と、僕の肩の上にその小さな頭をもたせかけた。くるりと見返って清かに潤んだ瞳がこちらを見ている。僕を見て虎千代が、本当に幸せそうに、にこりと微笑んだのはそのときだ。

しばらくこのまま。

何度もそんなときがあったのに、このときはもっと特別だった。

僕たちは目線をかわし合うと、後は何も言葉を交わさず、身体を寄り添わせて外の風景を眺めていた。正直、この瞬間だけは自分の事情も菊童丸のことも三好家のことも、僕たちが抱えていたすべてのことを忘れた。

僕はただただ、僕の抱える空隙にぴったりと寄り添う小さな女の子のことしか考えたくなくなったのだ。確かめはしなかったのに、虎千代もまた同じことを感じてくれているのだと言う、温かな実感だけが胸に火を灯していた。じんわりとその温かな確信は、僕に今この瞬間が信じられないほど大切な時間なのだと、どくどくと脈打って伝えていた。そんなときに口を開けば、すべてが台無しになってしまう。そんな優しい警告を孕んで。

そして彼女もそれを判っているのだ。

いつものように虎千代も、ずっとこのままでいたい、などとは口にしなかった。もはやその言葉を口にしなくても、じっとそこにいるだけで僕たちは僕たちが、望む時間をいつまでも共有できたのだから。

この時代のやわらかな火明(ほあ)かりがゆらゆらと、虎千代の半顔を照らし出している。こんなときでも清げに櫛けづいた黒髪がまばゆい潤いと光沢を帯びたまま緩やかに流れて、十七歳の彼女のうなじを覆っていた。それにほのかなピンク色をのぞかせてふんわりと乳白色に色づいた肌は、空気との境目がぼやけるほどに煙って甘い潤いを帯びていた。何度も思う。まさかこんな美しい顔をした女の子が、史上名に残る全国の戦国大名たちを震え上がらせる最強の軍神になるのだとは思えるはずがなかった。

僕の視線に気づき虎千代が、ふと僕を振り返った。僕は、はっと息を呑んだ。なぜかその顔が少し、不安に曇っているように思えたからだ。

「真人…わたし、幸せだ」

と、言って虎千代はうつむいた。僕にはどうして、彼女がそう言いながらも表情を曇らせるのか、その理由が理解できなかった。僕は眉をひそめた。実は、と言うように虎千代が自分の中にある不安を口にしたのは、そのときだった。

「明日は、論功行賞と首実検を行う。やり残したことがあると言っただろう。このいくさはいくさで、武門の習いとしてけじめをつけなければならぬ」

と、言うと彼女は僕の手の甲に自分の手を重ねた。

「答えてくれ…真人、もしそれが終わっても、お前は今夜のようにわたしと寄り添うて時間を過ごしてくれるか?こうして言葉を交わさずとも夜を過ごしてくれるか?」

いつもの凛とした虎千代はそこにいなくて、本当に不安そうな気弱げな顔だった。

「馬鹿だな」

僕は、苦笑した。そんなの当たり前じゃないか。

「何言ってるんだよ。明日の晩だって、次の日だって、時間さえあれば僕たちはこうやって過ごせるだろ」

「…うん」

そうか、とも、そうではない、とも彼女は言わなかった。ただ戸惑うように、僕の上に置いた手をさ迷わせているばかりだ。僕は大きく息をつくと思いきって、その小さな手を強く握ってあげた。

「大丈夫だってば、虎千代」

でも、僕にはまだ判っていなかったと思う。これから虎千代が迎えていかなければならないのは、いわばもっとも重要な大将としての務めだったのだから。いくさをするばかりじゃない、戦国大名の本当の過酷さを僕は次の日から身をもって知ることになる。


明朝、僕たちは軍勢を率い、鞍馬山を下山した。戦後処理を託した直江景綱の軍勢と合流するためである。戦国合戦の倣いにある通り、景綱は付近住民に触れを出し残敵掃討を行いつつ、敗軍の去った京都の形勢を探っていた。まだ中間報告だが景綱の観測によれば差し当たり、弾正の再起はなさそうだとのことだった。

「此度の勝利、盤石なるは必定かと思われまする」

景綱は具体的な状況報告を添えて、虎千代に意見を奏上した。まだ油断は出来ないが、とりあえずはなんの問題もなく、いくさは終結しつつあるようだ。

「大儀である。して、捕えた者どもと引き上げた首は」

「報告された分については、すべて把握しておりまする」

さすがは景綱だった。虎千代の言うことにすらすら答えを口にする。

ちなみに僕たちがいるのは、愛宕山の麓にあった血震丸たちの根城跡だ。景綱はそこを一日で改装し、即席の前線基地を作った。捕縛された血震丸以下黒田家の奸臣たちは、ここに収容されているのである。

「まずはやることがあるな。準備に疎漏はなきか」

「万事、姫さまがお言いつけが通り」

と景綱は言ってから、なぜかちらりと僕を見た。虎千代はそれで何かに気づいたように、

「真人、我はこの大和と準備の打ち合わせがある。しばし席を外してくれぬか。そうじゃ黒姫はどこへ行ったか」

「黒姫殿は先に着いてはおりまするが、今は多忙の様子」

どうやら虎千代は黒姫に僕の相手をさせようとしているようだ。

「大丈夫だよ、虎千代。黒姫だって昨日の今日で仕事で忙しいんだろ。僕は適当に時間つぶしてるから」

「そうか、すまぬな」

と、言い置くと、虎千代はそそくさと景綱と言ってしまった。変なやつ。

明日のことが終わっても、わたしとこうして寄り添って時間を過ごしてくれるか。

そう言えば、僕は昨夜、虎千代に言われたのだ。

あの思い詰めた表情。隠せない不安。僕は虎千代をずっと見ているけど、虎千代は生半可なことではああして、気弱な表情を見せたりする奴じゃない。


「…って、なんでわたくしに訊きに来るですかっ?!」

やっぱり怒られた。

「わっ、わたくしはいくさが終わったのをいいことに虎さまといちゃいちゃしてた真人さんと違って、お休みで来たのはあの晩ちょこっとくらいで、今日から普通に早朝出勤なのですからねえっ。詰まらない用事なら勘弁してほしいのですよっ」

黒姫の目は血走っている。ここは城の風呂場に設けられた洗い場だ。この場所はなんと、いくさ場で提出された首を洗い清め、化粧をして首実検の準備に供する、と言う恐ろしすぎる仕事の真っただ中だったのだ。

うだるような熱気の中、薄暗い板の間では軒猿衆の女たちが総出で首を洗い、米粉で血留めと化粧を施している。

「ここには来ちゃ駄目だって、虎さまに言われなかったのですかっ!慣れない方は、ここの空気を吸っただけで御病気になるのですからねえ!」

と言う黒姫の足もとには、半分目を開けたままの首や、髪を振り乱したまま恨めしそうに歯噛みした首がごろごろ転がっている。

「大体ここは男子禁制なのですよ。まったく真人さんはどうしてそうやって乙女が見せたくないものを、すすんで見ようとするですかっ?!」

いや、すすんで見たかったわけじゃないし。

しかし凄まじい仕事場だ。やっと休めたと思ったら、こんな場所に駆り出されたら、さすがの黒姫もストレスだって溜まるだろう。それにしてもなんて言うか、えげつない臭いで胸が悪い。

「気持悪くならないの?」

「無礼ですよ、真人さん!首注文に載せられた首を整えるのは、名誉のお役目なのですよ。こうした仕事は古来、女子だけに与えられるお役目なのですよ。このお仕事は、浄土を踏んだ方々の最期を清める神聖なお役目なのですから、でかぶつたちには断じて譲れませんですよ!」

堂々と黒姫は、胸を張る。よく平気だな。こればかりはカルチャーショックとしか言いようがない。でも昔の武士たちは首を自分の出世の種にするばかりではなく、きちんと敬意をもって敵ながら故人として葬ったのだ。その辺りは、尊敬すべきところと言わなくてはまらない。

「あの、黒姫さま、これは…」

と、軒猿衆の娘たちが化粧を終えた首を黒姫の前に差し出す。黒姫は、まだ目を剥いているその首を見て、急に怒り出す。

「あっ、これは駄目ですよ!しかみ面は凶兆だと何度も言ったではありませんですか!こんな御首は虎さまにお目にかけられませんですよ!後で首供養をしますから、あっちの棚に並べておくですよ!」

そそくさと女たちは首を下げる。首実検も儀式らしく、凶相の首は下げておいて後で供養祭をして葬るのだそうだ。これもまた大変な仕事だ。

「忙しいときに悪かったよ、ごめん。虎千代のことはなんか、黒姫に聞けば分かると思ったからさ」

「…真人さん、そんな当たり前のことを言ってわたくしの機嫌など、取らなくてもいいのですよ」

ちろりと僕を流し見ると、黒姫は大きく息をついた。

「虎さまはああ言うお方ですからいっつも、色々な方々へのお気遣いを溜めこんで塞ぎこまれるところがあるですよ。そこがもう御大将としてはすぐに抱かれたい…もとい、欠かせない器の大きさではあるのですけどねえ。…あの黒滝城のことのように、虎さまは真人さんに自分の気になるところを見せて、気分を害して欲しくはないのですよ」

「そっ、そんな今さら」

虎千代がかつて、軍陣のならいで黒滝城の住人を皆殺しに処した話をしたとき、僕に嫌われたくないと思って、話すことを躊躇したことがあった。でもだ。あのことがあってから僕は虎千代のことをもっと深く知れた気がしたし、あれから、僕たちは苦しい戦いを通してもっと、絆を深めたはずなのだ。

「だから何度も言ってますでしょう。虎さまも女の子なのですよ。それでも不安だし、真人さんには大丈夫って言ってほしいわけですよ。真人さんが、虎さまを信じてさえてそう勇気づけてくれたら虎さまだって乙女なのですし…って、わたくしになんでそんなこと言わせるですかっ」

いや、今の話の流れは僕が誘導したわけじゃないし。

「…黒姫さま、あの、こちらの御首は凶相でありまするが」

「ぴいっ、いきなし何をするですかっ」

ぬっと別の軒猿衆が首を差し出す。随分大きなものだなと思ったら、それはあの知切狠禎の首だった。

「こ、これは虎さまにご覧に入れなくてはならない首ですよ。て言うか顔怖すぎじゃないですかっ、もうちょっと何とかならないのですかっ」

「はっ、はあ…」

と、黒姫に叱られて、死化粧を施した女の子も困っている。鬼小島によって撃ち落とされた狠禎の首は、まるでまだ生きているかのような表情だ。大木の根のように張った首筋には硬直した血管が走り、見開いた狗神の目はまだ濁らず不気味な光沢を見せていた。思わず逃げ出したくなるような迫力だ。

「とにかく真人さん、見ての通り、わたくしは忙しいですよ。おのろけも程々にして虎さまを気遣って上げてくださいです。本当なら見せたくない姿を、あえて真人さんに見せるのは、虎さまがどこまでも真人さんに、偽りの心で接したくないがためなのですからねえ!」

「わっ」

僕は黒姫に押し出されるように首洗い場を追い出された。


虎千代が見せたくないもの。でも、やらなくてはいけないこと。

黒姫の言うことと、虎千代の様子で今日何をするのかは、察しがついた気がした。虎千代は自ら始末をつける気なのだろう。あの黒滝城の長尾家への禍根を根から断つために。僕が幡幕のしかれた会場に顔を出すと、そこには大量の刀が運び込まれている。どの拵えのものも見覚えがあった。虎千代の日本刀のコレクションだ。それらはすべて入念に砥ぎが掛けられ、すぐにでも使えるように支度がなされていた。

そうして回されてきた剣を、虎千代が検める。ここで虎千代は砥石(いし)を取って、自らが振るう刀に最後の仕上げを施す。

刀剣用語では寝刃を合わせると言う。目の細かい砥石で、刀の物打ちどころと言うもっとも斬れる部分に、髪の毛ほどの引っかき傷をつけるのだ。これを行うことで、日本刀は人の肉を斬っても刃こぼれが生じにくく、連続の使用に耐えうる姿になる。

「戻ったか」

虎千代は僕を見つけると、ちょっとだけ視線を上げた。あ、すでに気まずい。でも、僕が勇気を出さないと、あいつの方が気後れするに決まってる。

「あのさ勝手にで悪いんだけど」

僕は、息を吸うと意を決して言った。

「黒姫から話を聞いたよ。虎千代が気にしていたこと。今日、捕らえた黒田の残党を、虎千代は自分で斬るつもりなんだろ」

「ああ」

そうだ、と言うように、虎千代は切っ先まで刀身を検めた刃で空を切り払う。

「これこそが此度のいくさ、我のけじめゆえな」

虎千代はその刀を何度か振って感触を確かめると、素早く鞘内に仕舞い込んだ。

「一人も余さず、我が手で斬る。無論、それまでのこともすべて引き受ける気だ」

「…すべて?」

僕はまだ、虎千代の言うすべてが判ってはいなかった。それには答えず、虎千代は腰に刀を挿すと、立ち上がった。

「付き合ってもらいたい場所がある」


虎千代に言われ、連れて来られたのは根城の中核にある厳重な牢だった。煉介さんが閂をぶった切った大扉と格子の二重構造で封じられた牢の奥にいたのは、言うまでもなく、虎千代に捕らえられた血震丸だ。

「よく眠れたか」

じろり、と、血震丸は僕と虎千代を見上げた。姿勢は車座である。両腕のみ、木の枷がつけられ、それは丈夫な鉄鎖で壁につながれていた。

「長尾の鬼姫めが。…どの面下げておれに会いに来よったか」

血を吐くような声で呪詛を漏らすと、血震丸は乱れた前髪の中の目を殺気で輝かせた。血震丸の頭は坊主に化けたため、つるつるに剃りこぼったはずだ。しかしそれが一昼夜にして元に戻っていたのは、まさにあの絶息丸の副作用の一つと考える他ない。

「いい気なものよな。寵愛の小僧と二人、おれを笑いに来たか」

くっ、くっ、と不気味な笑いを洩らすと血震丸は僕を一瞥した。

「で、我が一族は皆殺しか」

「おのれは、我が戦国に生み出した怪物。申したはず。その始末は必ず、おのれ自身でつけると」

「怪物とは。どの口が言うか。小便くさい小娘の齢にして、何たる性根の冷たさよ。この悪鬼羅刹の鬼女めが、末恐ろしゅうて身が凍えるわ。非道な大名識も大概にして地獄へ還るがいい。精々我ら十五名の呪詛を受け、血まみれて悶え死ぬがよいわ」

もはやその死を観念したのか、血震丸の悪罵は狂ったようだった。虎千代はその憎悪を浴び、平然として繋がれた悪鬼を見下ろしている。

「お前、おれが罪人と吹くが、おのれの手も血まみれであろうが。よくもまあ抜け抜けとおれを悪と断ずるものよ。その得手勝手な私曲をもって正義となすは片腹痛いわ」

虎千代が何も言い返さないのをいいことに血震丸は口角泡をとばして、嵩にかかる。

「どうじゃっ忍人、ここでおれを殺すか。直接手を下すなら牢に入ってきて、今おれの首を落としてもよいのだぞ。恨みを受けた首は、生きたものをも噛み殺すと言う。首のみでも飛んで、おのれの喉笛に噛みついてくりょうっ!」

くくくくっ、と不気味な笑いを洩らす血震丸はあらん限りの言葉で虎千代を呪った。

「少しは、それで気が済んだか」

ぽつり、と冷たい声で虎千代が一言、言ったのはそのときだ。

「…う…」

それは血震丸のはらわたが煮えくりかえるような呪詛を、まるでものともしていないとでも言いたげな墓石の冷たさに似た、厳然とした死をまとった言葉だった。

おのれの憎悪に悶えていた血震丸もぴたりとその狂いを止めたほどだ。

「気が済んだか、だと…?」

血震丸は引き攣った言葉で、虎千代の答えを待った。それはまるでどう足掻いても罵っても抗いがたい、死と言う壁そのものに直面したことを悟った者がなおそれを信じることが出来ない、そんな絶望的な言葉つきだった。

「ど、どう言う意味だっ?」

「あらん限りの悪罵は、吐いていくといいと言ったのだ。お前の気が済むまでな。わたしを恨んでも、憎んでも、呪ってもそれはここで終わりだ。せいぜい、お前の好きにするといいさ」

「おっ、おのれ…」

血震丸は目を剥いた。この男にとっては、どうあがこうが逃れられない死の絶壁が、ただそこにあると言う心持がしたのだろう。虎千代がもたらすそれは、血震丸が全身全霊をかけてゆすぶっても、まったく揺るぎもしないのだ。

「最後に呼ぶ」

百万年前の氷の中で閉じ込められていたような声音で、虎千代は言い渡した。

「辞世を詠むなら聞き届けさせてやるゆえ、申しておけ」

「どっ、どこまでも馬鹿にしおってからに…」

この上ない憎悪に顔を紅潮させる血震丸に、虎千代は冷たく言い棄てると、僕を伴って牢を出た。その背に、容赦のない血震丸の金切り声の呪詛が降りかかる。

「おのれえいっ、おのれおのれおのれっ!鬼姫、おのればかりでなくっ、一族郎党すべて七生呪い殺してくれようっ!…我が呪いは消えずっ!血に悶え、死にまみれるとき我が呪いの叫びを心から思い出すがいいっ」


「真人、ありがとう」

牢から出ると、虎千代は言った。僕は、虎千代が自分をここへ連れてきた意味を察していた。だから僕は血震丸が虎千代を罵る間、その背でずっとその小さな手を握り続けてあげたのだ。あらん限りの呪詛を浴びた彼女の手は、緊張を強いられた汗でじっとりと濡れていた。虎千代だって人間なのだ。これから死にゆく人間に、呪ってやると言われて、平然としていられるはずがない。

「もう大丈夫だ」

と言いかけた彼女の手を離すと、僕は小さな身体をぎゅっと抱きしめてやった。もう大丈夫、信じているから。そう彼女が感じてくれるように。

「まっ…真人…なにを」

僕の胸の中で虎千代は、はっと息を呑んだが、別に驚きはしなかった。

「ごめん。黒姫にも言われたし、なんて言ってあげていいか分からなかったからこうやって、気持を伝えるしかないな、と思って。昨夜みたいにさ」

昨夜のように。僕たちは言葉を発しなくても、お互いの気持ちの在り処が分かった。さっきのようにどこかでさ迷っている彼女の心があるなら、安心させてあげるにはそれしかないと思ったのだ。

「まあ…ちょっと恥ずかしかったけどさ」

「う、ううむ、確かに…その、誰かに見られると困る」

虎千代も僕も顔を真っ赤にして辺りをきょろきょろしている。

やっぱ気まずい。僕はゆっくりと、虎千代から身体を離した。相手はもう少し、こうしていたかったのかも知れない。名残惜しそうに顔を歪めたが、

「助かった。お前を、ここへ呼んでくるべきかと思ったのだが」

「僕を連れて来てよかっただろ」

「うう…」

虎千代の額に散りかかった前髪を払ってやりながら、僕はこれだけは言ってやった。

「大丈夫。ちゃんと、虎千代を信じてるから」


半刻して虎千代は。

剣を携えて、戦場始末の座に望む。

ある意味ではいくさよりも手に負えない戦場のしめくくりへ。

勝者でありながらそれは、あまりにも過酷な大名識としての務めなのだ。

これから僕は、その一部始終を見届けることになる。僕は、彼女の傍らでそのときを待った。


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